戦後文学研究序説
一
戦後文学を現象的に見ると、四本の柱から成り立っている。一本は復活した大家であり、一本は民主主義文学派であり、一本は戦後文学派及び『近代文学』同人であり、一本は無頼派である。
大家は、戦後の最も早い時期に復活した。作家と作品を挙げてみると、志賀直哉の「灰色の月」、永井荷風の「踊り子」「勲章」「浮沈」、正宗白鳥の「戦災者の悲しみ」、広津和郎の「幽霊列車」「人間」、里見クの「姨捨」、谷崎潤一郎の「細雪」などがある。
民主主義文学派は、昭和二十年十二月に創立した『新日本文学会』を中心に、戦前のプロレタリア作家らが集まったグループである。作家と作品を挙げると、宮本百合子の「播州平野」「風知草」「二つの庭」、平林たい子の「かふいふ女」「終戦日記」、佐田稲子の「私の東京地図」、中野重治「五勺の酒」、徳永直の「妻よねむれ」、新人小沢清の「町工場」、それに、この派の傍流として、高見順の「我が胸の底のここには」、三好十郎の「廃墟」「崖」「その人を知らず」などがある。
戦後派と『近代文学』同人は、それぞれ違う所から起こって来たが、その思想を同じくするゆえに、一つのグループとみなされ、以後一心同体として活動してきた。『近代文学』は、昭和二十一年一月に創刊され、その同人に、平野謙、荒正人、本多秋五、埴谷雄高、山室静、佐々木基一、小田切進らがいた。戦後派作家は、登場時期や思想背景などによって、第一次と第二次に分けられる。この分け方は、人によって多少異なるが、僕の考えている分類を以下に記してみる。第一次戦後派作家とその初期主要作品を挙げると、野間宏の「暗い絵」「顔の中の赤い月」「華やかな彩り( 「青年の環」第一部)」「崩壊感覚」「真空地帯」、埴谷雄高の「死霊」(小説家としての埴谷)、椎名麟三の「深夜の酒宴」「重き流れの中に」「永遠なる序章」「赤い孤独者」「邂逅」、梅崎春生の「桜島」「日の果て」「贋の季節」「飢ゑの季節」、武田泰淳の「審判」「蝮のすゑ」「異形の者」「風媒花」、大岡昇平の「俘虜記」「野火」などがあり、この傍流として、中村真一郎の「死の影の下に」、福永武彦の「塔」「風土」、石上玄一郎の「氷河期」「自殺案内者」などがある。第二次戦後派作家と作品を挙げると、堀田善衛の「祖国喪失」「広場の孤独」「歴史」、安部公房の「終わりし道の標べに」「壁」「飢餓同盟」、島尾敏雄の「島の果て」「単独旅行者」「夢の中での日常」「ちっぽけなアバンチュール」などがあり、この傍系として、三島由紀夫の「仮面の告白」「愛の渇き」「青の時代」「禁色」などがある。
無頼派は一つの集団ではないが、民主主義文学派と戦後文学派をそれぞれ一つの独立した柱と見るならば、無頼派も立派な柱として、独立できる。無頼派の作家と作品を挙げると、坂口安五吾の「堕落論」「白痴」「外套と青空」、織田作之助の「世相」「六白金星」「可能性の文学」、太宰治の「冬の花火」「春の枯れ草」「ヴィヨンの妻」「斜陽」「桜桃」「人間失格」、田中英光の「少女」「地下室の手記」「野狐」などがあり、この派に近い存在として石川淳の「黄金伝説」「無尽燈」「焼け跡のイエス」が挙げられる。
以上、勿論すべてを網羅したわけではないが、これらの作家と作品を見ていくことによって、かなりの線までいけるだろう。
この四本を、二つの問題によって分類してみると面白いことになる。その一つは、転向体験の有無であり、もう一つは、文学的出発の時期である。
昭和六年七年に、共産党への大弾圧が行われ、昭和八年、佐野・鍋山の転向声明をきっかけに、一部の人々を除いてほとんどの共産主義者が転向した。このような状況の中で、民主主義文学派と第一次戦後派が転向体験し、大家と第二次戦後派、無頼派が転向体験をしなかった。ただし、第一次戦後の中でも、梅崎春生と大岡昇平、その傍系では中村真一郎と福永武彦には転向体験がなく、逆に、無頼派の中でも、田中英光と太宰治には転向体験がある。もっとも、太宰治の転向は転向と呼べるほど強くはない。
文学的出発の時期を見ると、大家には明治後期から大正にかけて、民主主義文学派は、大正から昭和の初期にかけて行っている。それに対して、第一次戦後派と無頼派は、プロレタリアート文学崩壊後の昭和十年代に行っている。無頼派は、坂口安吾が昭和六年、「風博士」「黒谷村」で登場しているし、織田作之助が昭和十五年「夫婦善哉」で登場し、太宰治が昭和十一年作品集「晩年」で登場し、田中英光が昭和十五年「オリンパスの果実」で、石川淳が昭和十一年「普賢」でそれぞれ芥川賞を受賞している。また、第一次戦後派では、梅崎春生が登場し、埴谷が昭和十四年「洞窟」を、椎名麟三が昭和十五年「霊水」を、野間宏が昭和七年「車輪」を、それぞれ同人雑誌に発表し、また、武田泰淳は中国文学の研究者として、大岡昇平はスタンダールの研究者として登場していた。
転向体験の有無と文学的出発の時期をなぜ問題するのかは、戦後文学をどのような観点から捉えようとしているかという問題と関わってくる。僕は、戦後文学を実存的な観点から捉えるべきだと思うから、この二つの問題を投げ込んだ。転向経験によって、転向したことが実存的にプラスの方向であり、していないことがマイナスの方向である。なぜならば、転向とは、マルクス主義運動の挫折であり、敗戦による天皇中心の日本封建制の挫折に繋がるからである。つまり、転向によって、敗戦より先に、信望するものの崩壊という状態を体験していたのである。実際、埴谷や椎名の戦前の作品を見ると、その基本思想は戦後と変わらず、実存的である。しかし、民主主義文学の転向後の作品−−転向小説−−を見ると、埴谷の作品とは、転向の捉え方が全く違うのだ。同じ転向を体験しながら、どうして異なるのか、その原因を文学的出発の時期−−或いは世代の違いと言っていいかもしれない−−に求めたのである。文学的出発の時期においては、昭和十年代以前、すなわち、プロレタリア文学崩壊以前のが実存的マイナスであり、それ以後がプラスである。ここで問題なるのが、プロレタリア文学の日本文学史に於ける役割、或いは位置である。これは、大変大きな問題である。だが、昭和以後の文学を研究する場合に決して避けては通れない問題である。僕の乏しい知識で組み立てた考えを述べてみると、プロレタリア文学の出現は、文学史的に見て必然であった。白樺派の社会的関心をさらに極端化すれば、プロレタリア文学に到るのではないか。実際プロレタリア文学の初期に於いては、有島武郎やアナーキスト、自由主義者なども参加しており、思想性を帯び出したのは、福本イズムの導入などで昭和二年に『日本プロレタリア文学連盟』が分裂したあたりからである。プロレタリア文学は漸進的に変化してきたのである。プロレタリア文学は、芥川龍之介に疎外感を与えたほど革新的な出現ではない。芥川が自殺するとすれば、むしろプロレタリア文学が崩壊した時であった。プロレタリア文学の崩壊は、必然的な進歩の中断であった。それは単なる中断にとどまらず、『日本浪漫派』「戦時下の文学」へという文学史的逆行、おそらく「近代文学」以前への逆行であったろう。だから、プロレタリア文学以前の文学的出発は、文学史の正流の中で行われ、以前の出発は、逆流流の中で行われたことになる。
このように見ていくと、転向体験と文学的出発の実存プラス・マイナスは、大家がマイナス・マイナス、民主主義文学派がプラス・マイナス、第一次戦後派がプラス・プラス、無頼派がマイナス・プラスになるだろう。だが、これは、あくまで公式であって、すべて割り切れるわけではない。全く触れられていない第二次戦後派は、戦前の活動がなく、純粋な戦後派に於いてしか考えられない。また、第一次戦後派でも、梅崎と大岡は転向体験がマイナスであり、公式的に行くと無頼派に入るし、田中英光は全く逆のパターンになる。三島由紀夫などは『日本浪漫派』と交際していた。などなど、様々な問題が残る。だが、それらは、戦後文学におけるバリエーションとして捉えるべきだと思う。
二
戦後文学を実存的な観点から捉えるとはどういうことか。そもそも、実存的な観点とは何か。
野間が「暗い絵」の中で、「やはり、仕方のない正しさではない。仕方のない正しさをもう一度真っ直ぐにし、しゃんと直さなければならない。それが俺の役割だ。そしてこれは誰かがやらなければならないのだ」と書いている。第三の道が戦後文学の追究すべき問題だった。野間は、右旋回していく社会における実現性のない革命運動を仕方のない正しさとし、対極に右旋回していく人々を置いている。だが、この両者は対立するものではないのだ。日本封建制によって根底で引き継いでいるのだ。第三の道を求めるには、その共通点を掴み出す作業がなされなければならない。
前章で、プロレタリア文学の崩壊は、必然的な進歩の中断であり、それ以後の『日本浪漫派』や戦時下の文学は逆行ですらあったと述べた。その急落の過程が転向に見られる。転向というのも、転向したことが問題なのではなく、それは、生命保存のため仕方なかったとしても、その後の在り方が問題なのだ。旧プロレタリア文学者の多くが、右旋回していった、その急変が問題になる。戦後活躍した人々は、自ら転向を体験した者であり、自らは体験していなくても、他の人々が転向していくのを見ていたはずだ。転向を見ることによって、日本封建制の深部意識を把握し、仕方のない正しさでない正しさの方向を考えることができたはずだ。いや、それは当然、なされなくてはならない作業だのだ。だから、戦後文学は、すでに昭和十年代から始まっていたのだ。勿論、敗戦によって外部的弾圧からの解除がなければ、戦後文学は実現しないのではあるが、敗戦と共に出発していたのでは、もはや手遅れなのである。
だから、戦後文学を研究するには、四本の柱について、昭和十年代の作品から検討していかなければならないのだ。そして、それぞれの柱が、転向問題をどのように追究していたか、更に戦後をどのように捉え、どのような第三の道を目指そうとしていたかを検討しなければならない。これが、僕の言う実存的な観点である。前章で、転向体験と文学的出発について、プラス・マイナスを分けたのは、四本の柱それぞれの立場というものを明らかにしたかったのだ。逆に言えば、四本の柱を見ていく際に現れる差異の原因を、そこに求められるのではないか、という一つの予想なのだ。プラスだからよい、マイナスだから悪いという訳ではない。いろいろの立場からなされた追究を見る上の目安である。戦後文学は、一面性だけで追究できるほど、明瞭なものではないのだ。
三
最後に、なぜ、戦後文学が問題にされなければならないのかということについて述べておこう。その前に、戦後文学とは、いつからいつまでを指すのかを明らかにする必要がある。始まりは前章でも述べた通り、昭和十年代である。終わりは、はっきりとした見当は立っていないが、昭和三十年までには、終わっていると思う。
終わるというのは、戦後文学の場合、挫折を意味する。もし、戦後文学が第三の道の追究に成功してたならば、終わりはないはずなのだ。戦後文学が挫折したことは、社会の反動化、日本封建制への回帰によって証明されるだろう。戦後、中野重治と平野謙・荒正人の間で『政治と文学』論争がなされたが、ここで抑えておかなければならないことは、文学は、非政治的であっても、非社会的であってはならないことだ。社会の歪みは、当然、文学にも言及されねばならないのだ。
そこで、なぜ、戦後文学が問題にされなければならないのかということだが、それは、現在の文学状況との関わりにおいてである。現在の文学状況を進化と捉えるか、退化と捉えるか。多様化したと言えばよく聞こえるが、目的を失っている。社会に呑み込まれてしまって、仕方のないに甘んじている。この仕方のなさを打開するために、戦後文学の追究が必要なのである。戦後文学の目指したものと、それの挫折を追究して、現在の文学状況を立て直さなければならない。
「文学以前」第二号 一九七七年二月
京都教育大学三回生