われらの時代

自序

 僕のこの焦りは、昭和三十年という敗戦の傷跡が家た頃に生まれ、高度成長期に育ち六十年安保、六十七年八年の学園紛争の後、白けきった時代に放り出されたことにある。敗戦を知っている人は、すべてのものが無意味であることを体験し、その無意味さに適当に意味を、戦前と少しも変わらない価値を与えてきた時代の流れを知っている。ぼくたちは、すでに出来上がった虚構の中にどっぷりと首まで没して育ってきた。最早、抜け出せない程に。ぼくが、そんなことを知らずに生きて行けたのならどれ程楽だろう。だが、知ってしまった。しかも、体験によってではなく、書物を読むことによって。なんという悲劇であるか。こんな頼りない思想なら、いっそ崩れてしまえとさえ望む。でも、崩れない。だから苦しいのだ。頭の中では、すべてが無意味だと叫んでいるのに、実生活に於いては、計らずも、無意味さを感じずに平然と生かされている。僕は見たいのだ。戦後の廃墟を。

第一章

 人間窮地に陥れば何でもし得る───
 私は何故こんなところに居るのだろう。此処で何をしようというのか。階下で電話が鳴っている。先刻から可成り辛抱強く。振り返ってみても、今日までの幾日かの時間は凡て昨日と同じなのだ。昨日の出来事さえ思い起こせば、私の過去は済んでしまう。そして、今日の事を覚えていれば、明日を気使うことはない。過去と未来の両側から圧縮されて固まったものが今という時間にすぎない。ところが、昨日と今日が繋がらない。どうして私は此処に居るのだろうか。電話の音が止んだ。私は周章てて余韻を追った。一体、ベルの音どんな関連性があるというのか。耳障りで仕方がなかった。じっと堪えていた私があった。堪えながらも、思考の内で何物かを追っていた。そして、音が消えると同時にその何物かも見失ってしまった。恰も張り詰めていた糸がぷっつりと切れてしまったように。後悔ともつかぬ不安が私を襲った。
 その時、襖が開いて裸足の足が敷居を跨いで止まった。
 ───逸見さん電話ですよ。
 隣の部屋に下宿している野村という学生だった。何が嬉しいのか知らないが笑っている。一旦緊張させた口元をやや緩め、その分眉間から鼻先にかけての部分に集中させるやり方だ。私は寝転んだままの格好で礼を言い、ついでに尋ねてみた。
 ───いい事でもあったのかい。
 ───別に。
 同じ表情で答えた。眺めていた本を畳の上に俯せにして、私はゆっくり軀を起こした。ふうんと鼻から長く息を抜くように笑うと同時に、野村の肩口を軽く叩いて私は階段下りた。足を置く度に軋む相当古い階段だった。その尾を引く様な鈍い音が、昨日と今日を繋いでくれるような気がした。
 受話器を置いた私の顔には光沢があっただろう。電話の応対には長い時間を費やした。はぁとだけしか答えない私に相手を苛立ちを覚えたのであろう。でもどう仕様もない。電話が掛かってくるだろうことは、予め判っていたし、その要件も推察できていた。そうにも拘らずいつもこうなのだ。よくお前ははっきりしない奴だと言われたこともあるし、自分でも十分に判っているのだが、いざとなると皆目駄目なのだ。私には相手との空間的でなく時間的な距離が必要なのだ。臆病者と言うより、優し過ぎるのだ。そんなことはともかく、私にはやっと存在感が甦ってきた。昨日と今日の溝が埋まりそうになった。
 部屋に帰ると、先程の私と同じ位置に野村が寝そべっていた。もっとも、その位置より他に寝られる面積はないのだから。。私は、立ったままいつもの如く散らかっている本の群を眺めた。すると、その配置が必然的であったかのような錯覚に襲われた。万年床の四畳半に並べられた書物は、一カ月前から手が付けられていない。本棚から引き出しては読みさしのまま中途で放っておいたものばかりである。その時は何気なしに置くのであるが、気が向いて再び手にした後も、元あった場所に正確に返していた。初めは偶然に過ぎなかったものを、一旦その場を占めると揺るがすことの出来ない必然へと変化させていく。そんな力が時間にはあった。明日本棚から下ろされる本も、無意味のままに位置するや否や、永遠の真理のような顔してそこを占領し、私の空間を虫喰んでいくに違いない。やがて私は……。だが私は危うく助かった。偶然にせよ幸運だった。いや、或いは必然だったのかもしれない。兎角、野村くんに感謝しなければならない。
 ───野村君。
 私は幸甚に満ちた声で彼の名を呼んだ。野村は周章てて撥ね起きた。
 ───済いません。済いません。直ぐ出て行く積もりだったんですけど。つい。
 ───いやいいんですよ。怒っているんじゃないんですよ。むしろあなたに感謝しなくちゃいけないぐらいだ。
 ───えっ。
 ───いやいや気にしないでください。それで何か面白い物でもありましたか。 ───ええ、凄い本ばっかしですよ。僕感激しちゃって年甲斐もなく躁いじゃって。
 ───そんなに本が好きですか。
 紅潮する野村を微笑ましく思いながら、久し振りに和んだ気分になっていた。
 ───それは。もう。でも、も少し丁寧に扱ってやらないと。差し出顔しいようですが、ちょっと整理したところなんです。 いいでしょう
 ───えっ。並べ替えたんだって
 ───ええ、全集なんかは巻の順番をきちんと。
 ───誰に断ってそんな勝手な真似を。しかも何の秩序もなく。
 私の声は激昂していた。折角、私が私の秩序に従って並べておいたのに。先刻とは裏腹に怒りが込み上げてきた。部屋に入ってきた時の私の目は確かに迂闊だった。そんないい加減なものなら、どうなってもよさそうなのだが、とにかく昨日までの時間が崩壊したのである。余りにも呆気なく、しかしこれは本来なのかもしれないような気がした。私は足元に並べられた本を蹴散らかした。
 ───いいじゃないですか。人が親切にやったことなんだから。それに。
 彼は邪険になって迫った。
 ───本は神聖なもの、いわば、思想の源泉なんですよ。それを、それを足蹴にするなんて以ての外だ。
 彼の拳は固く握り締めやったままそのやり場を捜した。
 ───思想の源泉だって。本が。
 ───そうだ。
 私は笑わずにはいられなかった。野村の拳固は忽ち私の頬を打った。そうさ、それでいいのさ。私は更に笑わずにはいられなかった。彼が少し怯んだように見えた。が、次の瞬間、彼は猛然と襲いかかってきた。まるで恐怖に駆られた犬のように。私は笑いながら応戦した。二人は掴み合い殴り合い書物の上を転々とした。私は益々笑わずにはいられなかった。背の筋肉の下に本の触れるのを感じると、私は一層踠いた。発作を起こしたように。頁が乱れていくのがよく判った。やがて私は組み伏せられた。私は野村の腕の下から言った。
 ───見ろ、この本の残骸を。お前の所為だぞ。
 野村は力なく軀を退けた。私は勝ち誇ったように哄笑した。だが、まもなくその声も止んだ。胸の奥底から込み上げてくる寂寥を押えきれなくなった。
 野村は一冊一冊丁寧に本を拾い上げ、本棚に返していった。サルトルがニーチェがドストエフスキーが椎名麟三が順序よく収まっていく。私は涙に潤んだ目で昨日までを振り返っていた。余りにも脆いじゃないか。折角積み上げできたのに。此処へ来た時の過去が甦り、今と連結した。そして、昨日までの過去は跡形もなく消し飛んだ。こうなることは予期していた。崩壊することは判っていても築かねばならなかった。こんなことをあと何度繰り返せばいいのだろう。あと何回、余命を思い遣った。ああ、このまま死を待つしかないのか。明日になればまた本棚から下ろし、畳の上に並べていく私は明らか過ぎる程の未来である。いや、もはや未来と呼べない単なる来るべき時間。過去の繰り返しでしかない。私にとって未来と呼ぶに相応しい未来は何時になれば訪れるのだろう。私の今日までの営み、私の未来を迎えるための着実な歩みであった筈だ。しかし未来の可能性を理解しようとすればすべては無意味へと帰る。結局、信じていなくてはならない。も少しすればまた歩き出そう。未来とは信じるものであって理解するものではない。出発点だけ見えて終着点の見えないもの。それが未来なのだから。
 整理を終えた野村が、恐る恐る訊いた。
 ───あのう、サルトルの第一巻、借りてもいいですか。
 ───ああ、そんなもので未来が癒せるなら、持ってお行き。
 私の声は虚無的に、しかし、私の心の奥底から響いた。野村は喜び勇んで本棚から抜き出すと大事そうに胸に抱え込んだ。紅潮した顔を私に向け、丁寧に礼をした。
 ───僕、逸見さんを尊敬しているんです。こんな難しい本を読めるんですからね。ちょくちょくお邪魔してもいいですか。
 私は思わず微笑んだ。
 ───ああ、何時でもどうぞ。
 野村が羨ましかった。
 私は、二、三日中にこの下宿を出ることになるだろう。

第二章

 白い漆喰いの壁の少し入り組んだところに扉があった。表通りに面した三階まであるこんな喫茶店に入るのはこれが初めてだ。私は大きな店は好きになれない。冷たいというより、やはり広すぎる。隅のボックスに座るとしてもどこか落ち着かない。ウェイトレスは殆ど私に構わず、他の客もそれぞれの連れ合いと語らてっいるのだが、なぜか人の目は私に集中しているような気がして仕方がない。私なんかに捕らわれるなんて全く考えられのだが、最近、自意識過剰のせいか、このような強迫観念に捕らわれることが屡々ある。特に頻発して起こる笑い声には耐えられなくなる。薄暗いことを幸いに、皆が私を嘲弄している。私は、ついに店を出ることを決心した。その時、自動扉が回転して母が現れた。地味ではあるが高級な素地の和服を着た小柄で痩せぎすな人だった。左手の薬指には大きなダイヤモンドの指輪が光を放っていた。
 ───あら、もう来てたの。私ももっと早く来る積もりだったけど、御免なさいね。
 私はいつも約束の三十分前から来ているのが常だった。そして、母は十分前に来たのだが。
 ───あそこが空いているわ。
 母は先程まで私が座っていた席を指差した。
 ───恆ちゃんまだなんでしょ、お昼。何でも頼みなさいよ。
 私ひとりで来た時には、不貞腐れたよ様に調理場の窓際に立っていたウェイトレスが、愛想笑いを作って注文を待っている。
 ───済ませたよ。
 私は嘘をついた。
 ───じゃ、コーヒーとオレンジジュースお願いします。
 ウェイトレスは、はい畏まりました。少しお待ち下さい、とはっきりした発音を残して去った。
 ───久し振りね、って挨拶は可笑しいわね。母は笑顔を壊さずに言った。私は黙していた。
 ───どうして下宿が判ったのかって訊きたいんでしょう。
 気分を和らげるためか、母は茶目っ気に覗き込むようにした。訊かなくてもどうでもいいことだ。いずれはこうなることは全く予期していた。私がたとえ北海道へ逃げようとも、この人たちは必ず探し出すだろう。だから私はこの人たちの住んでいる土地を離れなかった。いや離れられなかったと言った方が素直だろう。昨日の電話で指定された通り、正午にこの店に来たのもそうせずにはいられなかった。家出している私が、この人たちの前から姿を消そうとしている私が、全く不可解な行為には違いない。なぜかしら自分を確実な存在であるという哲理を振り回しているのではなく、私にもはっきりと説明できる理由がある。この人たちから完全に離れてしまっては私の逃亡の意味がなくなってしまうのである。
 ───この店なかなかいい感じでしょ。お父さんとよく来るのよ。初めて来た時は若い人ばっかりで違和感もあったけど、若い人てとってもか開放的なのね、すぐ消えてしまったわ。
 その時、ウェイトレスがコーヒーとオレンジジュースを持ってきた。母は、軽い会釈の代わりに上品に微笑んだ。ウェイトレスも若い笑いを返した。
 ───今日は若い燕さんとご一緒なんですか。ご主人に言いつけますよ。奥様。
 ───ホホホ、これは息子よ。ウェイトレスは仰々しく驚いて見せた。そして、無遠慮に私の顔を眺めまわして、さも納得がいった様に
 ───なぁるほど。そりゃあんな立派な旦那様ですものね。
 と独りで頷いた。私は、ひょこんと首を突き出して、会釈したつもりだ。すると、ウェイトレスはプッと吹き出した。そしてとても軽やかな足で戻って行った。いつもこうだ。私の生活空間から遠く駆け離れたところで、私に関わりなく時間が回転している時、私は私を見失ってしまう。特に相手が異性であったり、年代が少しでも異なると、頭だけが強度に緊張して、軀が全くついていかない。汗さえ薄っすら滲んでいる。私はコーヒーカップにだけ集中して、執拗に掻き混ぜた。そして、ようやく自分を取り戻しかけた時、まだ母の方は見ずに言った。
 ───あの人は。
 ───あの人って。それまさかお父さんのこと言っているの。そんな口のきき方よして頂戴。お父さんは誰よりもね,恆ちゃんのことを一番に心配してるのよ。
 私は聴かないふりをした。
 恆ちゃん、どうしたのよ。母はついに感情の殻を破ってしまった。六カ月も何をしていたの。突然蒸発しまって。何故なの。お父さんやお母さんに不満でもあるの。それは、お母さんも飛びっきりいいお母さんじゃないわ。でも、世間並みの母親だって自信があるわ。お父さんは本当に立派な人だわ。戦後の裸一貫から今じゃ大会社の重役よ。一本気で曲がった所なんか少しもないわ。それに、家族への愛情も人一倍よ。ちょっと厳しすぎるけど、恆ちゃんはそんな事を苦にする子じゃない。今までだって、喧嘩ひとつせずに育ってきたんじゃないの。その上不満があるとしたら贅沢よ。それに恆ちゃんのわがままというものよ。
 ───お母さんには不満はないよ。
 ───じゃ、お父さんにあるっていうの。
 母の鋭い声に周囲の視線が一瞬集まった。私は何か言い掛けたが止めた。暫く沈黙が流れた。母の溜め息で私は口を切った。
 ───あの人にはお父さんとして全く一点の不満もない。お母さんのいう通り世界一のお父さんだ。でも、
 ───でも何なの。もうあなたの言うことは私には全く理解できないわ。なぜこんな人間になってしまったの。素直ないい子だったのに。誰に誑かされたの。そう、一体誰なの。あなたはもはや私の手の届かないところに行ってしまったの。
 母の言葉には涙が雑っていた。できることなら私は母を悲しませたくなかったのだが仕方ない。父と母は今でも、男と女として愛し合っている。私は率直にそんな二人を素晴らしいと思う。倦怠の中で子供だけを鎹に生きている世間一般の夫婦とは違っていた。子供である私の目から見ても羨ましいぐらいだ。こんな話を聞くと気の早い心理家が父親への嫉妬だと、私の反抗を断定するかもしれない。だが私はそんな人間じゃない。私は心から二人を祝福している。
 二人の馴れ初めは、昭和二十年まで逆上る。当時、二十一歳大学に在学中だった父は、詳しくは聞いていないが思うところがあったのだろう特攻隊に志願した。母は父の配属された基地の近くの農家の娘だった。基地へ駆り出されていて、そこで父は美しくでよく働く母に一目惚れしてしまったらしい。父は配給の罐詰やお菓子を持って毎日のように訪れたが、それでもいつでも玄関のところで、自分は食いませんからよかったら食べてください、と軍隊口調で言うと、母の顔も見ずに帰っていたそうだ。奥の部屋から見ていた母は祖母と一緒にクスクス笑っていた。そして、愈々出撃命令が下り、南の基地へ移動する前の夜、父は青い顔で母の家に現れそのことを告げただけで、母の事は何も言わずに帰っていった。父の胸中はどれほど迷ったことか。この世に思い出を残すことを潔しとしなかった。散る華の如く。母は父の後を追った。しかし父の姿はなかった。当時十七歳だった。それから間もなく、日本は敗戦を迎えた。家族の者は諦めるように母を説得したが、母は父の帰りを待った。そして、九年目の秋、二人は奇跡的に再会した。父も母も独身のままだった。二人の心は九年もの間固い絆に結ばれていた。そしてその翌年、三十年の夏に私が生まれたのである。
 コーヒーに浮かした生クリームの表面に張った薄い膜が私の唇に付着した。
 ───母さんには判らないよ。
 ───そう言って誤魔化さないで。母さんにもきっと判るわ。ね話して頂戴。
 いや絶対に判りはしないのだ。母の青春に時代の影があったように、私の青春にも時代が影を落としている。この二つの影は絶対に重ならない。まして、父母の影と私の影はどうしようもなく隔たっているのである。その間には、あの戦争が横たわっている。
 ───だめなんだよ。
 ぞっとする程虚無的な拒絶の響きに母は口を噤んだ。しばらくして、諦めたように言った。
 ───今度いつ逢える。
 私は応えなかった。
 ───じゃ、また連絡するわ。
 ───もう下宿にはいないだろう。
 ───何故なの、そんなに逃げたいの。
 ───いや、逃げはしないよ。逃げられはしないからね。ただ、ひとりを守っていただけなんだ。捜す必要はないよ、僕はこの街から出ないから。そう、三カ月後の同じ時間この店で待っているよ。
 ───本当だね。きっとだよ。恆ちゃんを信じているからね。
 ───本当だよ。僕も逢いたくて堪らないんだから。
 ───だったら恆ちゃん。
 ───だめなんだよ。
 母は疲れ切ったように嘆息をついた。
 ───その時は、お父さん連れて来てもいいかい。
 私は黙ったまま、しかし、はっきりと頷いた。
 土曜日の繁華街は多くの人で賑わっていた。各々の人が思い思いのファッションを楽しんでいる。髪を上げパーマをかけ繋ぎのズボンをはき、口は煙草を銜えているかガムを噛んでいる男。サングラスを掛け踵の高い靴を曳き擦る様にして歩いている。男か女かわからない格好の女。顔は度強く彩色されて。此処も私などの居る場所ではないようだ。私にとって彼らは一つの集団である。二つの性が接近し合い嘗てなかったグロテスクな性に融合する。それは創造でない頽廃にも関わらず、或いは、だからこそ異様な自信に満ちている。彼らは私を寄せつけないし、私も彼らを避けている。私は彼らを満たせる人間でない。私は独りひっそり歩く。それにも拘らず彼らは私に視線を送る。優越感に溢れた馬鹿に仕切った目。私は一度反抗を試みる。奴らは外面だけでいい気になっている。気取った振りして飾り立ててみたところで、その内の精神の方は見るも無残な……ここにきて私の抵抗はむなしくなった。人の事が言えるのか、私も私で……彼らと。いや違う、そんなはずはないじゃないか、心で叫びながら足早に人並みを掻い潜った。
 交差点まで辿り着いた時、ちょうど曲がり角の所に小さな人溜まりができていた。しかしそれは静止した人溜まりでなく、歩みを鈍らせこそすれ絶えず流動しているものだった。この種の人溜まりは、好奇心の直ぐ後に軽蔑と、時にお於いては、憐憫を誘う性質のものだった。果たして、ガードレールの向こう側に立っているのは、小柄で色が黒く乞食のような身成りをした見るからに貧弱な初老だった。元々は薄茶色だったのだろうが、今は色褪せて代わりに汚れても薄黒く、しかも方々破れたまま継ぎも当たっていない作業服の様なものを纏っている。髪の毛が黒く房房していることも却って違和感を与える。こういう人の中には、世を捨てた放浪者的な魅力に溢れた人もいるが、この男に関する限りただ嫌悪の対象でしかありえなかった。そして、埃塗れの殆ど壊れかけた黒い運搬用の自転車の傍らで、メガホン片手に演説している。私の足も遅くなった。
 ───みなしゃん。私は神のお告げを聞いたのじゃ。みなしゃん。いちどまわりを振り返ってごらんなされ。そしてみなしゃん自身の胸に手を当てて目を閉じてごらんなされ。なんと日本中が乱れておることか、よくわかりじゃろ。だが、みなしゃんは関係ないとは言えませんのじゃ。政府のお偉方が悪い資本家が悪いと言っておっても仕方がないことですのじゃ。みなしゃんは何かなさったかの。口で言っておるだけで生活が苦しいからといって何もせなんだ。何もせなんだということ自体罪悪なのじゃ。だからもう手遅れじゃ。神はたいそう怒っておられる。みなしゃん、落ち着いてよう聞いて下され。みなしゃん、神は七月二十九日つまり三カ月後の明日、この日本を滅ぼされるとおっしゃっておられる。みなしゃん、ようお聞きなされ。後百日足らずで、神の力で大地震が起こり、日本中の総ての物が一瞬の内に消え去るだろうとはっきり言っておられますのじゃ。おお、何と恐ろしいことになったものか。これも、みなしゃんひとりひとりの責任なのじゃ。じゃが、みなしゃん。御安心なされ。神も決して無慈悲じゃない。救いを乞われる方は、全財産を持ってわしの山へ来なされ。神は生きることを許される。これは本当のことなんじゃ。みなしゃん、ようお聴きなされ。
 左折する車がクラクションを鳴らした。私は道路に踏みつけにされたビラを拾いはしたが、足は止めなかった。
 私は疲れていた。けれども下宿とは反対方向の電車に乗っている。疲労しきった軀を曵き擦ることに諧謔的な快を味わっていたこともあるが、それより何よりこうせずにはいられなかった。昨日までの下宿に閉じ籠もるだけの生活も私には結構楽しかった。俗気にも当てられず、自分が自分であることを意識していられる自分に満腹感を覚えていた。自分自身の確固たる存在を築こうと私は一生懸命に努めた。ところがどうだ。街での私の失態は。私は虐げられる者でしかないという恐怖感は一向に消えていなかった。睨み返す積もりで見開いた目も相手の視線にぶつかると脆くも崩れ落ちた。彼らにとってを私の存在など全く取るに足らぬものに過ぎなかったに違いない。一瞥は送りはするがただそれだけの対象にすぎない。万一私がこの脳細胞に多くの知識を持ち、見事な思想体系を築いていたとしても、彼らにとってのなんらの関心事ではない。自分は自分である。それだけでよかった筈なのに、この屈辱感。孤独を恐れ人々の目の中に溺れてしまっている。書には自分は自分であらぬところのものであらねばならぬと印してあった。本当に理解し身に付けていたなら、こんなにも迷わない筈だ。それを頭の中だけでしか理解できずに私の都合のいい方へと自分の殻に只管閉じ籠もろうとしていたに過ぎない。これも已むを得ないことかもしれない。これが、我等の世代の宿命なのかもしれない。兎角、今しなくてはならないのは、昨日までの憂鬱なだけの生活に別れを告げることだ。いつまでも出発点に縋っていても、そこからは何も生じないのだ。ただ行動することだけが残された唯一の道である。

第三章

 私は昼下がりの街角に立っていた。左腕に一杯抱え込んだビラを道行く人に配るのが私の役割である。手渡し方にも色々コツがあった。単に右手を差し出すだけでなく、同時に腰を入れて下から突き上げるようにすると、差し出された方も自ら受け取らざるをえないというのが幹部の人の指導だった。にも拘らず私のビラは殆ど無視され、左腕の紙束は一向に軽くならなかった。それは恐らく私たちの出で立ちのせいだろう。黒いヘルメットに顔の下半分をタオルで隠しているのである。少し離れのところでは、私たちのセクトの指導者である深沢さんが頻りにアジっている。しかし、その声も自動車の騒音や、それに何より通行人の無関心さに虚しくなり勝ちだった。あの日私が訪れたのは、予てから私に声をかけていた同じ学部の先輩で学生運動のある小さなセクトのリーダーである深沢さんのアパートだった。行動と考えた時、真っ先に頭に浮かんだのは、彼の言葉だった。───諸君!我々と一緒に戦おう。今こそ、ペンを剣に持ち替えるのだ。我々に残された道は耐えることではなく、戦うことだ───学内で事ある度にデモ隊を形成し、と言っても六七人の隊列であるが、校庭を行進するのだった。学内では異端扱いされ、一般学生からはそっぽ向かれているのだが、その時の私には、彼らの姿が眩しいばかりの光輝を発して脳裏の底から浮かび上がってきた。政治に関しては絶えず中立を守り傍観者の目で冷静に見極めていようと、直接活動を極力避けてきた。この世に絶対なものはなく、何が是で何が非であるか、真理などないと、哲学者然として孤高の位置を維持して来た私であるが、今一度、自身に問い直してみると、何ら根拠はなく、単なる逃避志向への言い訳に過ぎない、知らず知らずの内に、いやこんな卑怯な言い方はよそう、私は自ら望んで体制側へ加担していたのだった。六十年安保で盛り上がりを見せた世論もその失敗によって挫折し、その反動が政治への生理的嫌悪となり、六十八年の安田講堂に象徴される学園紛争、七十年安保闘争に於ける学生運動を行き過ぎだと非難するに至った。また、学生の味方であることを表明した一部の知識人たちも、政治への純粋な憤りというよりも、若い世代に背を向けられることへの不安としての次元による接近、若い世代への媚びではなかったか。一方、学生側では、理論の食い違いが権力志向による内部分裂、内ゲバへと後退していった。挫折に次ぐ挫折で革命への道は諦念化され、理論ばかりで肥満していく頭は煩悶するだけで不条理は益々鬱積されていく。やり場のない憂ひは目標失ったまま彷徨するのみ。この憂慮すべき現状を打破するに如何なる手段が残されているのか。戦後民主主義の歪を感じない人は誰一人としていないだろう。関わらずに済むことならどれ程楽かもしれない。しかし、我々がこの時代に生きている限り、我々が意志するとしないとに拘らず、政治の方からやってくるのである。それを我関せずと孤高の位置を保つことは、或いは、仕方がないから生活へ埋没しただ忍従していくことは取りも直さず、戦後民主主義の体制に味方することに他ならない。敵か味方か、二つに一つしかないといえば、何と性急な思想かと嘲笑されるかもしれない。何事も程々に中庸を保つことが正しい道へ繋がっていくのだと悟りを開いたような顔をして教えてくれるだろう。その考え方こそ戦後民主主義の思想なのだ。中庸は存在せず、味方でないものはすべて敵と見為すのである。心情としては判るが現実問題としては已むを得ないという論法は通用しない。心情も現実もない、一分の妥協の余地すらない理想に向かって走ることだけが、我々に残された唯一無二の道である。確かに破滅への志向でしかないであろう。たとえ虚偽の世界でにしろ、一旦気づいた自分たちの城に執着する人々にとっては、恐るべき危険な思想であろう。戦後築かれた物質、肉体、精神のあらゆるものを無に帰し、零から出発せねばならないのだ。とにかく、動き出さなければならないのだ。行動する流れこそ行くべき道も開かれるのだ。
 毎週土曜日の午後、私達は市内の賑やかな所を選んで街頭活動する。深沢さんがアジり中堅の人たちが三人署名とカンパを集める。そして私のような新参者が三人でビラを撒く。今日、目的地に着くと、そこには先客があった。あの老人だ。この前と殆ど同じ格好で、ただ変わっていることと云えば上着とズボンが洗濯してあったことだ。障害児募金等と勝ち合った時等は場所を譲ったのだが、今日の場合、幹部の人たちは胡散臭そうに老人の方を一瞥しただけで、直ちに無視したようにそこで活動を始めた。メガホンで拡声されるとはいえ、ハンドマイクを通したしかも若い学生の声に、老人の肉声が叶う筈がなかった。それでも老人は怯んだ様子はなく執拗に同じことを繰り返しているようだった。その姿はただ軽蔑に価するだけの愚鈍さ以外の何者でもなかったが、一つの頑固な使命感によって光輝いているような気がした。深沢さんが息を継ぐため演説を中断する間も老人の声は休まなかった。その中で「後一カ月」という言葉が私の耳に付いた。この前の時からすでに二カ月も経ってしまっていたのか。これ程時間を精神的に感じたことはない。私は居ても立ってもいられない激しい焦燥に襲われた。この二カ月の間、私は何をしてきたのだろう。下宿に閉じ籠もって書に耽って同じような虚しさが私の心を侵し始めている。自然、私は途切れ途切れの老人の声を必死で継ぎ合わせていた。そうして暫くすると、周りが急に騒然となってきたのに気が付いた。アジっているはずの深沢さんがマイクを置いて、老人に何か怒鳴っているのだった。その二人を囲むように私たちの仲間が、さらにその外殻を今まで振り向きもしなかった一般の人々が取り巻いている。
 ───俺たちの活動を妨害する気か。
 我慢の緒が切れたのか、活動が思うように成果をあげていない腹癒せか、普段の冷静沈着な深沢さんとは別人のように激していた。アジってる時でも、これ程高揚した声で怒鳴っている彼は見たことがなかった。しかし、老人は恐れる素振りも見せず、平然と言った。
 ───妨害するなと言われても先に来ていたのはわしの方じゃなかったかのう。
 ───何を、お前には正義の心がないのか。つべこべ言わずにとっとと失せろ。お前の身のためだ。老人の穏やかさが深沢さんに油を注いだ。私たちの方が怯んでしまった。老人は笑いさえ浮かべている。
 ───まるで暴力団じゃ。
 ───そうさ必要があれば暴力も辞さない。我々に敵対するものはすべて壊滅する。
 ───ほうほう、勇ましいことじゃ。深沢さんの限界を超えていた。彼は老人の方に突進して行くとその勢いで胸を突き飛ばした。老人は他愛もなく宙に舞い地面にひっくり返った。
 ───神だと、神の御告げじゃと。そんなものがこの世で通用すると思っているのか。
 深沢さんは肩で息をしながら、喘ぎ喘ぎ言った。いかにも苦しそうだった。老人は地面に転がったまま、顔だけこちらに向けて、ニッと笑った。前歯は半分程抜けていなかった。
 ───あんたたちのやってなさることの方が、まやかしに見えるがの。
 深沢さんは、倒れたままの老人にさらに襲いかかろうとした。それより一瞬早く、私は後ろから彼を羽交締めした。
 ───深沢さん、落ち着いてくださいよ。こんな乞食の言うことなんか気にしちゃいけませんよ。私達の活動はもっと崇高なもんですから。
 私の言葉は老人る傷付けられた自尊心を癒すのに十分の効果があった。
 ───今日のところは許してやる。とっとと消え失せろ。
 深沢さんは吐き出すように言って拳収めた。私は老人の方に回って立ち上がるのに肩を貸した。老人は私に礼を述べ、また、あのニッという笑いをした。私を思わず身振りをした。
 ───若いの、あんたは近いうちにわしの家に来なさる事になるじゃろ。
 予言めいた言葉に、思わず頷いてしまった。私は直ぐに首を横に振って否定したが、その狼狽ぶりは隠せなかった。老人は服についた埃を手で払うと、込み上げてくる可笑しさを肩で圧えるようにして自転車を押しながら去っていった。ひとり残された私は、仲間から訝りの目で見られていた。私は仲間の方に近寄ると、何とも言えぬ苦さを我慢してこう言った。
 ───汝、民衆を愛せ、ですよ。
 すると、深沢さんは、明るい表情になって
 ───俺としたことが、どうしたんだろう。今日は全く変だな。
 と言って照れ笑いをした。そうすること自体、まだいつもの深沢さんではないことを証明していた。その夜、仲間は深沢さんのアパートに集まった。活動の反省をするためである。その点なかなか堅実なセクトであると言えるだろう。後退することを知らず何が何でも前進して行こうとする性急さは若さの特権であるかもしれないが、同時に組織を維持していくことに懸命になる保守性が同居していることは否めない。兎角、多少の違和感を抱いているとしてもそれを渦の中心へ中心へ巻き込んでいく雰囲気が場を支配していた。破壊なくして建設はないと絶えず叫んでいる割には、自分たちの組織に関してはその理論をタブー視していた。普段ならこんなことに神経をピリピリしないのだが、老人のあの時の言葉が妙に私を刺戟していた。この活動も所詮まやかしに過ぎだのだろうか。迷っている私の顔は自然曇っていたのだろう。中堅クラスの野口が、───逸見、お前はどうなんだ。───苛立った声が部屋の中に響いた。思うように進んでいない活動状況にみんなの気分もすっきりしてなかったのだろう。そのやり場のない鬱積の吐け口を得たのだろう。老人を助け起こした時の邪険な目が私に集まった。先刻は何とか自分を抑えて争うことを回避できたが、今の自分は身体中の血液という血液がすべて頭に昇ってきて、自制することも間に合わず、低く呻くように言っていた。 ───私達は本当に民衆を愛しているのだろうか。
 室内に騒めきが起こった。それも当然だ。皆このようなことを考えてたことがないというよりも、考えることを回避していた。それゆえ、動揺の色は隠せなかった。それを圧迫するために深沢さんが嘲るような口調で言った。
 ───勿論さ、絶対にな。
 その言葉に確信を得たように、今までの自信を失いかけていた騒めきが、一つの怒涛のように私を罵った。
 ───きみは我々が民主を愛していないとでも言うのかね。
 傘に掛かったの野口が皮肉な口調で言った。嫌悪する集団の目が私を襲った。そんな威圧感にも拘わらず私は冷静な声で訊ねた。
 ───民主を愛するってどうすることなんですか。
 ───民主のために民衆によって自由で平等な社会を作ることだ。
 ───民衆、民衆って、民主とは一体誰なんですか。
 ───我々、プロレタリア階級さ。
 ───私たちがプロレタリアートですって。
 ───そうさ。ブルジョワ階級によって支配され、虐げられている人々。現代階級社会においては、支配者か被支配か、ブルジョアワジーかプロレタリアーしか存在せんのだ。まさかお前は我々はブルジョワというのではあるまいな。
 ───野口さんは、プロレタリアという言葉に酔っていらっしゃるような気がします。下部志向というか、虐げられているという観念によって自分の行為を正当化なさっているようです。飯もろくに食えない程の生活貧窮者及び肉体労働者に対して倒錯した劣等感を抱いている。人間の生きる基盤は生活だとペシミスティックに断定して、その生活において彼らに一種の後ろめたさを感じている。自然崇拝が変形した生命力への憧憬のような。
 ───それじゃ何か、逸見。そんな感傷的な憐憫は止めろって言うのか。
 私に掴みかかろうとする野口を、深沢さんはリーダーらしく止めた。そして私の方を向いて言った。
 ───逸見、君はこのまま社会が進行して行っていいと思うか。思わないだろう。我々はまず共通の敵である資本家や政治家を倒し、彼らの再建した戦後を破壊せねばならないんだよ。それには、我々民衆が手に手を取って共に戦って行かねばならないんだよ。
 ───それなら。
 私は次の言葉を飲んだ。しかしそれは嘔吐のごとく込み上げてきた。
 ───私は民主なんて愛さない。
 辺りが水を打ったように静まり返った。
 ───裏切り者。
 野口が叫んだ。それを合図に騒然とした雰囲気に変わった。私はここで一気に吐いてしまわねば永遠に機会を失ってしまうと思った。
 ───被害妄想もいい加減にしろ。私たちがもし本当に革命を希望するなら、我々の敵は資本家や政治家ではなく、民衆だということをはっきり認識しろ。歴史を見ろ。暴動とか反乱とかとして片付けられてきた異端派の革命運動は、社会の掟に背くものとして歴史上正統の位置を与えられないで、邪悪視されているか、さらに酷い場合は同情の目で再評価されて来た。社会の掟とは何か。それは多数決だ。より多くの人々が加担した方が正しいとされてきた。淘汰されたものが間違っており淘汰したものが正しい。そして当然それもいずれ淘汰される。正しかったはずのものがいつの間にか悪くなっている。これをどう説明しますか。初めは民衆から社会の底辺から理想の炎が上がった。それを時のブルジョワジーや為政者が利用し、自分たちの都合の良い方へと歪めていった。でも考えてくださいよ。一握りの権力者だけの力で社会を欲しいままに支配することができますか。法や武力や金で抑圧しようとしたところで、所詮、民衆の希望と協力がなくては不可能ですよ。民衆も生活者から脱しようと理想高く少々急進的な革命だってついては来ます。しかし、少々安定し来ると今度は自分たちの生活を守ろうとし、過度の進展をもはや望まなくなる。そして、革命の先進的な指導者を行き過ぎだ、現実を省みない夢想家だとか非難し始める。自分の都合さえ良くなれば背信行為も平気で行い、その絶大な数によって正当化してしまう。生活の名のもとにね。絶対主義や封建主義の時代、そして今の資本主義の時代に於いても、民衆は自分から望んでその時代に生きているのであって、上から押さえ付けられて抵抗しないでいるのじゃないんですよ。民衆とはかくもエゴイスティックあり保守的なんですよ。民衆と手を携えて革命を起こしたところで、彼らは本当にそれを望んでいないのだし、すぐに反動化して私たちを見捨ててしまうことは火を見るよりも明らかですよ。民衆は友なんて甘い夢は捨て去ることですね。現在の状況において本当に革命を成就したいのなら、ファシズムしかありません。知識人による独裁的革命。革命が発展するに連れて、民衆の中で反動化するものが出れば抑えつけ、一切の妥協を排除し、理想世界へと邁進する以外ない。でも、民主の力ってのはそんな卑弱なものじゃありませんからね。革新的な民主の力は脆いけど一旦保守反動化した民主の力は想像を絶する程強靱ですからね。それに、知識人と言ったって人間である以上、どこまで信用できるか。
 ───それじゃ、どうしたらいいというのかね。偉大なニヒリスト君。
 みんな退屈したように.時計を見たり窓の外を眺めたりしている。野口の言葉がそれを代表していた。深沢さんも、腕を組んで瞑想に受けているだけのような気がした。私の失望は大きかった。初めからみんなを説得しようなんて考えてなかったが、諤々たる反発を望んでいたのだ。それが、私の最も恐れていた結果になろうとは。しかし、わたしは続けずにはいられない。最後まで諦めてはいけない。私も民衆を愛したい。民衆を糾弾し、彼らの罪を認識させる、その時初めて私は民主を愛することができる。今の我々に残された唯一の可能性は、人間性の革命しかないのです。
 ───宗教か
 ───いや、宗教は人間を堕落させるだけです。人間のあらゆる観念を無に帰して。一体どうすればいいんですか。だから私はこの活動の中で。
 不覚にも私の声には涙が混じっていた。
 ───少し考え過ぎたようだね。君の選んだ道は正しいのだよ。一緒に活動を続けて行こうじゃないか。
 深沢さんは、慰めるように言ってくれた。
 ───もうだめなんです。歴史の流れの中で踠きながら、耐えられない繰り返しに身を委ねているだけなんです。その方が気が楽になるなら。書物によって煽動され観念的な危機感に襲われる。不可能と知りつつも書物及び観念によって勇気づけ革命だと割り切って喚き散らす。その姿によって自らを慰めているに過ぎない。我々の革命の原点は、既成の観念を放棄することだ。しかし、それは余りにも。
 ───君は疲れているんだよ。少し静養したまえ。
 私だけが激昂していた。私はまだ若すぎるのか。憐れみ目で私を見ている仲間の顔には諦念の暗い影があった。
 ───我等の世代の宿命か。
 私は心の底で呟いた。
 夜の街の中を私は重い足を引き擦っていた。肉体からでなく精神から来る疲労には慣れているというものの今夜の症状はかなりの重症で永遠に回復できないのではないかと懸念するくらいだ。しかし、まだ絶望はしていなかった。その証拠にこうして歩いている。そんな自分が歯痒くてならなかった。諦めきれない自分、それゆえ苦しみ続けねばならない。このまま汽車に乗って何処か海のある土地へ行き、岩の上に座って波を見ているうちに身を投げてしまう。しかし、そんな勇気はない。臆病者の私はいくら傷ついても死ぬことはできず、惨めたらしく生きているのだ。終電で帰ろうと精一杯の努力をしている私があるだけだ。
 信号が変わった。私は車道へ降りようと一歩足を踏み出した。ちょうどその時けたたましい警笛を鳴らしてオートバイの一群が左折してきた。私は咄嗟に身を翻して難を逃れた。が、同時に、「馬鹿野郎」と怒鳴ってしまった。一瞬に血が昇り次の瞬間にはそれが声になっていたのだが、その僅かの間に、破滅志望という言葉が頭の中を過っぎたの私は確認した。彼らのひとりがオートバイを止めた。後続の車も止まった。そして先を走っていた車も戻ってきた。まるで彼らが狙って仕掛けた罠にまんまと嵌まり込んでしまったような気がした。彼らは私を半円状に取り巻いた。ひとりがおもむろにヘルメットを脱った。おそらくリーダーであろう。他のメンバーもそれに従った。髪をリーゼントにした十代後半の若者ばかりだった。
 ───何か文句あんのか。
 リーダーの男があらん限りの大声で怒鳴った。他の連中はニヤニヤと私の方を見ている。
 ───早くお家へ帰ってママのおっぱいでも吸ってお寝んねしな。俺たちはは何をしようと勝手なんだ。お前なんかにとやかく言われる筋合いはねぇ。昼間の憂さを晴らしているんだからよ、邪魔しねえで欲しいな。俺たちゃ自由なんだ。判ったか。
 通行人の足は止まっていた。私と彼らから一定の距離を保って成り行き注目している。無表情な顔に目だけが異様な残酷さに輝いている。まるでショー見ているように。この中に私の味方は一人もないなさそうだ。みんな関わり合いなるのを避けている。私の中にまた破滅志願という言葉が走った。
 ───てめえら人間の屑だ。生きてる資格等ねぇ。
 それは、暴走族だけでなく、目の前の見物している人間すべてに向けられていた。リーダーたちは暫く呆然としていた。反撃を予想していなかったのだろう。しかし、すぐに立ち直ってニヤリと笑った。そして、アクセルを全快してエンジンを思いっきり蒸し、クラッチを切ってギアを入れた。行くぞという掛け声とともにクラッチを繋ぎ、けたたましくクラクションを鳴らしながら、私目掛けて突進してきた。私はガードレールの後に飛び退いた。オートバイは私を通り過ぎたものの、すぐスピンターンをして、私に照準を合わせた。私は一目散に逃げ出していた。セコンドにギアチェンジしたのだろう、瞬発的な爆音が背後に聞こえた。私は初めての辻を折れ、さらに脇道に脇道にと逃げ惑った。それでもなお私を轢き殺そうとあの爆音が私を追ってくる気がした。彼らはまるで狩でも楽しむ様な残虐な笑いに追いまくられるようなに私は必死で駆けた。ついに息が切れた。道端に四つん這いになって喘いだ。激しい吐き気。吐こうとするが吐く物がないのだ。麻痺した頭で、ただ待つしかなかった。四つん這いという格好はおそらく人間の最も惨めな姿だろう。これ程今の私にふさわしい格好はない。破滅志願と構えたところで、オートバイのヘッドライトが真っ直ぐ私の方に向かって大きくなってきた時、私はただ恐ろしかった。恐ろしさのあまり走り出ししまった。とんだ特攻隊だ。それにしても、彼らが本気になって襲ってくるとは。私には全く考えられない心理である。しかし、怒りは感じなかった。現実の不条理に対する鬱憤をあのような形でしか解消できない彼らを思うと無性に寂しくなる。我々の世代は、もう彼らの世代とは違ってしまっている。上も下も、我等の世代は孤立無縁の状態に置かれてしまっているのだ。

第四章

 行く当てもない魂の脱け殻となって私は夜の裏街を彷徨っている。先刻よりも、一層ひどいダメージを受けているはずなのに、私はまだ歩くことができる。一体、何が私を歩かせているのか。そいつがとても恨めしかった。
 突然私の前を一つの白い影は過った。それが幽霊であれば何の興味も起こさなかっただろう。しかし、その白い影に強く人間を直感しまった。私は釣り針に引っ掛かった魚のように、その跡を追い始めた。白い影は暫く歩くと角に沿うようにして袋小路の方へ折れ曲がった。私も引き込まれる様に曲がった。瞬間白い影は私の方に向き直った。電柱の裸電球がその正体を浮かび上がらせた。女。しかも、まだ若い。おそらく私より二つか三つ下だろう。古代ギリシャの女性のように白い大きな布を身体に巻き付けている。襞になった所が優しく曲線を描いている。裾の方はズタズタに裂け、その間から、布の白さよりもさらに白い肉付きの豊かな大腿部が覗いている。しかも、しっとりと漏れ異様な匂いを発していた。女はニコリと微笑んだ。その時初めて彼女の顔に見入っている自分自身に気づいた。それほど、無表情な、凡そこの世界の人とは思えぬ整った、人形のような顔だった。彼女はか細い腕を上げて白魚の指で私を招き寄せた。そして地面の方に仰向けになって股を開いた。私は呆然として立ち竦むだけだった。ようやくして私の内に葛藤が始まった。今まで私にも好きになった女性が数人いた。二人だけになった時など突然ムラムラと欲望を起こりそうになったことも何度かあった。女の方から挑発してくる場合もあった。しかし、私は必死になって耐えた。セックスを美しいものだと人は言うけれども、所詮、人間を堕落へと導くものに他ならない。セックスは不道徳なのだ。ましてや愛してもいない女と……しかし、私は理性で抗しきれない程強く惹かれているのだ。何故だかははっきりわからない。ただ言えることは、人間が人間を呼んでいるような気がしたことだけである。ついに均衡が破れた。私は彼女に伸し掛かった。私の指は彼女の背中に食い込み、ひとつになろうと彼女を一層激しく抱き締めた。私は急速に彼女のうちへ落ち込んでいた。それが深くなるにつれて、性の中から罪悪感や享楽そして愛までもすべて虚飾が剥がれていた。そして、覚えている筈もない母の胎内がはっきりと脳裏に映ってきた。そこは光すらない闇の世界だ。私の肉体は収縮し、ついには、点、存在の原点になってしまった。
 遥かな旅路から舞い戻って来た私の頭を膝の上に載せ、白い影の女はその滑らかな中指で私の頬を優しく撫でていた。目と目が逢った時、彼女はニコリと微笑んだ。そして私の頭を静かに下ろすと再び夜の街を漂泊い始めた。雲の上を歩いているような彼女の跡を私は必死で追った。しかし、わたしがいくら足を速めても彼女との距離は縮まりもせず、また広がりもしなかった。そうしているうちに、私と彼女の間に一人の酔漢が入った。すると彼女はまた脇道に脱れた。次にその男が折れ、最後に私が曲り終わった時、彼は女の上に覆い被っていた。私は激しい嫉妬を覚えた。この男を殴り殺してやろうかと本気で考えた。だが次の瞬間には可笑しくて堪らなくなっていた。この気狂いめ。こんな女を相手にしていた私が情けなく苦笑せずにいられなかった。すると、この女が憎らしくなった。私は先刻の感激ぶりを忘れたように、淫売の不道徳さへの激しい怒りで一杯になった。こんな女を生かしておいては為にならない。私はもう一度彼女を直視した。するとどうだ。激しく体を揺り動かしている男とは対照的に、彼女は男の髪の毛を指で梳るっている。あまりの光景に身動き一つできなくなっている。神秘としか言いようのない美しさをあたり一面に漂わせていた。
 私の陶酔感はそう長く続かなかった。酔漢が立ち上がったのだ。
 ───チェ、こんな人形みてぇなアマ、ちっとも面白くねぇや。抱いていて胸糞悪いや。ちょっと抵抗したらどうなんだ。まるで白い便器みたいだ。男は口汚く罵った。まだ地面に転がっている女に唾を吐きかけてその場を去って行った。
 そう言えばこんな噂を聞いたことがある。真夜中に何処からともなく現れ、誰彼の区別なしに、身を委ね、夜明けの前に何処かへともなく姿を消していく、幻の女。ぼんやりと佇んでいる私のマヨ彼女が通り過ぎた。擦れ違い様、あの微笑を私ははっきりと確認した。私は再び虚しい尾行を始めざるを得なかった。何度も何度も先程と同じ光景が繰り返された。男という男はすべて途中で腹を立てて去っていった。
 空が白みかけた時、白い影の女は河原を逆上って山の方へ向かって歩いていた。やがて家並みが切れ、山道になった。道と並行して小川が流れている。私は一晩中彼女を追った。道を登り切った所は野原になっていて、その中にポツンと一件、丸太小屋が立っていた。彼女の姿は消えていた。私は恐る恐る小屋に近づいた。息を殺し中の様子を伺った。その時、突然、扉が開いた。
 ───やはり来なすったな。逸見君。お待ちしておったんじゃよ。神様のお導きの御蔭じゃ。
 あの老人だった。彼はすっかり相好を崩してこう言った。その後で、白い影の女が例のように微笑んでいる。私は軽い目眩いに襲われた。実際に起こってみると、こうなることはずっと前から知っていたような気がした。そういえばこの光景を確かにどこかで見たことがあるような錯覚に襲われた。しかも、私はあの幻の女に誘導されてここへ来たのだ。偶然だけでは証明のつかない、理性の限界を越えた神秘としか言いようのない、しかし、これは現実なのだ。私自身が体験している疑う余地のない現実なのだ。老人の言うように神の責任にしてしまえばそれまでのことだろう。だが私は神を持ち出してくるようなことができない。神さえ存在すれば何の苦悶もなくなるのに、そう考えれば考える程、私は神の存在を許せなく思うのだ。

 その日から私は老人に付いて町へ下りた。これは山道を自転車を押して歩くことは並大抵じゃない。若い私でさえこんなに悪戦苦闘しているというのに、この老人の足腰の強靱さは驚くべきである。午前中はリアカーを引っ張って廃品を回収しに回った。捨てられているものの中にはまだまだ十分に実用価値のあるものが少なくなかった。ゴミと一緒に持ち主の心までが捨てられているような気がした。老人は他の屑屋がするように金になるものとならないものを区別するようなことは全くしないで、すべての屑に同じだけの価値があるように手当たり次第でリヤカーに積み込んだ。そんなふうだから、私たちのリヤカーは直ぐに一杯になった。それらを仲買いに持って行った。仲買人は機械のように冷酷な目で屑を選り分けていた。金目の物の方が遥かに少なかった。仲買人には、無益な物ばかり多く持ってくる老人に散々文句を言いながら、算盤を弾いた。そして、その中からリアカーの貸し代を一勢いよく差し引いた。眼鏡越しに仲買人の鋭い目がキラリと光った。老人は支払われるままの金を有り難そうに受け取った。私は仲買人を横目で見据えながら自転車を脱した。
 もう、太陽が高くなっていた。私たちは河原に自転車を止め、あの女が作った弁当を開けた。大きな握り飯が三つ固く握っていないために偏平に菱やげて竹の皮の中に並んでいる。握り飯の中にはこれも大きな梅干が丸毎入っている。勢いよくかぶりつくと種が歯に当たって鈍い音がした。
 昼飯を済ますと、辻説法が始まる。老人がメガホンで神のお告げを説く。私は自転車の横に腰を下ろして老人を見上げている。 ───後ひと月もない。七月二十九日の正午きっかりにこの日本は滅亡するのじゃ。なにもかも避けようがない。手遅れなのじゃ。何もかも、わしら人間の責任じゃ。余りにも横暴な人間の所業が、とうとう神の怒りに触れたのじゃ。自業自得、来るべき報いじゃ。では皆さん。神も無慈悲じゃござらん。助かる道をお与え下すった。それは七月二十九日の正午に、家も金も地位も名誉も、それに親子兄弟に至るまですべて捨てて、一糸纏わぬ生まれたままの姿でわしの住んどる山に来なさることじゃ。わしの住んどる山だけは神が訳があって滅亡の危機から救われるんじゃ。そしてそこに集まった人たちと一緒に、また一からやり直すんじゃ。貧富の差のない平等な世界、じゃが、今のわしらが思っとるような自由はないじゃろ。それでも、今よりはずっと住みよい世界じゃ。なんせ権力を振り回す奴がおらんのでな。一生懸命働いたその分だけ幸福になる。そしてみんな仲良く神に守られて暮らしていけるユートピアなんじゃ。よいか、みなしゃん、ようくお聞きなされ。
 最後の部分を割愛すれば完全なアナキストだ。過去に相当過激な活動歴を持っているのではないかと疑う程である。しかし、この老人を支えているのはやはり神以外の何者でもないのだ。狭い小屋の大部分を占める祭壇らしきガラクタの寄せ集めたもの、今朝の憑かれた様な人、そして何より老人の漂わせる奇特な雰囲気がそれを証明している。私が老人の手伝いをしているのは、私が神を信じたからでは決してないだが、老人の言うようなことは当然起こりうるだろうという漠とした予感も私の中にある。この二つは私の中で矛盾し反発しあった。ただ、日本の滅亡という極限状況への強い期待があることは確かだ。老人の悲愴なまでの説得にもか拘わらず、人々の反応は冷たかった。軽蔑と同情の目が同時に浴びせ掛けられるだけだった。私は無性に腹が立ってきた。それは老人に対する憐憫から発したものでなく、一向信じようとしない人々へであった。いつの間にか、私も立ち上がって、聞いて下さい、聞いて下さいと大声で叫んでいた。夜、私たちは体を寄せ合うように寝床をとった。白い影の女も一緒に寝た。私は端っこで二人に背を向けて寝ている。昼間の仕事で体の芯まで疲れていたが、どうしても目が冴えて寝付かれなかった。私は悶々として寝返りを打った。その時、目に飛び込んできた異様な光景に私は声を立てることすらできないくらい驚いた。老人とあの女が睦み合っている。窓から差し込む月の光が姿をベールで包んでいた。いくら気狂いとはいえ、親子の間で関係を持つとは到底考えられないことだ。ましてや、老人は神に奉ずる身ではないか。それにしても、二人の抱擁は実に奇妙だった。二人は抱き合ったまま、阿呆のように目と口を開けっぱなしで互いに見つめている。私は彼らから目を離せなくなってしまった。どれほどの時間が流れたのか、ようやく二人の腕が相手の背から離れた。私は周狼して反転した。興奮は容易に冷めず、しばらく肩で息をしなければならない程だ。すると、その肩口から首筋へ女の柔らかな白い手が伸びてきた。次に肉感的な足が絡まってきた。体内の血液が逆流した。私は身を翻し、壁に背中を凭れさせると足で女の胸を蹴り退けた。妙な感触が足にあった。
 ───近寄るな、この淫売。
 私の声にまず起き上がったのは老人の方だった。
 ───ど、どうしたんじゃ。
 ───どうもこうもあるもんか、気狂い親子。
 老人は何とも納得のいかない顔をした。
 ───あんたら親子で今何をしていた。いくら娘が頭おかしいと言っても、していいことと悪いことがある。明らかに近親相姦じゃないか。しかも、あんたも宗教家の端くれなんだろ。
 ───これは気狂いでも何でもない、信者で歴とした私の妻じゃ。
 ───嘘付け。
 ───嘘を言って何になろう。年があんまりにもかけ離れているが私の妻に間違いはない。
 老人の答えはいささか意外だった。しかし、私の憤りはそんなことでは鎮まらなかった。
 ───だが、その妻という人が、今、私に抱きついて来たんだぜ。それだけじゃない、夜になると街へ下りて誰知らぬ見ず知らずの男に自分から体を許してるんだぜ。淫乱としか言いようがないじゃないか。え、宗教家として、夫として、こんなこと黙っているのか。
 老人は私のに居住まいを正して言った。
 ───あんたがこれと交わりを持った時、一体どんな感じを受けたのかの。
 私は口をモゴモゴするだけで言葉にならない。
 ───きっと母胎の中を体験したはずじゃ。でなかったら、こんな所までノコノコ付いては来まいからの。一切の虚飾を去った存在の原点、愛すらない存在と存在の邂逅。これこそ宗教の原義じゃ。性を高貴なものを侵すべからざるものとして様々な価値観を与えたのは、宗教に付着した権力なんじゃ。
 私は力強く頷いていた。もしかしたら、神が本当に存在するのかもしれない。意識すら介さない存在の限定にまでも遡行した時、私の肉体を支配しているものは。しかし、私は心中で必死になって頭を振った。

第五章

 私は母との約束通り、この前と同じ喫茶店のしかも同じ席に腰をかけている。三カ月の時間の長短については何も考えまい。そんなことを懐古したところで仕方がない。とにかく私はこの店に来たのだ。そして、明日は日本が滅びる日だ。
 店の従業員や客は先刻から私の方を盗み見ている。だがそれも尤もなことだ。老人と暮らし始めて一カ月一度も散髪したことはないし、髭も剃っていない。着ている物にしても洗濯はすれ着替えはしなかった。まさに乞食のような風貌であった。実際、いつものように約束より早く店で待っていようとしたのだが、入り口のところでレジの女性に門前払いを食った。私は父や母の来るのを待つより仕方がなかった。母私を見てひどく狼狽したようだったが、さすがに父は平然として扉を開けた。
 そして今、私は父と母に向かって座っている。母はこの前見たよりも少し痩せた様に思えたが、父の比ではない。口を真一文字に結んだまま毅然とした態度を崩さない父と私との間を母は必死になって執り成そうとしていた。私にとって父は本当に懐かしい人になっていた。それでも、暫く一緒にいると幼い頃からの思い出がありありと甦ってくる。厳しいというよりはワンマンだった父に私はよく殴らだものだった。父はほんの些細な事でも正義に反することは許さなかった。そして烈火のように手の平が飛ぶのだった。反面、子供の為になることは何でもしてくれた。だが私には怖い父のイメージの方が強かった。歳を取るにつれて激しさは色あせ、人間的な弱さも私にはわかるようになった。それでも、やはり父の前では体が竦んでしまうのだった。反抗期でも、父に逆らったことは一度だってなかった。その頃から、今の私の異質な性格が形成されていたのだろう。私は父を愛し尊敬していた。私は父の望む通りの人間に成長していた。生意気なようだが、私は極力父の機嫌を損ねないようなことは避け、父の意志に沿うようにと生きてきた。そんな私が本なんかを多く読むにつれて、次第に父の考え方と食い違いを生じ、自分自身の思想を身につけるようになった。そして、ついに、入れない水と油にまでなってしまった。
 ───おまえ、今、どこに住んでいる。
 父の方から口を切った。以前なら、こんな事はないはずだった。明らかに弱っている。山の中の小さなまたはです。父は、そうか、と頷いただけだが、母の方が黙っていなかった。
 ───山の中って一人で暮らしているの。食べるものはちゃんと食べている。こんなに痩せてしまって、病気なるわ。
 髪の中にヒゲの中にある私の顔は、目が落ち込んでいて方もひどく受けていた。母親として当然の心配だろう。
 ───いえ、大丈夫です。以前より健康なぐらいです。それに、老人とその奥さんと三人で暮らしているんで心配ありません。
 ───で、何をしてる。
 ───ええ、老人について、朝の内は屑屋、午後は宗教活動みたいなものをしています。
 母の顔が引き攣った。何か言おうとしたが、父が制した。
 ───宗教活動って。
 ───日本が滅亡するという神の告知を触れて回るんです。
 ───もう少し詳しく言ってみろ。
 ───ええ、今のように世の中が乱れているのは僕たち一人一人が好き勝手な事をして改めようとしないからなんです。それが梅雨入り神の怒りに触れ、そんな日本ならいっそのこと。保護してしまった方がマシだと神は決断されたのです。でも、たった一つだけ救われる道があって、そのそれというのは、財産も身分も親も子も捨てて、僕たちの住んでる山に入ることだけなんです。そして、そこでユートピアを築いて行こうというものなんです。私は老人がいつも言っていることを要約していたつもりだ。
 ───まあバカバカしい。まるで子供だましだわ。母が顔面を硬させながら言った。
 ───お前は信じているのか。
 ───まぁ。
 私は曖昧にしか答えられなかった。一カ月も老人と共に辻説法を続けてきて、老人の言うことは殆ど判るのだが、最後に神という概念が来ると、どうしても信じらなくなってしまうのだった。
 ───それで、その日本が滅亡するというのはいつなんだね。
 ───あなたまで、そんなこと。
 ───明日です。
 ───えらく急な話だね。
 父は余程動揺しているらしい。こんな主観的な父を見るのは初めてだった。
 ───明日、明日って恆ちゃんの誕生日じゃないの。
 そう言われてみると確かにそうだ。自分の生まれた日も忘れているとは。七月二十九日、私の誕生日、日本滅亡の日。そして新しい日本の生まれる日。
 ───馬鹿な真似はもうよして。帰ってきて頂戴。
 ───駄目なんです。日本は滅びねばなりません。これもみんな僕たち日本人の責任なんです。でも、一番責任があるのは、お父さん、あなたの世代です。
 ───わしの責任。
 ───そうです。あなたは戦争で死ぬべきだったんです。日本の為に、天皇陛下の為に。あなたもそう信じていたはずでしょ。信じる者の為に死ねたら、これ程満足なことはありません。日本の敗戦を知りながら特攻隊機に乗って飛び立った隊長の話をしてくれましたね。あなたも隊長を追って死にに行くべきだったんだ。散華の精神を全うすべきだったんだ。
 ───この子ったらなんて事を。
 母が悲鳴にも似た叫びをあげた。父は目を閉じて動かない。散華、私の口からこんな言葉は出ようとは。父には、その是非はとにかく信じるべきものがあった。本当に命を賭けられるものがあった。砂漠のように無味乾燥、信じられるものは何一つなく、信じるという行為すら忘れてしまった我々の世代からすれば限りない羨望があった。
 ───そうだわしも隊長と命を共にしようと思った。しかし、隊長はおっしゃった。お前ら陛下の御意を解せないのか。今死んでしまうより、これから世の中を生きる方がよほど辛いことなんだ。俺は部下の弔いに行く。こんな馬鹿は俺で最後だ。と。
 あとは涙で詰まってしまった。だが私はその涙をも乗り越えなければならなかった。
 戦後の廃墟を生きるとはどういうことだったのか。戦争が間違っていたならそれでいい。軍部が悪かったがそれでいい。財閥が悪かったがそれでいい。どうして自分が悪かったと言えないのだろう。目隠しされていたとはいえ、みんながどんな形にせよ戦争に加担していたんじゃないか。一億総懺悔などで誤魔化す問題じゃない。いや、今はそれを責める積もりじゃない。問題は廃墟の意味だ。その時あなたは何をすべきだったのか。戦前の社会が間違っていだというなら、今度こそあるべき絶対的な日本を想像して行こうと、それこそが戦後を生きるということじゃなかったのか。天皇が占領軍に代わっただけで、国民の本質は一向変わらなかった。廃墟の意味とは、すべての価値観、道徳観の崩壊、零から出発だったんだ。
 無意味なものに自らの手で新たな意味を与えていく。それがあなたの世代に与えられた使命だったんだ。
 ───そんなこと言ったって、あの時代、生活していくだけで精一杯なのよ。食べるものも着るものも、住むところも。私達がこうして生き抜いてきたからあなたが生まれて来たんじゃないの。
 ───それならいっそ、みんな死んでしまえばよかったんだ。 
 私は思わず叫んでしまった。母は呆然としてしまっても何も言えない。父は腕を組んで目を閉ざしている。沈鬱な時間が流れた。父が煙草に火をつけた。
 ───まだ若いな。
 私は無性に悲しくなった。
 ───僕はお父さんの生きた時代が羨ましいです。できることなら、廃墟の時代に戻りたい。それだけにお父さんが恨めしいのです。僕たちは、お父さんを否定して生きていかなければならないんです。この閉塞された時代を。でも、もう何を言っても通じないようですね。今度こそ、本当にさよならですね。
 私は静かに立ち上がった。そして出口へ一歩一歩床を踏みしめるように歩いて行った。背後で父の声出した。
 ───経験しとらん人間に何が判るものか。
 私はもはや堪らなくなって走り出した。涙が数行頬に伝う。恆一、恆一と気狂いのように私の名を呼びながら、母は追ってくる。三十年前、父を追ったように。でも、もう、さようなら。

第六章

 ついに運命の日が来た。私たち三人は街に下りた。救いを求めて山に登ってくる人を待った。しかし、誰も来なかった。時折、近所の子供がやってきたが、それも小屋を遠巻きにして囃し立てたり石を投げつけては帰って行った。
 ───誰も来ませんね。
 ぽつりと私が言った。
 ───ああ、誰も来ん。みな神の冒涜者じゃ。みんな死んでしまえばいいんじゃ。
 そしてまた沈黙が続いた。小屋の入り口に腰を下ろして自然を見つめている。空気がコロイド状になって波打つようにうねりながら流れていくのが見えるような気がした。
 ───少しは神を信じられるようになったかな。
 老人は前を向いたまま訊ねた。
 ───ええ、心から信じられるもの。信じるってどういうことなのか知らない私は、それでも、何者も信じるものかと身構えながらも、心から信じられるものを追い求めているのです。しかし、余りにも大きくなり過ぎた私の観念が追う物は、実体を持たないものなんです。だから私の理性はすべて否定してしまい。ただ自分だけ信じている、信じざるを得ないのです。
 私は胸に蟠っていた苦悩を吐き出すように言った。
 ───じゃが、もうすぐ、否が応でも信じなくてはおられんことが起こるて。
 ───ええ、私は今日まで支えてきたものは、その期待だけなんです。
 私がそう言い終わった瞬間、地面が微かに揺れた。老人はニッと笑った。
 ───そうらおいでなすった。わしの言うとったことは本当じゃろ。愚かな日本人め。死に絶えるがいい。
 私は今日に立ち上がった。
 ───どうしたんじゃ。
 ───山を下りるんです。
 ───何を言うか。山を下りればお前さんも死ぬんだぞ。神を信じんのか。
 ───私は山下りねばなりません。
 ───何故じゃ。何故なんじゃ。わしにはお前さんの考えとる事がわからん。
 ───とにかく、下りねばならないのです。長い間どうも有り難うございました。あなた方のことは一生忘れません。さようなら。
 私は二人に頭を下げた。白い影の女は微笑んだ。老人は腰を抜かしたような恰好であの魯鈍な表情で私を見上げていた。
 私は歩き出した。

一九七六年七月一日
京都教育大学三回生