恒久分離

根無草
     1

三月十七日
 君が死んでからもう一年になるんだね。今でも窓を開けると君がニッコリ笑って、優しく僕に手をさしのべてくれるような気がして……でも、やはり死んでしまったんだね。こうして日記をつけていても、あの悪夢のような瞬間が鮮やかに甦ってくる。
 あの日も学校からの帰り道、君と一緒、話すことなんか何もないのに、二人並んで歩いていたね。はにかみながら君が話しかけてきたっけ。
「武志君は将来何になるの」
「小説家さ、五木寛之のようなね」
「へえ、大した自信家ね」
「当たり前さ。舞ちゃんは何になるんだい」
「幼稚園の先生よ」って君は笑って答えたっけ。
「どうして」
「あなたを見ているからよ」と言うと君は風のように僕がぶつ真似をして振り上げた手から逃げて行ったね。それからしばらくまた何もしゃべらないで歩いたね。いつも別れる交差点の近くまで来ると、君は突然、
「今日は京大の合格発表の日ね。武志くんも来年は頑張ってね。私のためにもきっと合格してね。お願い……。じゃ、また明日ね」
と早口でそれだけ言ってしまうと、ウインクを残して変わりかけた信号を慌てて渡っていった。僕は君の後ろ姿を見ている。君は走りながら振り向いて僕に笑って見せてくれた。その時、真っ赤なスポーツカーがもの凄い勢いで飛び込んできて鈍い音を残して僕の視界から君をさらって消えた。僕はほとんど反射的にスポーツカーの去った方向に目をやった。そこに真っ赤に血で染まった君が倒れていた。スカートから投げ出された白い足がやけに眩しかった。
 やがて人垣ができ救急車が来て君を乗せていった。その間、僕は胸に鞄を抱えたまま身動き一つ瞬き一つしなかった。できなかった。肉の塊に化した君が消えてしまうと、僕は急に可笑しくなって鞄を放り出して大声で笑い始めた。後から後から可笑しさが込み上げてきて、人の視線には気づいていてもどうしても止めることができなかった。「じゃ、また明日ね」と言ってさっき別れたばかりの人が、今はこの世にいないなんて、永遠に続くはずの二人の明日がこんなところで、こんなにも呆気なく中断されてしまうなんて、どうして信じられようか。「冗談よ」と言ってまた明日美しい顔を見せてくれるだろう。
 でも君の顔は二度と笑わなかった。君の死んだことを僕がやっと信じられるようになったのは、それから一週間も後の事だった。日記に君の名前をひらがなで一字一字丁寧に書いてると、急に悲しく耐えきれなくて泣いてしまった。その後初めて君は本当に死んだと気が付いた。その日の日記は今も大切にしまってあるが、字が涙で滲んで全然読めない。
 それからという日は、人の命いや生き物の命の儚さ、それ故の尊さを身にしみて感じるようになった。新聞に人が死んだりした記事が載っていると思わず涙を流したこともあった。それが殺人事件だったりするとどうしようもないやりきれない深い悲しさに身悶えすることさえあった。道端の蟻なんかを見ても、今までなら面白半分に殺していたのに、一生懸命生きている姿を見ると、取り止めもなく涙がこぼれたのを覚えている。
 君が死んでから一カ月、何も手に付かないでただ悲しんでばかりいた。そんなある日君の夢を見た。君はただ笑っているだけで口を訊いてくれない。僕が君に近づこうと君は僕と同じ速さで遠ざかる。追い掛けても追い掛けても二人の距離は縮まらない。突然、君の口が開いて優しい、けれどもとても厳しい声で「いくじなしは嫌いよ」と言うと静かにけれど急に消えていった。感電したように佇んでいる時、目が覚めた。まるきりお伽話のようだが、これは本当にあったことです。
 君が遺言のように残していった「私の為にもきっと合格してね」という言葉を実践することが君を追悼する唯一の方法だと気づいたのはこの時だった。とりわけ最後の「おねがい」の四文字はそれを絶対的なものにした。僕はそれこそ死に物狂いで勉強した。殺人的と言ってもいいかもしれないが、少しも辛いなどと感じたことはなかった。だってあなたの顔がいつも微笑みかけてくれたもの。
 こんなに多弁になってしまって今日はどうかしてますね。いつも君の事を書き始めては二、三行で手が動かなくなってしまうのに。明日、晴れて君に報いられる自信でしょうか。机の上の君の笑顔を見ていると今まで言いたくても言えなかったことがすべて頭を通らず直接口から流れ出したようです。京大の文学部の掲示板に僕の名前が出される。あなたはまた「大した自信ね」と言うかもしれない。そう、自信満々です。これで滑ってたら死に……いや、死にはしません、絶対に。まあ、そんな心配は無用でしょう。では、明日を楽しみに。おやすみなさい

     2

 発表の日京大の迷路のような構内は嬉しさを抑えきれない僅かな人と、苦痛を噛み殺した少しの人と、悲しむことを諦めている殆どの人で混み合った。武志は行き交う人を避けながらゆっくり歩いた。文学部の掲示板の前も凄い人だかりだ。彼は群がる学生や親達を両手で押し退けながら前に進んだ。間もなく目の前に白い紙が広がった。武志はどんより曇った空を仰いで一七八九番と呟くとニッコリ笑った。そしてゆっくり目線を下ろした。
一五四七、一五九六、一六四五、一七〇三、一七四二、一七八七、一七九九
ん、おかしい。
一七〇三、一七四二、一七八七、一七九九
そ、そんなはずは
一七四二、一七八七、一七九九、一八〇一,一八二八、一八四六
何度見直しても結果は同じことだ。きっと何かの手違いだろう。後で訂正が来るに決まっている。悪い冗談だ。どうしても掲示板の前から離れられなかった。しばらくそうしていると突然、目の前が真っ白になって今までいたはずの人々の姿がなくなった。ただ白いだけの何も見えない世界を手探りしながら彷徨っていると、いつの間にか自分の部屋の椅子に座っている自分に気が付いた。目にはぼんやりと、机の上で開けたたままになっている日記が映った。
三月十八日
失敗
 堰を切ったように涙が溢れた。
 その夜は眠れなかった。涙はもう渇いていた。その代わり敗北感と屈辱感で溶け合わさった黒い粘性の強い液体が体の中を激しく流れパックリ開いた傷口から絶えることなく吹き荒れた。僕はこれからどうすればいいのだ。武志はおとなしく寝ていることに耐えられなくなって、また日記を広げた。
 僕はこれからどうすればいいのだ。も一年頑張って再度挑戦してみるか、初心貫徹……だめだ、それじゃこの敗北感や屈辱感を癒すことはできない。俺を敗北と屈辱の塊と化して合格した二〇〇人の奴らを見返してやることはできない。二期校でもいい、気がふれたように勉強して、きっと彼らに今の僕と同じ、いやそれ以上の敗北感を味わっせてやる。これは挫折じゃない、決してない。大いなる前進だ。君はわかってくれますね。さあ頑張ってねって僕に微笑んで下さい。ねえ君、さ早く……ありがとう。頑張るよ。新たな出発。おやすみ。
 書き終わった頃には窓の外が白みかけていた。武志は舞子にニッコリ笑いかけるとそのまま見入ってしまった。彼には舞子の笑顔の奥にある悲しそうな瞳に気づく気力も残っていなかった。

     3

 桜の花の花弁も散り尽くした五日、武志は大学生になっていた。この頃になると友達も数人ぐらいできるものだが、武志はいつもひとりだった。できないのではなく作ろうとしなかったのだ。二、三人よっては、話に花を咲かせている学生たちの時間の観念のなさが不思議だった。大学に来た目的はと聞けば、自由な時間を持つためとか、多くの人と触れ合いを求めてとか答えるだろう。全く目的を持っていない人が可哀相だった。こんな短い人生の四年間という、膨大な時間を、しかも青春の真っ只中の時間を無駄にしてしまうのは他人事ながら残念であった。人生の挫折に早くも妥協した人々に弔いの辞を送った。
 しかし、武志は人の事に構っている余裕などない。やるべきことがある。講義は有益と判断したものだけに出て一言も聞き漏らさないし、もちろんノートは取らなかった。それ以外学校にいる時間は図書館で本を読み漁る。家に帰れば滅多に机を離れない。武志は知識を得ることにのみ専念した。一分一秒も疎かにできない。その間に損したものの大きさはとてつもないように思われた。彼にとって時間に追われる毎日はむしろ楽しみであった。彼を支えてた物は、まだ舞子の写真だった。そんな武志が心の片隅に芽生えつつあるわだかまり等に気づくはずはなかった。
 春が終わり夏が過ぎ、秋になった。武志は相変わらず本に埋もれた生活を送っていた。しかし最近、体から魂が抜けたよな筋肉だけがムズムズして、顔を顰めずにいられないもどかしさ襲われることがあった。それが始まると読んでいる本を払いのけて、額を机に擦りつけ両手で頭を抱え込んで呻き声を上げながらじっと耐えているしかなかった。
 頭でっかち頭でっかち……春にはまだ小さな蕾だったが、今は大きなで劣等感になって彼の頭の中に巣くっていた。自分ひとりではどうも耐えられそうにない。薄目を開けて縋るように舞子の写真を見た。舞子はいつものように微笑んではいたが、それは武志を慰めるどころか、今の彼の苦しみを助長した。武志の顔は筋肉が強張って小刻みに震えている。武志は発作的に日記をとった。九月五日
 あなたはもう僕を励ましてはくれない。あなたの暖かそうなほほ笑みも、今の僕には偽り事にしか映らない。なぜだか分からない。ただあなたへの愛が消えたことは確かです。知識を身につけることだけに終始して、気が付いてみると、頭だけが異常に大きくなって、体験という栄養で成長するはずの肉体は骨と皮だけのミイラになっていた。全く僕は馬鹿だった。この責任の一端はあなたにもある気がします。これでもう僕を追い越して行った二〇〇人を見返すことはもちろん、これから生きていく目的も失ってしまった。あの時、あの時自分を甘やかさないで、もう一度挑戦する決意をしていたらこんなことには……これ以上書くには耐えられなかった。震える手で舞子の写真を机の上に押し伏せた。鈍い音を立ててガラスが割れた。そして、自分を偽り挫折感を慰めてきた薄っぺらなガラスも音を立てて崩れ去った。

     4

 大学へ来ても講義に出ずに叢の中にひとり座ってぼんやり空気を見ている日が多くなった。友達でも作ろうと色々な人に話し掛けてみたが、話している内に相手もやっぱり頭でっかちでしかないように思えてきて馬鹿馬鹿しくなった。人の真似をしてパチンコや麻雀、煙草をやってみても虚しさしか残らなかった。そんな平凡な満足できない程彼の頭は大きくなっていた。
 武志は幽霊のように立ち上がると大学の門を出た。足は自然といつものスナックへ向いていた。毒々しい赤で塗りたくってある扉を引いた。中はいつものようにガランとしている。武志はカウンターに席を取っていつものように水割りを注文した。一口飲むと彼は顔をしかめた。酒は大嫌いだった。でも、今は自分を苦しめるわずかな時間だけ虚しさから解放されるのが嬉しかった。最後に一口含むと後を向いて吐き出した。
「何すんのさ」
武志がその声に慌ててもう一度振り返ると、そこに女が一人座っていた。
「どうしてくれるのさ」
「そんなところに座ってる奴が悪いのさ」
謝る積もりはなかった。カウンターの方に向き直ると水の入ったコップを両手で包んでこう言った。
「何を」
男まさにに身を乗り出してくる女にカウンターパンチでも食らわすようにコップの水を浴びせかけた。
「これで顔でも洗いな」
「な、なめるんじゃないよ」
女は喚き始めた。武志は金を払って俯いたまま足を引き摺るように女に近づくと、女の爪先から脚、腹、胸とゆっくり目を上げていき、女の目と会った時いきなり平手で女の頬を打った。そして、同じ足取りで何も言わずに店を出た。武志は何を考えるでもなくまた大学の方へ足を向けた。その背後からハイヒールの踵が地面を打つ鋭い音が次第に大きくなって近づいて、やがて止まった。その音と入れ替わるように女の声がした。
「ちょっと待ちな。このまま済むとでも思ってんの」
 武志は虚ろな顔を女に向けた。女は少し口籠もって
「ここのままで済むと思ってるの」
と同じことを言ったが、二度目は凄みが消えていた。武志は黙ったまま女を見つめていた。さっきは濃い化粧で分からなかったが一八,九の娘で、小柄な割には豊満な体つきをしているが、それを焦げ茶色の薄いワンピースで柔らかく包んでいる。女は益々戸惑った。
「ちょっと、顔を貸してもらおうじゃないの」
 凄みを効かそうとして却って震えてしまった声でそう言うと、、女は恐る恐る彼の腕に手を掛けた。柔らかな手だった。武志は女に抵抗もしないで後を付いて行った。女は小さなアパートの前まで連れてきて、粗末な木札に二〇三号とある部屋の前に立った。
「ミチ.いるかい」
 しばらくしてドアが開いて中から裸の上にバスタオルを巻いたミチが出てきた。
「やぁ、久し振りね」
「ミチ、悪いけど、この部屋貸してもらえないかなぁ」
「まあ、いいけど。あんたも相変わらずね」
 女は恥らうように俯いて横目で武志を確かめた。
「どうしたの、少し変よ」
「べつに、貸してくれなくてもいいのよ」
「まあ、そうむきにならないで、ちょっと待ってね」
 ミチは部屋に入ってしばらくして今度は男と一緒に出てきた。
「じゃぁね」
 出掛けに武志の顔を点検するように眺め、女に目配せすると男に凭れかかるように出ていってしまった。
「さぁ、入って」
 思いがけない優しい声に武志は従った。これから起こることぐらい想像がついたが、拒むのも面倒だった。
 それから三時間程して二人は出てきた。二人とも俯いたまましばらく歩くと何も言わずに別れた
一〇月一三日
 初めてだ。こんな満ち足りた体験は。彼女と一緒だった時、こんな気持ちに包まれた事はなかった。この前の疑問が今やっと解けたような気がする。つまり、彼女の場合は精神的にはいつも貼り詰めていたが、肉体的には空っぽだった。頭でっかちの恋愛、恋愛って呼ぶのも烏滸がまし恋愛ごっこだった。ところが、あの女と一緒だった時はどうだ。しなやかな髪に熟れた果実のような熱い唇、肌はゴミまりのようにはち切れそうで、僕を恍惚の世界へ溶かし込んでしまう。精神的には空っぽかもしれない、でもそんなものはどうでもいい。体いっぱい広がる快楽さえあればそれで十分だ。たとえ破滅への道であろうとも、今の虚しさを埋めてくれるものはこれ以外にない。

     5

 武志はその後何度かあの女と逢った。でも、回を重ねるに従ってあの日彼を魅了し恍惚が消えていくのが悲しかった。その日も二人は会っていた。武志はいつになく激しかったが女の顔が狂気に歪んでいくにつれて武志の心は冷めていった。女が加える愛撫にも一向喚起されず、益々冷静になっていく自分がはっきりわかった。
「どうしたの、あんたこの頃おかしいわよ」
 女は毛布に身をくるみ、ベッドの上に胡座をかいて煙草に火をつけた。その隣に武志が座ってしばらくの間乱れた白いシーツを見ていた。
「さぁ、もう一度。元気を出しなさいよ」
 女は武志の方に手をかけたが、彼は動こうとしなかった。女は諦めて横になりまた新しい煙草に火をつけた。武志はその日高い光に誘われるように、女の上にのしかかり、両手を広げてゆっくり高々と上げて行き、これ以上高くならないことを確かめると、今度は矢のように素早く女の首筋目掛けてうち下ろした。手の平は女の柔らかい肌に触れると、その感触は大脳伝えられ、大脳は直ぐさま両手の筋肉を刺激した。女ははじめ呆然と武志の顔を眺めていたが、やがて肉体的苦痛が気づき次に精神的恐怖に駆られても書き始めた。を長く脳に顔を祝わせて出ない声で何か言わんとパクパクさせる程、裸のくねらせて抵抗するだけ武志の快楽は高揚した。顔にはうっすらと笑いが浮かんでいた。
一二月六日
 今最高に幸せです。やがてミチが帰ってきて、刑事が僕の家に来るだろう。刑事は荒々しく僕の肩を揺すって動機は何だと怒鳴るだろう。僕は顔に薄笑いを浮かべてこう答えるだろう。あなたがたにはわからないでしょうが、僕の虚しさ───これを説明していると長くなるのでよすが、それを紛らわしてくれるものはあの女と一緒にいる時だと信じてできるだけ愛欲に浸ろうとしたのだが、それでもだんだんと満たされなくなって来つつある自分に気づくと、今までの反動が一度に押し寄せてきて、またやりきれない虚しさに襲われた。それでも必死に何かに縋ろうとしていると、白いシーツが目に映ってその日が舞子の───この人についても、後で話さなくてはならないが、白い脚とだぶってきて最後に壊れた顔がちらついた。そこでやっと気づいたことは、僕が今まで絶対できない、やってはいけないと信じていたことをすれば最高の満足が得られるという事実だった。たまたまその場にあの女が出ていて、僕の手が反射的にあの女の首筋に伸びただけ。僕にも人を殺せると思うと、こんな大それた事を僕を踏みにじった二〇〇人の奴等にできるものかと思うと嬉しくてあの時の僕は有頂天だった。あの女を殺してしまったのは気の毒だったけど、僕は少しも後悔していない。さあ、今度はあなたがたが僕を殺す番だ。あんたたちは偽善家だから込み上げてくる喜びを無理やりに堪えて殺すだろう。全く可哀相な人達だね、あんたがたは。僕だけさ、この世で最高の快楽を………
 そこまで書いて武志は、ペンを落とした。コロンブスが新大陸を発見し、移民たちが新しい殺戮すべき目標を得た時の感激にも似た興奮が武志の身体を芯から揺すぶった。顔に慢心の笑みを湛えてまたペンをとった。
 いや、そうじゃない。僕を踏み台にして行った二〇〇人の奴等にさえ絶対できないことは、この空虚さに永遠のピリオドを打ってくれるものは、人生最大の快楽は自分の手で自分の命を断つことだ。
 武志は目を見開いて自分の両手を眺めた。そして、それをそれ以上大きくならないところまで広げた時、それは彼の視界から去り彼の首に食い込んだ。自分の首はあの女の程は柔らかくなかったが、それなりの刺激があった。呼吸が思うようにできなくなって肉体的苦痛が増すにつれて、精神的な苦しみも増して嬉しくなった。さらに力を加える。目の前を舞子が走っている。その後を武志が追う。二人の距離はどんどん縮まる。手を伸ばせば届きそうだ。その時、突然、舞子が振り返った。その血に塗れた顔というにはその原型を留めていなかった。武志は戦慄した。舞子の真っ赤な手が武志に伸びてくる。引き返しそうと必死で足を動かすが一向に進まない。僕はもしかしたら死ぬんじゃないか、そんな馬鹿げた疑問が武志の頭の中に今初めて現実的な問題となって現れた。死にたくない、死にたくない、僕はまだ若い。やり残した事がいっぱいある、これからだってもっと楽しいことがあるはずだ、死にたくない………
 幾ら思い直してみても彼の首にかけられた彼の手の力は強まる一方だった。翌朝、彼の部屋で苦痛にゆがんだ醜い武志の死顔が発見された。
「宿酔」新歓号・四月号 一九七五年
                                          京都教育大学二回生