空しい時間
田島は顔を上げた。空は青く、三条大橋の上にはすっかり人の流れができていた。時計に目を落とした。毎日二分遅れる時計を彼はほとんど信用していなかった。だが一時間も、しかも進むことは、幾らこの時計でもあろうはずがない.長針が四分の一を少し回ったところで短針と重なっている。確かに、二時十五分に三条の河原で、と伝えただろうか。それより、そんな時間を、しかもこんな場所を指定した自分の神経を疑った。彼は力なく立ち上がり、ズボンの後ろポケットから財布を取り出すと、その中から百円硬貨をつまみ上げ、人指し指と親指で挟み、下手投げで鴨川の水面を滑らせた.硬貨は一度も跳ね返ることなく、このきらめきさえ残さず流れに消えた。彼はしばしばこのような真似をした.百円あればパチンコができる。でも負けたときの空しさを思うと、こうした方が幾らか心が休まる。彼は、必死で拒みながらも、敗北主義の甘い魅惑に陥る自分を静観している自分に気づいていた。彼女は来ないに決まっている。元からわかりきっていた。彼は吸えない煙草を銜え、マッチを刷った。しかし、何度やってみても風に消されてしまう。彼は煙草を二つ折りにしてポケットの中に入れた.込み上げてくる可笑しさは、耐えることができなかった。
その時、背後に人の気配を感じた。それは、自分を通り過ぎるものでなく、自分に接近し止まった。咄嗟に彼は振り返った。茶色っぽいツーピースの藤村が立っていた。田島はこちらを向くと、彼女の荒い息の中で眉間を狭めながら謝り始めた.そんな彼女を見ていると、田島は何だか気の毒になり、却って自分の方が悪いことしたような気になっていた。とにかく、藤村を座らせた。だが、彼女と会ったら話そう、と下宿を出る前から温めていたことは、先程の諦めの中に忘れてしまっていた。彼は黙って空を見上げた。彼女も少し顎を突き出すようにしてから、空を見上げた。
空は青い。嘘のように青い。田島は鴨川の堤に藤村と二人並んで腰掛けている自分の姿を頭の中に想い描いてみた。こんな場面は今までにも幾度も想像したことがある。今日のは、一点の隅なく余りにも鮮明に浮かび上がってくる。それが、今、現実となっている。彼は心の中で喜びを反芻した。一瞬の手応えはあった。一刻も早く自分の肉眼で確かめてみたい。しかし、それをためらうも一人の自分がいる。諦めていた喜びが大きさを増していったのと同じ速さで、一つの疑惑が膨らんで来るのを彼は感じた。その疑問は、彼女が約束を承諾した次の瞬間から起こっていたかもしれない。だが、自分をここへ来させた一抹の期待を除いた大部分の彼の心を占めていた絶対に来ないという確信によって、答えるに値しないものとして葬り去られていた。一時の気まぐれで街を待ちぼうけを食わした女は幾人いたことか。にもかかわらず、彼はその都度出かけたものだった。最近はそのようなこともなくなった。彼の方から接近することがなくなったからだ。しかし、藤村は、信じられなかったが、現実にここにいる。何故たのだろう。どうしても聞いてみないではいられない。だが、彼は必死で耐えた。それは余りにも危険な賭けだ。彼女の答えは勿論だが、こんな事を聞いた自分に彼女がどのような感情を抱くかが不安だった。喉元まで来ている欲求を押さえ付けながら、彼は上を向いた姿勢を崩そうとはしなかった。藤村もずっと空を見上げたままだ。一体、何を考えているのだろう。後悔しているんじゃないか、ここへ来たことを。こんな偏屈な男に愛想つかしているんじゃないか。何か話し出さなくては申し訳ない.しかし、何を話せば、いいというのか。幾つか話題を探しているが、どれもこれも一度口に出してしまえば、話しても話さなくてもどうでもよかったことのように思うだろうことばかりだった。言葉がない。
ああ、空はこんなに青いのに。藤村は、自責の念に耐え、しばらく身動きしなかった。だが、長じてくると、逆に、むっつり黙ったまま許してくれない田島にいら立ち始めていた。彼女はわざと小さな溜息を漏らした。田島ははじかれたように立ち上がった。そして、蚊の鳴くような声で「行こうか」と言った。彼女は腰を上げず、「すいません」としおらしく謝った。彼は一瞬、何の事か判断がつかなかったが、すぐに気が付くとしどろもどろになって、もう怒っていない旨を伝えた。
二人並んで三条通りを歩き始めたが、ほとんど上体を揺らさない彼と、大きく手を振る彼女とは対照的だった。まだ少ししか歩いていないのに、田島には恐ろしく長い時間こうしているように思われた。そして、ついに耐えきれなくなって、河原町の信号待ちに、先刻は何を考えていたのかと訊いてみた。しかし、その声は車の騒音に掻き消され、彼女はその気配だけを感じ取って「えっ」と問い返した。「いや」と田島は打ち消して繰り返そうとはしなかった。緊張した時など、つい早口になり、しかも声が口に籠る性質だったので、このような場面はよくあることだった。そして、そんな時彼は、自分以外の何者かが、言葉を制止してくれたのだと考えるだった。話が途切れたまま、二人は映画館に入った。
さすが日曜日とあって館内は満員だった。仕方なく後の壁にもたれて見ることにした。居場所が決まると彼は飲み物を買いに出た。藤村はすぐに銀幕に熱中し始めた。映画は、彼女のひいきのスターが出演しているアクションもので、封切られる前からぜひ見たいと思っていた。戻って来た田島の差し出すコーラを彼の方を見ずに受け取ると、一口喉を潤した。ユーモラスな場面になれば女性特有の笑い声を立てる彼女の、スクリーンの反射を受けて闇の中に浮かび上がる相好を崩した顔を、彼は責任を果たしたような安堵と、一種の違和感を持って眺めていた。隣に立っている女が、下宿の壁にもたれて毎晩思っていた藤村とは、全く別の誰かであるような気がますます確実になってきた。今は、映像の虜になっている女の横で、何を気づかう必要もなく、自分一人の時間を持てることの方が嬉しかった。一人のよさがしみじみと感じられた。だが、彼女が余りにも映画に集中していることに寂しさを覚えていることも否定出来なかった。彼はその場にしゃがみ込んだ。彼女の形のいい脚があった。
映画館から出ると、彼は夕食を誘った。そうするのが義務であるかのように思われたから。彼女もまた、それが当然の成り行きであるようについて来た。「何にする」と田島は聞いた。彼女はしばらくメニューを眺めていたが、「同じものでいいです」と答えた。ボーイが去ると、彼はやはり映画の感想でも求めるのが普通だろうと思い、そうした。彼女は今までの沈黙に耐えられなかったように話し始めた。順序はバラバラだったが、場面ごとにその情景を形容詞をふんだんに使って再現し、最後に自分の簡単な感想を添えるやり方から、次第に興が入ってくると、自分がヒロインになったように手ぶりを加えながら話し続けた。食べること喋ることで、彼女の口は休むことを知らなかった。話の途中、彼女は何度となく彼に同意を求めた。そのたび、彼は慌てて相槌を打ち、時には映画誌から漁った知識も付け加えた。だが彼には、襲いかかってくる緑の瞼や赤い唇が何とも息苦しく感じられて仕方なかった。どうしてこんなくだらない話にこうも一生懸命になるんだろう。自分の話したいのは、簡単に言ってしまえば、彼女が自分をどう思っているか、好きとか嫌いとかでなく、まあ当然こうして化粧までして自分と向かい合ってくれているだから全く嫌いというわけではないだろうが、田島という人間が彼女にとってどのような位置を占めているのか、という事だ。しかし、彼女を見ていると、それを聞くことは無理だと思わざるをえない。彼女はどう見ても、自分と同じ不安を抱いているとは感じられない。全てが平和で、意のままに生きていけると信じて疑わない人のように思われた。実際の彼女がそうであるのか、田島の不安の強さが彼女をそう見せるのかはわからなかっが、藤村の笑うたびに田島が恐怖とも憎悪ともつかぬような気持ちに襲われるのは確かだった。そんな感情を彼女は、見透かしてはいないか。彼はどうしても彼女と関わらずににいられない自分を、心の中で嘲笑するだけだった。だから彼は相槌を打ち続けねばならなかった。
しばらく藤村は自分の話に陶酔していたが、突然「ちょっと」と言うや否や、化粧室へ歩いていった。残された田島は一瞬唖然としたが、すぐに不快感に変わった。普通の人なら彼女の無邪気さとしてそれもまた微笑ましく感じられるだろうが、彼には、傲慢としか受け取れなかった。自分はこんな気を使ってやっているのに、彼女はなんだ、そんな腹立たしさの中から、どうしてこんな空虚な時間を過ごしているのかという彼自身に対する疑問が生じた。話すこともないのに。彼女の目に耐えながら、それにあの女は藤村ではない。にもかかわらず、二人でいる時間を保とうとしている。なぜ。田島は何度も繰り返した。そのうち、彼の中に一つの憎悪が芽生え、像を結んで、藤村の排泄している姿になった。彼はその想像に驚き、怯えた。今度はそれを打ち消すために、何故を重ねた。
やがて、一つの靴音が彼の心臓の鼓動と重なって近づき止まった。咄嗟に、押さえていたものが、彼の意思を飛び越えた。「今夜、僕の下宿に泊まりませんか」彼の表情は自分の声に引きつった。だが、その声は「待たせてすみませんでした混んでいたものですから」と同時に発せられた彼女の声と重なり、彼女の耳には伝わらなかった。彼女は無邪気な笑いを浮かべて腰を下ろした。彼も情けない笑いを返して「デザートは何しますか」と尋ねた。
「文苑」一九七六年十月号
京都教育大学 三回生