この一瞬にすべてを


 二月の太陽を眩しく感じるのは、京都に帰ってきたからだろうか。あの日から、すでに三年の歳月が流れ去った。僕の歩いてゆく先には、当然、あの店があるはず……だった……ない。あのミュージックスナックがない。その代わりに怪しげなキャバレーが居座っている。中に入ってみる。薄暗い照明、怪しげな女・女・女。樽腹の中年男が女の腰に手をまわして、ニタニタ笑いながら酒を飲んでいる。これが、これが僕の青春の全てを賭けたものの成れの果てか。ステージで歌っているのは、僕ではない。厚化粧をした、吐き気を催すような女が金魚のように口をパクパクさせて喘いでいる。呆然として立ちすくむ僕に、三年前の思い出が甦ってくる。


 僕の捨てた金米糖

 小さなアリが運んでく

 体より大きな金米糖

 小さなアリが運んでいく

 止まっては動き動いては

 アリにとっては命がけだ

 僕は悲しくなって

 踏みつぶしてしまった


 僕は歌っている。みんな、僕の歌に酔っている。僕は歌う。今日は絶好調だ。リズムに乗っている。音程は狂っていない。ギターの音は冴え渡っている。僕は、ツイている。今日はどこかのレコード会社のスカウトが来ている。彼の鋭い眼が僕を見ている。僕の評判を聞いてやってきたのだろう。僕の歌う、シニカルな哀愁のこもった歌が、人々の心を捉えるのかもしれない。

 一曲目が終わった。みんな放心状態を続けている。すかさずに二曲目を歌う。今度の曲は、僕の一番好きな曲だ。


 明日を待つには長すぎて

 今日を生きるには短すぎる

 画期的な村を造ろうと

 今日も悶え悶えているばかり

 何をやっても失敗だらけ

 何度も頑張ってみましたが

 とうとうどうにもならなくて

 昨日の俺に逆戻り

 俺が悪いんじゃないんだよと

 嫌な世間を逃げ出して

 画期的な村を造ろうと

 今日も悶え悶えているばかり

 二人で造る純粋な村

 体を縛るモノなどなく

 心縛るものもない

 生きて行こうよ思うままに


 僕は歌う。みんな歌に酔っている。客もマスターも、スカウトも、みんな、いや、一人だけ、たった一人だけ酔っていない奴がいる。僕だ。唖然として、すんでのところで歌をやめてしまうところだった。今、歌っている歌が、全学連の学生のシュブレヒコールにも似た、空虚な響きとなって、僕の心を掻き乱している。その時、突然、どこからともなく、この空虚な響きを押しのけるように、あの歌が、下宿の隣の部屋の貧乏学生がいつも歌っている、リズムも音程もギターも無茶苦茶で歌っている、いや叫んでいる歌。


 嘆いてみたって仕方ないさ

 そんないとまがあるのなら

 今日の飯代でも稼いでこよう

 逃げてみたって仕方ないさ

 そんなことしているから

 だんだんみみっちくなっていくのさ

 死ぬことなんて怖くないさ

 生きてく方がよっぽど怖い

 こんなちっぽけな人生だけど

 生きて行こうよ一生懸命


 いつも、うるさく思っていたあの歌が、今日は、不思議なことに僕の心を打つ。美しいとか、真実とか、善とか、愛とか言った甘ったるいものでなく、もっと切羽詰った呻き、怨歌−。地球を押し破って噴火する火山の如き迫力を持って僕に迫ってくる。僕は、もう夢中だった。僕も、その歌を叫んでいる。大声を張り上げ、無茶苦茶に。店の中が騒がしくなってきた。誰も、もはや酔ってなどいなかった。ただ、僕の奇態を驚いている。驚きの目は、やがて不安と不快の目に一変する。ギターを弾く指からは、赤いものが滲んでいる。僕は、続けて叫ぶ


 愛を歌っても仕方ないさ

 君が愛してくれないなら

 奪ってしまおう心も体も

 善人ぶっても仕方がないさ

 嫌な野郎は殺してしまえ

 どうせすぐ終わる人生だから

 生きている自分がいる限り

 死なない自分がいる限り

 こんなちっぽけな人生だけど

 生きて行こうよ土に還るまで


 僕の心の中にあるものすべて、さらけ出してやろう。あちらこちらから「ヤメローッ」と罵声が飛ぶ。聞け、僕の魂を。虚しい人々よ、これが、僕の青春なんだ。咽のあたりに血が込み上げてきたようだ。このまま歌えば、おそらく、二度と歌えなくなってしまうだろう。でも、いいんだ。この恍惚に浸っていたい。青春の全てを、この一瞬に賭けてみたい。

 僕は歌う。もう、僕の叫びは、耳には伝わってこなくなった。しかし、僕の心の中で、一段と激しく響いている。僕は、今幸せの絶頂にある。


 生きている自分がいる限り

 死なない自分がいる限り

 こんなちっぽけな人生だけど

 生きて行こうよ土に還るまで


 だんだん意識が薄れていく。


 回想は終わった。僕は、ずっと立っていたらしい。いやらしいだけの大人の世界に、もう僕の青春の輝きを偲ぶものは、何もない。それも、いいことかもしれない。

 二月の太陽は、やはり、僕には眩しいすぎだようだ。

「めばえ」第二集 洛東高校卒業記念文集

一九七四年