日本的学歴社会の構造


1.日本人の能力観

日本人が能力と呼ぶものは、<実力><素質><能力>に3つに分類することができる。

<素質>は、潜在的な天賦の才能である。
<能力>は、潜在的であるが、努力によって獲得や伸長可能な力である。

<実力>は、その地位や役職にふさわしい、すでに顕在化し、必要に応じて直ちに発揮できる力である。

一般的に、<素質>は芸術的な才能や運動能力について適用される。生まれつきのものとして、例えば芸術かの子供が芸術家になったり、オリンピック選手の子供もオリンピック選手になるというようにとらえられがちである。

一方、学歴によって獲得できる<能力>、つまり学力は、戦後の平等観によって、すべての人が等しく持っており、努力すれば何とかなる信じられている。

親は、自分の子どもにも無限の可能性があると信じようとしている。また、子どもも親の信頼に応えようとする。

しかし、学力も<素質>に関連している。それは教科による得意不得意があることからもわかる。また、一定の部分までは多くの子供が努力次第で到達できるが、例えば数学オリンピックに出場するのは<素質>によるものである。

2.学歴社会の条件

学歴社会が成立するには、いくつかの条件が必要である。

(1)学歴社会は、社会の側の必要にもとづく「引き上げ効果」と、個人の側の要求にもとづく「押し上げ効果」の2つの要因によって発展する。
(2)学歴が資格として有効に機能するには、封建制や世襲制が弱まり、学識による社会的な上昇が活発に行われうるような条件が必要である。
(3)その社会が急激な発展を迫られていて、人材の育成が急務になっている。
(4)公教育が、効果的な教育を提供するまでに整備されている。
(5)価値の一元化が進んでいる。

3.日本の学歴社会の黎明期

学歴社会は明治からあった。富国強兵のスローガンのもとに、優秀な人材を育成するために教育が必要であった。

しかし、戦前に上級学校へ進学できるものは、経済的に恵まれていたり、一部の学問によって身を立てようと考えるものに限られていた。学歴がなくても社会で成功できる可能性は多く存在していた。

ところが、戦後、民主主義の時代になり、個人の努力と能力によって成功の機会が平等に与えられるように、教育の重要性が強調されてきた。

今まで学歴社会に参加しなかった階層の者が参入してきたが、やはり、経済的に恵まれていなければ大学まで行くことは難しかった。

また、社会も多くの優秀な人材を必要としていて、需要が供給を大きく上回っていたので、高学歴は社会的な成功を約束していた。

この頃は、学生たちも大いに勉強したので、学歴=実力と言うことができるだろう。タテ型父性社会である。

4.日本の学歴社会の発展期

高度経済成長期に入り、国民は経済的に豊かになってきた。すると、学歴獲得レースに参加する者が急速に増えてくる。

高学歴を獲得するための受験競争は過熱化してくる。学歴が社会的成功のためのパスポートになってくる。ほとんどすべての子供が学歴獲得レースに参加するようになる。

価値観の一元化が促進される。

5.日本の学歴社会の成熟期

多くの人が学歴獲得レースに参加するようになると、そのゴールがさらに遠くなる。とりあえずは高校進学がゴールであったが、それがある程度達成されると、今度は大学進学がゴールになる。それもある程度達成されると、どの大学に進学するかがゴールになる。タテの学歴から、ヨコの学歴へと変化していく。

企業や役所の中にも、ヨコ型母性社会特有の場の論理が強くなり、同じ大学出身の者で集団を作り始める。

本来は、学校で勉強をして学力を身につけることによって社会的成功を実現してきた。しかし、学歴社会が成熟してくると、どの学校に所属するかということが社会的成功の正否を決定するようになる。

また、学歴獲得のシステムも研究されるようになり、ゴールを目指してより効率的な方法が開発される。その精度が高くなればなるほど、受験に必要な学力と社会で必要な実力の乖離が大きくなる。

6.日本の学歴社会の停滞期

やがて、供給が需要を上回ると、学歴が必ずしも社会的成功と一対一でなくなってくる。

まして、受験のための学力はあるが社会で必要な実力を身につけていない、ゴールインするととなると、学歴の価値が形骸化するのは当然である。

しかし、学歴の相対的価値の低下にもかかわらず、受験競争が沈静化しない要因には次のようなことが考えられる。

(1)惰性

学歴社会が成熟段階に入ったにもかかわらず、従来の傾向の惰性として、あるいは、「みんながいくから自分も行く」といった惰性によって進学が行われる。

(2)タイムラグ

教育の機会に恵まれず下積みで苦労した親たちが、「自分の子どもにだけは」と願って、子どもたちを進学させる。

(3)エントリー

大学の卒業資格だけでは成功へのチケットを手にすることはできないことはわかっているが、高学歴・経済低成長の時代になっても排除されないために、とりあえず大学卒の資格だけは身につけておく必要がある。

(4)社会的圧力

進学率が高度に高まると、進学しない者にはなんらかの欠陥があるとみなされがちなために、不本意ながら就学する。

(5)能力証明

進学競争への参加者の増加の中で、より格付けの高い学歴を手にいれることによって自分の能力を証明しようとする。

(6)企業論理

供給側の論理として、学校経営を維持するために子供の確保が必要になる。私立は勿論、公立も税金で運営されている以上同じ課題を抱えている。

7.学歴社会の問題点

学歴獲得システムの精度が高くなるにつれて、それを始動させる時期は早くなる。競争は低年齢化する。また、多くの子供が同じレースに参加しようとする。幼い頃から、社会で必要でない学力の獲得に全力を尽くす。

最後までこの競争に参加した場合、それまでの多くの時間を空費することになる。しかし、その時期に獲得すべき様々な<能力>を獲得しないまま成長する。

それでも、競争に勝利した場合は、学歴を獲得できるかもしれないが、敗北した場合は、学歴を獲得できないだけでなく、自信も失う。すべての<能力>を否定されたような錯覚に陥る。

途中で競争から降りた場合は、その時点での篩に掛けられて脱落したならば、

敗北感を味わうことになる。その敗北にこだわり続けたり、レールに未練を残していたりすると、その後の人生においても意欲が湧かない。

その時点で、価値観の変換に成功した場合は、その後の人生において新たな意欲を見い出すことができる。

現実として、それまでの段階で敗北体験をして高校に入学してきた生徒は、敗北感を引きずっており、無気力状態に陥ることが多い。

8.大学生の無気力化現象

社会の発展期においては、供給源である大学が少なかったため、学生は自分たちが社会をなんとかしなければという使命感に燃えていた。

しかし、人材の供給源が拡大するようになると、学生の使命感は低下してくる。

社会で何をしたいかという目的から、どの大学に入るかということ自体が目的になってきた。自分が何をしたいのかわからないという学生が急増している。

また、受験や大学で身につけた力と、社会が要求する高度な専門的な力の差が大きいために、社会で期待していた地位を占める機会を与えられない場合が多くなっている。

その大学に入学することを目的に、幼い時からレールから脱落せずに勝利した大学生も、その目的を達成した時点で、次の目標を持てなくなり、無気力化することがある。まして、幼い頃から目的を与えられ続けてきたならば、自分で目的を見出すことは至難の技になってくる。

9.学歴社会の浪費

つまり、学歴社会は2つの浪費を伴う。

1つは、社会が実際の能力を十分に考慮せず、学歴そのものを重視することからくる、才能の浪費である。

もう1つは、多くの若者たちが、いわゆる“有名大学”への入学をめざして狂奔することから生じる膨大なエネルギーの浪費である。また、その結果生ずる、教育のゆがみや、受験競争の敗者の自信喪失などである。

参考文献

岩田龍子 1981 『学歴主義の構造』 日本評論社
刈谷剛彦 1995 『大衆教育社会のゆくえ』 中公新書            


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