逸脱の構造


第1節 社会学の視点

1.逸脱行動を研究する意味

2.逸脱行動の理論
(1)統制理論(ボンド理論) (2)緊張理論 (3)文化学習理論

第2節 逸脱する生徒


1.逸脱のタイプ
(1)逸脱の分類 (2)逸脱の多元性 (3)逸脱の独立性

2.現代社会と逸脱
(1)欲望の無規制状態 (2)他者思考型社会 (3)同調優位から離反優位へ (4)逸脱と非行 (5)逸脱と不登校

3.逸脱からの脱出

第3節 逸脱させる学校

1.ボンド理論とは何か
(1)ボンド理論の前提 (2)ボンド理論の4要素

2.可視化のメカニズム
(1)ガラス張りの管理体制 (2)ガス抜き回路の遮蔽 (3)情け容赦なき処罰主義 (4)個性の偏差値 (5)相互監視システム (6)理由ある反抗 (7)可視化のダブルバインド

3.私事化のメカニズムと変遷
(1)ワタクシゴトへの隠遁 (2)お国のためから会社のために (3)会社のためから私のために (4)私のためから・・・・・

4.生徒と学校の絆
(1)学校社会の病い (2)友人の視線が怖い (3)勉強についていけない

5.学校の課題と展望
(1)教室に漂う無力感 (2)生徒の目線で見る (3)逸脱を受け容れる (4)自分とは何かを問う (5)ジブンゴトとして考える


第1節 社会学の視点

1.逸脱行動を研究する意味

従来の生徒指導の対象の中核は非行問題であった。非行問題を考える時、社会学では逸脱行動理論が適用されてきた。非行を社会からの逸脱と考えるならば、不登校もニュータイプの逸脱と考えることができる。
非行や不登校などの逸脱行動は一部の生徒だけでなく、一般の生徒にも見られるようになってきた。その原因が逸脱する生徒の側よりも、社会の側にあることが明らかになってきた。
社会学の逸脱理論は、今日急増しているニュータイプの不適応行動や、一般の生徒の問題の理解にも大いに役立つと思われる。

2.逸脱行動の理論

先に、社会学における逸脱行動の理論について簡単に触れておこう。
T.ハーシィはこれまでの逸脱理論を、(1)統制理論(コントロール・セオリー)、(2)緊張理論(ストレイン・セオリー)、(3)文化学習理論(カルチュラル・ラーニング・セオリー)に区分し、次のように説明している。

(1)統制理論(ボンド理論)

人は何らかの逸脱可能性を本来的に持っている。したがって、これを規制するコントロール・システムが機能障害を起こすと、通常潜在している逸脱可能性が発現して何らかの逸脱行動にはしると見る考え方である。

(2)緊張理論

人が逸脱行動にはしるのは、何らかの欲求不満(フラストレーション)、緊張(ストレイン)、葛藤(コンフリクト)などを解決しようとする努力が、たまたま他の人々の期待に背反した結果であると見る考え方である。

(3)文化学習理論

逸脱行動といえども、その具体的パターンは誰かから学ばねば不可能であると力説する考え方である。
ここでは、大村英昭・宝月誠の『逸脱の社会学』と森田洋司の『「不登校」現象の社会学』を基本的なテキストにして、緊張理論とボンド理論によって不登校や一般の生徒の問題を考えていこう。

第2節 逸脱する生徒

1.逸脱のタイプ

(1)逸脱の分類

まず、逸脱する生徒の側の問題を考えてみよう。
パーソンズは、「同調優位−離反優位」と「能動性−受動性」の2つの軸によって逸脱のタイプを4つのタイプに整理し、<強迫的履行>、<強迫的黙従>、<反抗>、<撤退>と名づけている。

 能動性   受動性 
同調優位 強迫的履行 強迫的黙従
離反優位 反   抗 撤   退
<強迫的履行>は、外見上は適応しているようでありながら、実際は価値を余裕のない仕方で偏執的に追求している点で逸脱している。
<強迫的黙従>も、問題が表面化しないが、価値追求を放棄したり阻害しているに等しいという点で逸脱している。
<反抗>は、説明不要だろう。
<撤退>は、戦線離脱である。しかし、価値を安易に放棄したわけではないから、離脱したことに強迫的にしがみつく以外にない点は注意しなければならない。

(2)逸脱の多元性

逸脱のタイプはさらに多元的に考えられる。
「臨機応変−一貫性」と「個別的−全体的」の2つの軸によって4つに整理し、<能力性><忠節性><道徳性><合法性>と名づける。

個別的 全体的
臨機応変 能力性 忠節性
一貫性  道徳性 合法性
<能力性>は、代表的逸脱イメージは病気,無能など。評価の焦点は各人の環境制御能力ないし知識の信頼性などである。
<忠節性>は、代表的逸脱イメージは不忠,無責任など。評価の焦点は各組織に対する忠誠心,各義務履行の責任感などである。
<道徳性>は、代表的逸脱イメージは罪,不道徳など。評価の焦点は各人の徳性や信念,信仰などである。
<合法性>は、代表的逸脱のイメージは犯罪,違反など。評価の焦点は法規定の尊重,法に対する正当性の承認などである。
さらにこれに逸脱のタイプを合成して、次のような図を作ることができる。
能力性 能動   受動   忠節性 能動    受動  
同調  ガンバリズム  宿命主義 同調  強迫的献身 黙従  
離反  反抗   病気 離反  謀叛    無責任 
道徳性 能動   受動   合法性 能動    受動  
同調  教条主義 儀礼主義 同調  強迫的執行 瑣末主義
離反  異端   アパシー 離反  アウトロー    逃避 

(3)逸脱の独立性

逸脱のタイプや多元性は、相互に独立している。ある次元で<同調−能動>タイプであっても、他の次元でも同じタイプであるという論理的必然性はない。
また、特定の集団や規範ではある逸脱タイプであっても、別の集団や規範の関係では逆の逸脱タイプになることもある。それは、個人や時代や社会によって逸脱の基準が違うことがあるからである。

2.現代社会と逸脱

(1)欲望の無規制状態

現代社会は、自由と平等と博愛が1つになった道徳的共同体を理想としてきた。しかし、博愛の精神が薄れるにつれて、自由や平等の精神も変わってきた。
行き過ぎた平等の精神は、中庸の満足を忘れさせ、欲望の無規制(「アノミー」)の状態をつくり出す。
それは中産階級の人々を無制限の競争に駆り立て、次に下層階級の人々をも巻き込んで競争社会を生み出す。
しかし、やがて目標だけは平等に配分してくれるが、手段は不平等にしか配分されていないことが明らかになってくる。それに対する怒りの感情が生まれる。
一方、無規制状態の中では選択の基準が一層曖昧になり、自由に選択できることは却って耐えがたい苦痛になる。

(2)他者思考型社会

現代社会では、身近な<他者>に同調することによって現代社会の競争と責任から逃れようとする傾向が強い。
他者によって様々な選択肢が提供され、価値は多元化するが、一貫性に欠けてくる。そこで、一元化を求める動きが強くなる。
公的に調整された規範としての<合法性>と、全体的な臨機応変な対応を目指す<能力性>に収斂していく。一方、<忠節性>と<道徳性>はないがしろにされていく。

(3)同調優位から離反優位へ

<他者志向型社会>は<同調優位>の社会であるが、<同調>しようと努力しても報われないことが重なると、<同調>を制御する機能が働いて<離反>の方向へ逸脱していく。
その場合、<能動性>が強いと<反抗><謀叛><異端><アウト・ロー>となって現れ、<受動性>が強いと<病気><無責任><アパシー><逃避>となって現れる。
生徒の現象でいえば、前者の代表が非行、後者の代表が不登校になる。

(4)逸脱と非行

<他者志向型社会>の非行の特徴は、互いに他のメンバーからどのように思われているだろうかという不安が強いことである。
相手も不安だから自分と同じように非行に傾倒しているだろうと想像するが、それを口に出して尋ねることはできない。一人だけ目立った大胆な非行はできないが、同調的に非行に参加してしまう。
あるいは、非行集団は、誰にも愛着を持てない、それ故に誰をも尊敬しえない少年たちの寄り合いであり、互いに調子をあわせるだけの連帯によってカバーしなければならない負け犬の一団とも言える。
こうした非行は、仲間同士の協同による相互的尊敬が養われていないので、目上の者への一方的な尊敬と、目下の者や弱い者への不遜や切り捨てなどになって流行する。仲間に対してさえ、幸運なものが没落し、清廉なものが恥辱を受ける場面を目撃したい欲求、目撃した時の安堵が渦巻いている。
また、一般の子どもには、犯罪者や非行少年をはっきりと軽蔑する傾向が増加する。

(5)逸脱と不登校

河合洋は『学校に背を向ける子ども』(NHKブックス1986)の中で、不登校の子どもの特徴を浮かび上がらせるために、現代の子どもを逸脱の4つのタイプで説明している。

強迫的履行タイプの子ども
<同調優位−能動性>の<強迫的履行>タイプは、親や教師の期待に過剰適応しようとしている優等生の<ニセの自分>と、それに嫌悪感をもって本音で生きたい<ホントウの自分>に分裂している。
ちょっとした挫折・失敗・対人関係のもつれを契機に、容易に抑鬱状態に落ち込んでしまう。目標を達成した後で目的喪失感に襲われ、急速に無気力・無感動に陥ってしまう者もいる。
強迫的黙従タイプの子ども
<同調優位−受動性>の<強迫的黙従>タイプは、「大人しい子羊」という印象で、自分に与えられた現実を宿命として受動的に受け入れている。
一般に内向的で、自分に関する些細な事柄に異常にこだわったり必要以上の配慮をしてしまうことが多い。心気症的傾向を示したり妄想的確信を持つこともある。
反抗タイプの子ども
<離反優位−能動性>の<反抗>タイプは、一方的・強制的に与えられている現状に、主体的に言語・行動によって反抗する。
喫煙、飲酒、不純異性交遊、窃盗、薬物乱用、校内暴力、家庭内暴力だけでなく、自発的な登校拒否もこのタイプに含まれる。
撤退タイプの子ども
<離反優位−受動性>の<撤退>タイプは、文字通りの戦線離脱である。
落ちこぼれ、無気力、アパシーがこのタイプに含まれる。しかし河合は、新しい、自立した生き方をしていくためのバネの役目を果たしている側面を強調している。

3.逸脱からの脱出

こうした状況の中で、理想や展望を見出すために、個人ができること。

(1)個人が一定の個性をもつ。
(2)集団の要求に従ってその個性を放棄する覚悟のある。
(3)ある程度の進歩の観念を受けいれる構えのある。

社会に期待すること。

(1)手持ちの逸脱カテゴリーを無理に適用しようとせずに、逸脱者が表出しようとする対抗的価値の可能性を吟味する。
(2)逸脱に対して無原則的な妥協をするのでなく、それと対決し、自らの評価基準を対象化する姿勢を確立する。
(3)どの次元の価値から見て逸脱であるのかをつねに明確にする。単一の次元からただちに人間性そのものを類別する一元論を否定する。
(4)ある集団、ある規範から見ての逸脱は、どの集団、どの規範にも妥当するわけではないことも認識する。

第3節 逸脱させる学校

1.ボンド理論とは何か

(1)ボンド理論の前提

緊張理論は、人はなぜ逸脱行動を起こすのかという視点から逸脱を考えるが、ボンド理論では、人はなぜ逸脱行動を起こさないのかという裏の視点から逸脱をとらえる。
ボンド理論は、人間は本来的に逸脱への可能性をもち、これまでの逸脱の原因論が要因としてきたストレスやフラストレーションは、現代社会の人間に共通した心的機制であるという前提の上に立っている。
逸脱する人間にその原因を求めるのでなく、逸脱させる社会の原因を追求するのがポンド理論の方法である。

(2)ボンド理論の4要素

森田洋司は、T.ハーシィの挙げた4つ要素を次のように置き換えている。

a.対人関係によるボンド
両親、教師、友達など、子どもにとって大切なキー・パーソンに対して抱く尊敬の念、あるいは他者の利害の配慮などによって形成される対人関係上のつながり。
b.手段的自己実現によるボンド
学習活動などの学校生活における活動や役割を、将来の目標達成の手段として位置づけ関わっていく行動。
c.完全な自己実現によるボンド
完全な欲求充足を学校生活から得ている程度による学校生活へのつながり。
d.規範的正当性への信念によるボンド
校則を納得のいく妥当なものと認めた上での、威信や正当性に対する信念。および校則を運用する教師の能力を認めた上での、適用性に対する信念。

2.可視化のメカニズム

(1)ガラス張りの管理体制

家族や地域社会など、学校外の社会化機能が弱まっている。また、いじめや不登校など、学校内で起こる問題が大きな社会問題になっている。こうした状況の中で学校教育に対する期待や批判が高まり、学校に対する生徒の可視化の要求はますます強くなる。
可視性とは、構造を見透し易くするための装置やメカニズムに関する概念であり、集団を安定させる役割を果たす。
そこで、<生徒のため>という大義名分の下に、学校の秩序を守り安定させるには、生徒のある程度の自由やプライバシーは犠牲にしても仕方がないというような風潮が強くなる。
こうした風潮に応えるべく、学校は「保護」の名の下に、実質的には「処罰」を中心とした、生徒の外面的な行動だけでなく内面までも見通すことができる管理体制が確立していく。

(2)ガス抜き回路の遮蔽

しかし、可視化を一層効果的に遂行しようとすると、却って生徒のためにならない問題も起こってくる。
第1は、不可視空間の縮小・消失である。
われわれの日常生活には、様々な離脱の回路が埋め込まれている。離脱の回路とは、日常化、制度化された活動の中に埋め込まれた相対的に自由な空間であり、そこでは自己表出や自己実現が可能になる。
少々の逸脱行為を許容し、日常的習慣的な活動を円滑に進めたり、そこに生じる心理的ストレスや倦怠感を癒し、結果的に集団に弾力性を与え秩序維持に貢献するという役割をもっている。
しかし、学校社会の可視化が過剰になり離脱の回路が遮蔽されると、子どもは、学習意欲を低下させたり、逸脱への潜在的圧力を強めたりすることになる。

(3)情け容赦なき処罰主義

第2は、規範の不可視性の縮小・消失である。
可視性を高めるためには、規範を厳密に明文化したり細則化する必要がある。そうすればするほど、規範の許容範囲は狭まる。そして、厳密な画一的な処罰体系が整い、校則のもつ教育的指導という性格は後退し、処罰的な性格が全面的に押し出される。
教育的指導には、逸脱の起こる状況や個人的事情を考慮した柔軟な対応が必要であり、校則などの許容性の幅は不可欠なものである。
しかし、学校社会の可視化が過剰になると、個々の状況や個人差が無視され、いつでもどこでも誰でも一律に同じ程度の規範が適用される。何が規範から逸脱しているのか、逸脱すればどのような処罰が課せられるのかが周知徹底され、教師の対応も迅速、正確、画一的になってくる。

(4)個性の偏差値

第3は、類別化の過程が進展することである。
規範からどれだけ逸脱しているかによって類別化することは、生徒の逸脱行動を序列化し、指導しやすくなる。
しかし、類別化が教育目標の達成度にまで拡大適用されると、教科学習面や、個性にまで及ぶ危険性がある。個性重視の教育というスローガンによって、個性までも可視化が推進され、研磨や指導の対象とされるようになってくる。
さらに、逸脱行動の序列が、教科学習や個性にまで適用されるとなると、学校における生徒の評価は、一元化されてしまうことになる。

(5)相互監視システム

第4は、稠密な視線の網の目による相互監視システムの形成である。
学校社会で可視化を徹底させるために、教師が生徒を監視するだけでなく、生徒同士で監視しあう。また、教師も管理職や他の教師や生徒や親やマスコミから監視されている。
つまり、<見る−見られる>立場が固定せず、誰もが時と場合によって、見る立場にも見られる立場にも立つ。
しかし、見られる立場にある時は誰が見ているかを知ることはできない。そして見る側は、力ではなく、観察、記録、類別化を活用する。
そうなると、人間関係が分断され、互いに萎縮して生活しなければならなくなる。
M.フーコーはこのようなシステムを、「パノプティコン(一望監視装置)」と名づけている。

(6)理由ある反抗

このように学校社会の可視化が高まり、校則が細則化され規範の許容範囲が狭まり、ごく些細な逸脱行動までもが教師の指導の対象になれば、生徒の側は可視されることに対して防衛機制を強める。
その1つが、正当防衛機制である。
学校が正当と認めている手続きによって逸脱行動を隠蔽するか、正面切って学校教育を否定して自分の立場の正当性を主張するかの方法で行われる。
もう1つの防衛機制は、私秘化である。
私秘化とは、個人の情報を自分で管理する権利を獲得すること、自分を他者に提示する方法を操作する権利である。
生徒は教師との接触を極力避けるだけでなく、親しい友人に対してもなかなか心を開かなくなる。

(7)可視化のダブルバインド

学校が適度な可視性を確保するためには、生徒に適度の私秘化を許容することが大切である。また、社会の中で学校が機能するためには、適度な私秘化が必要である。
しかし、社会化機能の低下した現代社会は、学校に対して生徒の過剰な可視化を要求する。
しかも、民主化された現代社会は、学校自身が可視化され公開化することを強く求めている。
ところが、学校は公開性に耐えうるだけの成熟した組織にはなっていない。こうしたダブルバインドの中では、当然矛盾が発生する。
例えば、いじめが発生したときには、学校の管理能力不足、可視化の不十分さが指摘される。学校の対応をすべて可視化公開することを求められる。しかし、同じ生徒として加害者への配慮や私秘化による曖昧な部分がありすべて公開できない。そこをまた攻撃される。
逆に、学校がいじめを未然に防ぐために可視化を強化すると、プライバシーの侵害、個人情報への介入であると批難される。
学校は、社会からの可視化に対する防衛機制として、ますます私密化の傾向を強めていくことになる。

3.私事化のメカニズムと変遷

(1)ワタクシゴトへの隠遁

私事化とは、人間関係のしがらみや他人が土足で踏みこんでくる煩わしさから逃れようとし、自分を犠牲にしてまで集団に尽くしたり私生活を丸ごと呑み込まれることがないように、人間関係や組織に対して適度な距離を置きつつ、自分の私的な領域を確保したいという人びとの欲求の現われである。
私事化現象は、伝統や社会制度の呪縛から解放し自由を獲得する点では肯定的な意味を持っているが、社会から引きこもってしまうという点では否定的な意味をもつ。

(2)お国のためから会社のために

それでは、戦後、私事化がどのように変遷してきたかを振り返ってみよう。
戦前は、個人の利益や人間としての価値よりも、集団全体の利益や没個性化した集団を優先してきた。
戦後、解放感覚と消費感覚が癒着し、私生活の中での欲求が拡大した。一方、欲求を抑制する社会規範は無力化していった。
こうして日本型集団主義は終焉したかに思われたが、実は利益を優先させる範囲が、国家的な大集団から企業のような小集団に縮小されただけで、その体質は大きくは変わっていなかった。
社会全体に対する献身価値が消失し、個人と中間集団との関係だけに献身価値が一元化したのが第1次私事化現象である。
学校では、教育の価値が、いかにして社会に貢献するかという公的価値から、個人レベルでの学歴や地位の達成をめざした私的価値に変わった。
しかし、この段階ではまだ、企業間や企業内の階級の中での上昇志向を伴っていただけに、教育は選別機能と人的資源への動機づけという意味でまだ社会との絆を確保することは可能であった。

(3)会社のためから私のために

人々の欲求充足が企業社会や学校社会などの中間集団だけでは満たされないほど膨れ上がり、集団の外部に欲求を充足する資源や空間が提供されるようになると、人々の関心は中間集団からも離れていく。
また、社会的地位の上昇ラインが多様化複線化した。地位の上昇が将来の幸せと結びつかなくなり、将来よりも「いま」を充実させることに関心が向いてきた。いくら努力しても実現可能性がないことが明らかになり、見えすぎた人生に対してシラケ意識が強まり、いい成績→いい高校→いい大学→いい会社→幸せな生活、という連鎖神話が揺らぎ始めた。
こうして、第2次私事化が進行してきた。
第2次私事化によって、学校の成績による報酬体系が、学校での学習への動機づけを強化するほどではなくなる。学校と生徒を結びつける最も太い絆であった成績の価値が下落し、学校は生徒にとって魅力のないものになってくる。
その結果、子どもにとっての登校の意味が、義務的な規範的体系に属するものではなく、登校したくないときには休んでも差し支えないものという選択体系に属し、欠席や遅刻・早退が逸脱視するほどのことではないという認識が強くなってきた。

(4)私のためから・・・・・

本来の私事化は、単なる欲求の解放による快楽原則の追求だけではなく、意味のある自己実現への模索という意味を併せ持っていた。
しかし、<私>性の存立基盤が脆弱な上に私事化がどんどん進行すると、いくら自己実現の機会や場を提供したとしても、意味のある自己実現を図る主体となることができなくなる。
自分を大切にするという傾向はみられるが、それは快楽原則に忠実であろうとするからである。そして、傷つくことを恐れる自己保身と自己愛や、他者のまなざしに過敏に反応し、目立つ行動は極力控えるという同調志向が強くなる。

4.生徒と学校の絆

(1)学校社会の病い

文部省も、不登校は一部の特定の生徒だけに起こるのではなく一般の生徒にも起こると言う見解を発表した。
普通に登校している生徒の中にも、学校を休んだり遅刻したりすることに強い抵抗感がなく、ただ気が向いてないから学校を休んだり遅れたりする生徒が増えている。しかし、彼らには学校に意義を認めず反学校価値を掲げるほどの積極的な訴えもない。
子どもたちが学校社会ヘのつながりを弱めていこうとする傾向と、親や教師が子どもたちを学校や教育へつなぎとめようとする圧力の綱引きの中で微妙なバランスを保っているのが現状である。
このような現象を、個人の心の悩みや病気というレベルで考察するのでなく、回避ないし忌避感情をもたらす学校社会を含めた現代社会のあり方とその病いという観点でとらえていくことが大切である。

(2)友人の視線が怖い

森田洋司は、学校へ行くのが嫌になった理由の第1に、「友人関係不安」を抽出している。
友人関係においても私事化が進み、親しい関係を求める反面、内面を私秘化したいという欲求が強い。距離を置いたつきあいをしながらも群れたがる。
その背景には、洗練された秩序化と構造化の作用の中で醸成される重圧感と、可視化のメカニズムから現れる、見えない相手からの視線に対する不定型な不安感がある。第2節で考えた可視化のメカニズムの問題点が不登校という逸脱行動となって現れているのである。

(3)勉強についていけない

理由の第2に、「無気力・倦怠感」を抽出している。
授業がわからない→学習意欲の喪失→無気力→倦怠感、という連鎖が起こる。学習のつまずきが、意欲の低下や、ねむい・だるいなどの身体反応に結びつく。
その背景には、教師の学習指導の問題や、家庭での生活時間や、学校の絶対的価値のゆらぎや、家庭の養育態度の中で形成される耐性の欠如などが複雑に関連している。

5.学校の課題と展望

(1)教室に漂う無力感

こうして見てくると、現在の学校不適応の中心傾向は、学校に対する積極的な拒否の姿勢や反価値に基づくという性格ではなく、むしろ身体レベルでの倦怠感や無力感の反応である。
また、従来不登校の中核群と思われていた精神医学的治療を必要とする神経症的傾向は、学校教育外の専門的諸機関に依頼するべきであり、現在の学校が対象とすべき不適応生徒は、対人関係に悩む生徒や、学習上のつまずきによって無気力や倦怠感に陥っている生徒である。

(2)生徒の目線で見る

こうした状況の中で学校の課題を整理してみよう。
まず、子ども達の目によって構成された学校社会の現実を理解する作業が必要である。
教師は学校という既成の枠組みの中で生徒を類型として見るのでなく、生徒の目で学校を見ることによって、生徒の内面や生徒にとっての学校の姿が理解できるのである。

(3)逸脱を受け容れる

次に、何のために我慢し、何のために学校へ登校する必要があると感じているのか、そのためには学校は彼らに何を提供しているのかを問い直す必要がある。
そして、生徒が主体的な社会の担い手になれるような、自己実現の可能な機会と場を提供することが今後の課題になる。学校は、外部の世界が提供するような快楽的欲求を満たすものは用意できない。しかし、生徒は本当にそのようなものだけを求めているのではない。生きる意味を求めているが、誰も与えてくれないので快楽に走っているのである。
現代社会において、学校の最大の価値は、同年代の人間との関係の中で生じる様々な問題について学べることであろう。本来の私事化の意義である、意味ある自己実現、自主的な模索方法、他者との利害の配慮など、学校で学ばなければならない問題は山積みされている。
この課題を解決するためには、離脱の回路を保証し、適度の不可視状態を許容することが大切であろう。生徒は過剰な可視化から解放された時に、初めて安心して自分自身を見つめ、そして他者を見つめることができる。
具体的には、学校行事を質量ともに豊かにし、そこに変に教育的意義を持ち込まないことである。
また、学校の中に教師の目の届かない時間や場所を意図的に作ることである。そこでは多少の逸脱は行われるかもしれないが、それは成長へのステップになるはずである。

(4)自分とは何かを問う

次に、自立した自己の形成を阻んでいる社会的要因を問い直すことである。
生徒の逸脱の原因は個人の私秘化にあるように見えるが、本質的な要因は彼らを私秘化に追い込む環境にある。
発想を逆転すれば、私秘化する中で生徒の幸福観が変化してきたり、学校の成績が社会的上昇と必ずしも結びつかなくなっている現象は、学校にとって却って好都合でもある。今こそ社会的上昇の手段としての学習ではなく、生きるための学習、自分とは何かを考える学習が可能な絶好の機会である。

(5)ジブンゴトとして考える

もう1つの大きな要因は、学校に過剰な可視化を要求しないことである。
過剰な可視化が過剰な管理に直結していることは見てきた通りである。可視化のメカニズムは、外部から内部を見やすくするために便利である。いわば、高見の見物の必需品である。可視化を要求する人々は、自分たちは汗にまみれないで無責任な批判だけをしたいのである。
また、感情をもった人間と人間がぶつかる場では、理屈では割り切れない、人には言えないことが多く生じて当然であるのに、それが許されない風潮がある。
教育は学校だけの仕事ではない。社会が(というより、マスコミが)可視化を要求する前に、親として、大人として、感情をもった人間として、自分には何ができるのか、何をしなければならないのかをしっかりと自覚することが先決である。

参考文献

大村英昭・宝月誠 1979 『逸脱の社会学』 新曜社
森田洋司 1991 『「不登校」現象の社会学』 学文社
河合洋 1986 『学校に背を向ける子ども』NHKブックス
M.フーコー 田村俶訳 1977 『監獄の誕生』新潮社


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