戦後日本社会の特徴


木村の言う<人と人の間>、中根の言う<タテ社会>、河合の言う<母性社会>をからみあわせて、戦後日本社会の特徴を浮かび上がらせてみよう。

1.強固な感情的団結

日本人の人間関係は、<人と人の間>の<義理>と<人情>によって成立している。
人間関係を円満にしようとすれば、誰に対しても神経を使わなければならない。しかし、日本人の気持ちは変わりやすいので、その維持はかなり難しい。
そこで、自分を相手に委ねあえる集団を作るようになった。
集団には委ねる者と委ねられる者がいて、互いに満足できなければならない。そのためには、構成員に能力や経済力などの違いがあっても意識せず、絶対的に平等であるという前提に立つことが必要になってくる。
そこに成立するのは<個の論理>ではなく、<場の論理>である。したがって、それぞれの集団自体は多様な人間によって構成されているが、どの集団も同じような構成になっている。
そこで、他の集団との違いは<場の枠>をはっきりさせることによって示さざるをえない。
<場>の内部は、感情的な一体感によって結合している。そこでは論理的な対立は曖昧にされている。
一方、<場>の外部に対しては、言語化しがたい敵対感情によって少しの妥協も許さず対立している。
つまり、集団は論理ではなく感情によって維持されているのである。
したがって、<場>から追い出されることは致命的である。<場>から追い出されることには徹底的に抵抗し、仲間が<場>から外れないようにできるだけ援助しようとする。
外部に対する排他的な対立と、<場>から外れることの恐怖によって、集団の団結力はますます強固になってくる。

2.年功と学歴による序列化

<場の論理>は、集団が大きくなるにつれて変化する。
集団が小さい時は、互いの能力や個性を認め合いながら維持することも可能であるが、集団が大きくなると、組織を維持するために命令系統が必要になってくる。
そこで、どうしても序列をつけなければならなくなる。序列をつけるにはなんらか基準が必要になってくる。その場合も、原則は、<場>の平衡状態の維持と、絶対的な平等性の保障である。
先に説明したように、タテ社会の集団にはさまざまな能力や個性をもった人間が所属している。場の平衡状態を維持するには、序列の基準は、能力や個性など、その人の存在価値を決定してしまうものであってはならない。
そこで、<年功序列>や<学歴>が基準として採用される。学歴は、元々在学した一定の年数分だけの能力にすぎず、本当の能力とは直接関係がなかった。
<年功序列>や<学歴>による序列化は、能力のあるものからすれば不平等で不自由と感じるが、序列を守り人間関係をうまく保ってさえいれば、自分の能力に応じて自由に活動できる。怠けようと思えばどんなにでも怠けることができる。精神的に安定した生活ができるのである。

3.自己完結的なワン・セット主義

また、日本社会の集団内には、様々な資格や能力を持った人間が所属している。したがって、殆どの仕事は他の集団の力を必要とせず自分の集団でできる。これを中根千枝は「自己完結的なワン・セット主義」と名づけている。
こうした異質な人間によって構成される同質な集団がいくつも成立すると、必然的に他の集団と同じ領域で競争せざるをえなくなる。それぞれの集団が敵対感情によって激しく対立している以上、その競争は感情的で過激なものになる。
しかし、集団間の序列は、その集団の論理や質といっか理性的な基準によって決まるより、その集団内の人間関係やイメージなどの感情的な基準によって決まることが多い。

4.母性原理と父性原理の混在

こうして成立している戦後の日本社会は、いたる所で混乱が生じている。
人々は、父性的な倫理観と母性的な倫理観の対立の中で、どちらに準拠すればいいか判断が下せないでいる。
上が強くなることは全て「権威主義」であり悪であり、下が強くなることが全て「民主主義」であり善である、と単純に考えてしまう戦後民主主義の未熟さがある。
戦後の日本社会は、個人の欲求の充足や成長に高い価値を与えるという点で欧米のヨコ社会(父性社会)の倫理を適用しようとした。
しかし、現実には、<場>の平衡状態の維持と絶対的な平等性を保証するタテ社会(母性社会)の倫理が働いていた。ヨコ社会(父性社会)とセットになっている能力差や個人差の存在や、自分の能力の限界を知り自分の責任において地位を獲得していかなければならないことは、曖昧にされた。
一方ではタテ社会(母性社会)の<場の論理>を破壊しながらも、ヨコ社会(父性社会)の責任や契約を守る態度も育てらさず、集団に馴染まない自己中心的な人間が増えてきたのである。


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