これからの学校教育相談



第1節 <カウンセリング・マインド>を斬る

1.姿なき<カウンセリング・マインド>の正体は?

 教育相談を教師に普及させるための売り文句が<カウンセリング・マインド>という言葉であった。しかし、その実態は曖昧模糊としている。<カウンセリング・マインド>とは一体何だろう。
 『児童心理』では<カウンセリング・マインド>をテーマに特集1 を組んでいる。その中の各氏の定義を見てみよう。
 「リレーションをつくろうとする姿勢である」(国分康孝)
 「子どもの人間形成、人格形成に必要な心の交流」(原野広太郎)
 「1)(共感的)理解、2)愛、3)純粋性」(伊東博)
 「子どもを個別的に理解し、その価値を十分に実現させようとするパーソナルな援助を重視した教師の資質」(佐藤修策)
 「一人一人の子どもに、誠実に相対する」(古屋健治)
 「カウンセラーの態度の基本を規定する心組みとか心的構えみたいなもの」(真仁田昭)
 「子どもの成長の可能性を信じ、子どもを受け入れ、心通じ合う関係」(山本多喜司)
 どれもこれも<カウンセリング・マインド>を明確に定義しえていない。総合してみると、「子どもの成長の可能性を信じ、一人一人を理解し、その自己実現を援助するために必要な心の交流を大切にする、カウンセラーの基本的な心構えで、具体的には、ロジャースのいうカウンセリングの3条件、受容・共感的理解・自己一致(純粋性)を指している」とでもなろうか。
 しかし、こんなことは昭和40年に文部省が発行した『生徒指導の手びき』に、「生徒指導は、人間の尊厳という考え方に基づき、一人一人の生徒を常に目的自身として扱うことを基本とする。これは、内在的な価値をもった個々の生徒の自己実現を助ける過程であり、人間性の最上の発達を目的とするものである」2 と書いてある。それは教師としての基本的な資質であり、カウンセリングという特別なものではない。
  また、<マインド>という言葉に引っかかれば、受容・共感・自己一致(純粋性)は<マインド(精神)>ではなく、カウンセリングの基本的な<スキル(技術)>である。しかも、基本とは言いながら実は、カウンセリングの神髄であり、これができればどんな問題もたちどころに解決する、プロのカウンセラーといえども習得するのは極めて難しいという代物でなのである。

2.なぜ、今、<カウンセリング・マインド>か?

 昭和40年に『生徒指導の手びき』で言われていたことを、今さらあるいは今なお、カウンセリングの名を借りて提唱しなければならないのだろうか。『生徒指導の手びき』のまえがきにも「従来その機能の重要性がなんとなく意識されながらも、最も弱かったと思われる一面である」3 と書いてあるが、これは昭和40年以前から延々と続いている学校教育の永遠なる序章なのである。過去にも色々な人が様々な言葉でその必要性を訴えてきたが、それが今<カウンセリング>という衣を借りて提唱されているのである。
 わざわざ<カウンセリング・マインド>とネーミングしてまで学校教育に普及させようとしたものの正体については、第5章でカウンセリングの立場から暴く予定である。

3.<カウンセリング・マインド>の弊害

 このようにして、カウンセリングが学校現場で再び脚光を浴びるようになったのであるが、それは学校教育にとって、カウンセリングにとってプラスになのだろうか。河合隼雄は「話を聞かんやつが多すぎるので、ちょっと聞こうやないか、という意味でカウンセリング・マインドということを言われるんだったら、それはそれでわかります。それは大切なことです。しかし、そうじゃなくて使っているんだったら、私は、それは、カウンセリングに対しても、あまりにあまい考え方でありすぎると思います。人間性というものは、もっともっと複雑なもんであって、なかなかそう単純にはいかない」4 と懸念している。 実際、学校現場では<カウンセリング・マインド>という言葉を、「従来からわが国にあった、頭ごなしにきびしくする教育法や管理法と対比させ、何かやさしく受け容れておけば、すべてうまくいくようなものとして用いる」5 という意味で使っているように思う。村山正治も「カウンセリング・マインド論は、あまりに軽く感じられ、かえってすぐにでもできるような錯覚や誤解を与える危険がある。この美しい言葉は、教育がこれを実践したり、言葉だけでなく、生きるときに横たわる厳しさと忍耐強さなどの面がそっくり抜けおちてしまうからである」6 と指摘している。学校教育の現状に対する認識も、カウンセリングに対する認識も非常に甘いのである。そうすると、「もともと学校全体が母性的なところへもってきて、カウンセラーというのはもう一つ母性的になってくる。(中略)そういう傾向が一定以上に強くなりますと、今度はむちゃくちゃに反対のことを言う人が、必ず出てくるのです」7 という状況が出てくる。気の弱い教師が<カウンセリング・マインド>を隠れ蓑にして自分の指導力のなさを合理化するということが起こる。また、今までの訓育的な指導の反対をすればいいのだと思い込んで何でも生徒の言いなりになる教師が出てくる。そのような教師が増殖してくると、その反動として厳しいだけの極端な教師が台頭してきて、カウンセリングそのものを否定しにかかる。
 つまり、<カウンセリング・マインド>の流布は、学校教育にとってもカウンセリングにとってもあまりプラスになっていない、いやむしろマイナス面の方が強いのではないだろうか。これは、カウンセリングそのものが悪いのではなく、<カウンセリング・マインド>という言葉が悪いのである。<カウンセリング・マインド>という口当りのよい言葉を使うことによって、生徒を理解した気になったり、うまく対応しているような気になることが問題なのである。どうしても<カウンセリング>という言葉を使いたいならば、カウンセリングの本質についてしっかりと理解することが必要である。


第2節 カウンセリングの本質

1.カウンセリングの条件

 それではカウンセリングとは何か、という問題になるわけであるが、これは非常な難問である。「カウンセリング」と名の入っている書物をすべて読んでも、完璧な定義をしているものはないだろう。河合隼雄は「一人の人間の悩みや問題の解決を援助する場合、何をしてもいい、ともかく役立つことをすればいい」8 と書いているぐらいである。それは、カウンセリングが1人の人が理論的に提唱したものでなく、精神分析理論を基にして発展してきた心理療法を症状の軽度な人に対しても適用しようという現実的な要求から発展してきたものだからである。したがって、カウンセリングの理論の種類は非常に多く、カウンセラーの数だけあると言う人もいるほどである。それぞれの流派がそれぞれ独自の理論を打ち出しているのであるから、混乱するのは当然である。
 ただ、どの流派にも共通しているのは、クライエントとの信頼関係をつくることである。その基本になるのが、ロジャースが「建設的なパースナリティの変化」をもたらす心理的条件として挙げた6条件を整理した3条件であろう(「カウンセリングの基礎理論」 2133-2135)。曲解を避けるために、ロジャースの6条件をそのまま引用しておこう9

1) 2人の人間が、心理的な接触を持っていること
2) クライエントは不一致の状態にあり、傷つきやすい、あるいは不安の状態にあること
3) セラピストは、この関係の中で、一致しており統合されていること。4) セラピストは、クライエントに対して、無条件の肯定的な配慮を経験していること。
5) セラピストは、クライエントの内部的照合枠に感情移入的な理解を経験しており、そしてこの経験をクライエントに伝達するように努めていること。
6) セラピストの感情移入的理解と無条件の肯定的配慮をクライエント伝達するということが、最低限に達成されること。

 少し説明を加えてみよう。1)はクライエントがセラピストに自分の心理的な問題を相談にくるという、カウンセリング関係が成立する前提である。2)はクライエントの状態が不一致、本来の自分のイメージと現実の体験に矛盾がある状態であることである。3)はセラピストはクライエントより一致した状態にあるということである。一致しているとは、この関係の中でより自由にかつより深く自分自身であり、現実の体験がより正確に表現できる状態である。4)は無条件の肯定的配慮、「あなたが〜である場合だけ、私はあなたが好きです」というような条件をつけないで相手をあるがままに温かく受け入れていることである。5)はセラピストがクライエントの私的な世界を「あたかも」自分自身のものであるかのように共感的に理解することである。6)はセラピストの無条件の受容と共感的理解をクライエント伝達することである。
 この内3条件とは、4)の受容、5)の共感、3)の自己一致(純粋性)である。

2.カウンセリングの神髄

 この3条件を同時に統合するのは非常に難しい。それがカウンセリングの難しさと厳しさ、神髄である。
 クライエントにとっては、自分の悩みや問題を受け容れてもらい共感してもらえるのであるから、カウンセリングは楽で甘えられるものであると誤解しやすい。しかし、実際は、カウンセラーがクライエントの悩みや問題を取り去ってくれるのではない。逆に、カウンセラーはクライエントの一番痛いところに踏み込んできて、対決を迫るのである。カウンセラーはただ一緒に悩み苦しんでくれるだけで、クライエントが自分の問題を自分の責任において解決していかなければならない。人間誰しもいくら悩み苦しんでいても、古い自分を壊して新しい自分を作り上げる方が勇気がいる。カウンセリングはそれを迫るのであるから、クライエントにとっては非常に厳しいものであると言える。
 また、カウンセラーにとっては非常に難しいものである。受容は相手の話を無条件に温かく聴くことであるが、人の話をじっと聴いているほど難しいことはない。どうしても受け容れられないことがある、カウンセラーにも言いたいことが出てくる。それらを抑えて聴くことは大変な作業である。
 共感も非常に難しい。「クライエントの内部的照合枠に感情移入」することは、ともすれば同情になってしまう。また、クライエントと全く同じように感じることなど不可能である。自分自身が体験していないことを聴くには、自分自身の「ひとつの経験を豊かに深く経験する」ことによって「経験の枠組みを拡げる」10ことが必要である。とれだけ広くきめ細かい枠組みを持っているかが、カウンセラーの器量になってくる。一度にいくつもの可能性を考え、その中から瞬間に選択しながら、自分なりにクライエントを理解するのである。共感とは、「クライエントの気持ちをたしかめることではなく、カウンセラー自身の気持ちをたしかめることに他ならぬこと」11とも言える。また、共感によって相手の感情の内側に入るには、クライエントの大きな期待を受け取るだけの覚悟も必要である。と同時に、それがクライエントを完全に依存させてはいけないという非常な難問を抱えている。
 自己一致が最も難しい。クライエントの話の内容がカウンセラーの価値観と相入れない時、それを受容し共感するのは至難の技である。その時、受容を拒否したり自分の価値観を一方的に抑圧したりするするのではなく、「二律背反性に耐え、ときにはそれを楽しめるだけの強さ」12や「自分の心からわき上がってくるものは、どんなものでばも受け入れて全体を調べれば面白いのではないかというふうな態度」13が必要であると河合隼雄は書いている。本当に人間に興味があって人間が好きでなければできない仕事である。と同時に、自分の器量の限界を知っておくことも重要である。

3.カウンセリングの日本的特性

 また、父性原理の強い欧米社会で生まれた母性の強いカウンセリングが、母性原理の強い日本社会(「日本社会の底流」 2001-2016)に入って来たことから起こる難しさもある。河合隼雄は、「精神分析のアンチ・テーゼとしての意味が大きいロジャースの理論を、アンチ・テーゼとなるべきものがない日本にそのまま輸入した点に問題があったのではないか」14と指摘している。
 母性原理の強い日本人にとって母性の強いカウンセリングは受け入れやすいものであった。しかしその反面、母性が強すぎて自分を崩してまで受容しようとしたり、クライエントを早く安心させてあげようと献身的に尽くしたりする場合が多くなる。河合隼雄は、「日本中がちょっと甘いところへ持ってきて、カウンセラーはもう一つ甘くなった」15と指摘し、「自分の父性、父親的なものというものを、カウンセリングの場面でどれだけ生かすことができるか」16が今後の課題であると語っている。日本の場合、カウンセラーは母性だけでなく父性もバランスよく持っていなければならないのである。

4.カウンセリングと学校教育相談

 学校教育に蔓延しつつある<カウンセリング・マインド>なる言葉の弊害と、カウンセリングの厳しさや難しさ神髄を延々と説明してきたが、だからカウンセリングを学校教育に取り入れるべきではないという結論にはならない。逆に、もっと積極的に取り入れるべきだというのが私の結論である。
 ただしその時に、カウンセリング万能主義に陥らず、効用と厳しさや難しさを理解した上で、現在の学校教育に必要な部分だけを、学校教育に適応した形にアレンジして取り入れるべきである。それは、純粋な意味でのカウンセリングにならないかもしれない。しかし、学校という場は、カウンセリング以上に臨床的な場である。いろいろなものを取り入れて発展していく場である。カウンセリングをそのまま取り入れるのではなく、<臨床の知>ならぬ<現場の知>を生かして、学校教育相談という独自のものを確立すべきである。それを作り上げていくのは、大学の学者や専門のカウンセラーではなく、学校で実際に生徒と接している教師なのである。


第3節 学校教育相談の基本的な問題

1.学校教育相談の独自性

 学校教育相談は学校という場で行われるので、カウンセリングとは違った独自性がある。カウンセリングの基本である受容・共感・自己一致にも、学校教育相談特有の問題がある。私の少ない経験の中から思いつくことを述べてみよう。内容的には全く不十分なものになるだろう。しかし、それは学校教育相談の必要性を感じる人が、日本社会の特質と現代の社会や家族や学校や子どもを視野に入れて、学校教育相談の技法を実習し、現実場面で生徒と対応することによってしか本当に理解できない。

受容
 仕事柄教師の場合どうしても受容するより、説教したり指示や助言を与えたり指導してしまうことが多い。受容しているだけでは生徒が動き出すかどうか不安で、何か積極的に働きかけなければ落ち着かない。待てないのである。教師としての<良心>が疼くし、親や他の教師の苦情も聞かなければならない。待つことは精神的に大変苦しいものである。また待とうと思っても、周りの無責任な雑音によってくだらない仕事が増えて時間的な余裕がなくなっている。現実問題として、対応する時間を制限しなければならない場合が多いし、末梢的なことを切り捨てなければならないことも多い。学校組織の一員としてどうしても受容できない一線というものもある。教師としての父性によってどうしても切らなければならないこともある。教師はカウンセラーよりも多くの制約があるのである。
 しかし、教師が苦しみながらギリギリまで<待つ>ことによって、生徒は自分自身を見つめる勇気が湧いてくるのである。どれだけ苦しみに耐えられるか、どれだけ待てるかが教育相談の力量の1つになる。

共感
 教師は比較的まともに育ってきたので、生徒の抱えている問題を体験していないことが多い。体験していないことは共感しにくい。実際に体験してみるに越したことはないが、せっかく多くの生徒が目の前にいるのだから、彼らからたえず情報を仕入れてセンスを磨いておくことはできる。
 また、わずかな経験でもそれを掘り下げていくことによって共感できる部分が見つかるのであるが、教師は生徒には自己理解と自己変容を要求するが、自分自身はそういうことをしたがらない。教師がどこまで自分を掘り下げて感じたり考えることができるかも教育相談の力量を1つになる。しかし、自分の価値観を崩してまで共感することはしない方がよい。共感できないことは正直に共感できないと伝えればよい。
 学校では生徒に関するさまざまな情報が入ってくる。これは学校の大きな利点である。情報による外面的理解は共感的理解の妨げになると言われているが、情報に振り回されるのは力量がないからである。学校教育相談では、情報をうまく利用して、それに囚われないで共感できる力量が必要である。

自己一致
 受容にしても共感にしても、教師はカウンセラーよりも難しい条件にある。そういう条件の中での自己一致することは至難の業といってもいいだろう。カウンセラーとしての自己と人間としての自己を一致させるだけでなく、教師としての自己も一致させなければならない。
 生徒の気持ちを尊重してやりたい、できるだけ援助をしてやりたいという気持ちに強く動かされる時、カウンセラーならばその気持ちに素直に行動すればよい場合が多いが、教師は他の生徒への影響や学校全体の秩序を考えて躊躇しまう。学校は現実原則を教える場であるから生徒の快楽原則を無制限に受け入れることはできない。ただ、教育相談の場合はその枠に弾力を持たせることが必要である。しかし、弾力の限界を越えた時は厳然とした態度を示せばよい。ただ、その時は学校や自分の体面からではなく、全人格をかけるぐらいの態度でなければならない。

2.従来の生徒指導と教育相談

 従来の生徒指導と教育相談の統合については第2章で今井の説を紹介し、私の結論だけを述べた。ここではその結論をもう少し詳しく書いてみよう。
 だが、それはカウンセリングと学校教育相談の違いの説明でおおよそ終わっている。カウンセリングはクライエントに対して非常に厳しいものであるが、学校教育相談は学校という場の制約上生徒にとってさらに厳しいものになる。決して生徒を甘やかすようなものではない。河合隼雄は、望ましい教師のあり方について、「思春期の生徒に対する場合、彼らの心の奥底からつき上がってくる衝動に対して、大人が防壁となって立ちはだかってやる心構えをもつことが必要である」17
とした上で、「壁はがっちり立っていて、それに当たってくるものをはね返すが、自ら動いて他をしめつけたりはしない」17と書いている。従来の生徒指導であれ教育相談であれ、教師は生徒が乗り越えて成長するための壁であらねばならない。ただ、従来の生徒指導は「自ら動いて他をしめつけ」る傾向が強く、「不退転の壁として立ちつつ、それはもしかして新しい発展への妨害であるかもしれぬという二面性を意識」18することを欠いていることが多い。教育相談は従来の生徒指導に対して、そうしたことへの警鐘を鳴らしていると考えれば、両者の統合の道は開けてくるだろう。
 従来の生徒指導と教育相談を統合をするには、「自分のよって立つ原理に対立する原理にも意味があることを認め、その葛藤のなかに身を置いて、右に左に、それを繰り返しながら、自分のよって立つ原理をできる限り他と関連せしめることによって、ものの見方を豊かにしていくこと」19によってそれぞれの原理を深めることが必要である。すべての教師が自分の中でそれぞれの原理を深めて統合することが理想であるが、現実には難しいので従来の生徒指導の原理でやる教師と教育相談でやる教師が、お互いの原理を理解し合うと努めながらチームワークを組むことが必要である。

3.相談教師の問題

 すべての教師が教育相談的な力量をつけて生徒に対応するのが理想であろう。しかし、教師にも個性や資質の違いがあり、誰もが教育相談的であるとは限らない。教育相談的になろうとするために却って自分の素晴らしい資質を損なってしまうこともある。また、学校で全ての教師が教育相談であることが、本当に生徒のためになるかと考えれば疑問である。教師としての最低のライン(これが何かは非常に難しい問題であるが)を維持していれば、色々な教師が学校にいる方が生徒の成長には役立つ。
 ここでは、教育相談的な力量をつけようとする教師の問題について考えていこう。学校教育相談の基本的な技法を習得するには、姿勢や資質とそれ相応の時間が必要である。

1) 相談教師の資質

授業が上手であること
 東山紘久は「最大の資質は授業が上手であることだと思う。(中略)うまい授業をする、生徒の心を引きつける教師のうち、カウンセリングに興味をもった人を養成すると、学校カウンセリングはその効果を飛躍させられるような気がする」20と述べている。その根底には、人間や子どもとの関わり合いが好きで強い興味を持っていることが必要である。生徒ときちんと向き合わずに教科指導や生徒指導から逃げ出したような教師には教育相談はできない。

自分自身を変えられること
 荒井淳雄は「子供たちとの信頼関係をつくるとかなんとかいっても、自分はカウンセラーで相手を変えていくんだみたいな見方を、先生はすぐにしてしまうんです。そうではなくて、自分が自分を改善してゆく、変革していくといったことが、相手にすばらしく役に立つという見方でもっとやってほしい」21と語っている。教師は生徒のためという大義名分があれば相手の思惑に関係なく相手を変えようとするが、自分は決して変わろうとしない特質をもっている。相談教師になるためには、まず自分自身の問題に真正面から向き合い解決していく覚悟がなければならない。

現実認識の上に立てること
 河合隼雄は「人間が集まってひとつの組織を作って生きてゆこうとするとき、いかにその組織の維持のために犠牲を要求しなければならないものかという現実認識を明確に持ち、その現実の上に立って解決法を探索する努力を続けなければならないのである。このような強さをカウンセラーが身につけないかぎり、自分達は深い出会い体験を持っているのに、それを理解してくれない社会を恨むだけで、なんら建設的な仕事もされないままになる」22と書いている。学校の厳しい条件に下にあっても、その現実の中でなんとか道を探していくだけの強さが必要である。意見の違いはあっても、同僚の教師の理解を得るよう努力し、無碍に人間関係を悪くしないことである。まして、学校の片隅で自己満足のために生徒と心中するような真似は許されない。

いい加減なこと
 教師はただでさえ融通がきかないのに一生懸命になるとさらに融通がきかなくなる。自分の指導は絶対だと過信し、生徒に対する期待が大きくなって生徒が予想外の行動をすると許せなくなる。しかし、生徒は試行錯誤しながら生きていて失敗することによって成長するものである。教師はそれを楽しめるような心のゆとり、常識の枠組みを変えること、よい意味でのいい加減さが必要である。

2) 研修上の留意点

 具体的な研修方法については第4章で述べるが、相談教師になる研修を受ける上で留意しなければならないことがある。まず、いつまでも初心を忘れないことである。力量がついてきたと思うとついつい傲慢になって、生徒を治してやろうと考えるようになる。そうすると必ず失敗する。次に、多くの理論を勉強し、しかもそれにとらわれないことである。理論を自分なりに咀嚼し柔軟に応用するように心がけることが必要である。

4.急変する生徒たちの問題

 順序が逆になったかもしれないが、教師が目の前の生徒をどのように理解しているかが、重大な問題である。目の前の生徒を見ることが一番大切であるが、生徒をとりまく家族・学校・社会全体についても考えなければ、生徒の本当の姿を理解することはできない。ここでは、第II部で考察したことをもとにして、急変する生徒たちの姿に迫ってみよう。

1) 現代日本社会の中の子ども
現代日本社会の病い
 戦後の日本は、戦前の封建主義から解放されて、自由と平等の民主主義の中で理想的に発展していくと思われた。しかし、世界的な消費社会化によって、他の先進国同様の現代社会の病いにも蝕まれるようになった。さらに高度な情報化社会がその病いの悪化を促進している。現代社会の病いとは一言で言えば、全体に自由で平等で豊かなイメージが先行しているのだが、自分はそれを実感できないという不安定な心理状態である(「社会・家族・子どもの現在」)。
 また、日本社会の底流には依然として独特のタテ型母性原理を温存されていたため、一層奇妙な様相を呈するようになった。自分の実力次第で自由に平等に人生を勝ち取っていきたいと願いながらも、その責任は引き受けずに集団に庇護されていたいと思ってしまう心理状態である(「日本社会の底流」)。

家族なき家庭の時代
 戦後の家族の形態は、農村型の大家族から都市型の核家族へと変化していった。これは日本人がかつて経験したことのない形態であり、戦前のような社会規範もなく、父親の役割、母親の役割、家族の役割は暗中模索の状態であった。しかも、消費社会は家族を愛情の場から経済の場へと変えていった。地域社会も解体して個々の家族は孤立し、ひたすら子どもを消費社会システムに順応させて経済価値を高めることに専心するようになった(「社会・家族・子どもの現在」 )。

学校の学歴主義
 このような状況の中で、学校の役割も大きく変化してきた。社会は質のよい労働力を供給することを、家族は子どもの経済価値を高めることを学校に期待した(「学校の位置」 )。そこで編み出された手段が、学歴主義と管理主義である。
 学歴は、戦前は無駄な競争を避けタテ型母性社会の<場の論理>を維持するための手段であった。戦後、工業化が進みより高度な学力が要求されるようになった。そのために学校の存在が注目されるようになった。家族もその流れに乗った。最初のうちは学歴は実力と一致していたが、これが消費社会と情報社会の餌食となってシステム化し、やがて学歴は必ずしも実力と一致しない学歴主義へと形骸化していく。それでも親は学歴を追い求めているのが現状である(「日本社会の底流」)。学校も人間性の育成という大目標を見失い、親たちの要求に安易に応えて学力重視の方向に転落しつづけている(「学校の位置」)。

学校の管理主義
 戦後の日本の経済的な発展を支えてきたのは、自由競争によるヨコ型父性原理であるかのように思われるが、実際はタテ型母性原理の<場の論理>であり、<場>から外れることは致命傷である(「日本社会の底流」 )。また、消費社会でもそのシステムから外れることは致命傷になる。そして、外れないための手段として管理が必要になってきた。学校は父性原理で動いているように見えながら、元来母性原理が強いので、<場>から外れないための管理は容易にエスカレートする。ただ、それが母性原理の温情による管理から疑似父性原理の規則による管理が強化されてきた(「学校の位置」 )。また、情報化社会は学校に対してもガラス張りであることを要求するために、学校はミスをしないように生徒の隅々まで管理を徹底するようになっていくのである(「逸脱の構造」 )。

自由な競争を強いられる子どもたち
 現代の病いの中の最大の被害者は子どもである。現代社会において子どもも自由に平等に生きることができると言ってもそれは言葉の上だけで、実際は大人が子どもの生き方を自由に決めてしまっていることが多い。しかし、その大人の価値観がフラフラしているため、子どもは親の価値観に振り回され、どうすれば大人になることができるのかわからなくなっている。自由の美名のもとに放任されて育ったり、親の自由を押しつけられて育ったりしている。
 また、子どもは平等神話によって自分の能力とは無関係に学歴主義の過剰な競争を強いられている。しかも、消費社会のシステムは綿密にプログラムされているので、できるだけ早い時期に参加し、用意されたシナリオを忠実に演じた者にだけ成功を約束している。そこでは本物の個性を発揮して目立つことは禁物で、個性の発揮は競争から下りることを意味している(「社会・家族・子どもの現在」 )。

青年期の壁を乗り越えようとしない子どもたち
 子どもは育ち急がされているので、発達の課題(「発達の段階」 )と十分に取り組んできていない。そのために、青年期になって大きな壁にぶつかる。青年期の壁は元々低くはなかったのに、このような社会に置いてはますます高く厚くなっている。壁を乗り越えられない、あるいは乗り越えようとしない青年が、<モラトリアム人間>や、<退却神経症>として多く出現するようになった(「青年期の課題」)。この現象は、大学を目指す生徒のための教育とそうでない教育に二極分化されてきている教育状況の中で、大学を目指さない高校生の中にも広がってきている。
 こうした子どもの変化は、過剰な同調から離反へ向かうベクトルで説明できる。離反が能動的な場合は非行などの反社会的行動となって現れ、受動的な場合は不登校などの非社会的行動となって現れるのである(「逸脱の構造」 )。また、可視化のメカニズムから自分を防衛するための私事化であるとも説明できる。生徒の内面までガラス張りにしようとする学校の管理主義に対して、公的な社会を一切シャットアウトして、ひたすら私的な世界に籠もろうとするのである(「逸脱の構造」 )。

対人関係に悩む子どもたち
 また、子どもは対人関係に非常に敏感になっている。「やさしさ」という言葉を使って、友達ともつかず離れずの距離を保ちながらひたすら自分の世界に引き籠もろうとする(「社会・家族・子どもの現在」 )。元々日本人の人間関係は、<義理>と<人情>を重視する。また、日本人の気持ちは季節の変化の激しい風土の影響でいつ激変するか予測できない。したがって、相手の気持ちの変化に敏感になるか、相手の支配下に入るかしなければならなかった。子どもはこうした日本社会の特質も鋭敏に感じとっているのである(「日本社会の底流」 )。

2) 生徒のタイプ
 
 このようにして見てみると、現代の生徒は極めて厳しい状況の中で生きていることがわかる。<普通>に育つことは至難の技である。もっとも、何が<普通>であるのかが曖昧になっているのであるから、<普通>など存在しないのかもしれない。
 不登校という問題も、文部省の学校不適応対策調査研究協力者会議の中間まとめを待つまでもなく誰に起こっても不思議ではない。それは個人の資質による所もあるだろうが、個人を取り巻く家族・学校・社会などの要素が複雑に絡み合っている。森田洋司は、「なんらかの頻度で『学校へ行くのが嫌になったことがある』と答えた生徒は、全体の70.8%に達している」23と報告している。不登校の問題を考えることは現代の生徒全体の問題を考え、指導の方向を探ることにつながるだろう。
 そこで、東京都学校不適応検討委員会で検討された登校拒否の類型24をもとに、現代の生徒の問題を探ってみよう。ただし、ここでは類型化することの是非や、この類型の妥当性について検討することを目的としない。
長期欠席 1)心身の疾病やけがによるもの
2)経済的理由によるもの
3)家族的理由によるもの
登校拒否
4)心理的理由によるもの
1)神経症的登校拒否 ア.分離不安型
イ.息切れ型
ウ.甘やかされ型
2)無気力傾向3)遊び・非行傾向
4)学業の不振によるもの
5)学業不振以外で学校生活に理由があるもの
6)その他
5)意図的な拒否によるもの
 1)2)3)などのような客観的に認められる理由はないにもかかわらず、学校へ行けない、あるいは行かない状態にある児童・生徒
 1)神経症的登校拒否(不安など情緒的混乱によるもの)
 学校での種々の場面に対して情緒的混乱や極度の不安を示し、ささいな事柄に対して神経過敏であったり、いつも何か気にしないではいられないなどの神経症的な症状を示し、学校に行かなければならないことを意識しながらも学校に行けないでいる児童・生徒
ア.分離不安型
 幼児期や小学校低学年で現れる場合が多く、母親から離れたがらず、母親も離すことに対して不安が強いのが特徴である。
 過保護や神経質な母親の場合と、拒否的で冷たく、干渉的な母親の場合がある。また、夫婦の不和やしつけの不一致のために、学校や園に行けないケースが少なくない。
イ.息切れ型
 小学校くらいまではなんの心配もなくすごし、中学校や高校に入って急におきることが多い。性格的には、真面目で几帳面、潔癖、神経質で完全欲求、優越感が強く、失敗を嫌う。休むことへの罪悪感が強く、閉じこもりがちである。
ウ.甘やかされ型
 小学校時代からささいなことで欠席をくり返し、中学、高校と段々ひどくなる。一日中好きなことをしてすごし、日曜、祭日、夜などには外出して遊んだり、友達に会ったりすることもある。小さい時から家の中で自己中心的にすごし、要求がかなえられることが多かったので、他人と協調したり、学校で規則正しく生活を送ったりすることが苦手で、最も楽な家の中に逃げ込むと考えられる。
2)無気力傾向
 毎日の生活の中で生きがいやめあてを持てなかったり、課題に対して積極的に取り組もうとする意欲に乏しく、ともすれば学校を休みがちになり長期欠席にいたる児童・生徒
3)遊び・非行傾向
 嫌いな授業を欠席したり、学校を休んで遊びまわる行動が多くなり生活態度が乱れるなど、学校生活より校外での遊びにひかれ、学校に行かない児童・生徒
4)学業不振によるもの
 授業の内容がよく理解できない、ついていけないなど、学業生活に不満や劣等感をもち、そのために学校がおもしろくないと感じ、長期にわたって欠席する児童・生徒
5)学業不振以外の理由で学校生活に理由があるもの
 友達によるいじめ、仲間はずれなどの友人関係のゆがみ、教師に対する不信、校則・心得などになじめない、給食や学校行事への参加をいやがる、転校して新しい学校になじめないなど、主として学校生活に明らかな理由があって、長期にわたって学校を欠席する児童・生徒
5)意図的な拒否によるもの
 学校の在り方に疑問をもつなど、現在の学校生活に意義を見出せず、本人または保護者の意志で登校を拒否したりする児童・生徒
 この類型化にあたって、検討委員会では特に次の点が論議された。最近の傾向としては、無気力ですぐあきらめてしまう、登校拒否に陥っても表面的にはあまり葛藤が見られない生徒が増えている。その大きな背景には、対人関係処理能力が発達段階に応じて適切に育っていないことがある。学校教育の面では、学業不振と学校生活における友人関係や教師との人間関係の問題が指摘されている。家庭教育の面では、困ったときの対処の仕方や欲求が衝突した場合の処理の仕方などを、身を持って教える機会が乏しくなっていることが指摘されている。


第4節 これからの治療的教育相談の方向

1.社会が学校に求める教育相談的対応

 従来、社会一般で問題になっているタイプは、「神経症的登校拒否の息切れ型」と「学業不振以外の理由で学校生活に理由があるもの」の中のいじめや教師不信や校則であろう。社会が学校に求めているのは、そうした生徒への対応である。
 しかし、高校の現場の感覚からすれば、長期や断続的に学校を欠席する生徒の中で気になるのは、「無気力傾向」「遊び非行傾向」「学業不振によるもの」である。また、それほど欠席しないが同じタイプの生徒が非常に多い。まさに、いつ誰が不登校になってもおかしくない状態である。「神経症的登校拒否の息切れ型」や「学業不振以外の理由で学校生活に理由がある」生徒の指導の必要性は重々わかっているが、目の前にいる登校している生徒の指導に追われ、そこまで手が回らないのが実情である。
 こうした状況を作り出した要因は学校の問題にもあるが、家族や社会全体の問題が複雑に絡み合っている。もちろん学校でも対応しなければならないが、何もかも学校が対応しきれるものではない。家族に返したり、外部の相談機関に依頼しなければならないものも多くある。最近のマスコミの報道ぶりは、生徒の問題はすべて学校で対応すべきであると脅迫しているようであり、大きな疑問と強い怒りを感じる。

2.学校が教育相談に求める対応

 学校と教育相談の関係についても同じことが言える。学校に回されたツケが、教育相談に回されるのではおかしい。問題を抱えている生徒の治療・指導が相談教師に任せきりになるという事態を招くとすれば、学校全体の教育力は低下する一方である。また、問題を抱える生徒が急増する現状では、相談教師が個々の生徒を直接治療していてては追いつかなくなるのは明らかである。これまでの治療中心の学校教育相談のあり方を考え直さなければならない時期にきているように思う。

3.これまでの学校教育相談が治療中心であるワケ

 これまでの学校教育相談が治療中心であった理由については、第2章で小泉英二の意見を紹介した( 3011-3012)。外部に信頼できる相談機関が少ない以上学校で引き受けるしかないのが現状である。また、生徒指導部が非行問題などを起こす生徒の指導に当たるのと同じ感覚で、教育相談担当者に不登校などの問題を抱える生徒への対応が要求される。従来の生徒指導は長年の実践の積み重ねがあり、指導のノウハウはかなり確立している。ところが、教育相談は歴史が浅く実践例も少ない。1人1人問題が違うのが特徴なのでノウハウは確立しておらず、一般の教師が即席で対応できない専門的な部分もある。また、生徒指導部ほど問題件数が多くはなく、学校ではその重要性があまり認識されていない。したがって、相談教師は多少の難問でも無理をして対応することで存在理由を証明しなければならなくなる。私立高校の相談教師も、下手をすると閑職と誤解されることがあると悩みを語っていた(「私立高校の教育相談」 2138-2160))。

4.治療的教育相談の限界

 しかし、問題を抱える生徒の急増に対して、相談教師が直接治療的に対応できる数には限界がある。主な対象も、「神経症的登校拒否」はより難しい症状を起こすようになり、数の上では「無気力傾向」「遊び非行傾向」「学業不振によるもの」「学業不振以外の理由で学校生活に理由があるもの」が増えている。国分康孝が指摘するような「教師やカウンセラーが受身的・非指示的にすぎると却ってクライエントの不安がますとか、教師・カウンセラーの生徒への関心・愛情が希薄だと受けとる」25生徒が少なくない現状では、従来の治療方法では対応できない。特に高校では相談室に生徒が来ずに閑古鳥が鳴いているという問題も、対象生徒の変化と相談教師の認識や治療方法とのズレが原因しているのかもしれない。
 マイペースでやれるとか、集団的・予防的・開発的な教育相談ができないという姿勢についても反省が必要である。こうした姿勢が教育相談の広がりを妨げる1つの要因になっている。
 また、治療的教育相談をするにはある程度の力量をもった相談教師が必要であるが、現実には相談教師の数は少なく、すべての学校で治療的教育相談を中心にしていくことは不可能な状況である。

5.治療的教育相談の見直し

 生徒の抱える問題がより専門的になる一方でより広範囲にもなっている状況の中では、従来の治療的教育相談の方法の見直しが必要になってくる。原野広太郎は「学校関係で言えば、私は開業医にあたるものだと思っているんです。(中略)一般的に言えばもっと幅広いカウンセリング技術を用意すべきだとおもいます」26と語っている。内山喜久雄も「あの子はこうなんだ、前はこうだったということがわかっていると、ホームドクター同様、こうなった経過が検討がつくということですからね。そういう意味でカウンセラーはホームドクター的な役割を持ってほしい、また、持つべきだ」27と語っている。私も学校教育相談はホームドクターであるべきだと思う。専門的な深い技量よりも幅広い技術を身につけて、日常的に接している生徒たちに適切な処置をしていく方がよいと思う。難しい生徒は抱え込まずに外部の相談機関に依頼し、相談機関と学校のパイプ役になり連絡を密にすることが必要である。
 従来からよく行われている研修会なども、事例研究を中心にして生徒の実態に対応していくとと同時に、講演会などの理論的な学習よりもロールプレイなどの実技研修を計画していくことが必要である。
 また、担任と一緒に生徒面接をして担任に安心してもらったり、教育相談の理解を深めてもらったりする工夫も必要である。できれば生徒に直接対応せずに、担当する教師を調整したり、担当する教師の相談に応じて適切な援助をしたりする役割に徹した方がよい。できるだけ多くの教師と連携して信頼関係を作ると同時に、教育相談的な対応を体験してもらう配慮が必要である。


第5節 予防的教育相談の危険性

1.生徒の成長を阻害する

 最近、メンタルヘルスという言葉が教育現場でもよく聞かれる。教育相談に置き換えると、予防的教育相談の領域になるのだろうか。
 私の意見としては、予防的教育相談は弊害が大きいと思う。「つまずかないための○○」という言葉をよく聞くが、人間はつまずきながら成長していくものであり、そのつまずきの石を予め取り除いてやることは人間の成長を妨げる大きなお節介である。過保護・過干渉の延長でしかない。

2.生徒の内面をソフトに管理する

 また、早期発見早期治療が叫ばれているが、それが生徒の管理を強化していく方便に使われていることが多い。心理検査にしても生徒の全体的な動向を把握する程度に使うならよいが、そのデータを教師が管理して生徒の問題行動の早期発見に使うならば、教育相談は善人面をしたソフトな管理に堕してしまう。校則などで服装や髪型が管理の対象になって社会問題化しているが、それはハードであるが人格とはあまり関係のないものである。それが人格までソフトに管理されるとなると、この方が問題ではないだろうか。こうした傾向が、第1章で紹介した高校教師の実践報告(3003)につながっていくのだろう。
 その意味では、過剰な治療的教育相談も生徒の内面管理につながる。高垣忠一郎は、「へたをすると、自分のふところにつつみこみ、温情をかけてやることによって、相手をのみこみ、飼いならすたぐいの温情主義に変質していく。(中略)温情によって自由を拘束し、温情の主にたいして忠誠をつくす『よい子』であることを強いる。これが伝統的な日本流の管理であろう。(中略)それはハードな管理主義を補完するソフトな管理主義として機能する」28と指摘している。
 しかし、だから予防的教育相談や治療的教育相談はやめるべきだと結論づけるのでない。ただ善意のつもりでやっているととんでもない落とし穴にはまってしまう危険性が強いことをもよく理解した上で、教育相談の限界を明らかにし慎重に対応していく姿勢が必要である


第6節 開発的教育相談の可能性

1.開発的教育相談を求める声

 これからの学校教育相談の方向としては、個々の生徒の治療や予防だけでなく、すべての生徒のもっている生きる能力を開発する側面も重視されるべきであると思う。こんなことは昭和40年に発行された『生徒指導の手びき』にも書かれているが29、いまだにほとんど手がつけられていない状況である。
 全国12545人の高校生を対象に実施した「自己評価と高校生の意識と生活」調査30では、自己評価で「あまり満足していない」と回答した生徒が54%、その中の37%が「人間の生き方など人格形成についての指導」を学校教育に期待しているという結果がでた。進学競争から下りた生徒の多くが、1日の3分の1近い時間を過ごす学校に人間らしいあり方や生き方の指導を求めていることがわかる。
 これからの学校教育を考える場合、すべての生徒に対して、発達途上だれでもが解決しなければならない問題を積極的に取り上げていく開発的教育相談が必要になってきている。

2.開発的教育相談の目指すもの

 日野宜千は開発的教育相談を「発達段階への援助」として位置づけ、その目的を「生きることへの潜在能力を理解させ、受け入れられるように援助すること。さらに、発達上の進歩を評価させ、次の発達上の生活をよりよく行えるように計画を立てさせ」31ることに置いている。第2章でも紹介したように(3018)、開発的教育相談は治療的教育相談や予防的教育相談と同じ線上にあり、問題を抱えた生徒だけでなく全ての生徒を対象にし、個人的治療よりは集団的指導を重視し、専門家よりは一般の教師が対応するものである。簡単な内容については第2章で触れたが(3020)、第5章で詳しく述べる。
 また、最近生徒と話していて強く感じることがある。それは、一生懸命話そうとするのだが自分を表現する言葉が乏しい、自分の内面を洞察しようとする力が弱い、自分で自分のことを考えようとする意欲に欠ける生徒が増えてきていることである。高垣忠一郎が「指導が成立するためには抵抗を生みだすだけの主体性が相手に確立しており、矛盾が矛盾として成立することが前提である」32と指摘しているように、治療的教育相談を成立させるためにも、まず開発的教育相談によって生徒の主体性を確立する必要がある。

3.学校機能の変革

 また、学校の機能を変える積極的な働きかけも開発的教育相談の領域の1つに入ってくるだろう。
 第II部の「逸脱の構造」で考察したように( 2078-2081)、学校では「離脱の回路」がどんどん閉じられてきている。文化祭や体育祭や球技大会、修学旅行や遠足などの学校行事や、HR活動、放課後の部活動など、日常的な学校生活の中にあって比較的自由があって学習活動以外での自分を表現したり実現したりできる時間や空間が削られていっている。それは生徒が自主的に動かなくなったという理由もあるが、学校が「離脱空間」を学習の場と見なし、制度化して教育活動の一環に組み込んでしまっているのである。学校5日制が学習時間の確保のために学校行事などを減らしていけば、この傾向はますます拍車ががかる。「離脱の回路」が閉ざされるにしたがって生徒と学校をつなぐ絆は細くなり、「子ども達は、教育、学習という課題遂行への意欲を弱め、学習意欲を低下させたり、逸脱への潜在的圧力を強めることになる。あるいは、学校社会の外に離脱の回路を求めようとする方向もあらわれる」33傾向が顕著になってくるだろう。
 こうした現象を最小限に抑えるために、学校教育相談の立場から「離脱の回路」の縮小を阻止していく働きかけが必要になってくる。生徒と1対1で対応することも大切であるが、これからの教育相談は学校全体の運営についても積極的に関わっていかなければならない。


第7節 学校教育相談の定着のために


1.組織化へのステップ

 教育相談を学校に定着させるためには組織化することが必要である。私立高校では、学校の方針として教育相談部や係を設置して現在も意欲的に活動している学校が多い。また、これから設置しようという機運の強い学校もある。反対に、学校の方針が変わって教育相談部が消滅した学校もある。
 府立高校の場合は、部として設置されている学校は1校だけであるし、係として設置している学校も少ない。会議組織として設置されている学校はあるが十分に機能しているとは言えない。行政としても、その必要性は認めているものの経済的、人的な保証には消極的である(「私立高校の教育相談」 2138-2163)。また、第II部の「学校の位置」で考察したように( 2038-2040)、学校現場には独特の難しい問題がある。こうした状況の中で、教育相談を組織化するのは至難の業である。
 教育相談の組織化へのステップとして、河上亮一の実践34を応用して考えてみよう。1)できるだけ多くの教師の意見や問題意識を出発点にする。上からの命令では組織はできても機能しないことが多い。2)全体の教師を巻き込む方針をもつ。大きな目的と具体的で細かな方法を提示する。3)職員会議で十分に検討して、全体で決定したという合意を得る。4)教師の個性や力量を配慮し、仕事の内容を一律にしない。5)生徒に対して具体的に説明する。6)経過や成果については職員会議で報告し、生徒に返すものは返す。その場合、いい結果については大きく評価し少し課題を付け加える。7)推進する教師は人一倍働かねばならないが、スタンドプレーにならないように注意する。

2.教育相談の土壌をつくる

1) 中心になる教師の問題

 学校教育相談の組織化に必要なものは、まず中心になって推進する教師である。条件としては、教育相談の治療的な技術をもっているに越したことはないが、教育相談の必要性をよく理解していることが重要である。教育相談を趣味的にやっている人でなく、学校全体について考えられる人でなければならない。理論家よりも実践家タイプで、多少の実績があって実行力に富んでいる方が望ましい。

2) 学校の状況分析

 次に、現在の学校の機構や学校の教育相談に対する理解度についての分析である。学校の教育方針が進路指導を重視しているのか、生徒指導を重視しているのか、あるいは生徒の自主活動を重視しているのか。生徒の実態の中で一番問題になっているのは非行問題なのか、怠学問題なのか、無気力傾向なのか、原留・中退問題なのか、不登校問題なのか。学校の中心になって実際に動いているのは学年部なのか、生徒指導部なのか、進路指導部なのか、教務部なのか。生徒指導部の方針は補導的なのか、教育相談的なのか。教育相談はどの部が中心になっているのか。教育相談の力量や関心のある教師が何人いて、その程度はどれぐらいか、などを分析しておく必要がある。

3) 雰囲気づくり

 そして、教師の中に教育相談を受け入れる雰囲気を作る。いきなり教育相談の研修会を計画するよりは、生徒を中心に話し合う場を利用する方がよい。それは生徒指導会議であってもいいし、進級・卒業認定会議であってもいい。問題を抱えている生徒について話し合える学年会議や、中間試験後か学期終了後に成績会議を設定できればよりいい。その会議の場で生徒の賞罰や進級・卒業を機械的に処理していくのでなく、問題になる個々の生徒に焦点を当てた話し合いにもっていく。教育相談の立場を強調するのでなく、各分掌の立場や校内規定や他の生徒に与える影響なども考えながら、個々の生徒を尊重していくような流れを作る。そのためには他の教師の意見もじっくり聞いて理解し尊重しなければならない。それと同じ気持ちで個々の生徒を理解し尊重してもらうようにする。このように書くのは簡単だが、実際にやってみるのは難しいことは百も承知している。頭で議論するのでなく心で理解し合うように心掛けておくことが大切である。

4) 相談教師の力量の問題

 相談教師の存在は、生徒への対応はもちろん、教育相談の存在を教師に理解してもらうためにも必要である。その力量については、ある程度の治療的技法をマスターしていることが必要である。「神経症的」な生徒を治療するような専門的な力量はあるに越したことはないがなくてもよい。前述したようにホームドクター的な力量があれば十分である。それと開発的教育相談の発想が必要である。これはある程度の治療的力量に裏打ちされていなければならない。

3.校内組織化の段階

 学校教育相談の組織の種類と特徴については第2章で検討した( 3020-3022)。第II部の「私立高校の教育相談」( 2138-2160)ではその実践について考察した。ここでは、相談教師の力量と領域の問題を中心にして、教育相談の組織化の段階と機能について考察しよう。
相談教師     領域・仕事内容   組織         
黎明 いないor養成中  1)予防2)治療    保健 教務 会議   
成長 治療的力量    1)治療2)予防    保健 生徒      
発展 治療・開発的力量 1)治療,開発2)予防 保健 生徒 進路 教務
円熟 熟練,部長    1)開発,学校運営 2)治療,教師の指導 教育相談部 限定しない

1) 黎明期

 第1段階は、相談教師がいないか養成中の段階である。領域は予防を中心に簡単な治療もする。組織は保健部に教務部に係を置くか会議組織にすることが考えられる。
 保健部型は、生徒が自主的に相談に来ることが期待できるが、生徒指導部や学年部や担任の所にこちらから出向いていって生徒の情報を集めることも必要である。できればそうした会議に出席させてもらえればいい。対応の必要な生徒は後述するスーパービジョンの場で相談したり、外部の相談機関に依頼する。その経過や結果については担任や担当教師、できれば職員会議の場で全教職員に報告する。また、教育相談についてのプリントを配付したり、研修会などを開いて教師の啓蒙活動に努める。
 教務部型は、あまり例がないだろう。従来の教務部のイメージからして学校では出てこない発想である。教務部は生徒全体の成績や欠席状況を把握しやすい立場にあり、早期発見が可能である。また、担任や教科担当の教師にも連絡が取りやすい。成績会議などを開いて教師全体の関心を喚起することがしやすい。しかし、治療的な領域はほとんど機能しない。この点は保健部と連携しなければならない。
 会議組織型は、多くの学校で試みられている。基本的には、管理職・各学年部・保健部・生徒指導部・教務部の代表者によって構成されていることが多いが、学校によっては同和部や進路指導部が入ることも考えられる。あまり大人数になると会議の密度が薄まる。また、各部で教育相談に関心がない教師を構成員に選出することもあり、機能せずに形骸化する可能性が強い。理想から言えば、人数は5人前後で、部に関係なく教育相談に関心のある教師が構成員になる方がよい。しかし、公的な性格が薄れて学校全体への影響力は弱まる可能性がある。機能面から言えばあまり期待できないだろう。

2) 成長期

 第2段階は、ある程度の治療的力量のある相談教師がいる段階である。領域は治療が中心で予防もする。組織は保健部か生徒指導部に係を置くことが考えられる。
 いずれの型にせよ仕事の内容は、担任など直接生徒に対応する教師の援助になる。担当教師の力量を超える生徒は担当教師と共に面接するか、結果を担当教師に連絡してできるだけ早い機会に担当教師に返すことである。相談教師の力量や学校の役割を超える生徒は外部の相談機関に依頼する。また、研修会を計画して教師への啓蒙に努める。
 生徒指導部型は、従来の訓育的な生徒指導部のイメージでは生徒の自主来談は期待できないし、係としても活動しにくいだろう。しかし、だからこそ生徒指導部の中に入ってイメージを変える必要があるのである。これは保健部型よりも大きな課題を背負っているのでリスクも大きいが、将来的な展望に立てばどうしても通らなければならない道である。

3) 発展期

 第3段階は、治療的力量だけでなく開発的な発想をもっている相談教師がいる段階である。領域は治療と開発が中心で予防もする。組織は保健部か生徒指導部か進路部か教務部に係を置くことが考えられる。
 仕事の内容は第2段階と同じ治療と啓蒙に加えて、生徒の発達課題を援助し生きる能力を開発することである。学級活動、学習指導、進路指導などを通じて生徒が自分を洞察し自分の生き方を考えることを援助する。そのためのプログラムや教材を作成し、活用方法について教師および生徒に指導していく。生徒指導部型は学級活動に、進路部型は進路指導に、教務部型は学習指導に関与しやすいが、特に進路部型と教務部型は治療面では弱い。保健部型は関係分掌と連携して開発的側面に関わらねばならない。
 現在、学校の方針が進路指導に向いている場合が多い状況から考えると、進路部に位置づけるのも有効かもしれない。ただし、従来の出口だけの進路指導でなく、その過程を重視する教育相談的な進路指導でなければ意味がない。

4) 円熟期

 第4段階は、熟練した相談教師がいる段階である。領域は開発と教師間の調整と学校運営が中心で、難しい問題を抱えた生徒の治療もする。組織は教育相談部として独立しているか、どこかの部に所属していてもかまわないが部長になっている方が望ましい。また、各学年部に教育相談の力量をもった教師がいれば申し分ない。
 仕事の内容は、まず第3段階の開発の発展である。治療については教師のチームが当たる。相談教師はチームの構成や指導の助言をする。教育相談の力量をもった教師を育てるのも仕事の1つになる。もう1つの大きな仕事は学校運営に関わることである。生徒の不適応を引き起こす学校要因を改善する。そのためには学校運営について発言力のある実績や地位を確立することが必要である。

4.スーパービジョンシステムの確立

 スーパービジョンシステムについては第2章で東山紘久のシステマティックアプローチを紹介したが( 3024-3025)、相談教師を養成し力量を高めるためにはこのシステムの確立が不可欠である。私立高校ではカウンセリング研究会がその役割を担っている(「私立高校の教育相談」 2153-2154)。府立高校の場合は、総合教育センターや北部教育相談ルームが相談に来た教師のスーパーバイズをしているが、教育相談担当者を対象に定期的に行われているものはない。府立学校教育相談研究会も毎月例会を開いているが、そのような機能を果たしえていない。
 府立高校だけを考えれば、各通学圏ごとに教育相談担当者の事例研究会を組織し、できれば毎週少なくても隔週に1回開くことが望ましい。もちろんスーパーバイザーがいるに越したことはないが、いなくてもある程度の経験と力量をもった教師を中心に、各校から持ち寄った事例について検討し、ある程度の指導の方向が見出せればよい。担当者の時間的保障さえすればすぐにでも実現可能である。スーパーバイザーについては予算の問題や適任者の問題で時間がかかるだろう。

5.学校カウンセラー制度の問題点

 学校カウンセラー制度については第2章で原野広太郎の意見を紹介した( 3023-3024)。しかし、原野の意見の中には、「教師は余り深刻な顔をして人生をどう生きるべきかとか、子どもたちの悩みを熱心に聞くことなどしない。あるいは生きがいの選択、進路の決定に深く聴き入る教師はほとんどいない」「教師はせいぜい子どもたちの理解の程度を考慮するに留まる」「教師の用いる論理の伝達のほうが易しい技法である」35等、カウンセラーを教師よりも優位に考えていると誤解されやすい記述が多い。原野の講演を聞く機会があったが、現場の実態が全くといっていいほどわかっていない。
  このような姿勢で学校カウンセラーを置くとすれば、原野自身が「地域社会的閉鎖性」と指摘しているように(3009)、ただでさえ教育の専門家としての意識が高く閉鎖的排他的な教師に受け入れられるはずがない。昭和30年のカウンセリングブームの終焉と同じ結果を招くことは火を見るより明らかである。あるいは、問題生徒を喜んで学校カウンセラーに任せきってしまう教師が続出するかもしれない。いずれにしても、好ましい結末ではない。原野はアメリカのスクールカウンセリングシステムをそのまま日本の学校現場に導入しようとしているようであるが、両国の違いをしっかりと認識した上でないと実現するものも実現しなくなってしまう。今井五郎も、教師が広く<カウンセリング・マインド>を持ち、教育相談が分掌化され、学校全体の教育計画の中に位置づけられた最終段階においては実現可能と考えている36。現在の状況では学校カウンセラーの設置に辿り着くには課題が山積みされ遙か遠い道のりであるが、もし学校教育相談の組織化が最終段階まで到達すれば可能であろう。
 しかし、もし学校カウンセラー制度にゴーサインが出たとしても、学校が生徒のあらゆる問題を抱え込むことには疑問がある。小泉英二は「何でも学校は、子どものことに関係があるからということで、つい手を出しますと、みんなお願いをしてきて、社会や家庭はやらないですんでしまうわけです。本質的に学校教育は何を担うべきかということをよく考えないといけない」37と指摘している。学校が学校の限界を超えるものまで担い込んで、まるで子どもの指導のスーパーマーケットのようになってしまうのはよくない。学校教育の本来の役割と限界を見極めた上で、それらを超えるものは家庭に返したり外部の機関に依頼すべきである。



引用・参考文献

 1 『児童心理 特集「カウンセリング・マインド」』 1987・6 金子書房
2 文部省 1965 『生徒指導の手びき』 大蔵省印刷局,p11
 3 前掲書,まえがき
 4 河合隼雄 1985A 『カウンセリングを語る(上)』 創元社,p183
 5 河合隼雄 1975 『カウンセリングと人間性』 創元社,p8
 6 村山正治 1991 「カウンセリングと教育」(『教育と医学5月号』慶應通信,p6)
7 河合隼雄 1985B 『カウンセリングを語る(下)』 創元社,p40
 8 河合隼雄 1970 『カウンセリングの実際問題』 誠信書房,p3
 9 C.ロジャース 伊東博編訳 1966 『サイコセラピィの過程』 誠信書房,Pp119-120
10 河合隼雄 1970 前掲書,p101
11 氏原寛 1985 『カウンセリングの実践』 誠信書房,p140
12 河合隼雄 1970 前掲書,p201
13 河合隼雄 1970 前掲書,p220
14 河合隼雄 1975 前掲書,p196
15 河合隼雄 1985B 前掲書,p139
16 河合隼雄 1985B 前掲書,p142
17 河合隼雄 1992 『子どもと学校』 岩波新書,p190
18 前掲書,p192
19 前掲書,p28 (氏原寛・倉戸ヨシヤ・東山紘久編『臨床教育心理学』創元社,p253)
20 東山紘久 1983 「学校カウンセリングの諸問題」
21 内山喜久雄・原野広太郎・神保信一・荒井淳雄・国分康孝 1986 『カウンセリング 今これから』 誠信書房,p127
22
 河合隼雄 1975 『カウンセリングと人間性』 創元社,p9
23 森田洋司 1991 『「不登校」現象の社会学』 学文社,p26
24 東京都・学校不適応検討委員会(第1年次)報告書(抄録) 1991(月刊学校教育相談7月号,Pp25-30 )
25 国分康孝・米山正信 1976 『学校カウンセリング』 誠信書房,p15
26 内山喜久雄・原野広太郎・神保信一・荒井淳雄・国分康孝 1986 『カウンセリング 今これから』 誠信書房,p34
27 前掲書,p35
28 高垣忠一郎 1991 『登校拒否・不登校をめぐって』 青木書店,Pp188-189
29 文部省 前掲書,第7章第1節
30 全国高等学校「倫理」「現代社会」研究会 1991 毎日新聞 10/15 朝刊
31
 日野宜千 1992 「開発的教育相談のあり方」(『月刊学校教育相談1月号』学事出版,p25 )
32 高垣忠一郎 前掲書,p180
33 森田洋司 前掲書,p255
34 河上亮一 1990 「教師を操り、学校を動かす11の戦略!」(別冊宝島『〔ダメ教師殲滅作戦〕編』JICC出版局,Pp81-88 )
35
 原野広太郎 1991 「教師であること、カウンセラーであること」(『教育と医学5月号』慶應通信,Pp15-21 )
36 今井五郎 1986 『学校教育相談の実際』 学事出版,Pp58-61
37 小泉英二 1973 『学校教育相談』 学事出版,p46   



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