展覧会の絵


 私は電車を降りると額に流れる汗も拭わず、ただひたすらに駆けた。駅前の賑やかな商店街を少し離れたところに白いペンキが剥げ、却って汚らしくなった小さな画廊がある。汗まみれやっとの思いで辿り着いた時、おそらくはパートのアルバイトと思われる若い女が、邪魔臭そうに「T・Y展」と書かれた看板を外しかけていた。私は狼狽ててその女の方へ駆け寄った。
「もう、お仕舞いですか」
「ええ、五時ですから」
 その女は極めて事務的な応対をした。私の時計では五時まで後十五分ある。私は背広の内ポケットから大事そうに二つ折りにした葉書を一枚差し出した。
「あのう、こんなものを持って来たんですが」
 女は訝しそうにその葉書に目をやったが、何とも言わなかった。
「十分、いや五分でもいいんです。どうか中へ入れていただけませんか」
 女は渋々ながらやっと承知した。そして、また、前にも増して煩わしそうに片付け始めた。私は丁寧にお礼をいうと、急いで画廊の中へ飛び込んだ。左右に居並ぶ作品に目をやる余裕は、私にはなかった。早く、早く見たい、あの絵を。私はそんな気持ちでいっぱいだ。手に握り締められている葉書の差出人はIとなっていた。 

 私は大学の二回生、Iは五回生だった。二人は大学の近くにあるミルクホールに座っている。こんな事は一度や二度のことではない。それどころか、二人がミルクホールにいない日の方が珍しいぐらいだった。
 私がIと知り合ったのは、一回生の秋の事で私が発掘調査とは名ばかりの土方まがいのアルバイトでだった。昼休み、食事を済まして私が現場に戻ってくると、Iが一人で自分の掘った穴を見つめながら座っていた。私がIに近寄るとIは人なつっこい顔を上げて
「君、煙草ある」
といきなり訊ねた。私が、吸わない、と答えると、Iは、ふうんと言った感じでまた穴を見つめた。
「君はどこの学生」
 Iはそのままの姿勢で私の方を見ずに言った。なぜかどこかIのある声につられて大学名を答えると、
「じゃ、僕と同じだ。で、学部は」
「文学部の一回です」
「へぇ、奇遇だね、僕は五回生だよ」
 口下手で人見知りが激しい私も、Iの人なつっこい話し振りにまるで昔からの知己のような錯覚に襲われて、つい口が軽くなった。
「でも、大学じゃ殆ど顔を見ませんね」
「そうかい、そうかもしれないね。一回生で顔を知っているのは君が初めてだからね。ということは、今年はまだ一回も大学で顔を出していないのかな、はは」
 私は、その気取りのない惚けた喋り方に思わず笑ってしまった。私は直ぐ、純情無垢な乳呑み子のようなIが堪らなく好きになった。昼食はもう済ませたのですか、といつ言おうかとさっきから身構えていた在り来りな質問も忘れ、気軽に思い浮かぶまま口から発していた。私が最近の大学のことを話すと、Iはその都度、珍しい話でも聞くように感心して大きく頷いた。Iの素振りは少しもわざとらしさを感じさせず、Iが頷くたびに今度は私が微笑むのだった。

 アルバイトを止めて暫く、Iと逢う日がなかった。その次Iと会ったのは、私の記憶の中でIの占める部分がやや狭くなりかけた二回生の春、世間が「血のメーデー事件」で騒がしくなっていた頃だった。私は一人であのミルクホールのカウンターに腰を下ろしていた。私がその店に入ったのは初めてで、友達が学校の近くに良い店があると噂してたのを聞いて何気なしに立ち寄ったのであった。私はぼんやりとコーヒーカップを片手にしていると、「やぁ」と軽く肩を叩く人があった。私にはそんな心安い友達はいないはずだったのに。驚いて振り返ると右手を曖昧に上げたIが立っていた。私の顔見ると、また「やぁ」と言った。私はすっかり戸惑ってしまって、少し吃りながら、こんにちは、と言わざるを得なかった。Iは、私の横に腰掛けていた人に、すいませんね、と例の声で席を譲ってもらうと、ミルクを注文した。
「悪いけど君、僕の分も払ってくれない」
 勘定する前からIはこう言った。私は別に悪い気もしなかったし、それよりも、呆気に取られて、あぁ、いいですよ、と引き受けた。
「やぁ、悪いね。その代わりと言っちゃなんだが、色々面白い話をしてあげよう」
 こうして二人の交際が始まった。場所はいつも私、話をするのはいつもI、勘定払うのはいつも私。ミルクを飲みながら語る、語りながらミルクを飲むIに私はいつもただ相槌を打つだけ。するとIは大いに恐縮して話はさらに拍車がかかる。Iの話はもっぱら文学、それも近代小説、詩についてばかりで、政治や経済、社会の話は一切ついにぞIの口から聞かれなかった。Iの語るところの文学論は、彼独特の目を通したもので。毎回痛烈な批評が加えられていた。Iの学識の広さは、非常に精密なガラス細工のような感受性は、私をすっかり擒にして離さなかった。

 私が二回生の十二月中頃のことだった。Iと私は例の店でいつもの如く話をしながらミルクを飲んでいた。Iは一頻り文学論を述べ終わると大きな溜息をついた。コップの中にはミルクがそのまま残っていた。それ程、その日のIの話し振りは激しく、何か物の怪にでも憑かれたのかと訝られた。Iはどうも落ち着かない風だった。飲みもしないのにコップを持ってみたり、すっかり見飽きたはずの店の中にあちこち目をやったりした。その合間に何度も「で、ねぇ君」と言いかけては止めた。早く人に話したい欲望を、できる限り相手を引きつけておいてその喜びをより大きなものにしたい欲望との葛藤を楽しんでるように見えた。ついに耐えきれなくなったのかIの口の栓が外れた。
「で、ねぇ君。T・Yという名の画家を知っているかい」
 私はそんな名前聞いたことはなかったが、何か悪い気がして答えなかった。しかし、Iは最初から私の答えなど宛にしていなかったように続けた。
「じゃ、勿論〈K〉という絵も知らないね」
 私は答えの積もりではなかったが尋問されているような気がして、「ええ」と応じた。Iはその返答に大いに満足した様子でまるで一編の詩を読むように語り始めた。
「色はあくまで白く、伏目がちになる切れ長の目を落として唇はやや半開き、黒く長い眉とやや大振りの手足にアンバランスな色気が漂う。しどけなく着こなした黄金色の縦縞の着物と若草色の帯、黒く大いなる猫を抱いて、Kと書かれた箱の上に座っている。コレッ!と声を掛けたくなる気だるいボサノバ調の美女。肺を患う細い胸がそこにあり思いつめる深い目がそこにある。さながら一幅の絵、と言いたいが、まさしく絵だから何と言えばいいか。………明治・大正画壇の鬼才のT・Yの女がそれなのだ」
 Iは熱に浮かされたように喋り続けた。その目は、もはや現実の世界からは遠く離れ、T・Yの創造の世界を彷徨っているかののだった。語り尽きると、Iはまた深く長い溜息をついた。私はIの異常な興奮状態ばかりに気を取られて、〈K〉の女のイメージの方は、直ぐには思い浮かばなかった。Iの言葉を一言一言丁寧に反復してやっと、ぼんやりながら一つの像を築き上げることができた。それほど長い沈黙が二人の間には流れていた。
「それで、その絵、どこにあるのですか。一度見てみたいものですね」
と、私が何気なく沈黙を壊した。Iは、朝、無理矢理に起こされた児のように不快極まりないと言った風を顔を一杯で表現した。「どこにあるのか分かっていたなら誰も苦労しないよ」
 さっきまでの夢見る様な口調とは打って変わって荒々しく言葉を吐き出した。私が驚いた目でIを見ると、今度は柔らかな話し方になった。
「僕があの絵を見たのは三年前、薄汚い古い道具屋の片隅の壁に掛けてあった。僕は一目見ただけですっかり擒にされてしまった。それ程高価な品物じゃなかったが、そんな金さえなかったので、店主に残しておくよう頼んで二、三日後、ようやく金ができたので買いに行ったのだが、もうなかったんだよ。その店には。だから、今どこにあるのかわからないのだよ」
 Iは頭を抱えてカウンターの上にうずくまった。Iがなぜこんな話をし出したのか私には皆目見当がつかなかった。Iはゆっくりと顔を上げると、ほとんど口をつけていないミルクを一息に飲み干し、異常なまでに鋭い目を私に向けた。
「いつも済まない。この報酬はきっとする」
と言って一人、力ない足取りで店を出た。私がIを見たのはそのときが最後だった。

 画廊は思ったよりもさらに小さく、私は直に最後のブロックの前まで来た。
 すでに二週間前、Iからの便りは届いていた。二十三年振りに見たIの筆跡が懐かしかった。私は直ぐにも飛んで行きたい気持ちで一杯だった。と同時に、何か恐ろしい事件が起こりそうな予感がした。私は随分と惑った。そして、今もどうして此処にいるのか自分でも不思議な気がする。その上、私はまるで磁石に引き寄せられるようにあの絵が飾ってある部屋を足を踏み入れようとしている。
 突如、私の目の前に現れた一枚の絵。黄金色の着物に身を包んだ女が、黒猫を抱き抱えている。色はあくまで白く伏目がちなる切れ長の目を落として、唇はやや半開き、黒く長い眉とやや大振りの手足にアンバランスな色気が漂う………Iの言葉が、そのまま甦ってくる。似ている、やっぱり、この女だ。

 私がIと別れた日から半年が過ぎた。Iと会えなくなった当初は生きる望みがなくなったと言っても言い過ぎではない程虚ろな生活が続いた。思えばIは私にとって恋人のような存在だった。恋人に捨てられた寂しさを紛らわすかの様に、私は今までの生活を変え始めた。その頃からだった。私が遊廓へ足を運ぶようになったのは。といっても、もちろん、私のような貧乏学生には妓楼の敷居を跨ぐ事はできない。戦災を受けなかったこの街の廓は、昔の風情を留めていた。格子戸の並ぶ小川沿いの道をいつもゆっくり通り抜けるだけだった。それだけのことなのに、私の心は妙に慰められるのだった。Iの面影がこの遊里の雰囲気とひどく似ていた。弱々しく哀れを漂わせた中に、とても強く、そして静かに何かを秘めている、そんな街だった。
 そんな初夏のある日、私は昼から大学に出ず、いつものように遊里を歩いていた。建ち並ぶ妓楼の中に、相当古い建物なのであろう柱に塗られた塗料が殆ど剥げてすっかり色褪せてはいるが、ずっしりと重く過去の陰惨な歴史を自ら物語っている家があって、私はそれが大変好きで、ここに来た時は必ず道の真ん中につっ立って建物を見ることにしていた。もう少し日が暮れると賑わうであろうが、辺りはまだ閑散としていた。そんな静かな空気の中で、かすかに笑う女の息が爽やかな川風に乗って私の首筋を刺激した。私は一瞬、ピクリと身を引き締めたが、きまりが悪くてその方を見ることはしなかった。すると、今度は、はっきり聞き取れる声で笑った。何が可笑しいのだ、私は憤然たる態度をもって振り返った。小川のほとりに置かれた床几の上に、しなやかに腰かけた黄金色の着物に若草色の帯の女が、団扇を片手に私の方を見て笑っていた。………色はあくまで白く、伏目がちなる切れ長の目を落として、唇はやや半開き、黒く長い眉とやや大振りの手足がアンバランスな色気が漂う。……私はしばし呆然として我を見失った。大学のテキストを地面に落としたままじっと彼女を見返していた。私はまだ一度も見たことはないがIが話していた〈K〉の女とは絶対こんな女に違いない。私はその女を見た瞬間、そう直感した。
「学生さん.今日が初めて」
 永遠に動かないものと決めつけていたその女の口が不思議なことに開いた。私は益々自分を見失ってしまい、一応ああと答えたが、それは、学生の分際で廓遊び等もっての他だという古い道徳観から出た言葉であろう。
「うそ」
 女は短くそう言うと、流し目で私を睨んだ。私は女の意外な言葉によって、急速に現実の世界へと引き戻された。
「うそって、どうしてわかるんだ」
「だって、あなた毎日この前を歩いているじゃないの。そして決まってこの店の前で立ち止まるわ。私、いつも二階から見ているのよ」
 私は一瞬のうちに顔を真っ赤に染めた。普通なら急いで立ち去るところだが、私はどうしても去りがたい感情に縛られていた。私は思い切って口を開いた。
「き、君、なんて名なの」
 女は俯いたまま、また微笑んだだだけで何とも答えなかった。私の顔は益々赤くなった。なんて迂闊なんだろう。初対面の相手にいきなり名前を訊ねるなんて。私は今度こそその場を立ち去ろうとした。その時、
「S」
とただそれだけ彼女は言った。私は踏み出そうとした足を止めて、女の方を見やった。
「あたしの名前はSです。あなたは」

 こうして、Sと私の恋愛が始まった。Sは、私がいつも足を止めて見上げていた妓楼の遊女だった。しかし、そんなことは私にとってどうでも良いことである。歳は十九、私より二つ下。顔立ちから想像すると小柄ではあるが、もっと老けて見える。二人の愛は、清く美しく、そして哀れだった。Sも私もほとんど口をきかない性格だった。生きる為とはいえ、日々の生活の苦しさをじっと下唇を噛んで我慢しているSを目の前にすると、私は何も言葉を見つけられず、ただ、今にも崩れてしまいそうな彼女の痩せ衰えた身体を優しく抱き抱えているだけ。Sに何もしてやれないことを詫び、「私の身体は他人に売っても、心まで売りはしないわ。今のあたしにはあなたがいるだけで充分、大丈夫よ」と。Sは反対に励ましてくれるだった。二人の恋とは、そんなふうに流れていった。
 やがて一年が過ぎ、そうしてもう一つの夏が終わろうとしていたある日の夕立が上がった後だった。Sは私の瞳をじっと見守ったまま、押し黙っていた。私はIの沈黙がいつもと違うことにすぐ気づいた。彼女の目は悲壮感を一杯溜め、薄っすらと滲んだ涙を必死に堪えていた。私は堪らず、問い正した。
「ど、どうしたんだ。いったい」
 陽気に装う積もりだったのに、Sの瞳を見ているとつい声が強張ってしまった。
「あ、あ、あたし、き、今日であなたと」
 堪えていた熱いものが、堰を切ったように溢れた。
「な、何が言いたいのだい。泣いていたってわからないんじゃないか。さあ、もう一回言ってご覧よ」
 今は何を言っても通じない事は分かっていた。私はもう何も言わず、Sの肩に両手を掛けた。Sは一層激しく泣き出して私の胸に飛び込んできた。私には何が起こったのか、皆目見当がつかなかった。が、Sにとっても私にとっても、泣かずににおれない程、辛い何か重大な事件が起こったらしいことだけは感じられた。私は泣き濡れるSの身体を力一杯抱き締めた。私の胸を潤すSの涙は私にも泣けとせがむものだった。どれほど抱擁が続いたろう。Sの感情が一頻りおさまるのを待って、私はSの顔を上げ、泣き濡らした眼をそっと撫でてやった。それから、もう一度優しく訊ねた。
「どうしたんだい」
 Sは真っ赤に充血した目を上げ、しゃくりながら言った。
「あたし、今日で、あなたと、お別れ、しなくてはなりません」
 そして、また俯いて目を閉じた。大粒の涙が頬を伝った。
「もう泣くのおよしよ。さぁ、詳しく話してご覧」
 自分でも不思議なぐらい、冷静な事だった。というよりSの話がまだ現実として伝わった来ないのだ。Sはポツポツと話し始めた。
「あたし、他の街へ移されるんです。そこは、ここから遠く遠く離れた所なの。私、あなたとつき合ってはいけないって言われたの。お母さんがいう事には逆らえないわ。だから私、もう、あなたと会えないわ」
 そこまで言って、Sはまた泣き出した。今度は私にも涙の訳がわかった。それはあってはならないはずの、余りにも悲しいこと。私は泣くことさえ、Sを支えてやることさえ忘れてした。しばらくして泣き止んだSは、帯の所に手をやると小さな紙包を出した。「これに僅かですがお金が入っています。今夜、このお金を持ってあたしを買いに来てください。あたし、最後にあなたに抱かれて、この街を出たい」
 Sは紙包を私に渡した。私はその手を荒々しく引き寄せた。Sの背中に手を回し、私の熱く燃え滾る唇を、Sの濡れた薄い唇に激しく重ねた。それは、永遠のように、ほんの一瞬のよりも感じられた。それが私とSの最初で最初の口づけ、そしてSの姿を見た最後の日だった。

 どれほど経ったのだろう。どれほどの時間、私はこの絵の前に立っていただろう。この絵を見ていると、つい二十二年前のあの思い出の世界に引き込まれてしまっていた。四十を過ぎた私にとっては、その日暮らしの連続だった苦しい青春時代も今からすれば、ずっと充実した、生きることへの夢と情熱に燃えている時だった、と言い切るとができる。その中でもSとの思い出は一段と光を放ち、私の青春の象徴ともいうべき存在だ。一体全体.Sのことを思い出したのは、私にとって良いことだったのか、悪いことだったのか。恐ろしい予感とは、Sの思い出とどこか繋がりがあるのではないか。
 私が取り止めもなく思索に更けていると、後から私の肩を叩く者がいる。私は驚いて肩を窄めた。そして恐る恐る首も回した。髪を無造作に長く伸ばし、無精髭を生やし、頬はこけ頬骨が異常に突き出た、ひどく痩せた男が、棒切れのようにそこに立っている。目も落ち窪んではいるが、その奥にある眼差しだけは鋭く、しかも静かに輝いている。一見しただけでは、一体歳がいっているのかいないのか、全く判別がつかない男である。しかし、私にはその男がIであることは直感でわかった。
「やぁ、久し振りだね」
 これがIの最初の言葉。二十三年という月日の流れを「久し振り」それだけの言葉で置き換えるあたり、昔のIがここにいる。本当に久し振り、というよりも、私は亡霊に対面している気さえして、暫く口もきけなかった。
「やっぱり来てくれたんだね。僕は最初の日からずっとここでこうして、君の来るの待っていたのだよ。本当によかった」
 淡々とした口調ではあったが、それが却って、とても激しい感情を秘めているように思えた。Iは静かに両手を差し伸べ、私の手を優しく包んだ。私も、もう片方の手を重ねた。Iの目に涙が光る。私は急に喉の所まで言葉が込み上げてきた。挨拶など抜きにして、いきなり口を切った。
「どうしたんです。ある日突然姿を消して、今まどこで何をしていたのですか」
 感情ばかりが先に立って、自分で自分が何を言おうとしてるのか、わからない。Iは口元だけで微笑んだ。
「本当に来てくれてありがとう」
 当て外れの返答に私が不信がっていると、Iはまた口元に笑みを漂わせて話し出した。
「最後に君と逢った日、T・Yの〈K〉の絵の話をしたろう。僕はずっと以前からあの絵に思い焦がれ、胸の底深くしまっておいたのだが、口に出して人に聞かせたのはあの日が初めてだった。不思議なもので、一旦口に出してみると今までの耐えていたものが、急激に発散して、もう無性に恋しくなり、矢も立ても堪らなくなった。あの絵を捜し出してやろう。その日から僕の放浪が始まった。そして………、いや、こんな所じゃ何だから場所を変えよう」
 私はすぐ同意して、近くの喫茶店へ入った。
「悪いけど、僕の分も払ってくれないかな。ちょっと金がないんだけど」
 懐かしい言葉だ。私は快く承知した。それにしても相変わらず話が上手いなぁとニコニコしながらIの方を見た。しかし、Iは冗談ではなく真剣な眼差しで私の方を向いていた。私の顔から笑いが消えた。
「でも、ねえ君も随分と堕落したものだね。あの頃は、飲むと言えばミルクの事を言ったものだったのにね」
 Iは、洋酒の入ったグラスを両手で積み込んだ。堕落か、Iは贅沢=堕落と考えているんだろうか。いや、恐らく、その中に潜む物質的なものではなく、精神的なものを指摘しているだろう。確かにそうかもしれない。私も随分贅沢ができるようになったものだ。少しの沈黙が流れた。Iはさっきの話の続きを始めた。
「それは酷いものだった。なんせ、何の当てもないのだからね。力も金もない。あるものといえば情熱だけ。実際これがすべてなんだからね。美術館や画廊、古道具屋,美術装飾品店、片っ端から歩いたり、画家の先生を紹介してもらったり、とにかく手掛かりになりそうなことはすべて試してみた。でも、すべて報いられなかった。日本は広いとつくづく感じたものだ。君と別れて二年目の秋、僕は性も根も尽き果てて、北陸のある街で燻っていた。

「余程寂しかったんだろうね。その頃から廓なんかに通うようになった。廓の雰囲気が〈K〉のイメージとピッタリ重なって自然と心が休まる。毎日食って行くだけでも精一杯なのに、女を買うことなんてどこを叩いたって出て来やしないはずなのに、不思議なものだね。通い始めて間もない日のこと、僕がなけなしの金を持って馴染みの家に入ると、そこの女将が、新妓を紹介してくれた。その少女は畳に両手を付き、頭を下げだまま、よろしくお願いします、と今にも途切れそうな声で挨拶をして、ゆっくりと顔を上げ、弱々しく笑った。その顔を見るやいなや、僕は稲妻に打たれたように身動き一つ出来なかった。あの女だ。色はあくまで白く、伏し目がちなる切れ長の目を落として唇はやや半開きに、黒く長い眉とやや大振りの手足にアンバランスな色気が漂う。しどけなく着こなした黄金色の縦縞の着物と若草色の帯、コレッ!と掛け声をかけたくなる気だるいボサノバ調の美女。まさしく〈K〉の女そっくりだった。
 私はその女がSであることが直ぐわかった。運命とは奇なるものなり。しかし、SがIの元へ赴いたのは、むしろ運命の必然性に従う所かもしれない。私は黙ってグラスを傾けた。
「その日から僕は食うものも食わず、毎日毎日その妓楼へ通い続けた。彼女と一緒の夜は、一晩中眠らず詩や小説のことを話してやった。彼女は少しも嫌そうな顔をしないで、眠たい目をこすりながらも時々相槌を打って、僕の話に一心に聴き入ってくれた。ある時などは、何処で手に入れたのかヨレヨレになった文庫本の啄木詩集を持ってきて、僕に説明を求めたこともあった。あの頃、僕も二十五歳で一通り女の扱い方を知っていたのだが、彼女を前にすると、彼女はとても神聖な存在に感じられて、指一本でも触れようものならば、極悪人と罵られるような気になってしまう」
 Iの話を聞いていると遠い昔の思い出となった筈のSが、今、ありありと私の前に現れてきた。Iが純真ならざるを得なかった気持ちがよくわかる。私にとっても、Sの存在は本当に女神か何かのようだった。Sの思い出が現在の私に近づいてくるに従って、私の心の中にはSへの疑惑と Iへの嫉妬が芽生えてきた。私は堪らなくなって訊ねてしまった。
「その少女は、過去の事、何か話したこと、ありませんか」
「うん、何処で生まれ育ったのか、何処から来たのか、何度か訊ねたが、ただ笑っているだけで少しも答えてくれなかった。たった一度、なぜこんな田舎町へ来たのかと訊ねた時に、前いた所に恋仲だったが、無理矢理引き裂かれてしまったと漏らした事がある。それが妙に残ってね」
 どのように残ったのか、訊いてみたくて堪らないのだが、何とか言葉を濁して誤魔化した。
「彼女と僕のそんな交際が半年程続いた。二人の中は、もはや商売上の関係ではなく、一人の男と女の間柄になっていた。しかも昼間も人目を忍んで逢うようになった。あたりを憚りながら、不安気な様子でやってくる彼女も、一目僕の顔を見ると周りの空間も時間もすべてが消去ったのかの如く幸せそうな表情を顔いっぱい湛えた。二人は何するとなく、ただ並んでいいるだけだった。それだけで十分だった」
 一体どういうだ。私との恋も冷めやらぬ間に、Iなんかと恋愛に陥るなんて。女の気持ちはこうも………いや、Sが悪いんじゃない。みんなこのIが悪いのだ。私の嫉妬心は絶頂に対し、今にも破裂しそうだ。その時、Iの言葉は私の感情を中断した。
「さっき話した妙な心残りが的中してしまった。二人の仲がバレてしまって、彼女また遠くへやられて行くことになった。彼女が僕にそのこと打ち明けた時、二人は途方に暮れて長い沈黙を持った。彼女は、これも運命だから仕方ありませんと言って、運命に弄ばれている自分を諦めていた。一度ならずも二度までも。僕は彼女の気持ちを疑った。今までの僕への愛は全て見せかけだったのか。彼女は手練手管でもって、僕を翻弄していただけなのか。しかし、そんな疑念は、彼女の涙の前に脆くも崩れた。彼女は、運命に逆流することのできない、いや、知らない女なのだ。まるで激流に浮かべられた笹舟のように、流れるままにしか生きられの女のだ。哀れな愛苦しい女を、僕は初めて、力の限り抱き締めた。そして、耳元で囁いた。駆け落ちしよう。彼女は聞こえたのか聞こえなかったのか、その薄い胸を私に預けたまま動かなかった。私は二時間後ここで待っている、と言い残してその場を去った。Iはそこで酒を一口含んだ。来たのだろうか、それとも。私の心はどちらを望んでるんだろう。先程まで私を苦しめていた嫉妬はすでになく、若い頃、恋愛小説を読んで二人が会えますようにと心密かに祈ったあの気持ちが、甦ってきた。
「そうは言ったものの、僕はとても不安だった。彼女は来ないのじゃないか、いや、来ないに決まっている。彼女には前科がある。今回だって……来て欲しいと期待しつつも、ふられた時の恐ろしいショックを想像すると、自然、絶望的になっていた。纏めるほどの荷物もない僕は、約束の場所で一人俯いて座っていた。約束の時間はとうに過ぎていた。もう諦めて帰ろうとした時、僕を呼ぶ声が聞こえる。まさかと思ったけれども確かにももう一度Iさんと僕の耳に伝わってきた。目の前に立っているのは紛れもなく彼女だ。あたしを連れて行ってください、そうか細い、しかし、しっかりとした声で言った彼女の姿は、もはやこの世のものをとは思えないぐらい、煌々と光り輝いて私はまともに彼女を見ることができなかった。
 Iの声は最後には涙ぐんでいた。
「よかった、本当によかったですね。それで、今Sさんは」
 しまった。Iはまだ一度もSの名前を口にしていない。でもそんな意識はIを祝福することに心酔している私の頭の中のほんの一部に過ぎなかった。私の言葉が耳に入ったのかわからないが、Iは一向に不可解な様子を見せない。
「ままごとのような生活が三年も続いだろうか。しかし、世間はそう甘くなかった。精神的には天国でも、物理的には地獄のような生活。元来体の弱い彼女は、とうとう胸を患って死んでしまったよ」
 Iは寂しく笑った。私には、なぜか悲しい気持ちがしなかった。Sは最愛の人に見守られて、Iは最愛の人を永遠に自分のものに出来て、二人は幸せだ。Iの話は、尚も淡々とした調子で続いた。
「彼女の死が、僕に〈K〉を見つける情熱を再び与えてくれた。それは宿命とでも言うべきだった。彼女の面影を慕って僕は足を引きずった。僕一人のためならず、彼女のためにも、あの絵を探し出すまでは、死んでも死に切れない。そして、君に逢う為にもね。
 最後の言葉は私の全てを見透かしていた。二人はグラスを握り締めたまま、長い間口を閉ざしていた。私の頭の中は様々な思いが纏まらないまま激しく渦巻いていた。Iが席を立った。私も勘定を済まして一人で出た。夜風が冷たい。何と言って別れよう。私は言葉に迷った。それより早くIが呟いた。
「現実に足が付いていない人間はクズだ」 
 私はその意味でよくわからなかった。Iは私の方に真っ直ぐ向き直ると、私の手を取った。
「本当によかった。久しぶりの楽しい一時だった」
 そう言うと私の手を優しく握った。私も何も言えないで僅かに頭を下げた。もうこれで最後だろう。そんな予感がする。私はIの姿をSの思い出と重ねてみた。

 私は電車の中にいる。電車は私の帰るべき場所とは反対方向に走っている。私が、展覧会の絵を見に来たのは、青春のあの情熱をもう一度呼び戻す為だった。と今やっと気が付いた。今は生活余りにも現実染みて渇き切っている。自意識過剰の私が情熱に飢えていたのは、むしろ当然のことだろう。Sとの情熱的な恋の思い出に喚起されて、第二の青春を求めるとするならば、それも当然の成り行きといえるだろう。
 しかし、それは私の思い過ごしだった。先程、Sを疑いIを恨んだが、一番悪いのは私だったようだ。Sが私に別れを告げだ時、真剣にSを愛する情熱があったなら、別れずにすんだはずだ。自分可愛さの為世間に負けて、Sを裏切った。私は卑怯者だ。だが、何故か自分を否定する気がしない。「現実に足の付いていない人間はクズだ」とIが呟いた言葉の意味が分かったような気がする。思い出は思い出として、いつまでも心の奥に仕舞っておこう。私はIから来た葉書を、窓から捨てた。
 色はあくまで白く、伏目がちなる切れ長の…………
〈K〉もSもIも、電車が進むに連れて、私の前から遠ざかっていく。
 私は次の駅で電車を降りた。
「浪曼」創刊号 一九七五年七月
京都教育大学二回生