今、なぜ、学校教育相談か 


第1節 学校教育相談を望む声

 職員室で「生徒が理解できなくなった」という声がよく聞かれる。こういう声は昔から教師間の挨拶のように使われていたのかもしれないが、以前の生徒はまだ気持ちが理解できたし義理や人情も通じたので指導の見通しもついた。しかし、ここ4〜5年は完全に高校生の質が急激に変わってきたように感じる。一方、教師の理解の枠はほとんど変わっていないので適切な対応ができない。生徒の急変は社会の急激な変化の影響を強く受けているのであろうが、教師だけが社会の変動についていけていないようにさえ感じる。今こそ、急変した生徒を理解する新しいパラダイムが必要である。その1つの方法として教育相談への関心が高まっている。
 1990年の12月に発表された文部省の学校不適応対策調査研究協力者会議(主査・坂本昇一千葉大教授)の中間まとめでは、登校拒否はどの子どもにも起こりうるという見方に立つ必要があり、学校に起因する登校拒否もあると強調している。また、1990年度の高校の中退者が12万人を超えたという報告もされている。このように学校不適応が社会問題になっている中で、教育相談の充実を望む声が強くなっている。

第2節 学校教育相談への施策

 <カウンセリング・マインド>というヘンな言葉はかなり以前からあるが、私の記憶では最初は管理職が頻繁に使いだしたように思う。京都府総合教育センターでは1981年度から教育相談に関する教員研修講座を開設している。近年の実技講座は初級・中級・上級とも定員をオーバーする申込みがあるようである。京都府教育委員会でも府立高校に不適応対策会議の設置を推進し、昨年度は研修講座を開催、今年度は全体の不適応対策会議も開設している。
 学校現場でも、さまざまな形で不適応対策会議が設置され、試行錯誤しながらも生徒に対応している。

第3節 学校教育相談の実態

 しかしながら、その実態には疑問を感じる部分が多い。今なぜ学校教育相談なのか、学校教育相談に何が望まれているのか。それは学校にプラスになるのか、生徒にとってプラスになるのか、学校教育相談にとってプラスになるのか、単に利用されているだけなのか、その実態をよく考えてみる必要がある。

教育相談的な対応ができているか
 教育相談の事例研究会で、自分の家族を犠牲にしてまで生徒の家庭の中に入り込んで一生懸命かかわったという感動的な発表をよく聞く。それは素晴らしいことには違いないが、非行生徒の指導や同和教育の実践発表でよく聞く「抱え込み」パターンと同じである。その指導の是非が問題ではなく、教師の手にかかるとどんな問題も同じ扱われ方をするのだなぁという思いが強くする。もっとも、ある研修会で高校生を「ちゃん」づけで呼ばれたのにはさすがに驚いてしまった。
守秘義務はどうなっているか
 生徒の情報をプライベートな所まで根堀は葉掘り聞き出し、分析や解釈をし倒し、揚げ句の果てはその生徒ではなく自分の関わった生徒の例を出し合って終わり、その生徒の今後の指導については一切検討されなかった事例研究会の話を聞いたことがある。また、ある研修会では、高校を卒業した生徒ではあったが、下の名前を実名で発表されたことがあった。さらに、未成年の生徒が登校拒否を克服した体験を発表したこともあった。
 教育相談では守秘義務や人権意識が強く要求されるのだが、一体どうなっているのだろう。実名の発表はどう考えても軽率である。事例研究会も生徒理解の名の下には生徒のプライバシーに関わることまでふれていいのだろうか。特に体験発表は、評論家顔負けの「講演」で多くの聴衆が深く感動と強烈なインパクトを与えたが、発表者が未成年で昨年まで不登校の状態であっただけに、その生徒の人権や予後の問題について大きな疑問が残る。
教育相談の拡大解釈
 最近の学校教育相談の専門誌に、ある高校の教師が「優しいだけの教育相談」からの脱皮というタイトルで実践を発表していた。生徒に行動の規範とその意義と罰則を理解し、教師は不退転の心意気で例外なく実行するという内容であった。このような指導は従来の生徒指導で行われていたものであり、わざわさ教育相談の名を持ち出す必要などないだろう。教育相談の領域を拡大して存在や有効性をアピールしようとしているのかもしれないが、却って教育相談に対する誤解を招くだけである。
相談教師がいない
 教育相談体制の整っている私立高校を訪問して強く感じたことは、熟練した相談教師の必要性である。その教師が実際に生徒と面接をしているからというだけでなく熟練相談教師が存在していること自体が、学校の教育相談活動がうまく機能している要因になっている。
 振り返って府立高校を見ると、実際に相談できる教師が極めて少ないのが実態である。教育総合センターの上級実技講座を終えた教師で、教育相談の中心になって活動している教師も多くはないようである。教育相談研究会の中心的な教師でも、現場でその技量を生かしている者はごく僅かである。
 また、教育相談が分掌や係として位置づけられて機能している学校も殆どないと言っていい状態である。
学校教育相談は進化しているのか
 28年前に現場の教師などが作った教育相談の書物は今読んでも十分に役に立つ。逆に言えば、28年間学校教育相談の状況はあまり変わっていないということである。28年前と同じ問題にぶつかって先に進めないでいるのが現在の教育相談の実態である。

 実態を見て嘆いていても何も始まらない。これからの学校教育相談はどうあるべきか、何か展望が開けるのか、回り回って元の位置に戻ってくるのか、とにかく先に進んでみよう。



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