学校の位置


第1節 子どもと学校をめぐる状況

1.子どもへの熱い眼差し

 最近は、新聞やテレビなどでも子どもの問題が取り上げられることが多くなった。また、論者の立場も多種多様になってきた。こういった傾向の原因について、野田正彰は次のように指摘している1 。1) 豊かな消費社会、過密な都市環境の中で、子供総体の姿がつかめなくなっている。子供たちはいち早く大人の生活に適応し、各階層ごとに別々の子供時代を生きているからである。2) 先の理由ゆえに、子供と接触する位置にある人々も子供たちの断片しか見ることができないためである。子供にかかわるひとびとの職業も専門分化し、その分化の度合いに応じて、子供自身もその全体像を失い、各職業から見られた、それぞれの地位から見られた子供らしさ、若者らしさに閉じ込められている。3) 最も大きな理由だと思うが、大人たちは知識としては今の子供が自分の少年少女の時代と異なっていることを一応知っておきながら、本当は異なっているという実感を持っていないからだ。
 第1は社会の変化である。社会が消費社会化・都市化など多様化し、子どもも多様化した社会にいち早く適応して多様化してしまったことが、教育論議の多様化の前提として考えられる。
 第2は子どもにかかわる大人の専門分化である。昔は子どもに直接かかわる大人といえば親か教師か近所の人々ぐらいであった。ところが、子どもの生活場面の多様化や情報化によってさまざまな大人が子どもに関わる機会が多くなった。消費社会ではそれが専門的な職業として成立する。子どもが多様化し全体像を把握することが不可能に近くなっているにもかかわらず、自分の専門性の範囲内だけで論じている子ども像が、普遍的一般的な全体像であると錯覚しているのである。
 第3は世代感覚のズレである。大人たちは自分の子ども時代と現在の子どもとの感覚の違いを知識としては理解しているが、実際に子どもを論じる時には自分の子ども時代の感覚を基準に見てしまう。また、自分の子ども時代の感覚も、本当に自分が子ども時代に感じていたものであるかどうかも怪しい。

2.学校への熱い眼差し

親の眼差し
  こうした子どもに対する視線の多様化に伴って、学校への眼差しも熱くなり様々な摩擦が生じている。学校教育をめぐる親と教師の擦れ違いは、親の自由主義vs教師の平等主義、親の現実主義vs教師の理想主義、親の個人主義vs教師の全体主義という図式の中で行われていると言えるだろう2 。消費社会への適応や戦後民主主義の歪んだ展開の結果としての家族エゴと、戦後民主主義の理想と現実をギリギリの線で妥協させ維持しようとする学校の対立である。
社会の眼差し
  社会的な観点からすれば、「『進歩的』『民主主義的』なイデオロギーをよりどころとして『体制批判』的な立場だけで声高に現行教育を切って捨ててこと足れりとする」風潮や「子ども一般を純粋無垢な天使のように発想するところから、その純粋無垢な魂を汚染する『大人の悪』を断罪する道徳主義的な」3 風潮が強い。社会の自由主義教育vs学校の管理教育、社会の全人格的理想主義教育vs学校の知育偏重的教育という図式の中で行われていると言えるだろう。自由と平等の戦後民主主義の理想を振りかざす社会的正義と、戦後民主主義の現実の中で喘ぐ学校との対立である。

3.学校教育への批判

 現在の学校教育批判の対象は大きく分けて2つある。1つは学力主義であり、もう1つは管理主義である。
 学力主義あるいは序列主義・学歴主義・偏差値教育・知育偏重教育に対する批判の内容はおおよそ次のようなものである。学校教育は知育偏重で、偏差値を唯一の基準として生徒を序列化し選別している。生徒はより高い順位を目指して他の生徒と競争し、他の生徒を蹴落とすことしか考えなくなる。また、記憶力は優れているが、応用力・自主性・創造性の乏しい生徒が増えているというものである。
 管理主義に対する批判は、能力主義についていけずに荒れる生徒を抑えるために校則を設けて生徒の行動や生活を管理し、生徒の自主性・創造性・自由・個性・人権までも抑圧しようとしているというものである。

第2節 学校への期待

1.社会の期待

労働力の大量生産
  学校教育は公教育である以上、社会の要求に大きく影響される。戦後の日本社会の中で、学校教育が何を要求され、どのように変わってきたのか、その概要を見てみよう。
 戦後日本の急務は経済の復興であった。1960年代から工業化が進み、企業は都市での大量の労働力を必要とした。国家は能力主義教育政策を打ち出し、すべての国民を平等な立場に立たせて自由に競争させることによって、優秀な能力を開発しようとした。学校は「企業の労働力養成機関」4 の役割を要求され、子どもを能力によって効率的に選別・選抜し、大量の労働力を供給する場になっていった。
量から質へ
  しかし、1973年のオイルショックによって産業構造が変化し、ハイ・テクノロジー競争へと突入していった。企業は労働力の量よりも質を重視するようになった。一方では高度な専門的な能力を、もう一方では企業に忠誠を尽くす人格を要求するようになった。学校教育の教科内容はますます高度になっていった。生徒指導は、「休日以外は定刻に一定の場所にゆき、指示された通りのことをやり、定刻までその場所にとどまっている」5 という近代社会に順応するための基本的行動パターンを身につけさせようとするようになっっていった。このような学校教育を優秀な成績で終了した人間は、「面白くもない繰り返しの定型化された学習内容に耐え、一流大学のむずかしい試験を突破したのだから、企業という体制にもうまく適応できる」5 という意味で高く評価され、現代社会において高い位置を占めることができるというシステムが確立していった。学校は学習指導では能力競争、生徒指導では人格管理の場になったのである。

2.親の期待

将来の生活手段として
  高度経済成長は家庭を愛情原理の場から経済原理の場へ変貌させた。愛情が経済価値によって量られるようになってきた。経済的に豊かになり子どもの数も減ってきたので、子どもに掛ける期待も教育費も大きくなる。一流の(偏差値の高い)大学を出れば将来社会において高い地位につけるシステムがあるのなら、どんなことをしても自分の子どもをそのシステムに乗せてやりたいと思うのは親として当然である。学校はそのためのルートや手段として期待されるようになった。
託児所として
  また、親はいい暮らしをしたい自由でありたいなどという欲求から消費社会に取り込まれ、母親も働きにでる家庭が増えてきた。そして学校に一種の託児所としての機能も期待するようになった。しかも、「子供が学校へ行き無事卒業することは、自分の子供が人並みに成長しているという重大なあかし」6 になるのであるから、ただの託児所ではない。そういう親の要求は、高校ぐらい卒業するのは当たり前で、学校は一度入ったら卒業するまで面倒を見るべきである、というところまでエスカレートしてくる。
躾の場として
  その上、戦後民主主義によって、子どもを躾けるべき父親の権威や社会規範が消滅した。「『やがてはあんたのためになるのだから』と子供に哀願懇願して形式的でいいから学校文化に従え」7 というような、子どもの躾を放棄した親も増えている。その実態は、佐瀬稔が「自分の子が殴られて血を流せば当然『暴力教師』と非を鳴らすが、そうでないかぎり、ダーティーな作業に従事する教師を『熱心な教師』と呼び、その種の作業に無関心でひたすら教室に閉じこもる者に対しては『何もしてくれない。しつけもけじめもない、無気力・無関心な先生』と批判する」8 と的確に指摘している。
 このように、親の学校に対する依存度はますます高くなり、期待は過剰になる。自分の子どもに高い学力と、きっちりした躾をつけてほしい。自分の子どもを集団の一員としてというより、わが子のように特別扱いしてほしい。そういう環境を作るために他人の子どもをしっかりと管理してほしいというのが本音の願いなのである。
 こうして考えてみると、学校教育の批判の対象になっている能力主義や管理主義は、実は社会や親が期待し要求しているものでもあることがわかる。

第3節 学校の理想と現実

1.学校教育の本来の目的

学校の使命
  親や社会は学校に大きな期待をかけ多くの要求をしてくる。また、生徒も様々な要求をしてくる。学校の使命としてはそれらにできるかぎり応えることが必要であるが、何でもかんでもすべてそのまま受け入れるわけにはいかない。学校教育の本来の目的を考えなければならない。
 学校教育の本来の目的は、「要求や課題を子どもの前に立て、矛盾や葛藤を作り出し、それを克服する自主的な活動をよびおこし、その活動を援助することを通して、子どもの発達・自立を実現していくこと」9 であろう。
教師と生徒の関係
  また、教師と生徒の関係は、人間の価値としては同等であるが立場としては対等ではない。氏原寛は「人間の作った不自然な社会に組みこまれてこそ、人間には人間らしい自然さが身につくのである。だからお互いが上下関係で結ばれている場合、上の者は上の者らしく下の者は下の者らしくかかわる方が自然なのである。権威のある者は権威者として、保護されている者は被保護者としてふるまわなければならない」10と書いている。進歩的、民主主義的なイデオロギーを標榜する人からは反論があるだろうが、こういう前提がなければ集団に働きかける教育が成立しないことは明らかである。
教師の役割
  そして、教師の役割は生徒たちを公平に扱うことであろう。そのためには、「子どもがその成長、発達の過程で、人間として大切な力をしっかり身につけてきているかを、客観的に、冷静に評価する目」11が必要になってくる。逸脱している生徒に対しては、「説得と納得によって子どもの自主的な活動をひきだし、その活動を指導することを通して、子どもの発達を援助すること」12になる。個々の生徒の成長のための集団の中で、個々の生徒を客観的に評価し説得と納得で指導すること、父性原理を行使することが教師の役割である。

2.学校の生徒観

生徒は純粋無垢な天使か
 ところが現実には、「自主的な活動をよびおこし」「子どもの発達・自立を実現していく」という大目標を忘れて、「要求や課題を子どもの前に立て、矛盾や葛藤を作り出し」はするが、その矛盾を矛盾として感じることを禁じ、葛藤状態を回避したり抑圧したりするように指導しているのである。
  こうした現実には学校の生徒観が大きく影響している。子どもは純粋無垢な天使であり、生まれながらに持っている善美の性を自然に伸びばしていくと言われている。確かにそういう生徒がいることは否定できないし、どんな生徒も時々はそうした顔を見せてくれることもある。
集団の枠に収まらない生徒たち
 しかし、現場の感覚から言えば、そうでない生徒の方が多く、日常的にはそうでない面を見せていることの方が圧倒的に多い。諏訪哲二は「『いろいろな個性の子』がいるというよりは、ただ、やさしく大事に、何の規制も受けないで育てられてきた『わがままな子』が大量にいるだけである。エゴがぶよぶよと肥大化した子がそこらじゅうにいるだけ」13と言っている。また小浜逸郎は「生徒たちの様態は、見方によっては、どうしようもない自我の未確立、未熟な自我の甘え、あるいは、自分というもののイメージがはっきりつかめず、したがって相手との水平・垂直的な境界の観念を定かではない状態」14と言っている。生徒の自我が肥大していると見るか自我が未確立であると見るか、いずれにしても自分自身のコントロールができず、他人との関係もうまくとれず、学校という集団の枠に収まらない生徒が増えていることは確かである。

3.学校の学力主義

高学歴社会の波
  学校の能力主義は、子どもや親や社会の要求に学校が安易に乗っているという現実から生じたものであると言えるだろう。
 高学歴社会になって、だれもが上級の学校を目指すようになってきた。高校の就学率が90%を越え、さらに大学・短大の就学率も40%を越えるようになった。社会のシステムとして高学歴の者が高い社会的地位や豊かな経済力を確保できるのであれば、この現象も仕方のないことであろう。もっとも最近では必ずしも両者が直結していないことが明らかになりつつあるが、それが社会現象としてあらわれるのはまだまだ先のことである。そして、大学や短大の入試の合否が学力試験の結果によるものであるならば、大学や短大までの学校に入試のための学力を要求されることも仕方のないことである。いくら教師が本来の教育の意味を叫んだところで、それが即効力を持たないものならば説得力に欠ける。また、教師も教育の多様性を追求するのでなく、入試のための学力を促進している方が楽であるという現実もある。
偏差値の功罪
  学力主義が批判されるとき偏差値やそれによる序列化が問題になる。偏差値の存在意義については、小浜逸郎の「多くの生徒のために席が許されているからこそ、誰がどこに座るかについての整理が必要となり───みんなが座れるからといってどこの席でもよいということには決してならないので───そのためにこそ偏差値輪切り体制はある」15という指摘が的を得ているだろう。もう1つ指摘するならば、学校選択の基準が学力だけであることである。偏差値は平等で自由な受験競争にとっての必要悪なのである。
 また生徒は、システム化社会の中の自分の位置の曖昧さに対して、「自分の学力に対して少なくとも目に見えるかたちでひとつの帰属場所を指示してくれる」16制度として偏差値を利用しようとする。現在所属している学校を出れば、どの程度の上級学校に進学でき、どのような社会的地位につけどの程度の経済生活ができるのかを示してくれるバロメーターになるのである。また現在所属している学校が序列化されていれば将来の見通しも立つし、さらに学校の中の自分の序列がわかれば自分の将来はますますはっきりしてくる。

4.学校の管理主義

管理観のズレ
  親や社会は学校に生徒の管理を期待する。しかしその内容は、本来家庭でしなければならない躾であり、安定した労働者としての態度である。本来学校でしなければならない管理は、生徒が同年代の集団の中で協調したり切磋琢磨したりして、主体性と社会性を身につけるための秩序を維持することである。しかし、生徒は他人と協調したり切磋琢磨したりすることを避ける傾向が強く、本来の意味での集団が成立しない。したがって学校の管理は生徒を集団の枠に組み入れることから始めなければならなくなった。
学校の母性原理
  また、学校は<母性原理>が非常に強い<場>である。生徒が一旦入学すれば、親は学校が卒業まで面倒を見てくれると思っているし、教師も入学を許可した以上は卒業させなければならないと思っている。これは生徒にとっても親にとっても大変都合のいいことである。しかし、<母性原理>の非常に強い<場>を維持するには、強固な感情的結合や、個人の行動や考え方の曖昧な一様化が必要になってくる。これは、現代の子どもや親にとっては受け入れがたい問題である。この点においては子どもや親は、<父性原理>の<個>を主張し、個別性や個人の権利や個の欲求の充足を要求する。しかし、その要求の前提になる個人の責任は引き受けようとせず、その点は<母性原理>に依存している。
指導という名の管理
  こうした状況の社会では<権威による管理>という形をとると批判を浴びる。そこで学校は支配(管理)にすぎないものを指導という形でカモフラージュして、「支配の事実のありのままを示さず、相手側がこちらに同調しているという見せかける」という「日本型支配の伝統」17をとるようになった。それは、社会的に「生徒(子ども)は保護されるべきだという考えが強まった」18傾向ともうまく一致した。
外面を規制する校則
  大きな集団を指導(管理)するには、どうしても個々の生徒を掌握する基準が必要になってくる。全ての価値基準が相対化した戦後社会では、まず新たな価値基準を作ることから始まった。戦後の価値基準は人間性尊重の精神から人間の内面な部分を規定することは許されず、自ずと人間の外面的な部分に求めるしかなかった。そうして出来上がったものが校則である。服装や頭髪などに関する項目が多いのはそのためであろう。校則で規制している事柄が人間性と無関係であるという批判があるが、それは当然の結果なのである。もっとも、外見を基準にして内面を判断するという欺瞞を行っているわけであるが、人格などの人間の内面を価値基準にして判断することがどれだけ危険なことであるかは少し考えればわかるだろう。
校則の権威
  人間の本質とは無関係な校則に権威を持たせるためには、抜け道のない完全なものであることが必要になってくる。そのため規則はより細分化される。予期せぬ事件が起こって社会の批判に晒されるとこの傾向はますます顕著になってくる。確固とした裏付けがないので、わずかの例外でも認めれば教育そのものが崩壊してしまいそうな強迫観念にかられ、たえずチェックを行って徹底させる。どうしても守らない生徒は力で抑えつけてしまう。組織的な体制がとれない学校では同一の指導(管理)をすべての教師が行うことは少なく、一部の教師にかかる負担が大きくなる。そうすると指導(管理)はますます過剰になる。これが学校の現在の管理主義の実態である。
管理を望む生徒群
  指導(管理)される生徒はどうであろうか。システム化社会の軌道から落ちこぼれず学校の学力主義に順応している生徒は、管理されることに大きな違和感を持たず、むしろ管理され指示されなければ動けなくなっている。ただし彼らの求めている管理は、消費社会のシステムから落ちこぼれないための管理である。
管理を過剰にする生徒群
  一方、学力競争から下りた生徒は、「高望みが叶わないとなれば、大人びた静かな断念によって事態を受容する術も心得ている」14ので、自分の能力と将来の位置を見切ってしまい必要以上に頑張ろうとはしない。彼らは社会的成熟を拒否し性的成熟に安住する。彼らは学校という<公的生活>ではなく<私的生活>に価値を置いている。それは小浜逸郎が指摘するように、「日常的にじわりじわりと制度をなしくずし的に無効化してゆく。だからこそ、管理主体はその不気味な動きに対してもっとも警戒心を示す」19という状況を生み出し、管理はますます過剰になっていく。
 学校の管理主義の問題は、子どもや親が<曖昧>にせよ一切の<一様化>を認めないことと、教師が<一様化>の<曖昧さ>を認めないことにあると言えるだろう。

第4節 学校の実態

1.教師の現在

熱意の押し売り
  教師は総体的に真面目で熱心なので、生徒のためという大義名分があれば使命感に燃えて与えられた役割を一生懸命に果たそうとする。それは教師の資質として必要な条件である。しかし行き過ぎると、東山紘久が指摘するように、「教えることが専門であるため、教えられないことも教えようとする態度が自然にでてくる」20ことが多い。一方的に生徒の内面や家族の中に踏み込み、すべてを知りたがり、教えたがり、自分が教えたようにすることを期待してしまう。生徒や親にとって必要以上の母性が発揮されるのである。しかし、自分の限られた実践経験を一般化し、「すぐに理屈を言って教えようとする態度に出てしまい、もう一段深い所の問題を生徒と一緒に考えようとしない」21ので、本当に生徒のためにはならない。
自信が持てない教師たち
  そして指導に行き詰まった場合、自分の実践を理論的に反省して新しい指導方針を見出すことは少ない。同僚の教師の批判はもちろん意見も聞かず、権威性と即効性を基準にして、本質的な理論を消化せずにマニュアル的な技術だけを外部から取り入れる。それをすぐに生徒に使い、すぐに効果がでないと、すぐに冷めてしまい、全否定する。そこには「自分自身の指導を相対的にとらえ、疑問が生じれば、子どもにたいして教師としての権威が保てなくなるのではないかという不安」22があるのだろう。本当の意味で自分の実践に自信と責任を持っている教師は少ない。
総退却する教師
  それでも教師は、今までの経験では理解できない生徒の増加と、親や社会の批判に対峙しようとしている。学習意欲のない生徒に勉強を教えるために授業を一生懸命やろうとすれば、学校教育は知育偏重・学力主義だ、勉強ばかり教えていないで生活指導もしろと批判される。家庭でも躾けることのできなかった生徒に一生懸命に基本的生活習慣を指導しようとすると、今度は管理主義であると批判される。全ての期待や批判に善処しようとすればミスが出る。少しでもミスをすれば批判される。多くの仕事をこなすためにシステム化を図れば、人間性がないとまた批判される。
 こうした状況の中で、教師は河上亮一が実感しているように、「言うことをきかない生徒、マスコミの学校たたき、親の敏感な反応の前に総退却を始めている」23のが実態であろう。自分の理解や指導を見直すのでなく、生徒が変わったことを認めなかったり生徒が悪いと決めつけたりして従来の管理的な指導を続ける教師がいる。授業が本務であり、授業以外の生徒指導などは雑務であると安全な所に逃げ込んでしまう教師がいる。また、自分が評価されることを極端に嫌う教師の習性が、生徒に対する理解力や指導力の差を単なる見解の違いにすり替えてしまう。互いに批判しあい、共同で仕事をするということはしない。「マスコミに報道されている『事件』の多くは、管理主義の強化の結果ではなく、教師たちが追い込まれて過剰に反応した結果」23なのである。教師の管理は弱まりこそすれ強くなどはなっていないのであるというのが実情であろう。教師は期待されたり批判されるほどの強い力は持っていない。力が弱いからヒステリックになり、過剰に反応しているのである。さらに「教育者は、社会的な批判と軽蔑にさらされている。いや、教育の当事者ですら教育を軽蔑している教師は自分の仕事にプライドを持てなくなっている」24ということさえ言われている。

2.学校の現在

無謀な実験
  戦後日本社会は権威という権威をことごとく破壊してきた。家族の中の父親の権威が崩壊したのと同じように、学校の中の教師の権威も否定されてきた。生徒たちは幼い時から一人前に扱われ、教師の権威など認めなくなっている。当の教師自身、必死で教師の権威を破壊してきた。こうした状況で行われる教育は、「ヒューマニズムという本来相対的でしかない価値=理念を唯一の根拠として教育的実践を行おうとするとてつもない実験」25であると言える。戦前の苦々しい記憶と戦後の理想が薄れるに連れて、この実験はますます困難になってくる。これは実験というより無謀な冒険と言った方がよいかもしれない。「自由化された学校は、生徒に生活の型を教え込むこともないし、他人といっしょに生きるということを教えることもないだろう。基礎学力さえいい加減になる」26という危険性を孕んでいる。
組織なき教師集団
  このように学校は非常に難しい課題に直面しているのであるが、小浜逸郎が指摘するように、学校の現在は「ひとつの問題に対して組織的なレヴェルで機敏かつ有効に対応できる体制とはほど遠い」27状態である。学校には明確な目標や方針がない。指示や命令が直ちに通るような組織もない。教育の成果がはっきりした形で評価されて教師の身分や待遇にはねかえるというシステムもない。新たな局面を打開するために新たな対策を講じることよりも、今まで通りということが唯一の価値観になっている。生徒はすべて平等に扱われるべきであるというタテマエのもとに、実際は一部の生徒の例外を認めれば他の生徒を納得させるのに大きな力を割かれるという理由で、個々の生徒に対する柔軟な発想をしない。管理職も「何も問題が表面化しない学校がよい学校である」28という発想が強く事勿れ主義である。教師は教育論議は熱心にするが、実行段階になると具体案が出ない。決定は教師の総意に基づいていなければならないが、決定してもすべての教師が一致して動くということはまずありえない。同僚の中からイニシアチブをとろうとする教師が出ると、自分が代わりにやる気はないが快く思わない。それでも学校は何とか回っていく。誰かが何処かで負担しているのだが、そういう自覚はない。また、不足している部分を生徒が補っていることもある。
 学校は今後さらに困難な問題に直面するであろうし、親や社会からさらに大きな要求を突きつけられるだろう。しかし、個々の教師の力量が大きく高まることは期待できないし、一部の教師では支えきれなくなるだろう。また、生徒の力もどんどん低下して、教師の不足分を補うどころか新たな問題を作り出してくるだろう。学校の未来にあまり明るい展望はない。それでも何とかやっていかなければならない。

引用文献

 
1 野田正彰 1988 『漂白される子供たち』 情報センター,p1
 2 河原巧 1991 『学校はなぜ変わらないのか』 JICC出版局,p61
 3 小浜逸郎 1991 『症状としての学校言説』 JICC出版局,p17
 4 竹内常一 1987 『子どもの自分くずしと自分つくり』 東大出版会
 5 岸田秀 1987 『嫉妬の時代』 飛鳥新社,p58,p184
6 由起草一・夏木智 『学校の現在』 大和書房,p33
 7 千石保 1991 『『「まじめ」の崩壊』 サイマル出版社,p246
 8 佐瀬稔 1990 『うちの子がなぜ』 草思社,p160
 9 高垣忠一郎 1991 『登校拒否・不登校をめぐって』 青木書店,p133
10 氏原寛 1985 『カウンセリングの実践』 誠信書房,p198
11 高垣忠一郎 前掲書,p126
12 前掲書,p167
13 諏訪哲二 1990 『反動的』 JICC出版局,p141
14 小浜逸郎 1991 前掲書,p172
15 小浜逸郎 1985 『学校の現象学のために』 大和書房,p171
16 小浜逸郎 1985 前掲書,p172
17 諏訪哲二 前掲書,p45
18 由起草一・夏木智 前掲書,p104
19 小浜逸郎 1991 前掲書,p257
20 東山紘久 1991 氏原寛他編『学校カウンセリング』 ミネルヴァ書房
21 前掲書,p192,p19122 高垣忠一郎 前掲書,p159
23 河上亮一 1991 「中学校の一日は、どのようにして始まり、どのように しておわっていくのか」(別冊宝島129『子どもが変だ』)JICC出版局,p57
24 中野収 1987 『現代史の中の若者』 三省堂,p208
25 前掲書,p206
26 河上亮一  前掲書,p60
27 小浜逸郎 1985 前掲書,p139
28 西村州衛男 1991 「学校カウンセリングと生徒指導」(『青年心理1月号』) 金子書房,p70



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