僕が大学時代に同人誌に発表した小説です。題材は、今話題の「宗教」的なものです。
1 ぼくはマスターとテレビの競馬中継を見ている。常々、宝くじを買うぐらいなら競馬の方が確実だ、と言っている二人だが、いまだに競馬場に行ったこともなければ、場外馬券を買ったこともなかった。ただ気に入った馬を言い合うだけだった。 「だからわたしがいった通りでしょう」 マスターは自分の予想した馬が一着に入るとそういった。 「ええ、よく当たりますね。年の功というやつですかね」 「失礼な、そんなんじゃありませんよ。データの正確な分析ですよ」 「データね」 「馬体や馬場、騎手、天候とかね、いろいろ考え合わせるんですよ。あんたみたいに、この名前が変わってて面白い、じゃ当たりっこないですよ」 「でも、マスターだって、いつもいつも当たるわけじゃないでしょ」 「そりゃそうですが、2回に1回は当たりますよ」 「だったらどうして、馬券買わないんです」 「いやぁ、馬券なんか買うと、とんと当たらなくなるもんですよ」 「そんなもんですかね」 黒い液体が褐色のコーヒーカップに注がれた。 「いつどんな時でも絶対当たるってことはないもんですかね」「ハハハ、そんなことができれば億万長者になっていますよ」「そんなもんですかね」 「そんなもんですよ」 ボックス席のアベックは、狭い店内には大きすぎる声で話している。怒鳴っていると言った方がいいかもしれない。ここからは、女の顔が見える。栗色に染められた髪は複雑に波うち、眉は細い三日月に引かれ、目のまわりは紫、赤く縁取られた唇は可能なだけ開かれ、およそ女とは思われぬ乱暴な言葉を吐き出す。部分部分をとれば成熟した女のそれであるが、顔全体を見ると幼さが残っている。男は、アフロというのか雀の巣のような頭が後ろから見えるだけだ。時折、わざとらしく大声で笑ってみたり、テーブルを叩いてみたり、女の関心を引いていた。静かな日曜の昼下がりを楽しもうとこの店を訪れたぼくの目論見は台無しだ。だが、腹立たしさはあっても、正面きって抗議するような怒りになってこない。 「このごろの若い者は他人の迷惑というものを考えないんでしょうか。全く分かりませんね。何か怖いような気さえしますよ」 ふたりには聞こえない小さな声で、マスターに憤懣の情をぶちまけるのが、ぼくのせめてもの怒りの表現だった。 「あれが自由というもんでしょ。あんたもまだ若いのに年寄り臭いことを言ってると世の中の流れから取り残されますよ」 「マスターといやに彼らの肩を持つんだね」 「まぁ、仕方ないですね。あまり腹を立てないほうが得です よ」「そんなもんですかね」 「そんなもんですよ」 背後でドアの開く音がした。と同時に、背中に電気のようなものが走った。びっくりして振り返ると、薄汚れた黄土色のコートを着た男が、そこに立っている。脇には、「ホテルキン グ」と紺地に白抜きで書かれた看板を抱えている。髪の毛が異常に長く、前髪は目を覆い隠している。と、男を見ていた僕の体がフワッと浮き上がったような気がし、胸が苦しく、息が今にも途絶えそうで、意識も朦朧としてくる。と同時に、その希薄になった部分に、何か洞窟のような暗い穴が浸透してくるのを感じる。だが、それらは、すぐ収まった。気がつくと、男はぼくの隣に腰を下ろしている。 「酒、ありますか」 低く澄んだ声だった。マスターは後ろの棚に目をやった。そこにあるのは名前は知らないが南米産の非常に強い酒だった。ぼくが友達からもらったのを、マスターにプレゼントしたものだった。 「これは売り物じゃないんでね」 ますたーはこの酒かすっかり気に入って、毎日楽しみながら少しずつ飲んでいるのだった。おとこは返事もせずに黙っている。マスターは困った顔をぼくの方に向けた。 「いいんじゃないですか。ぼくの下宿にもう一本あるから、今度持ってくるよ」 見たところ、ぼくとあまり年が変わらないのに、ぼくの大学のともだちには見られない種類のうらぶれて陰気な表情がその男の顔にある。ぼくとは全く異なった生活圏であるはずなのに、なにかひどく類似したものをかんじずにはいられなかった。 「そうですか、でも、氷がないんですがね」 「ストレートで結構です」 マスターはまだあきらめがつかない顔で、グラスに3分の1ほど注ぐ。そしてぼくにもボトルを持ち上げて見せてくれた。ぼくは軽く頷いた。男は一気に飲み干す。男は何も言わずにグラスを差し出す。また、3分の1ほど注がれたグラスをグイッとばかり傾けられると、琥珀色の液体はみるみる減っていく。「もう一杯、いただけませんか」 こんな飲み方をして酒の味が分かるのだろうか。しかも、こんな強い酒を。3杯目が注がれた。マスターの手は小刻みに震え、ガラスどうし打ち合う音が断続的に聞こえる。ぼくも一口含んでみた。だが、すぐ顔をしかめずにはいられなかった。男は半分ぐらい空にすると、大きなため息をつき、グラスをあげて洋燈の光に透かしていたが、しばらくして残りも流し込んだ。そして、すっかり空になったグラスを手のなかで持て余していたが、またゆっくりとマスターの方へ押し出す。 「これ以上は体に毒ですよ。酒が惜しいんじゃなくて。注げというならいくらでも注ぎますよ。ただ」 男はグラスを静かに胸元まで引き寄せ、底を覗き込むように、グラスの上に俯いている。ぼくはしばらく男の方を見ていたが、つい堪らなくなった。 「飲みさしですけど、よかったら」 ぼくは、グラスの底の方を指先で押す。男はすーっと顔を上げる。 「ありがとう。いただきます。今日は無性に飲みたくて」 男はぼくのグラスも一息で干した。 「あなたはいい人ですね。お礼といっちゃなんですが、一つ面白い見せ物をご覧にいれましょう」 男はそう言って、アベックの方を向いた。ぼくも見るとはなしに見る。マスターの目にも期待の色が窺える。何が起こるのか分からないが、何かか起こるのはわかる。 男は目の前にふりかかっていた髪をかきあげる。すると同時に、女は落ちつきを失い、キョロキョロあたりを見回しはじめる。さっきまで、まわりの様子には一切かまわず二人だけの世界に没入していただけに、この変化は驚くに十分だ。女はようやく探していたものを捜し当てたように、男の座っている方向に顔を定めると、それっきり動かなくなっていた。女の目は完全に焦点を失っている。相手の男も彼女の異常に気づいたらしく、猿のような顔をこちらに向けて動かなくなった。 ぼくは男の方に眼を転じてみて驚いた。なんと男の眼がない。黒いはずの部分も白いはずの部分も、透明になっている。眼の奥まで透いて見えるのではないが、却ってそれが底の知れない深さを感じさせる。男はしばらく向き直った。二人ともそれから少しして、互いに顔を見合せ首を傾けあったが、すぐまた喋り始めた。 「どうして、こうくだらん人間ばかりがウヨウヨしてるんだ」アベックの男は反射的に振り返る。二人にも十分聞こえる声だった。 「お前らみたいな人間のクズは、生きていても仕方ない」 男は虚をつかれ、すぐには反応しなかったが、やがて騒ぎだした。女も援護射撃とばかりに喚き散らす。 「弱い犬ほどよく吠える。文句があるならかかってきたらどうだ」 若い男は立ち上がった。ぼくも身構えたが、いっこうかかってこない。女が男を押し出そうと必死になっているのが見える。男は二言三言罵ると、出口目指して足早に歩いていく。女も罵りながら、そのうちの半分は相手の男に向けられたものであるが、後を追う。 「金は置いていけよ」 男は背後の二人に言う。若い男は何か怒鳴りながらも、財布を探り千円札を摘み出すと、それを丸めてわたしたちの方へ投げつける。ぼくは腕をクロスさせて防ごうとしたが、紙玉ははるか手前に落ちた。 「いくら意気がっても、中身が伴わなければ通じないさ」透明な眼 4 女はさらに何か言いたそうな口元だったが、男がさっさと店を出るので、あわてて後を追う。ドアの荒々しく閉まる音が店内に残る。外では、オートバイを蒸かすあわただしい爆発音が連続し、それが最高点に達すると、しだいに遠のいていった。「いくらです」 ぼくは驕らせてほしいと言った。 「いえ、金はあるんです」 「ぼくはとても感激しているんです。ぼくもあいつらにはほとほと腹が立っていたんですが、怖くて何も言うことができなくって、お恥ずかしい話ですが。だから、ぼくに」 「いや、代金なんかいらないよ」マスターが言う。「今時珍しい人だ」 男はそれ以上言い張らず、申し出を受け入れた。 「これらか何か用事がありますか」 男は長い思案の後、そう言った。ぼくは、ないと答えた。 「それじゃ、わたしに付き合ってくれませんか」 |
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