僕が大学時代に同人誌に発表した小説です。題材は、今話題の「宗教」的なものです。



ぼくはコーヒー待っている。この店はブレンドでも一杯ずつサイフォンで煎れる。床が道路より一段低くなっている店内は、昼間だというのに洋燈が灯っている。カウンターは6人も座れないぐらいで、あとボックス席が一つあるだけだ。表通りに面しているにも関わらず、狭い店内が満員になることは決してない。今日のように若いアベックがボックスを占領しているほうが珍しいぐらいだ。

ぼくはマスターとテレビの競馬中継を見ている。常々、宝くじを買うぐらいなら競馬の方が確実だ、と言っている二人だが、いまだに競馬場に行ったこともなければ、場外馬券を買ったこともなかった。ただ気に入った馬を言い合うだけだった。

「だからわたしがいった通りでしょう」

マスターは自分の予想した馬が一着に入るとそういった。

「ええ、よく当たりますね。年の功というやつですかね」

「失礼な、そんなんじゃありませんよ。データの正確な分析ですよ」

「データね」

「馬体や馬場、騎手、天候とかね、いろいろ考え合わせるんですよ。あんたみたいに、この名前が変わってて面白い、じゃ当たりっこないですよ」

「でも、マスターだって、いつもいつも当たるわけじゃないでしょ」

「そりゃそうですが、2回に1回は当たりますよ」

「だったらどうして、馬券買わないんです」

「いやぁ、馬券なんか買うと、とんと当たらなくなるもんですよ」

「そんなもんですかね」

黒い液体が褐色のコーヒーカップに注がれた。

「いつどんな時でも絶対当たるってことはないもんですかね」「ハハハ、そんなことができれば億万長者になっていますよ」「そんなもんですかね」

「そんなもんですよ」

ボックス席のアベックは、狭い店内には大きすぎる声で話している。怒鳴っていると言った方がいいかもしれない。ここからは、女の顔が見える。栗色に染められた髪は複雑に波うち、眉は細い三日月に引かれ、目のまわりは紫、赤く縁取られた唇は可能なだけ開かれ、およそ女とは思われぬ乱暴な言葉を吐き出す。部分部分をとれば成熟した女のそれであるが、顔全体を見ると幼さが残っている。男は、アフロというのか雀の巣のような頭が後ろから見えるだけだ。時折、わざとらしく大声で笑ってみたり、テーブルを叩いてみたり、女の関心を引いていた。静かな日曜の昼下がりを楽しもうとこの店を訪れたぼくの目論見は台無しだ。だが、腹立たしさはあっても、正面きって抗議するような怒りになってこない。

「このごろの若い者は他人の迷惑というものを考えないんでしょうか。全く分かりませんね。何か怖いような気さえしますよ」

ふたりには聞こえない小さな声で、マスターに憤懣の情をぶちまけるのが、ぼくのせめてもの怒りの表現だった。

「あれが自由というもんでしょ。あんたもまだ若いのに年寄り臭いことを言ってると世の中の流れから取り残されますよ」

「マスターといやに彼らの肩を持つんだね」

「まぁ、仕方ないですね。あまり腹を立てないほうが得です よ」「そんなもんですかね」

「そんなもんですよ」

背後でドアの開く音がした。と同時に、背中に電気のようなものが走った。びっくりして振り返ると、薄汚れた黄土色のコートを着た男が、そこに立っている。脇には、「ホテルキン グ」と紺地に白抜きで書かれた看板を抱えている。髪の毛が異常に長く、前髪は目を覆い隠している。と、男を見ていた僕の体がフワッと浮き上がったような気がし、胸が苦しく、息が今にも途絶えそうで、意識も朦朧としてくる。と同時に、その希薄になった部分に、何か洞窟のような暗い穴が浸透してくるのを感じる。だが、それらは、すぐ収まった。気がつくと、男はぼくの隣に腰を下ろしている。

「酒、ありますか」

低く澄んだ声だった。マスターは後ろの棚に目をやった。そこにあるのは名前は知らないが南米産の非常に強い酒だった。ぼくが友達からもらったのを、マスターにプレゼントしたものだった。

「これは売り物じゃないんでね」

ますたーはこの酒かすっかり気に入って、毎日楽しみながら少しずつ飲んでいるのだった。おとこは返事もせずに黙っている。マスターは困った顔をぼくの方に向けた。

「いいんじゃないですか。ぼくの下宿にもう一本あるから、今度持ってくるよ」

見たところ、ぼくとあまり年が変わらないのに、ぼくの大学のともだちには見られない種類のうらぶれて陰気な表情がその男の顔にある。ぼくとは全く異なった生活圏であるはずなのに、なにかひどく類似したものをかんじずにはいられなかった。

「そうですか、でも、氷がないんですがね」

「ストレートで結構です」

マスターはまだあきらめがつかない顔で、グラスに3分の1ほど注ぐ。そしてぼくにもボトルを持ち上げて見せてくれた。ぼくは軽く頷いた。男は一気に飲み干す。男は何も言わずにグラスを差し出す。また、3分の1ほど注がれたグラスをグイッとばかり傾けられると、琥珀色の液体はみるみる減っていく。「もう一杯、いただけませんか」

こんな飲み方をして酒の味が分かるのだろうか。しかも、こんな強い酒を。3杯目が注がれた。マスターの手は小刻みに震え、ガラスどうし打ち合う音が断続的に聞こえる。ぼくも一口含んでみた。だが、すぐ顔をしかめずにはいられなかった。男は半分ぐらい空にすると、大きなため息をつき、グラスをあげて洋燈の光に透かしていたが、しばらくして残りも流し込んだ。そして、すっかり空になったグラスを手のなかで持て余していたが、またゆっくりとマスターの方へ押し出す。

「これ以上は体に毒ですよ。酒が惜しいんじゃなくて。注げというならいくらでも注ぎますよ。ただ」

男はグラスを静かに胸元まで引き寄せ、底を覗き込むように、グラスの上に俯いている。ぼくはしばらく男の方を見ていたが、つい堪らなくなった。

「飲みさしですけど、よかったら」

ぼくは、グラスの底の方を指先で押す。男はすーっと顔を上げる。

「ありがとう。いただきます。今日は無性に飲みたくて」

男はぼくのグラスも一息で干した。

「あなたはいい人ですね。お礼といっちゃなんですが、一つ面白い見せ物をご覧にいれましょう」

男はそう言って、アベックの方を向いた。ぼくも見るとはなしに見る。マスターの目にも期待の色が窺える。何が起こるのか分からないが、何かか起こるのはわかる。

男は目の前にふりかかっていた髪をかきあげる。すると同時に、女は落ちつきを失い、キョロキョロあたりを見回しはじめる。さっきまで、まわりの様子には一切かまわず二人だけの世界に没入していただけに、この変化は驚くに十分だ。女はようやく探していたものを捜し当てたように、男の座っている方向に顔を定めると、それっきり動かなくなっていた。女の目は完全に焦点を失っている。相手の男も彼女の異常に気づいたらしく、猿のような顔をこちらに向けて動かなくなった。

ぼくは男の方に眼を転じてみて驚いた。なんと男の眼がない。黒いはずの部分も白いはずの部分も、透明になっている。眼の奥まで透いて見えるのではないが、却ってそれが底の知れない深さを感じさせる。男はしばらく向き直った。二人ともそれから少しして、互いに顔を見合せ首を傾けあったが、すぐまた喋り始めた。

「どうして、こうくだらん人間ばかりがウヨウヨしてるんだ」アベックの男は反射的に振り返る。二人にも十分聞こえる声だった。

「お前らみたいな人間のクズは、生きていても仕方ない」

男は虚をつかれ、すぐには反応しなかったが、やがて騒ぎだした。女も援護射撃とばかりに喚き散らす。

「弱い犬ほどよく吠える。文句があるならかかってきたらどうだ」

若い男は立ち上がった。ぼくも身構えたが、いっこうかかってこない。女が男を押し出そうと必死になっているのが見える。男は二言三言罵ると、出口目指して足早に歩いていく。女も罵りながら、そのうちの半分は相手の男に向けられたものであるが、後を追う。

「金は置いていけよ」

男は背後の二人に言う。若い男は何か怒鳴りながらも、財布を探り千円札を摘み出すと、それを丸めてわたしたちの方へ投げつける。ぼくは腕をクロスさせて防ごうとしたが、紙玉ははるか手前に落ちた。

「いくら意気がっても、中身が伴わなければ通じないさ」透明な眼  4        女はさらに何か言いたそうな口元だったが、男がさっさと店を出るので、あわてて後を追う。ドアの荒々しく閉まる音が店内に残る。外では、オートバイを蒸かすあわただしい爆発音が連続し、それが最高点に達すると、しだいに遠のいていった。「いくらです」

ぼくは驕らせてほしいと言った。

「いえ、金はあるんです」

「ぼくはとても感激しているんです。ぼくもあいつらにはほとほと腹が立っていたんですが、怖くて何も言うことができなくって、お恥ずかしい話ですが。だから、ぼくに」

「いや、代金なんかいらないよ」マスターが言う。「今時珍しい人だ」

男はそれ以上言い張らず、申し出を受け入れた。

「これらか何か用事がありますか」

男は長い思案の後、そう言った。ぼくは、ないと答えた。

「それじゃ、わたしに付き合ってくれませんか」




店を出てから、言葉を交わしていない。ぼくは話をしたくて仕方がないのだが、男がせかせか歩くので、きっかけがつかめなかった。ぼくはまだ行き先を聞いていない。ただ、男の誘いをなぜか断りきれなくて、こうして付いて歩いているのだ。男の足は街の方に向いている。人通りも増えてくる。ぼくは少し前から不思議なことに気がついていた。向こうから歩いてくる人が、ぼくたちの方を見るのである。それだけならぼく一人で歩いているときも何度か意識したことがあったし、今日は長身の男と背の低いぼくの取り合わせが面白いのかとも考えられるのだが、その見方というのが、すれ違いざま殆ど体が平行に並んだとき、ちらっと見上げるのだ。だから、男の方だけを見ているのはわかるのだが、すれ違った人がしばらくその場で立ち止まるのは、どうも納得できない。

「不思議そうですね」

男はぼくがしきりに振り返るのに気がついたのだろう。

「ええ」

男は含み笑いをしている。

「先刻、店で見たことと関係あるんですか」

「見たことといいますと」

「いえね、あなたの眼が透き通っていたんですよ。アベックを見ていた時。やっぱり、ぼくの錯覚かなぁ」

男は含んでいた笑いを漏らした。

「透明な眼」

「眼が透明になるのです。眼の内を真空にするのです。そして、相手の人間を見る。視線が会う。すると相手の考えていることを、ぼくの眼が吸い込む。こういう仕掛けですよ」

男が足を緩めないで喋るせいもあるが、ぼくにはもう一つ納得がいかない。言葉を聞いているだけなら十分理解できるのだが、それらをつなぎ合わせて考えようとすると、全く受け入れられないのだ。ぼくには曖昧な相槌を打つことしか出来ない。

「世の中の人ってのはね、口ではなかなか本当のことは言わないものです。でも、眼だけはいつも本当のことを騙っていますよ。未分化な部分までもね。誰にも人の本心はわからない、あれは嘘ですよ。本心というものは確かにあるものですよ。本心というのは確かにあるんだ。それを捉える時に自分なりに歪めてしまうからわからなくなる。相手が思っているままの形で吸い込んでしまえばいいんですよ。わかりますか。」

「わかったような、わからないような」

「あなたはわたしと眼が会った時、変な気持ちがしたでしょう」「ええ」

「あなたの心を吸い込んだのですよ。あの時」

「はあ」

「と、同時に、あなたに心を吸い取られていた。わたしもね。胸の中が空っぽになるような息苦しさを覚えました。

「恐らくあなたは意識してやったのではないでしょう。でも何か得体の知れないものが入り込んで来るのを感じたでしょう」「ええ」

男はぼくに考える時間を与えてやろうというのか、黙ってだが足早に歩いている。ぼくにはすぐ言葉が浮かんだが、果して通じるのかどうか自信がなく、黙っている」

「洞窟のような暗い穴」

男のポツリと言った言葉は、ぼくの考えていた言葉と同じだった。

「わたしがあなたから吸い取ったのも同じものでした」

「その洞窟のような暗い穴には、どんな意味があるんですか」ぼくは核心に迫る。

「わたしはあなたを捜していたのです」

「ぼくを」

男は答えをはぐらかし、さらに謎めいた言葉を投げかけた。「酒を飲んでいて、ふと思い出したんですよ。ある人がね、わたしが洞窟のような暗い穴を感じた人がいたら連れておいで、と言っていたのを。それがあなただったんですね」

「ぼくをその人の所へ連れていこうというんですね」

「ええ、魔窟へね」

「魔窟って、あの」

「そうです、淫売宿です。ある人ってのは勿論、そこの娼婦です。しかも低級のね」

「ちょっと待ってくれ」

ぼくは足を止めた。男も振り返る。

「ははぁん、そうか、わかったぞ。おまえはポン引きなんだ。サンドイッチマンしながら客を漁っていたんだ。どうもさっきから様子がおかしいと思っていた。一種の催眠術を使いながら、ぼくを巧みに誘導していたんだな」

「あなたは、ここまで来たご自分を信じていないのですか」

男の声は、ぼくの罵倒を簡単に押さえ込んだ。自分を信じないとすれば、何を信じているのだろう。男の靴先がアスファルトの道を打つ音が、ぼくの胸のたかまりを刻む。

「案内してください」

「そうですか、すぐこの先なんです」




ぼくの案内された建物は、外壁がセメントで固められたザラザラしていて、しかも所々崩れ落ちていた。どこにも窓が見当たらないのが気になる。くの字に折れ曲がった階段を上り詰めた所に、太った中年女が椅子に座って、編み物針を動かしている。

「やぁ、テッちゃんかい」

「こんにちは。亭主さんの股引き」

「だれがうちの亭主のなんか。あたしんだよ。ここんところ腰が冷えてさっぱりだよ」

「おばさんももう年か」

「ふん、何言ってんだい。こんな昼真っからどうしたんだい。酒を飲んでるね。何かあったのかい」

「いや、べつに」

「そっちの兄さんは」

「おれの友だち」

紹介されて慌てて頭を下げた。中年女は大声で笑う。

「そうかい、そうかい、初めてなんだね。ゆっくり遊んでいきなよ。みんなたっぷり可愛がってくれるから」

また大声で笑う。ぼくの身体中の筋肉は凍ったようになる。何か言おうとするが、首から下顎の筋肉がままならない。

「ことの人はそんな人じゃないんだ」

「わかってるよ。テッちゃんが初めて連れてきた友だちだ、よっぽとの人なんだろ」

「麻衣奈いるかい」

「ああ、いつもの部屋にいるよ。あの娘も変わっているよ。テッちゃん一人しか客を取らないんだから。あんたがよくしてくれるから、うちの方は文句はないんだが」

男はじゃと言って右手を軽く上げると、奥へ歩いていった。ぼくも中年女に会釈してあとに付いていく。裸電球が狭い廊下を黄色に浮き立たせる。両側に木のドアが並んでいる。窓はない。足音の湿った響きが耳に付く。すえた匂いが鼻の粘膜を刺激する。男は三番目の、つまり一番奥の右側のドアを開けた。男の姿がドアの向こうに隠れる。

「そんな恰好じゃ風邪ひくぜ」

女の声が聞こえるか、小さくて何を言っているのかわからない。男はドアの端から手首を出してぼくを呼んだ。

部屋には窓はなく、廊下と同じ匂いがたちこめている。縁の破れた四畳半に蒲団が敷いてあり、その向こうには女が寝巻姿でちゃぶ台に座っていて、ぼくからは背中しか見えない。

「おい、ドアを閉めて上がれよ」

ぼくはドアの把手を握ったまま立っていた。

部屋には火の気がなく、畳の上に座っても、それがしっとり湿っていて、却って冷たい。天井にぶらさがっている灯が流れない空気を薄暗く照らしている。まるで牢獄にいるようだ。ぼくは牢獄を経験したことはないが、そう感じた。

「麻衣奈、お客連れてきたぜ。おまえが言っていた洞窟さん をな」透明な眼  7        そう言われて、女はやっと向き直った。真っ黒な髪がまっすぐに伸び、どっしりと肩を包んでいる。眉は太く、眼は大きくて綺麗な二重瞼で、少し切れ上がっている。どこか遠くを見上げているような眼差しだ。口は大きくないが、唇は厚く、真一文字に結ばれている。

「じゃあな。おれはちょっと急ぎの用があるので」

男は言い終わらないうちに立ち上がり、出ていこうとした。ぼくも立ち上がろうとしたが、男の片足は廊下に出ていた。ドアの閉まる音が部屋に響く。ぼくは片膝を立ててドアの方を向いていたが、思い切って振り返った。懐かしい女の顔がある。いま会ったばかりの女に懐かしいとはおかしな話だが、この女を見た瞬間、昔こんな女を捜していた事を思い出した。

「あ、あのう、ぼく」

女は厚い唇の両端をかすかにあげて微笑む。

「あたし、ずっと、いぜんから、あなたを、ぞんじておりました」

小さな、かすれた声だった。

「でも、今日」

「あたし、まいにち、おあいして、おりましたわ。いつも、そうして、すわって、いらしたわ」

「ぼ、ぼくも、あなたにお会いしたことはないはずなんですけど、何だかこう、今日初めてというわけでもないような」

「そうですわね」

女は、スルスルと寝巻の紐を解きはじめた。胸襟をつかみ大きく左右に開いて肩を抜く。真冬の太陽のように白い肌がぼくの眼を奪う。女は、肢体を静かに蒲団に埋めた。ぼくはまだ、白い残像を追っている。

「さぁ、いらして、ください」

女はぼくの方に顔を向けて言う。

「でも、ぼくは」

「あたしの、そばに、きてくださるだけで、いいのです」

ぼくは言われる通り、女の横に入った。

「うでを、せなかに、まわして、そう、むねと、むねを、あわせて」

女の指がぼくの背中にくいこむ、脚がからむ、全身を通して女の温もりが伝わってくる。髪に触れてみる。もう一方の手を腰に回す。二つの肉体の間には、わずかの隙間もない。意識が朦朧として、今まで感じたことのない陶酔のなかへ陥っていく。ぼくは身をゆだねた。

緑の草原もない、白い花も咲いていない、蝶も舞わず、鳥の声もなく、小川のせせらぎも聞こえない。潮の香りを漂わせるコバルト色の海もなければ、青く澄み渡った空もない。第一ぼくが立っているはずの地面もない。ただ一面、雪空のような銀灰色。天井も床も壁もない。ひたすら銀灰色の空間。ぼくはその中で、背を丸め、両手で膝を抱えて浮かんでいる。ぽっくり口を開け、遙か彼方を凝視している。うずくまったまま四方八方に回転している。身体は確かに移動している筈なのに、どこまで行っても銀灰色の世界が続く。最初の内は、焦燥と恐怖で息苦しかったのが、今では、すっかり馴れ、いつまでもこの銀灰色の宇宙を彷徨っていることができると思えるようになった。ここにぼくだけの世界がある。

どれぐらい時間がたったであろうか、いや、殆どたっていないかもしれない。ぼくの前に見覚えのある汚れた壁が広がっている。壁には窓がない。あれは夢だったのか。銀灰色の世界、いや、今だってまだ夢の中かもしれない。ぼくはいつ眠ったのだろう。それさえわかれば。だが、こう後頭部が重くては考えることもできやしない。もう少し辛抱すれば、すべてがはっきりするのだろう。ぼくは眼を閉じようとした。

「あら、もう、おきてらしたの」

「これは、まだ夢の続きかい」

女は、鼻から息を抜くように笑うと、白い腕を蒲団から出す。

「あたしの、てを、つかんでみてください」

確かに柔らかい感触がある。女は仰向けになって、肘で体を支える。

「今、何時ころ」

「じゅうじです」

「十時って、夜の」

「もう、あさ ですわ」

「じゃ、昨日の四時ごろから、ずっと眠っていたのか」

「ねむって など いらしてないわ。ただ あたしを おだきになって じっと かべを みつめてらしたわ」

「でも、ぼくは、確かに雪空のような銀灰色の中に」

「そうです。あなたは ぼたいふっきを なさっていたのです」「母胎復帰?」

「すべての きせいがいねんは さって 、あなたの こころは からっぽに なっていたのです」

「心が空っぽ?」

「こころを むなしくして ひとの こころを すいとることが できるように おなりになったのですわ。とうめいな め」「透明な眼?」

「あなたは もう ひとの おもっている ことが おわかりになる はずですわ」

「ど、どうしてそんなことを、ぼくが」

「あなたが そう することを、のぞんでらしたから テツオさんが つれて きたのですわ」

「テツオ? そうが、あの男はどうしてのだ」

「しにました」

「死んだ?」

「きのう あれから すぐ りっきょうの うえから でんしゃに とぴこみました。おばさんが そう いってました」

「どうして、死んだりしたんだ」

「それは いずれ あなたにも わかります」

建物を出ると、太陽の光が眩しかった。午後からは大学に行かねばならない。女は、「また いらして くださいね」と言って部屋に残った。ぼくは、外に出て、建物を振り返った。あの女の言葉。向こうから人が歩いてくる。ぼくも歩きだした。



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