野間宏小論


 仕方のない正しさでない正しさを求めていくことを自らの出発点として、野間の戦後文学は始まる.この小論では、「暗い絵」「青年の環(第一部)」「顔の中の赤い月」「崩壊感覚」「青年の環(第二部)」、つまり、昭和二十一年から二十五年にかけての主要作品について、総論的に述べてみた。

  昭和十年頃の思想運動を、野間は仕方のない正しさとして捉えている。思想運動の実態を述べる前に、思想運動を仕方なくしているものは、思想運動に携わる人々が敵対視している資本主義社会ではなく、資本主義社会の奥底に秘められた封建制である。目先の事象にとらわれず、日本を戦争へと導いた原動力として、封建制を洞察してことは、今日では半ば常識になっているが、当時としては、かなり進歩的な考え方であると言えるだろう。

  日本を封建制の一現象として、「金銭」と「家」を例示している。資本家と労働者の対立は、金銭への執着に起因していることから、両者とも封建制の中にどっぷりと浸っているのである。また、血縁関係を大切にし、家を中心に排他的になる。金銭にしても家にしても、封建制の根元にあるものは、利己心である。自らの生活を、或いは生命を守ろうとする姿勢である。公的な生活よりも私的な生活を選ぶ、社会に怒りの感情を抱いていても、すぐに生活の方へと没して行く。体制側の人々にとっては、体制に積極的に協力してくれなくても、体制に無関心であってくれれば十分なのである。封建制の中にある人々は、知らず知らずの内に体制に協力しているのである。

  仕方のない時代の中にあって、思想運動はどのように展開して行ったのであろう。一つは、穏健的な運動である。彼らは過小評価して、自分というものを見つめている。今活動しても裏切るのがオチだ、一生の問題なのだから、じっくりと待機をしようとする。状況を確実に判断するのはいいが、仕方のなさを口実に退却を続けることについては否定的である。彼らの選別から犠牲者を出すまいとして、過激な活動は避け、政治的な処理を好む。そのような戦術は取りも直さず、体制側に協力していることになるのだ。議論よりも自らの生命を守ろうとする利己心が働いたのだ。封建制の根源である自己心に陥ったのである。

  もう一つは、急進的な運動である。革命が成就する可能性が皆無であることを十分知りながら、運動に身を捧げていくのである。情況を無視して、或いは、判断しながらも仕方のないと諦めてしまって、議論にのみ純粋に生きようとする。封建制に半分犯されていることを自覚しながらのこの行動は、穏健派が利己心に陥り反動化してことへの反措定として、理論に忠実になることによって、利己心を克服し封建制から脱していこうとしたのであろう。彼らは肉体と精神を分離し、肉体は封建制に穢されているから捨て、精神のみを理論によって浄化しようとしたのである。だからこそ、生命を捨ててまで運動に殉ずるという矛盾を犯したのである。彼らの思想は肉体は死んでも精神は残るという観念的なものであり、現実的な視点からすれば妄想でしかない。また、精神を理論に没入せしめようとしたのであって、理論を精神の一部を形成するために受容しようとする主体性を欠いために自我の絶対性を欠いてしまっている。もし、理論がマルクス主義でなくファシズムのものであったとしても、熱心に殉じていたであろうという危険性を孕んでいるのである。当時の思想運動は、穏健派も急進派も失敗した。前者を死せる主体とするならば、後者を生ける生ける死体と呼べるだろう。前者は、生存は保持していても封建制に真っ向から抗して行こうとはしないし、後者は、封建制に真っ向から抗して行こうとしながらも、生存を保存しようとしない。野間の求める仕方のない正しさでない正しさ、第三の道とは、言わば、生ける生体なのである。

  野間は、自我の絶対性を主題に置いた。自分自身の底から自分自身を突き破って出てくるものを定義し、肉体に何かを求めたのであるが、それは、自分は自分だという孤独の方向へばかり進み、もう一つの問題である、虐げられた者たちの代弁者になることからだんだんとかけ離れていく。戦場で生命を脅かされた者たちが演ずる利己的な行為、自分もその一人なのである。封建制の根源である利己心にはまっている自分を否定しようとするのが、やがて曖昧に肯定していく。そこに、生存への執着がある。否定し切ってしまうことは、急進派の轍を踏むことになる。現実の中で生きていく以上、自己心というものを真正面に見据えなければならないのだ。そこで、封建制を否定するために、まずは封建制の根源である利己心について追究しようとする。穏健派が誤ったのは、自らの利己心を仕方のないものとして、放置しておいたことにある。野間は、利己心による判断を仕方のないものとして捉えず、絶対的な物として捉えようとした。自我を利己心に求めたのである。利己心は生存への執着、肉体への執着に基づいており、肉体を精神的な位置まで高め、両者を一致させたところに自我を求めたのである。理論によるのでなく、自分の肉体・存在によって、直に対象に触れ、利己心によって、対象を二律背反して行こうとするのである。利己心を追究している途中においては、二つの心が一つになるはずがないと考え、代弁者になることからは遠ざかっていく。それは、利己心が他人を利用すべきものとして捉える傾向にあるからである。だが、利己心が限界にまで達すると、愛の飢渇状態となり、利用すべき他人が、愛してくれるべき他人、さらには、愛すべき他人変わっていくのである。こうして獲得した人間関係は、根底からの結びつきであり、代弁者たらんと欲したような優越感に満ちたものではないのである。上からのキリストでなく、愛の根源としての下からのキリストなのである。


「文学以前」第3号 一九七七年四月

京都教育大学 四回生