零から出発
闇の中でも目をこらしてみると何かが見えてくるんです。僕がその事を最初に経験したのは、便所の小窓からプラスチックの波板の屋根を見上げた時です。プラスチックの波板の屋根の部分が外の光を受けてぼんやりと白んでいるのです。初めは本当に真っ暗で何も見えなかったのですが、すぐにぼんやりしたものが見え始めてきたのです。そこまでなら、暗順応だということで片付けられますが、大切なのは、これから先です。しばらくじっと見ていると、そのぼんやりした部分が、梁に囲まれたプラスチックの波板の屋根だとはっきりわかった。五角形か六角形かに見える。さらにしばらく見ていると、その白んだ部分が五重塔のような形に見えてきた。少し上目使いに見てやると、今度は縞模様が入ってくる。面白くなって、その白んだ部分を、色々な形で見てやろうと思うとそのように見えるし,椅子のような形にしようとすればなるのです。だけど、少し意識が弱まってくると、また元の五角形だか六角形になってしまうのです。そうなってしまうと、何だかイライラしてきて、もう一度精神力を集中して白んだ部分に挑戦するのです。
なぜ、こんなに気狂いのような真似をしたのかと言いますと、国文の先輩に聞いた話がきっかけなんです。昼間建築物などを見ると、いやにはっきりして見える.だが、同じものでも夜見るとぼんやりしているが厚みを持っているように感じる。ここでちょっと飛躍するのですが、夜見たものの方が本物じゃないか、と先輩は言うのです。だから、昼間でもサングラスをかけて、その色をだんだん濃くして行き、十分してからサングラスを外すと、昼間でも夜見るように見えるんじゃないかって言うんです。そしたら、昼間でも本当のものを見られると言うのです。先輩は極めて芸術的美的観点から、そういう発想をされたのですが、僕は、−−こういう生意気を言わせてもらえるなら−−哲学的に考えてみたいと思うのです。
闇の中でも、神経を緊張させていれば何かが見えてくる、と初めに言いました。ここでもう一度実験をしてますと、目を閉じて、瞼の上を指でおさえてみると、すぐに何かがみえてきます。簡単なことですから、今試してみてください。どうです、何か見えるでしょう。けれども、それはあくまで何かであって、はっきり何々だということはできないものです。だが、その何かわからないものが、純粋に見えているものなのです。そこで、便所の中でやった実験をここでも繰り返します。やはり、意識の命令するままものが見えてきます。つまり、僕が何を言おうとしているのかといえば、普通僕たちが見るというのは、意識が作った像に過ぎなくて、コップならコップという客体が僕から独立して存在しているのではなくて、僕の意識の中でコップというものの概念が像になって目に映っているに過ぎないのだ、ということです。
ここで新たな問題が生じます。僕がコップとして見ているものは、他の人もコップとして見ている、だから、コップというのは、僕から独立した存在、客観的存在ではないかということです。なぜ、僕は、そして他人はそれを「本」と言わないのか。言葉の指示性という小さな問題ではありません。「コップ」を「本」だといい、「本」を「時計」と言い、「時計」を「枕」と呼んでいるのは、単なる遊戯にしか過ぎません。僕が問題にしているのは、「コップ」と呼ばれるものに対して与えられた価値の問題です。僕が「コップ」を「本」と言って頁を繰ってみないのは、「コップ」は水を入れているものだからです。「本」は頁を繰って文字や絵を追うものだからです。「それに水を入れて飲む」物を「コップ」と名付ける。その間に何の必然性があるのか。僕は「コップ」という言葉を聞いただけで「コップ」を思い浮かべる。思い浮かべだ時、僕はそれを目の前に見ているのです。実際、目の前にあろうとなかろうと、他には見えなかろうと、僕はそれを見ているのです。言葉によって、その意味あるものを思い浮かべることも、手で触ることものとしてそこにあるものも、見るということに於いては同じように存在しているんです。手で触っているというのは、一つの錯覚に過ぎないのであって、目で見て信じる実在性の強さを示す一傍証に他なりません。僕たちが、普通見るということも、思い浮かべるということも、同じことなのです。そこに、時計があって、シャープペンシルがあって、ウイスキーの小瓶があって、……という普通にいう意味での見ているものも、意識の作った像に過ぎないのです。時計などをそこに置いたと思っているから、そこに時計があるように見えるのです。そこにダイヤモンドの指輪はあると思えば、きっと見えてくるはずです。だが、一向に見えてきません。なぜでしょう。それは、僕たちが、自分の純粋な意識を、確固たる既成概念によって規制されているからです。そこにダイヤの指輪があるなんてありえないことだ、なぜなら、お前はそんなにものを買えるような金持ちでもない。まさか盗んできたわけでもないだろう、という普通言う現実観に占領支配されているわけだ。時計やシャープペンシルなども、そこにあるはずだという現実観に支配された幻影なのだ。
本当は、目の前には何もないのに、赤ん坊が初めて目を開けた瞬間、赤ん坊は何を見ていないのだ。少々言葉が乱暴になってきました。赤ん坊が初めて目を開けると、母親は必死になって「私はママよ」と訴えかけます。赤ん坊にとって「ワタシガママヨ」という言葉は、単なる音の連続に過ぎない。それが何十回と繰り返されるにつれて、赤ん坊の中で一つの音が塊として捉えられ始め、「ワタシガママヨ」たるものはどのようなものか、思い浮かべてみる。それが、赤ん坊にとっての最初の純粋な像なのである。そのようにして、いくつか像が組み立てられると、やがて教育が始められる。そしてその時から、その子が最初に描いた純粋な像は破壊され、押し着せの像が植え付けられるのである。ここで、見られることは、人間にとって本能は像を描くことであり、それ自体は正しい行為なのだが、その像の描き方に問題があるのだ。
僕たちが、ある言葉に対して、他人と共通な、既成の、物体との結びつきを必要とするのは、二人以上の人間と共存して行こうとするときで、一人で生きて行こうとするときは、全く問題ないのだ。必要ないのだ。
以上、考えていることを、まとまらずに話してきたのですが、なぜ、こんなうわごとを並べるのかといえば、現代に於いて規制の価値観の反乱に、大きな危機を感じているからです。何々はこうなるべきだ、とコップのような物だけでなく、思想や精神にも一つの「こうあるべきだ」が強要されようとしているです。現代の状況を、価値観が相対的になってきた、と分析する人もいます。突然大きな例を引いてびっくりされるでしょうが、「天皇」に対しても様々な評価がされています。日本が戦争に敗れるまでは、「天皇」には絶対的な価値がありました。それと比較しての分析だと思いますが、巨視的に展望すると、戦後も変わっていないのです。「天皇」という人の実在を前提とした上で見解の相違に過ぎません。「天皇」の実在というものを絶対視しているです。変な例でしたが、反主流派とか異端とかアンチ何々とか、何々の破壊とか息巻いてみても、一向に変革されるものではありません。それどころか、こうすればする程、相手の実在を認めているです。現次元での変革は不可能なのです。かといって、指をくわえているわけにはいきません。僕が、さっきくどくどと言ったことは、この解決策を模索する過程だったのです。そこにあるという押し着せの概念を捨てて、純粋な自分の目で見つめ直すことです。それにはどうすれば良いかと言いますと、一つのことについて、疑って疑って疑い抜く、或いは否定し続けるのです。漢字なんか、同じ字を百回も書いていると、何とも奇妙な模様に見えてくることがあるでしょう。この気づきが第一歩なのです。「木」なら「木」という字を何回も書いていると、それは「一」とか「|」とか「ノ」とかに分解されて、「木」というまとまった形で見えなくなる。と同時に、この漢字がどのようなものを表していたかもわからなくなる。それが零の感覚です。
次に零から出発することが必要です。零にとどまっているのはニヒリストに過ぎません。ここで注意しなければならないことは、自分が完全に規制概念を捨てきれたかどうかということです。完全でないと、また同じ過ちに陥ってしまいます。出発するには闇が必要です。目を閉じてまぶたを押さえた瞬間の像を大切にするのです。焦ってはいけません。何度も何度も繰り返し、法則性を見いだすのです。それは今までにできたものとは全く違った形をしているんですから戸惑うのも当たり前です。根気よくやってください。巨視的な展望を持って、目先の問題にとらわれず、自分の追究−−零次元における−−に励んでください。今の世の中で、このようなことをしていれば、野垂れ死にをするでしょう。残念ながら、僕はできません。でも、やれるような強さを見いたらやってみたい。
結局、取り止めもない話になってしまいました。無駄に過ごさせた時間を許してください。でも、こんなうわごとの中から、ヒントになることでもあれば、あなたなりに発展させください。
「無為の会」第IV号 一九七六年十二月
京都教育大学 二回生