新・不幸への旅
恒介の案内された東京は鉄とコンクリートの高層建築の谷間の、木造平屋建ての、屋根も板を張りつけた上に重し石を置いたような家が立ち並んでいた。向かい合う屋根と屋根の間にはロープが張り渡され洗濯物がかかっている。その下を野良犬や野良猫が我が物顔で走り回る。共同の洗い場では、赤ん坊を背負った女たちが世間話に熱中している。彼は不思議そうに周りを眺め回す恒介は構わずどんどん奥に進んでいく。ごみ箱から立ち昇る臭気も気にならず却ってこの場末の街に相応しいと思う。社会の底辺に追い詰められた人間だけに通じる義理人情、古き良き日の日本がここには残っている。下町ってやつか。僕も好きになってしまいそうだ。しかし、と恒介は考える。僕はこの誘惑にいつまでも耐えることができるだろうか。耐えられなくなった時、僕が東京へ来た意味も消える。これは一つの試練だ。この街から脱出できた日、僕も僕なりに歩き出したと言っていいだろう。
彼は路地の一番奥まで行き、白い紙がほとんど一面に張られたガラス戸を開けた。鍵がかかっていた様子はなかった。ガラスが今にも割れそうな音を立てた。
「上がれよ」
と言って、畳の上に散らかったものを手当たり次第押し入れに投げ込んでコタツに足を入れた。
「何もなくなっちゃいないな。ハハ、第一取られるものなんてないから」
恒介は上り口の所で戸惑っていた。
「遠慮することはないんだぜ。今日からお前の家なんだから」
遠慮からではなく、この畳に足を置くことによって、彼の新たな人生が始まるのか、という大げさではなく、人生の大きな岐路での選択の時間だった。自分が東京に求めたものは、この家から始まるんだろうか。ひょっとすると大きな間違いを犯しているのかもしれない。後で悔やんでみても始まらない。ここまで付いて来ていながら、疑い始めると、この家に上がってしまうことが過ちである気がしてきた。或いは全く逆の環境だ。もっとストレートに始めた方がいいかもしれない。どこか他の所から。
「おい、グズグズするな」
怒るような声がした。恒介はすべての思考を中断された。
「えいっ」
自分でもすっとんきょうな声と共に恒介はこの家の住人になった。
「茶でも飲むか」
「どっちでも、あんたは」
「ちょっと待った。ここじゃそんな言い方は通用しねぇんだ。自分はどうなんだ、はっきり言わなきゃいけないよ」
「それじゃ、じゃなくって、一杯貰うよ」
「貰うって、それも違うんだ。据え膳で待っていても何もやっちゃもらえないよ。君の分担はやってもらわないと。よし、じゃ隣で行ってコーヒーでも借りてきてもらおうか。俺は湯を沸かしとくから」
「隣って」
「おヨネさんところだよ」
「今日来たばかりで、知らないんだけど」
「だからさぁ、挨拶代わりに行くんだよ。それからね、砂糖はあるからいいよ」
恒介は訳がわからないまま外に出た。これじゃ、ゆっくり感動を確かめる暇もありやしない。感動を、ふむ、そんなロマンチックなものを求めて東京くんだりまでやって来たのか。それにしても、家を出てから今日まで、一体何を考えてきたのだろう。すべてが頭の上っ面を流れていったような気がする。待てよ、ここで気を引き締めなければ。確かにここは僕にとって逆境だ。だからこそ……僕が東京に求めたものは……。恒介の頭は空回りを繰り返した。ちょうど朝方夢から醒めるときのような、酔っているような醒めているような。宙ぶらりん。醒め切ってしまえば東京にいる自分に驚愕として立ち尽くしてしまうだろうし、かと言って再び夢の世界へ陶酔してしまえば。いずれは醒めて、現実を直視しなければならないのだが、ともかく、今の所、夢と現実の間を適当に彷徨しているより仕方なかった。そんな頼りない恒介の目の奥に、列車の中の光景が浮かび上がってきた。
列車は米原を出た。恒介は東海道本線で米原を越すのは中学の修学旅行以来だった。だから随分遠くまで来たような気がした。窓の外はすっかり暗闇が支配していた。読もうとして鞄から出しておいた本も膝の上に置いたまま手に取る気分になれなかった。恒介は横に座っている男が気になって仕方がなかった。髪は油毛がなく丸い顔の上を左へ分けられている。丸い銀縁の眼鏡の中に小さな目がだるそうに半分だけ開かれている。やや太めの体にヨレヨレの黄土色のコートを着ている。それに十二月も半ばを過ぎようとしているのに下駄を履いている。どう見ても、風采の上がらない青年であった。だが、彼の身につけているものは全て自然で見事に調和し、一人の人間を形作っていた。恒介は芸術の匂いを感じずにはいられなかった。別に混んでいるわけでもないのに、この男の隣に座ったのもそのためである。
しばらくして男の方から話し掛けできた。間伸びした喋り方がいかにもこの男らしかった。
「どこまで」
「東京」
「学生」
「ええ」
「どこから」
「京都」
恒介は少し緊張がほぐれ、同じような質問を返した。
「学校の名前、聞いてもいいですか」
「早大」
「えっ」
「早稲田大学」
恒介は聞き返したわけではなく、男の言葉が意外だった。東大かそうでなければ三流大学だろう、となぜとはなく思っていた。だが言われてみればいかにも「らしい」かもしれない。
「で、なぜ、関西の方に、故郷でもあるんですか」
「いや、九州だ」
「でも、正月前なのに大学に戻るんですか。正月を故郷でって人が多いんでしょう」
恒介は調子に乗って馬鹿な質問をしたものだと後悔した。人がどうであろうと、この人には関係ない。こんなのを人の押し着せって言うんだな。まして早大生で一風変わっているこの人に、正常であって欲しくないという妙な願望があった。男は月並な問いを馬鹿にする風もなく、
「僕も、こんな暮れに故郷に帰りたくなかったんだが、親父が危篤だっていうもんだから。今までにも同じような電報があったんだがね、年の瀬になると故郷が恋しくなっちゃってね、年をとったのかな、もう二十一だものな。三年も帰ってないから、ひょっくり帰ってみようかなんて気になって」
男は窓の方を向いて息を入れた。
「けれど、家の敷居はやっぱり高くてね。地元の大学へ行けっていう親の反対を無視して東京へ出ちまったんだ。今更どの面下げて帰ろうかって、九州に近づくにつれて何度か途中で帰ろうと思った。でも、とにかく家まで、正確に言えば、家の前まで帰って行ったんだ。それで、物影から家の玄関を見張っていた。変に思うだろうけど」
恒介は真っ直ぐ男の方を見て聞いていた。男は前のシートを見ていた。
「四時なるとね、親父は犬を散歩に連れて行くんだ。これが習慣でね、なんせ親父は一徹でね。一度決めたことはどんなことがあっても続けてく人なんだ。もし、親父が病気だったら出てこないわけだ。いや、電報信じてたんじゃなくて、本当に病気なら家に帰る理由ができると考えたんだ。真面目にね。でも、今から思えば、親父で出て来て欲しかったんだな。元気でいて欲しいと願っていたんだろうな」
そこでまた言葉を切った。話の興を盛り上げるためでなく、自分でも一言一言噛み締めているようだった。
「果たして、親父は出てきた。四時きっかりにね」
男は、フフと笑みを漏らした。
「ホッとしたというのが正直な気持ちだった。まさかとは思っていたけど、そう思うに連れてだんだん不安になってきたからね。と同時に自分に腹が立った。というより惨めだった。あれこれ誤魔化しながらここまで来てしまったんだからね。もし、親父が僕を見つけていたら、こっぴどくどやし付けられていたろう、今頃何しに戻って来たってね。けれど、一番会いたがっているのは親父なんだ。だって僕が一番会いたかったのは親父だからね。僕は親父の後ろ姿をじっと見送った。そしてそのまままた汽車に乗って来たってわけさ。でも、あの時、親父が振り返ってくれたら、大声出して駆け寄って行ってただろう。君は、笑うかもしれないがね」
恒介は笑いはしなかった。何度も繰り返されるオヤジという言葉が羨ましかった。しかし、こんなことは一笑に付してしまわねばならないことだ、と冷静な恒介ならすぐに気づくだろう。
「あなたは、お父さんを愛しているんですね」
「ああ、心からね」
素直な肯定に恒介は次の句が継げなかった。なのにどうしてあなたは……少し沈黙があった。
「ふふ、俺らしくなかったな。こんな女々しい話を長々と。まだ感傷が残ってやがるんだな」
男は急に自嘲的な物腰になってそう言うと、シートを倒して窓の方を向いた。恒介はついに機会を逃してしまった。そのことが、恒介に冷静さを取り戻させた。どこが芝居じみている、それだけに抗しきれないものがある。何となく自分と似ているような、いや、僕はこんなのに抵抗するために旅立ったのじゃないか。恒介は自分の家を旅の原点を振り返ってみた。
恒介の家は印刷屋を営んでいた。父の腕は一流で、この不景気にあっても一向仕事は減らず繁盛していた。生活水準も中の上と言っていいだろう。父は昔風の職人気質というか、異常なほど気難しく、自分の思い通りに仕事が運ばないと気に入らない性質で、少しでもミスがあれば顔を張り飛ばすぐらいのが普通のありさまだった。だから勤めて一ヶ月も続いた人は今まで一人もいない。父は口癖のように、最近の若いやつは根性がない、わしらの若い頃はもっとひどい仕打ちを受けて仕事を習ったもんだ、と嘆いていた。そんな父であるから、子供にも封建的で厳しい躾をした。幼い頃少しでも悪さをすれば、鼻血が出る程殴られたのを恒介は覚えている。泣こうものなら更に殴られた。そんな時、父が鬼のように見えたが、やはり父の方が正しいと思った。恒介は父に叱られないように叱られないように心掛けた。そうすることが正しいことだと信じていた。父は一つの道徳だった。しかし、肉体的にも精神的にもあれ程強かった父も、ここ数年来の病のために、体力がめっきり衰え、その分だけ気が弱るようになった。体力がいうこときかないと言っては身近な人に当たり散らすことが多くなった。自分の犯したミスも人のせいにしてみたり、かと思うと極端に自分を卑下したりして、多くの矛盾を平気でばらまいた。工員はますます寄りつかなくなった。すると自然と恒介が手伝わなくてはならなくなった。父に厳しく躾られた恒介は、父のお気に入りになった。少々手間でも、無駄が出ても、父の気にいるように先回りして仕事するよう努めていた。生活においても同じだった。今や恒介は父の片腕として家を支える大きな柱として欠くことのできない存在となっていた。仕事先でも、近所でも恒介は必ず褒められた。そんな時いつも恒介は辛い思いをした。恒介が父に逆らわず、自分でもはっきり偽善とわかる程父に尽くしているのは、父に叱られるのが怖かったからでは勿論なく、衰えた父を見るのに忍びなかったからである。自惚れを恐れながらも彼にははっきり自覚できた。もはや厳格な父のイメージはなく、自分は父より上位に立っているとはいう。人生経験などではなく、人間的に。と同時に、ついに彼が望んでいたような親子関係、親父と呼べる父が実現しなかったことに失望していた。
恒介は、男の方を見た。シートを倒してはいたが、まだ寝つかれないらしく、眼鏡の奥に光る小さな目が窓に映っていた。
「なのに、どうしてあなたは東京へ出て来たのです」
恒介は呟くように言った。そう言わせずにはおられないものが、彼の体の底から込み上げてきた。その呟きは同時に自分自身にも向けられていた。男はしばらく答えなかった。そしてようやく体を起こした。
「幸福すぎたのかな。何もかも恵まれているのが怖かった」
男は言葉を止めて、恒介の反応を肌で感じ取ろうとした。そして、口の片方の端を吊り上げる自虐的な笑みを浮かべて続けた。
「俺の親父はちょっとした会社の社長でね、金には全く困らない。それに、俺が末っ子でもあるからか、とても可愛がってくれてね、愛情にも満たされていた。だけど、そんな幸福の温室でぬくぬく暮らしている自分がたまらなく嫌になる時があった。その日の米にも困っている貧しい人々がいると思うと、後ろめたさを感じずにいられなかった。わかってるよ、君の言いたいのは、わかってるよ。自分でもとっくに気づいていたさ。金持ちのお坊ちゃまの道楽に過ぎないさ、優越感の裏返しに過ぎないさ。初めの内は苦しかったさ。しかしね、慣れてしまうと……ね。今ではやっと自分でも納得のいく生活ができるようになったよ」
男はそう言い終わると乱暴にシートに身を沈めてしまった。男の顔には、安らかな笑みさえ零れていた。
恒介は、しかし僕は違う、と心の中で叫んだ。もうこの男の話には引き込まれまいと抗った。僕はこの男みたいに恵まれてやいない。この男が家にいなくなっても生活に困るわけじゃない。父親はこの男を愛しているらしいから精神的ショックを受けようが、そんなものは何だろう。だが、僕は、僕はいなくなればすぐに家族が生活に困るようになるんだ。僕の家ではこの男よりずっと重いんだ。自分一人じゃない。家の者を、それこそ捨ててきたのだ。罪と言えるなら余程罪深いんだ。僕は犯罪者だ、逃亡者だ、いやこんな感傷はよそう。ここ三ヶ月程考えたのさ。僕が父に偽善を尽くしてさえいれば、家は円満に外見上だけでも幸福を保っていられるだろう。だが、僕の幸福はどうなる、家の幸福のために自分自身を犠牲にしなくてはならないのか。ぼくは僕の自由を掴み幸福になるんだ。好きなところで好きなことをしていればいい。だが、あと一人残された母はどうなる、二倍の不幸を背負って生きてゆかなければならない。母の幸福を踏みにじる権利は誰にもない。父にしてもそうだ。僕が去り、もし母も去れば父一人、家族のために家のために骨身をやつしてきた。そんな父の報いがこれではあんまりだ。僕は迷った。こんなに迷うのもやはり父の教育の成果だろう。なにをクヨクヨしているんだと笑うことのできる人が羨ましかった。そして、ようやく結論を得た。人間は一人なんだと。人間は自分のためになることをだけ動けばいい。直接的でも間接的でも自分のためになればいい。だけど考え詰めていけば、どんな犠牲的なことをでもとどのつまりは自分のためにしているんだ、人間関係とか考えていくとね。そこまで考えていくとまたわからなくなる。だから、エゴイストに徹しようと思った。この飛躍は危険だろう。だがそう思わずにはいられない肉体的欲求があるんだ。エゴと言ってもいい加減に気まぐれじゃない。自分の中の自分なりの筋を一本通して真っ直ぐに伸ばしていくんだ。実際今までの僕の中を満たしていたのは、僕ではなく父の価値観だった。僕は僕で一杯にするんだ。そのため、家を出るんだ。行くなという良心に逆らって。僕が去った後のことを考えちゃいけない。家を出たい、僕は僕でありたい、この今の気持ちを大切にしたい。たとえ不幸になろうとも、いや安穏とした幸福よりも厳しい不幸を、不幸への旅を、ヒューマンリストでなく、エゴイストの旅を。この男よりもさらに甘い感傷の出発かもしれない。だが、恒介は旅立つのだ、全てを賭して。
「文学以前」創刊号 一九七七年十一月
京都教育大学 四回生