発達の理論


第1節 心理社会的発達論

 <発達>というと登り坂という感じを与えるが、変化という意味合 で捉えるならば当然下り坂も含めて考えるのが順当であろう。それならいっそのこと<変化>といってしまえばいいのだが、それでは少し意味が広すぎるので、やはり<発達>という言葉を使おう。発達を考える場合、人間が生まれてから死ぬまでの時間を射程にいれるのであるが、それを時間的に順々に追っていくやり方と現在から遡っていくやり方がある。また、人間も生物のはしくれであるから一個の個体として生物学的にどのように発達するのかを見るやり方と、社会的生活を営む存在として心理的社会的にどのように発達するのかを見るやり方がある。ここでの興味は、高校生という青年期を迎える人間が、ここまで成長するに当たって心理的社会的にどのような発達を遂げてきたのかということである。この興味を充足させてくれるのがエリクソンの発達理論である。
 エリクソンは「若い青人期から逆戻りというやり方で児童期にアプローチする」1 という方法をとっている。彼の理論の特徴の1つは、「成長するものはすべて『予定表』をもっていて、すべての部分が一つの『機能的な統一体』を形作る発生過程の中で、この予定表から各部分が発生し、その各部分は、それぞれの成長がとくに優勢になる『時期』を経過する」2 という<漸成原理>である。人間は出生してから社会的な存在になるまで、予定された各発達段階に沿って成長していく。各発達段階は予定されたものであるから、時期がくれば自然と現れる。その時、その発達段階で重要な部分機能を自覚するようになる。それならあまり意識や努力しないでもみんな同じように自然に発達していくのだから楽だとも考えられる。しかし、それは同時に「ある重要な部分機能やその機能に関する自覚のめばえが、本能エネルギーの移行と並行しておこり、しかもその部分に特有な傷つきやすさをひきおこす結果、その段階は、一つの危機」3 にもなるのである。個々人によって経験系列は異なるのであるから、せっかく発達段階が訪れているのにそれが自覚されなかったり、歪んで自覚されたり、間違った指導が与えられたりすると、「特有な傷つきやすさ」を引き起こす。分岐点あるいは転換点という意味での<危機>になるのである。
 エリクソンの理論のもう1つの特徴は、<同一化>である。<同一化>は各発達段階の危機を克服すると獲得されるものであり、「自我のさまざまな総合方法に与えられた自己の同一と連続性が存在するという事実と、これらの総合方法が同時に他者に対して自己がもつ意味の同一と連続性を保証する働きをしているという事実の自覚である」4 と定義されている。さまざまな生活場面でかなりの期間連続して、<自分は自分である>と自他ともに認識できるような状態である。また、その自我は「特定の社会的現実の枠組みの中で定義されている自我へと発達しつつあるという確信」5 に支えられているという条件が付け加えられる。このように社会的側面を重視している点で彼の理論は<心理社会的発達論>と言われる。

図1
乳児期 信頼感
vs
不信感
幼児前期 自律性
vs
恥・疑惑
同後期 自発性
vs
罪悪感
児童期 勤勉性
vs
劣等感
青年期 同一性
vs
同一性 拡散
成人期 親密性
vs
孤立
壮年期 世代性
vs
停滞性
老年期 統合性
vs
絶望

 そして彼は、発達段階を8つに分け「漸成説図表」(図1)を作成した。各発達段階での危機を<対>で表している。ある発達段階の危機をを克服すればその段階での<同一化>が達成され、次の発達段階の<同一化>も可能になる。もし、ある発達段階で危機に直面しなかったり乗り越えられず<同一化>が達成できなかった場合、次の段階以降の成長に歪みが生じてくると考える。
 エリクソンの発達理論によって、高校生の問題行動の、発達過程に起因する部分を考える有効な手段が得られると思う。ただ、<自我同一性>や<アイデンティティ>という言葉は近年流行語のように使われるが、適切に用いられることが少なく、多くの誤解を招いている。彼自身、「このような図表は、これを一応用いて『そして』棄て去ることも自由にできるような人々がまじめな注意を向ける場合にだけおすすめしたいと思う」6 と書いている。エリクソンの理論を正しく理解しうまく利用するには、柔軟でとらわれない考え方が必要である。


第2節 乳児期

基本的信頼vs基本的不信
 誕生から1才ないし1才半頃までを乳児期とする。子どもが母親から母乳をもらったり、一方的に保護される状態にあって、母親との一体感・相互信頼を体験する時期である。子どもにとって親がすべてである。やがて6カ月過ぎから人見知りが始まり、自他分離の第一歩になる。
 この時期の危機は<基本的信頼>と<基本的不信>である。<基本的信頼>とは「自分の外にいる提供者たちの同一と連続性をあてにすることを学ぶだけでなく、自分自身と、衝動を処理する自分自身の器官の能力を信頼する」、「提供者たちが警戒したり、立ち去る必要もない程に、自分自身を十分信頼に足るものであるとみなす」7 状態を意味している。いつでも、どこでも、自分がどんな状態でも、自分のすべてをあるがままに受け入れてくれる他人がいるという安心感、そして自分は他人に受け入れられる価値のある人間なんだという自分自身に対する信頼感である。
 それが得られないと<基本的不信>に陥り、他人や自分を信用できなくなったり、独特なやりかたで自分の中に引き込もってしまう。

発達課題の達成と失敗

 この危機を乗り越え発達課題を達成すると、「『これでいいんだ』という感覚や、自分が自分であるという感覚、他の人々からなるだろうと信頼されるものに自分がなっていくという感覚」8 に満ち、自己肯定感や自信、社会的な期待にも応えていけるだろうという確信が獲得される。
 もしこの課題を乗り越えることに失敗すると、受け入れてもらえない自分を合理化し自分や他人に対する歪んだイメージを作り上げてしまったり、他人に受け入れてもらおうという意欲を失い無気力状態に陥ってしまう。
 ただし、課題を達成するとは、<基本的信頼>のみを与え<基本的不信>を完全に排除するのではなく、「基本的信頼が基本的不信を上回るバランスをもった永続的なパターンをしっかりと確立すること」9 を意味する。<基本的信頼>だけに偏ることは不可能であるし、できたとしてもその後の発達に却って歪んだ影響を与えることになる。

養育者の援助
 この時期の養育者は親、特に母親である。養育者がしてやる援助は、子どもの個々の欲求を敏感に感じとってあるがままの姿を受け容れてやることである。また、親自身が「自分たちがやっていることは意味があるという深い確信、それもほとんど身体的ともいえるほどの確信」10を持って子どもに接することが必要である。
 ところで、援助する養育者の問題は、壮年期の発達課題でもあるという相対性に気づくだろう。因果関係で考えれば、養育者が自分自身の乳児期の危機を乗り越えられていない場合、その援助の仕方について様々な障害が生じることは想像に難くないだろう。


第3節 幼児前期

自律性vs恥と疑惑
 1才ないし1才半から3才ないし4才頃までを幼児前期とする。子どもの自立が始まり、自分の足で立ったり言葉を喋ったり、何でも自分の<つもり>で一人でしようとする。仲間と一緒にいるのは好きであるが、一人遊びを好む。親は危険を避けたり社会性を身につけさせるために子どもを躾を始める。それによって、子どもは自他分離の感覚が進み分離不安を感じるようになる。また、自分の<つもり>を通そうと反抗するが、これが第1次反抗期である。
 この時期の危機は<自律性>と<恥と疑惑>である。乳児期に獲得した<基本的信頼感>によって自己評価ができるようになれば、それに基づいて自分をコントロールしようとするようになる。それは「自分勝手に選びたいとか、どん欲に自分だけのものにしたいとか、頑なに排除してしまいたいといった突然の激しい欲望によって脅かされない」11ものであり、自分以外のことも考えてコントロールするようになる。これが<自律性>である。
 しかし、自己コントロールに失敗したり親の意志によって過剰にコントロールされたりすると、未熟で愚かな自分がさらしものになっているのではないかという<恥>の意識や、その意識によって自分は十分に発達していないのではないかという<疑惑>が2次的に起こり圧倒されてしまう。

発達課題の達成と失敗
 この危機を克服すると、「後になっても挫折されないという自信に満ちた期待」12を獲得する。何事に対しても積極的に関わっていこうとする意欲の源が生まれる。
 この時期の危機を乗り越えられないと、自分自身や環境に対して無力感に陥る。「退行や偽りの前進」13によって強い憎しみを抱いたりわがままになったり、自信がないのに虚勢を張ったり、人に見られていなければ何でもうまくやってしまおうとしたりする。また感じやすい子どもは、他人や環境を変えることを諦めて自分自身だけを過剰に調整しすぎたり、子どもらしいみずみずしい感覚を失って親のいいなりになってしまったりする。物事に対して消極的で受け身的な態度が養われてしまう。

養育者の援助
 この時期の援助は、子どもの成長を見守る親の「断固たる態度をとると同時に寛大」14である姿勢が必要である。まず子どもの自主性を尊重して子どもが一人でやろうとすることは自由にさせることが大切である。しかし、子どもが自分の生命を損おうとすることや、社会性から大きく逸脱したことに対しては、ある程度の制限や禁止が必要になってくる。そのバランスや判断が難しい。放任しすぎると社会性の未熟なわがままな子どもになるし、過剰に制限すると自律性のない子どもになってしまう。
 子どもを適切に援助するために親は「自分たちの生活から引き出すことのできる威厳と人間的自立の感覚」15に支えられた「正当な権威と合法的な独立の感覚」16が必要になってくる。

現代社会の問題
 さらにそのためには、子どもや親の自律性や権威を保障してくれるような社会の仕組みが必要である。しかし、現代社会は「従順を望み、無制限の自律を好まない仕組み」17になっている、とエリクソンは指摘している。また、戦後の日本社会では価値観の急激な相対化が進み、社会性そのものが曖昧になっている。
 このような状況においては親自身が自律性を持てず子どもの自律性を育てることは難しい。たとえ子どもに自律性を持たせることに成功しても、将来子どもが自分の力ではどうしようもない複雑な社会の現実に直面した時、深刻な慢性の失意に陥るだろう。自律性を奪われるのではないかという恐怖におびえたり、逆に絶えず他人に指示されていなければ不安になり、自ら自律性を放棄して不合理な社会に過剰に順応しようとしたり、ついには精神や神経の病気にまでなってしまうことも考えられる。


第4節 幼児後期

積極性vs罪悪感
 3才ないし4才頃から6才頃までを幼児後期とする。自分の意志で自発的に行動できるようになると同時に、自分から親に合わせるような自制心が発達してくる。親を社会人のモデルとして、社会に積極的に出ていこうとする第一歩の時期である。仲間の要求にも合わせて共同遊びができるようになる。
 この時期の危機は<積極性>と<罪悪感>である。前発達段階で自分が一個の社会的な存在であることを確信した子どもは、失敗を恐れず欲しいと思うものに対して自主的積極的に働きかけるようになる。そして、自分が将来どのような役割の人間になろうとしているのかを考え始める。自分の未来像を最も身近な大人である親に求め、どうしたら両親に同一化し両親のようになれるのか考えながら遊ぶようになる。親から直接的に要求されなくても自分から親の期待を感じ取って行動するようになる。これをエリクソンは<良心>と呼んでいる。
 しかし、高じると「両親のどちらかに愛される地位を争う最終的な順位決定コンテスト」18になる。親の期待に反することに対しては勿論、誰も監視していないような考えや行為についてさえ罪の意識を感じるようになる。

発達課題の達成と失敗
 この時期は言語能力も運動能力も活発になるので、自分で夢みたことや考え出したことに脅かされるのを避けるわけにはいかない。しかしながら、この危機を乗り越えることに成功すると、「高遠でしかも現実主義的な野心や独立の感覚の基礎となる『傷つかない積極性』の感覚」19を身につけることができる。立場の違いを越えた真の平等観をもち、義務や規律や作業をともに分かち合う感覚が成長してきて、人間として生きる喜びを感じるようなものを求めるようになる。
 しかし期待が過剰になると、「子どもの良心は、原始的で残酷で非妥協的なもの」20になり、この危機を乗り越えることに失敗する。そして、心身症や退行や深い憎悪を頻繁に起こすようになる。

養育者の援助
 個人的にも社会的にも困難なこの時期に柔軟で融通のきく積極性を身につけさせるには、親が言葉や暴力的な圧力によって子どもを抑圧するのでなく、子どもと一緒に物をつくることによって、年齢や経験は違うが価値という点では平等であるという姿勢を示すことが必要である。この親子関係はやがて他人との関係にも広がる。

現代日本社会の問題
 しかし、エリクソンは「多くのおとなたちは、人間としての価値はすべて『彼らが何をしているか』とか、『次に何をしようとしているか』にあると思っているのであって、人間としていかにあるべきか、にあるとは思っていない」21と指摘している。現代社会は、人間的なものに価値を認めず、能率とか実績とか結果だけに価値を認めようとする大人たちが多い。そうした大人の期待を受けた子どもたちの良心は、柔軟性がなくあれかこれかの狭い範囲でしか働かなくなっている。
 また、鑪は「罪の意識は、日本人である私たちにはなかなかわかりにくい。おそらく、私たちはここでいうような自主性や自発性が内的に希薄だからではないだろうか。日本では、個人や集団を超えた原理・原則ということがわかりにくい」22と書いている。西洋が<罪の文化>であるのに対して日本は<恥の文化>であることは、ベネディクトが『菊と刀』で指摘している。日本人が罪の意識について理解しにくいことは、その対概念である自主性や主体性についても本当の意味での理解が難しいことになる。とすれば、この時期の発達課題を達成することが本当にできるのかという問題にも直面することになる。それは現代社会の親たちが子どもに過剰な期待をしたり子どもが過剰な順応をし、それが社会問題化している事実からも明らかであろう。さらに前発達段階の<恥と疑惑>についても、日本人特有の恥の感覚がエリクソンが考えたのとは違う問題を発生しているはずである。


第5節 児童期

勤勉性vs劣等感
 6才頃から12才頃までを児童期とする。生活の主な場は小学校である。子どもは親子の間に境界線を引くようになる。小学校に入り新しい仲間との関係に不安を抱き、最初は教師に依存した仲間関係を作るが、やがて<ギャング>といわれる仲間集団を作るようになる。
 この時期の危機は<勤勉性>と<劣等感>である。親だけでなく自分を取り巻く自分以外のもの=社会について関心が強くなり、自分なりに参加しようと試み始める。そして勤勉にものを生産するという方法によって認められることを学ぶようになる。しかも、自分の欲望や気まぐれによって作るのでなく、道具のような無機的な法則にも自分を合わせ、生産を完成させることを目標にするようになる。
 しかし、ものを生産しても周りの人から認めてもらえなかったり、生産の充足感を体験できなかった場合は、自分は何をやっても駄目だ、何もやれないという劣等感にさいなまれることになる。

発達課題の達成と失敗
 この危機を乗り越えることに成功すると、親だけでなく他の人々ともうまくやっていけるという自信を獲得できる。自尊意識を高まり、自分が社会にとって必要な存在であるという実感をつかんでいく。生産性の特徴である「『分業』の感覚と『機会均等』の感覚」23が発達し、社会へ出ていく基礎ができる。 この危機を乗り越えることに失敗すると、自分の社会的価値を決定するのは、自分の願望や意志ではなく、自分ではどうすることもできない外的な諸条件であると感じるようになる。また逆に、自分たちのような優秀な人間が存在するためには自分たちより劣った人間がいなければならない、という劣等感の単純な裏返しである歪んだ優越感を持つようになる。

養育者の援助
 この時期の子どもの生活の大半を占めるのが小学校である。子どもは親の影響と同じかそれ以上の影響を小学校教育から受ける。小学校教育には2つの面がある。1つは「自己抑制と厳格な義務感を強調することによって学校生活をおとなの厳しい生活の延長にしようとする」24側面である。したくないことでも自分の意志や気持ちを抑えてまでもしなければならないという感覚を教えることである。もう1つは「やりたいことを遊びを通して発見させ、一歩一歩段階をふんで、しなければならないことを学ばせる」24側面である。自由にやりたいことをやらせる中から自主性や主体性を身につけさせようとすることである。両者は矛盾し両立させることは難しい。前者に偏れば自分の意志や気持ちを表現できない人間になるし、後者に偏れば自分勝手な人間になってしまう危険性がある。これは幼児前期の親の援助をさらに社会化したものであると考えることができる。
 エリクソンは両者をうまく両立できる教師の資質として、次のようなことを指摘している。「遊びと仕事、ゲームと勉強をどのように交代させたらよいか知っている」「特異な努力をどのようにして認め、特異な才能をどのようにして元気づけたらよいかを知っている」「どのようにして子どもに時間を与えたらよいかを知っている」「学校が重要に思えず、楽しいよりも苦しいことに思える子どもたちとか、先生よりも友達の方が、もっと重要な意味をもつ子どもたちを当面どう扱ったらよいかその扱い方を知っている」25ことである。

仲間集団の中での成長
 子どもは小学校生活を通じてもう1つ大きな発達を遂げる。それは仲間集団を体験することである。この問題についてはサリヴァンが詳しく述べている。サリヴァンは、子どもは孤独を紛らすために、乳児期には「現下の状況に精妙に適合した庇護的なみとりを求める欲求」である「生との接触欲求」、幼児期には「小児の遊びに重要成人が興味を持ち参加してほしいという欲求」である「成人参加欲求」を求める26と書いている。そして、児童期を2つに分け、前半の児童期は「仲間欲求」と「受容欲求」を、後半の前青春期は「親密欲求」を求めるようになるとしている。
 児童期について、サリヴァンは「世界に自分以外の人間がほんとうに棲みはじめる時期である」27と定義している。子どもが、他の子どもは権威的人物からどのように見られているか、お互いにどう見ているかを目の当たりにすることができる時期である。仲間と共に生きていくために競争や妥協という装備も必要になってくる。子どもは「自分以外の人間をきめ細かに差別する紋切り型」28が異常に発達し、それよって特定の個人や小集団を差別的に排除することがある。それをサリヴァンは「陶片追放」と名づけている。追放される方にとっても追放する方にとっても、その後のその子の能力の発達を歪める大きな要因になる。そして児童期の終結期頃に、家族や家族以外の権威や子どもの中の指導者によって社会的判定にさらされる。こうして、「どのような欲求が自分の他者との関係の起動力になっているのか、どのような条件下ならばこの欲求を適切であって自己尊敬を傷つけることなくまかり通せることが比較的できやすくなるのか、───こういうことを児童がわきまえている(あるいはたやすくわきまえるようにしむけられる)ならば、その児童は、社会化という大海の中への最初の大跳躍をなしとげている」29ことになるのである。
 前青春期の人間関係は、「同性の特定の人一人に対しての関心という点で新しい型」30という変化となって現れる。元来は2人組の関係であるがさらに組同士が互いに組み合わされ、1〜3人の指導者を中心にがっちりと結束している傾向がある。その指導者は世論指導者(オピニヨン・リーダー)であって、「仕事の内容と目的を理解させ共同の対象や目的にむかって互いに仲間の力を評価させつつ仕事をさせる能力」31を持った傑出した人物であるが、それはごくわずかな人数である。子どもはこの集団の中で、お互いに満足を与え合い、相手の威信や地位を維持し、不安を減少させる。相手にとって何が大切かということについての本当の感受性が目覚めてくる。

現代日本社会の問題
 しかし現在の日本では、知育偏重、学歴重視、経済原理優先であり、本来子どもが児童期に獲得する勤勉性の方向が大きく偏り歪められている。現代日本社会の子どもにとって生産するとは将来の受験に必要な学力を身につけることだけを意味していることが多い。そのためにはどんな過酷な条件や手段でも勤勉に受け入れようとする。鑪は「最近の子どもたちの勉強の仕方は、子どもたちの内的な要求を超えてどんどん要求されているので、子どもたちは勉強を義務感と苦痛の中で受け身的にやっているように見える」32と書いている。また、小学校での仲間集団も陰湿なイジメに象徴されるようなグロテスクな様相を呈している。


第6節 青年期

同一性vs同一性拡散
 13才頃の中学時代から元来は22才頃の大学時代までであったが、最近の状況から30才くらいまでを青年期とする。一言で言えば子どもから大人になる時期である。
 この時期の危機は<同一性>と<同一性拡散>である。エリクソンはこの時期について、「自分が自分であると感じる自分に比べて、他人の目に自分がどう映るかとか、それ以前の時期に育成された役割や技術を、その時代の理想的な標準型にどうむすびつけるかといった問題に、時には病的なほど、時には奇妙に見えるほどとらわれてしまう。そして新しい連続性と不変性の感覚を求めて、ある種の青年たちは、子ども時代の危機の多くと改めて戦わねばならない」33と書いている。子ども時代を終結し大人として実社会に出ていくこの時期に、<本当の自分とは何か><自分は何をやりたいのか><自分は何になりたいのか>がテーマになってくる。これまでの発達段階でそれぞれの課題を同一化し取り入れてきたしてきたものの内、自分自身の理想や基準にとって望ましいものを選択し逸脱したものを放棄する。自分自身にとっても社会的な他者にとっても、自分は自分であるという確固たる自信を持とうとする。<同一化>から<同一性>へのプロセスである。
 同時にこの時期は病的なほど慎重になり不安になる。ただでさえ不安定な状態である上にさらに困難な状況が生じると、自分で自分がわからなくなる。そして、さまざまな形で逃避を企てるようになる。これを<同一性の拡散>というが、その種類と状態については次章で詳しく説明する。

対人関係の変化
 サリヴァンは青年期を青春期初期と後期に分けている。青春期初期には、前青春期の<親密欲求>をさらに洗練した形で愛し合う関係を求めるが、対象は異性の一人に変わる。自分と非常に類似している者を求めることから、大きな意味で自分と非常に異なっている者を求めるようになる。この時期になっても自分した愛せない人は、前青春期的な発達がなかったか、発達は起こったが深刻な排斥を受けて解体してしまった人である。この時期になっても同類しか愛せない人は、前青春期を越えて前進できなかった人である。また、性器の関与や代理行為も問題になってくるが、「自分の性器および自分以外の誰かの性器を使って、あまりの不安や自己評価喪失を起こさずに、満足なことができるかどうか」34がこの時期の最終テストになる。
 青春期後期は、「選好された性器的活動のパターンが定まった時点に始まり、無数の教育的、抽出変換的段階を経て、対人関係の全面的に人間的な、成熟したレパートリーが確立するまで」35をいう。そしてその人がその社会や文化の中でどこまでやっていけるかは、社会がどれだけ機会を与えてくれるか、その機会をうまく生かせるかどうかによって決まる。


第7節 成人期

親密性vs孤立
 成人期は年齢によって規定できないが、就職して、恋愛をして、結婚をするまでの時期である。
 この時期の危機は<親密性>と<孤立>である。青年期に自我同一性が獲得できていれば、自分自身にある程度の自信があり自分の関わる事柄に親密さを感じることができる。親密性とは、自分の何かを失うのではないかという不安をもつことなしに、自分の同一性と他者の同一性を融合しあうことができることである。親密性によって就職・恋愛・結婚というこの頃に起こる人生のイべントにもうまく対応でき、人生がより充実したものになる。
  しかし、自己の同一性に確信がもてない人は、人間関係の親密さから尻込みし、自分を孤立させ表面的で形式的な人間関係しか結べなくなる。

現代社会の問題
 成人期は就職、恋愛、結婚の時期であるが、鑪は「若い成人男女の独身主義や同棲主義、結婚しても子どもをつくらない、いわゆる『ディンクス』といわれる人々が見られるしかし、このような中で本当にここでいう心理・社会的な親密性を樹立していけるのだろうか」36という疑問を投げかけている。親密になってしまうと自分の何かを失ってしまうのではないかという不安が強いのであろう。青年期の課題が未だに克服されていないともいえる。


第8節 壮年期

世代性vs停滞
 壮年期は、結婚して子どもを生み育てる、親としての時期である。
 この時期の危機は<世代性>と<停滞>である。結婚をし自分たちの子どもを生み、育てることによって結合したいと願うようになる。それは「次の世代の確立と指導に対する興味・関心」37であり、自分の子どもだけでなく、後輩や若手の教育や育成や監督、文化的遺産の継承などの意味も含んでいる。自分にとって最も親密な存在を自分たち自身でつくり出していきたいという気持ちである。自分を犠牲にして成長を援助しなければならない場合も多いが、それを補って余りあるものが得られる。
 子孫の繁栄に全面的に失敗した場合、「生殖性から偽りの親密さへの強迫的な要求への退行がおこるが、しばしばそれは、停滞の感覚の浸透と人間関係の貧困化を伴う。生殖性の発達しない人物は、しばしば、自分本位になって、まるで子どもみたいに自分自身のことばかり考えるようになる」38。子どもの不在を補うために非常な努力を必要とするが、ともすれば歪んだ親密さや対人関係における退行現象となって現れる。また、自分自身以上に大切な存在がないために、自分のことを中心に考えるようになる傾向もある。

現代日本社会の問題
 この時期の発達課題は、青年期までの養育者の問題とも重なってくる。この時期の大人が発達課題を達成していないことが子どもの発達の歪みにつながっている。一人っ子が多くなり親が過剰に親密に関わったり、親が自分中心で子どもに十分に親密な態度で接しられていないことから、子どもが自分の発達課題を達成することを阻害されているという現象も起こっている。


第9節 老年期

統合性vs絶望
 老年期は、子育てが終わったり退職したり、公私に渡って役割の方向の転換を迫られる時期である。また、自分の死を受け入れる準備をする時期である。 この時期の危機は<統合性>と<絶望>である。人生の完成に当たって、今まで獲得してきた同一性を振り返る。そして「自分自身のただ一つのライフ・サイクル」「自分のライフ・サイクルにとって存在しなければならないし、どうしても代理のきかない存在として重要な人物」「自分の人生は自分自身の責任であるという事実」39を受け入れなければならない。
  最後まで自分のライフ・サイクルを人生の究極として受け入れられない人は、別の人生を始めようとしたり、人生を完全な形で終結させるために別の道を試そうとするが、時間的にも不可能でありますます不完全感が強まって深い絶望に陥る。



引用文献

 1 E.H.エリクソン 小此木啓吾訳 1973 『自我同一性』誠信書房,p159
 2 前掲書,p55
 3 前掲書,p58
 4 前掲書,p10
 5 前掲書,p10
 6 前掲書,p157
 7 前掲書,p68
 8 前掲書,p70
 9 前掲書,p70
10 前掲書,p70
11 前掲書,p79
12 前掲書,p86
13 前掲書,p78
14 前掲書,p82
15 前掲書,p85
16 前掲書,p86
17 前掲書,p86
18 前掲書,p95
19 前掲書,p89
20 前掲書,p96
21 前掲書,p97
22 鑪幹八郎 1990 『アイデンティティの心理学』 講談社現代新書,p59 23 エリクソン 前掲書,p109
24 前掲書,p102
25 前掲書,p107
26 H.S.サリヴァン 中井久夫他訳 1991 『精神医学は対人関係である』,
27 前掲書,p262p325
28 前掲書,p267
29 前掲書,p274
30 前掲書,p276
31 前掲書,p282
32 鑪幹八郎 前掲書,p60
33 エリクソン 前掲書,p111
34 サリヴァン 前掲書,p329
35 前掲書,p332
36 鑪幹八郎 前掲書,p63
37 エリクソン 前掲書,p122
38 前掲書,p122
39 前掲書,p123 



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