悲しめる石


  京都の北山の奥に相当大きな滝がある。その滝口の所に巨大な石がその先を絶壁の方へ突き出してそびれている。私はそれを見た瞬間、なんて悲しそうな石なんだ、と感じずにいられなかった。私は暫く憑かれたように「悲しめる石」を見入った。巨大なる石はその巨大なる故に人をして悲哀せしむる。静かに堪えている者の姿がそれであった。小鳥がさえずりながら谷を渡っていく。こんな平和な自然の中で何を憂うることがあろうか。私は石を見上げたまま、じっと考えた。そうして、ようやく得た答えは、平和に堪えている、ということだった。外面しか見ることのできない人間がほとんどの場合見失ってしまっている。過酷なまで残虐な自然の掟、弱いものは滅ぼされ強者のみが生存を許されている。何千年何万年という間、自然を見続けてきた巨大な石にとって、今この一見、平和そうな静けさが狂おしくて仕方がないのだろう。そんな石の気持ちを私が理解できたのは、私も同じ感情を胸にかみしめて、この北山へ入って来たからなのだ。そして、その悲しみをじっと耐えて動かないのだ。

  しかし、そのような憶測が明らかに誤っていることがわかった。それにどれほどの時間を要しただろう。頭の上にあった太陽は、向こうの山に隠れようとしている。悲しいから動かないのではなく、動けないから悲しいのだ。永遠なるからパラドックスが私に教えてくれた。だが、私は観念だけによって、この素晴らしい真理に達したのではなかった。確かに「悲しめる石」の声を聞いたのだ。
−−自殺するのはよせ。しかし、わしはいつもこう言うだけなのだ。

  私は以前多くの人がそうしたように、「悲しみの石」の上から飛びおりて自殺しようとしていた。私がなぜそこまで思い詰められばならなかったのかは聞かずにいて欲しい。どうこう取るに足りぬことなのだから。

  私は、石が私に向かって投げかけた言葉でなく、半ば呟くように自分自身に対して吐いた言葉に引きつけられた。石の言葉には「早まるな。もう一度よく考えてみろ」という忠告めいた感じはなく、「そう楽に死なせてたまるか。お前ら自由に動くことのできる人間どもは、もっと苦しんで死んでいくんだ。まだ動けるうちはこの世から逃しはしない」という怨恨が込められていた。
−−もし、わしが動けたら、こんな欺瞞に満ちた自然なんぞ破壊してやるのに。

  「悲しめる石」は最後にそういうと、水溜りもないのに、先の方から一つ分の水滴を滝壺へ落としたのだった。

  今、私はこうして私の書斎にいる。動けるものとして絶望は許されないのだ。そして私は社会を逆行するものとしてここにいる。

「無為の会」創設一周年記念号 一九七六年九月

京都教育大学 二回生