椎名麟三論〜戦前から「永遠なる序章」まで


第一部「永遠なる序章」


 安太は、医者から死の宣告を受ける。この死は、正確な客観的結論としての死であり、超えることもできない死である。死を目前に控え、すべてが無意味・不可能になった。この設定は、安太ひとりの問題ではなく、その時代を生きる人全ての問題である。安太の生き方の通して、虚無の時代を如何に生きるか、を考えていこうとするのが、『永遠なる序章』のモチーフである。

 恐れてた死が確定的になった安太は、もはや死の恐怖から解放され、希望にさえ満ちている自分に気づく。死ぬことは確実な事実であり、死ぬ自分にとって一切が無意味になったことも確実な事実である。だが、この二つの確実な事実にもかかわらず生きていくことは、その確実な事実である。生きる主体である自分は、この上もなく確実な事実である。事実は、それ自体、完全なものとしてあり、何者によっても奪われない。だから、確実な事実である自分は、信じるに価する存在であり、自分を信じて生きることが、虚無の現在に残された唯一の道である。安太は、死を宣告されることによって、この自覚に達した。

 ただ、ここでいう自分とは、精神的存在ではなく、肉体的存在である。精神的存在とは、理性に基づいて生きる存在の仕方であり、肉体的存在とは、感情に基づいて生きる存在の仕方である。精神的存在にとっての自分は、死の宣告と共に、未来に何事も期待していない無意味な存在と化した。精神的存在としての死にもかかわらず、依然として生き続ける自分は、肉体的存在としての自分である。

 そこで、生存の根元は、肉体であり、精神は肉体の存在を前提として存在する、と安太は考える。

 安太が信じたものは、肉体上で存在としての自分であった。だが、人々は他に信じるもの思っている。それは、思想であり、神である。人々は、思想や神によって、不可能を可能にしようとする。安太は、それらが如何にまやかしであるか看破している。

 思想とは、絶対的心理の追究ではなく、例えば、幸福に飽きたから一つ不幸になろう、という程度の、本質には全く抵触せず、形式的な逆を重ねることによって展開されていく理性の遊戯に過ぎない。理性を理性によって展開させ、出発点にあった現実から遊離させていき、超現実の世界で理性を満足させようとするものである。不可能は、現実に於いては、依然不可能のままである。共産主義も例外ではない。共産主義は、歴史的必然の結果として、共産主義によるユートピア社会を予想する。それは、論理上、必然的に到来するものかもしれないが、現実的には、必然なものとして理解されたものはすでにあったといってよいもので、現在が虚無であれば、未来も必然的に虚無なのである。ユートピアは、共産主義の必然を超えたところに到来するものである。だが、安太が、自分も人々も共産主義者なのかもしれないという時の共産主義は、少し意味が違っている。これについては、第二部で述べる。

 神とは、自分以外のものに自分の生存の根拠を求めようとした人間の弱さが作り出した幻影である。神は人間を超えた存在ではなく、人間の理性の中にある。信じようする者には幻影が見えるが、信じることを拒絶する者には見えない。この神は、受動的な信仰の対象としての神である。だが、安太の中には、もう一つの神がある。それについては第二部で述べる。

 さて、安太は、肉体的存在としての自分を信じて無意味の中を生きようとするのだが、この自覚によって、逆に、無意味の中に意味を発見する。間もなく死ぬ安太は、あらゆる既成物との関係が希薄になっていくに従って、今までそれらに貼り付いていた価値観が剥がれていくのに気づく。相互の連絡も必然性もなく、各々独立したことして存在するものの中で生きている。そうした状態に、自由すら感じている。無意味な場所で、信じることのできる肉体的存在としての自分が、身近に接触することによって、無意味なものに意味を与えていく。自分の価値観による世界構成、これが真の自由ある。

 こうして得た溢れるばかりの自由を、安太は、行動の中に解消しようとする。そこで安太は、人々と関係することによって解消しようとする。今まで抽象概念に過ぎなかった人々を、強い実感としてとらえる。人々も物と同様、相互の連絡も必然性もなく存在している。安太は、それ自体としては無意味な人々との間に関係を作り意味を与えて行こうとする。しかも、上に立って命令するようなやり方ではなく、集団の中の位置という一として、手を取り合い、生きていることの真の自由を知ってもらうことによって、存在の根源から結合して行こうとするのである。

 このような結合は、すでに肉体的存在としてものに直に触れて生きて生きたお金との関係に置いて経験していた。真の自由を自覚することによって、お金の間にだけ成立していた個人的な結合を人々との間にも成立せようとしたのである。

 だが、真の自由を自覚するためには、人間は死を控えなければならい。この宿命ともいえる絶望にも拘わらず、安太は、そこに於いてだけしか死に得ないという気分に浸っている。真の自由を自覚し、これから生きようとした時滅びるが人間の運命であったとしても、繰り返し繰り返し、不可能から出発していくことが、永遠なる序章としての人間の生き方なのである。


第二部 椎名麟三論〜戦前から『永遠なる序章』まで〜


 第一部でも見てきたように、椎名麟三の追究するテーマは、不可能の可能である。このテーマは、『永遠なる序章』以前の作品でも一貫されている。そこで、椎名の戦前の習作時代の作品から、『永遠なる序章』までの作品を研究することによって、『永遠なる序章』までの変化を追ってみたいと思う。

  まず、不可能の可能をどのように求めているかによって三期に分けてみた。第一期は、『焰の槍』『少女と老音楽師』『男の言葉』『霊水』『家』、第二期は、『ある生の記録』『四』『小さな種族』「霧の旅愁』『境界線上の恋』『深夜の酒宴』、第三期は、『重き流れのなかに』『深尾正治の手記』『永遠なる序章』である。

  第一期では、不可能にも拘わらずただ努力しようとする。第二期では、不可能の中で無気力でいる。第三期では、不可能にも拘わらずただ生きて努力をするのでなく、生きていることの中に何か可能性を感じる。

  また、各期の中で、何が不可能の原因であるかという不可能の問題点、肉体的存在を志向しているのか精神的存在を志向しているのかという存在状態の問題点、他人への愛の問題について検討する。これらの問題は、第一章で考察したように、不可能の可能を追究する上で重要である。また、思想(特に共産主義)と神(特にキリスト教)の問題についても検討する。この問題は、椎名の転向考える場合と、椎名が昭和二十五年にキリスト教の洗礼を受けるに到るまでのキリスト教への接近の過程を考える場合に必要であるし,この一見矛盾する二つのものが椎名自身の中でどのような関係にあったのかという問題は、当然、不可能の可能にも関わってくる。


第一章 第一期


第一節 不可能の可能

 『少女と老音楽師』以外の作品では、不可能と知りながらも、ただ努力しようとする。だが、『少女と老音楽師』だけは、『焰の槍』の木崎が自分の音楽の完成に努力しようと決意したことを受けて、それは徒労に過ぎないと、後悔する。早くも第二期の兆候が現れている。ここで抑えておくべきことは、『焰の槍』と『少女と老音楽師』の間が約十日、次の『男の言葉』との間が約一ヶ月と僅かな期間のうちに二度の方向転換を行っていることだ。椎名の文学的出発にあたっての混乱期と呼んでいいだろうが、その変化の原因については、後節に譲る。


第二節 不可能

 『焰の槍』『少女と老音楽師』では、人間性や生活の向上としての幸福がないというだけで、何がその不可能の原因であるかについては曖昧である。『男の言葉』以前の作品では、死の存在がその原因であると捉えている。そして、死ぬこと以外に、不可能を可能にする方法がないことも知っている。前節で問題視した『少女と老音楽』から『男の言葉』への変化は、死を捉えたことと関係しているのではないか。椎名には、死に対する激しい嫌悪感があり、死を捉えることによって、死への反発として生の強い執着が生まれたのではないだろうか。


第三節 存在状態

 『焰の槍』では、感情を抑えて精神的存在を志向するが、『少女と老音楽師』と『男の言葉』では、肉体的存在であることを肯定し、『霊水』『家』では、二人の精神的存在を志向する。第一節で問題にした『焰の槍』から『少女と老音楽師』の変化は、存在状態に関係するのではないか。ともすれば肉体的存在になりがちな自分を押さえようとする緊張感の緩みが、無気力に陥った原因ではないか。『男の言葉』では、死を捉えているにもかかわらず存在状態は、肉体的存在を肯定している。椎名自身、作家としての姿勢が固まっていない。それが、次の『霊水』までの約一年八ケ月のブランクをもたらしたのではないか。そして、再び精神的存在を志向する。このブランクの間に、大きな事件が起こっているはずだ。僕はここに、ドストエフスキー体験を置く。椎名は二十八才の時『悪霊』を読んで強烈な印象を受けたと評論に書いている。また『霊水』にも初めてとドストエフスキーの名前が出ており、人間や社会の探求精神の追究という点で、肯定している。


第四節 他人への愛

 この期のすべての作品は他人への愛については冷淡である。その中でも、『焰の槍』『少女と老音楽師』では、その愛の虚妄性を指摘するにとどまるが、『男の言葉』以下の作品では積極的に排斥している。その理由は、次節の思想についての考え方と関連している。


第五節 思想と神

 『男と言葉』に、転向者としての椎名の共産主義についての考え方が書かれている。共産主義も椎名も、人類のために考えるという方向は同じだ。相違点は、改善すべき諸悪の根源を、共産主義は社会組織であるととらえ,椎名は人間的な罪であるととらえる。共産主義は、人類全体のために自分を犠牲にしようとし、さらに、大衆さえ犠牲にしようとする。これは、ファシズムと同じ方法である。だから椎名は、共産主義が標榜するような他人への愛は、ファシズムへの協力に繋がると考え、他人への愛を否定しつつ、人間的な罪を改めるために、自分の完成と進んでいく。つまり、この時期における不可能の可能の方向は、ファシズムへの抵抗の方向でもある。

 神については、自分に確信の持てない人が自分以外のものに裏付けてもらおうとしてすがるものとしてとらえている。『焰の槍』では特にキリスト教を取り上げ、高貴な人間性を略奪するものとして批判している。他の作品に出てくる神が、キリスト教であるかはわからないが、少なくとも、それを含んでいるいることは確かであろう。この時期では、受動的な信仰の対象としての神を考えている。


第二章 第二期


第一節 不可能の可能

 『ある生の記録』『四』では、不可能にも拘わらず努力する人間を、最後に失敗させることによって、第一期の不可能の可能を否定している。そして、『小さな種族』では、向上心がなく、他人のために自分を犠牲にするような人物を主人公に据え、不可能の可能は、ただ信じ込むことだと考えている。つまり、第一期とは全く逆の方向にある。『霧の旅愁』では、不可能にただ堪えるだけで、さらには、不可能を自分のものとしようとする妄想さえ抱く。生に対する消極性が増している。戦後の作品である『境界線上の恋』『深夜の酒宴』でも、ただ堪えているだけで、戦争中と変わっていない。ただ、『境界線上の恋』では、生きることの中に目的が含まれていると、希望の光を見いだしているが、『深夜の酒宴』では、その光も消えている。椎名は、戦中も戦後も全く変わっていないのか。敗戦は椎名にとって何の意味も持ち得なかったのか。後の節で考察してみよう。


第二節 不可能

『或る生の記録』『四』では、第一期の否定であるのに、不可能の原因としての死を捉えていない。不可能の原因について不連続にも、不可能にも拘わらず努力することを否定しているのである。死を超えるよう何ものかが変化をもたらしたと考えることができる。その何ものかとは、やはり、ファシズム体制の強化であろう。『霧の旅愁』で再び、死なねばならぬという運命が不可能をもたらすと考える。そして第一期では、否定していた神による不可能の可能を受け入れるようとする。しかも、死のために陸軍に志願する。ここに至っては、ファシズムからの単なる逃避ではなく、完全な敗北である。戦後になって、『境界線上の恋』では、また不可能の原因として死を捉えていない。その代わり、当時の社会について絶対性の欠如を指摘する等、他の作品には見られない社会性を含んでいる。敗戦は椎名にとって何の意味もなかったという訳ではなく、やはり、何らかの影響を与えていた。だが、それは、椎名の本質を変える程の力持っていなかった。この作品でも、死について触れていない訳ではない。不可能に堪えられないからといって死んでしまうことを、強く否定している。『深夜の酒宴』では、絶望と死が不可能をもたらすと捉えている。死自体については、死を厄介ものとし、だが死を選ぶことも仕方がないと考えている。明らかに、『境界線上の恋』から退行している。戦後におけるこの屈曲は、戦前の文学的出発の時期と似ている。椎名には、戦後における文学的出発に、何か機するところがあったのであろう。これを追究するにあたって、面白い問題がある。『深夜の酒宴』の原型である『黒い運河』では、首を吊ろうするのは、須巻ではなく加代になっている。須巻はそれを手伝っている。この変更の理由は、死を厄介なものと考えていることから説明できる。つまり、椎名は運命である死を軽視しようと、心に虚勢を張っていたのである。その程度を増すために、手伝う主人公から自殺する主人公への変更がなされたのである。死への虚勢の裏には、深い絶望があるものだ。何かに追い詰められた、或いはそう思い込むことによって、絶望感を持って戦後を出発しようとしたのである。


第三節 存在状態

 『ある生の記録』『四』では、理性による自分の完成を失敗させることによって精神的存在であること否定し、『小さな種族』では、肉体的存在であることを肯定している。そして『霧の旅愁』では、肉体的存在として死のうとする。つまり、この時期の肉体的存在の志向は、ファシズムに抵抗することからの逃亡、死への遁走のためである。だが、肉体はそれを拒絶する。戦後、『境界線上の恋』『深夜の酒宴』では、再び精神的存在に傾いている。だが、第一期のような生の積極性は見られず、肉体が死を拒絶したことから、仕方なく精神的存在に止まっているのである。


第四節 他人への愛

 他人への愛に冷たかった今までの態度を否定し、『小さな種族』では、人に喜んでもらうためなら自分はどんなことでもしようと、『焰の槍』で否定的に書いていた方向に戻っている。さらに、『霧の旅愁』では、人々の幸福のために、自分一人が苦しみ、死のうとまでする。このような愛は、希望的なものではなく、絶望から出た愛である。第一期にせよ第二期にせよ,自分の向上と他人への愛は、極端に対立し,両者の道は考えられていない。第一章で見た、他人への愛のために自分を犠牲にするという共産主義の考え方に強くとらわれていることである。戦後、『境界線上の恋』では、運命を自覚することが人々を結びつけると、積極的な関係を模索しているが、『深夜の酒宴』では、人々の間に融合はないと言って、他人への愛を否定している。他人への愛についても、絶望的・否定的に戦後出発しようとする椎名の姿が見られる。


第五節 思想と神

 思想について、この時期の戦前においては、ほとんど触れていないし,戦後の分は、第三章で一緒に述べる。

 神について、『四』では自分の完成が神への接近であったことに気づき、『小さな種族』では偉い人間を神であると言っていることからわかるように、神を全的な完成された存在として捉えるようになっている。『霧の旅愁』では、最も恐れている死を自分のものとすることによって神の位置に昇華しようとしている。つまり、第一期における自分の完成も、第二期における自己犠牲による他人への愛も、神への意思であったといえる。ただ、第一期は流動的な信仰の対象としてキリスト教などの神を否定した能動的な信仰であり、第二期は、第一期で否定した受動的な信仰を目指している。この変化も、ファシズム弾圧による絶望がもたらしたものといえるのではないか。戦後については、第三章で一緒に述べる。


第三章 第三期


第一節 不可能の可能

 『重き流れの中で』では、まだ消極的であるが、ただ堪えているだけでなく、その中に何かを感じ始めている。『深尾正治の手記』では、不可能・無意味の中で、それに堪えながら生きることに真の意味があると自覚し、積極的に何かを起こそうとしている。だが、それがなんであるかは捉えていない。そして、『永遠なる序章』で、無意味を意味に変えることが真の自由であると捉えるのである。第二期から第三期の変化の原因は、第二節によって明らかになる。


第二節 不可能及び存在状態

 この時期の作品にも、前二期の作品同様、不可能の原因を死であると考えている。だが、死そのものの捉え方が変わっている。これまでの作品では、漠然と死を一つのものとして捉えていたが、『重き流れの中に』では、滅びているのに生きている、という言葉によって、二つの死をとらえている。精神的存在として滅びる死と、精神的存在としての後も生きている肉体的存在としての死。今までの作品では、どちらかといえば、精神的存在として死にとらわれていた。だから、精神的存在として死んでいることを自覚することによって、所謂死の恐怖からは解放され、不可能の可能に一歩近づいたのである。


第三節 他人への愛

 『深夜の酒宴』で人々の間に融合はなく、自分が生きていることは罪だと考えていたのを、『重き流れの中で』では否定し、発生において滅んでいるという自覚において人々と強く結びついていることを感じている。つまり、融合がない自分は、精神的存在としての自分であり、肉体的存在としての自分は他人と融合しうるのである。しかも、この他人への愛は、自己犠牲によってではない。ここに於いて初めて、自己の向上と他人への愛が両立するのである。これは、第二章で述べたような共産主義の考え方から解放されたことによるものである。これについて、第四節で詳しく述べる。


第四節 思想と神

 基本的な考え方をしては、『男の言葉』に見た考え方と変わっていない。『深尾正治の手記』でも書いているように、共産主義はただ歴史的必然の認識と政治の関連からできたものであり、大衆の犠牲には全く無関心である、と捉えている。にもかかわらず、自分は他人を愛するために、共産主義を実践に移す政治機関である共産党に入っていた。第一期では、そうした偽善を自戒する意味で、他人への愛から離れて行こうとした。利己的に生きることが、第一期における転向であった。第二期第三期では、他人への愛の追究を、共産主義に全くとらわれない形で実現して行こうとする。『深尾正治の手記』で、共産主義によって大衆のために死ぬのでなく、孤独において死ぬことを考える。そして『永遠なる序章』で社会的存在としての共存的な感情に、その死に場所を見つける。だが、『永遠なる序章』の安太は、そうした死に場所を見つけながらも、自分は共産主義なのかもしれないという。ここに二つの共産主義が現れたのであるが、椎名が否定しているのは、共産党が信望するところの共産主義であり、肯定しているのは、椎名が与えた意味における共産主義、つまり純粋に他人への愛だけを願う根本精神に戻った共産主義である。或いは、前者を精神的存在者の共産主義、後者を肉体的存在者の共産主義とも定義できる。共産党の共産主義から全く独立したという意味で、椎名の転向が完了したといえるだろう。

 そして、椎名自身の共産主義の延長線上にキリスト教がある。『深夜の酒宴』では、運命を決定的に予定するものとして神を捉え、『重き流れの中に』ではそのような神な実現したならば、それを殺すことによって運命から解放されると否定的に神の存在を希求している。『深尾正治の手記』では、そうした神として重次郎を登場させ、彼を殺すことによって、運命を握っている神がまやかしであることを証明しようとする。だが、実際に重次郎を殺すのは、キリスト者である下宿の爺さんである。それを見て主人公は、自分が殺すべきだったと叫ぶ。一方爺さんは、キリスト者であることを隠そうとした自分を後悔する。この二つの声は、椎名のものである。運命を握る神と対立するものとして、キリストをとらえ、自分がキリスト者であることを、宣言しようとしてるのである。キリストの愛においての能動的な信仰を決意したのである。


第四章 第四期


 『永遠なる序章』の中には、すでに次の転機が見えている。それは、山本の存在である。戦前はアナーキストであり、戦中は兵隊であり、現在は警察のスパイとも共産主義者ともつかぬ男である。山本のような男は、以前の作品にも登場している。『霊水』のアナーキスト黒部がそうであり、『境界線上の恋』のみつ代の婚約者白木がそうであり、『深夜の酒宴』の加代の情夫白木がそうであり、『重き流れの中に』のせつ子の情夫大木がそうである。しかも、大木が戦争で死ぬつもりだったと言っていたことから、『霧の旅愁』の私とも繋がる。これらの人物は、各々の作品に於いて一時は期待されるが、主人公にはなりえなかった。山本も、自分を共産党員ではない共産主義者だというが、それに対して安太は否定的である。肉体的存在である共産主義者こそ永遠なる序章であるといった椎名は、当然、山本も否定しなければならないはずである。にもかかわらず、『永遠なる序章』の中でも山本を明日の主人公だろうと予言してみたり、評論でも、山本を主人公にした作品を書きたいと述べている。その資格として、社会に対する主体的な実践者であることを挙げている。その実践者とは、安太のように死を控えて初めて自由を自覚するような人間ではなく、自己に対する一切の問いがすべて終わった自己の思想を確実に実現していく人間なのだ。いわば、永遠なる序章の円環を打破すべき人間であろう。椎名が山本を主人公にしようとしたのは、転向を精算し終えた後の新たな出発の意味があるかもしれない。また、山本こそキリストの愛に於ける能動的な信仰の頂上を目指す人物なのであろう。しかし、山本はドンナ思想の持ち主であるかわからないし、先述したように、全く新しい人物ではなく、過去において否定された人物なのである。過去への逆行が一概に悪いとは言えないが、山本に関しては心配である。それに何より、山本が自己への問いかけを一切終えた人物として想定されていることが問題である。椎名が、自分への問いかけを止めてしまって、彼の文学は成立するのだろうか。椎名自身、それを知った上で、山本を明日の主人公としているところに、椎名の自覚した転機がうかがえる。その転換が成功したか、失敗したかは以後の作品を検討してからでないと断言することはできない。


あとがき

 第二部のはじめにも書いたが、椎名の文学の主題は、不可能の可能にある。その方向の変化によって四つの期に分けた。各期に於ける変化は、何を不可能として捉えているのか、存在自体、他人との関わり方の変化によってもたらされる。だから、これらの問題を追求してことによって、各期の特徴を明らかにしようとしたのが第二部の目的である。

 その前に、これらの問題相互間の関係を明らかにしようとし、第一部で『永遠なる序章』を論じた。『永遠なる序章』は、椎名の最初の、そして、キリスト教に入信する以前の唯一の書き下し長編小説であり、戦後派作家としても椎名の頂点にある作品である。戦前からの作品に貫かれている主旋律の到達点を分析した上で、それに至るまでの変化を見て行こうとしたのである。

 椎名が転向作家であることと、後にキリスト教に入信することから、各期における、思想、特に共産主義と神、特にキリスト教の問題についても考えてみたのであるが、共産主義と神という一見矛盾する問題は、椎名の中では密接に関係している。極論すれば、共産主義もキリスト教も、表現方法は異なるが、本質は同じである。しかも、この二つの問題が他の問題における変化の原因になっている。つまり、椎名の転向方向とキリスト教への志向が、椎名の文学を形成しているのである。

 この論文は、僕の研究の到達点を記したものでなく、新たなる問題提起のために書いたものである。ここで掘り起こさられた多くの問題を、解決してことによって、僕の永遠なる序章までの研究は完成に近づくであろうし,それ以後の作品にも言及していけるのである。

昭和五十二年四月二十五日未明