自由への誘(いざな)い


 書棚に手が伸びた。赤い背表紙に金色の字が光る。『自由への誘い』、三千五百円.とうてい買える代物じゃない。どうして、これが、「自由」なのか。そして、彼は怒りをかみしめた。そのまま本を抱えて店を出ようとした。人ごみに消え去ろうとした瞬間,上着の裾を引っ張る手があった.

「もしもし、ちょっと待ってください」

  ガードマン。口元はにこやかに笑っているが、目は嘲笑している。彼は無表情にガードマンを眺めた。別段逆らう気はない。男は声を荒立てる。

(本を勝手に持ち出してもらっては困りますね。万引きされては困ると言っているんだよ」

  人ごみの一部が彼の方に視線を集めた。彼は見れぬつけ根まで真っ赤になった。

「すいません」

 やっとそう言った。しかし、少し遅かった。

「すまんじゃない。さあ、事務所まで来てもらいましょう」

  人ごみの流れが止まるほどになった。彼は全速力で店内に飛び込んだ。 

 事務所で、ガードマンと店長の三人になると、彼の顔は二人平静に戻っていた。

「さあ、言ってみたまえ。どうしてこんな真似をしたのかね」

  店長が訊いた。彼は無言に返っていた。

「君は万引きをしたのだよ。立派な犯罪なんだよ。警察に引き渡してもいいのだよ」

  彼は相変わらず無表情で店長の顔を直視していいる。店長は少し怖くなってきた。

「見付かったら見つからなかったの問題じゃなくて、意識の問題なのだよ。罪の意識はないのかね。悪いと思わないのかね」

「………」

「私はね,品物が惜しいからこう言っているんじゃないんだよ。あなたのね、あなたのためを思って言ってあげてるのだよ。わかりますか」

  彼は目線を逸らそうともしない。店長はついに判断を下した。この男は頭がおかしいのだ。その時、ドアにノックがあった。

「どうぞ」

  店長は何か救わレたような気がした。

「ごめんください」

  若い女性が入ってきた。彼はその女を見た。大柄ではない。栗色の長い髪、鋭く切れ上がった目。

「私、この人の知り合いの者ですが」

「ああ、それはよかった。この人少し頭が変なのじゃないですか」

  店長も自分では不思議な程感情的になっていた。彼の目は異様な光線を放っていた。

「ええ、少しのノイローゼ気味なので」

「そうでしょうね。でなきゃ、ねぇ」

「あのお,どうさてていただいたらよろしいでしょう」

「ああ、引き取ってくだされば結構です。私どもといたしましても、警察沙汰は好みませんので」

「あの、その本はおいくらですか」

 彼を差し置いて、二人だけの間で話が展開していた。彼はその女性を知っていた、と言っても、先刻隣で本を見ていた女性であるというだけであるが。もちろん、どこの誰かは全く知らない。

 女は一万円札を置いて、彼と一緒に部屋を出た。店長は彼の方を見て、「お大事に」と言った。彼は初めて笑った。

 彼は口を閉じたまま彼女について歩いた。彼女もついに耐えられなくなった。

「あんた、本当にノイローゼなの」

  首を横に振っただけ。

「せっかく助けてあげたのに、名乗るぐらいしたらどうなの」

「健一」

「たったそれだけ.私には黙秘権を使わなくていいのよ。なぜあんなことしたの」

などと言われても、答えたところで到底わかってもらえまいし、わかるはずもないことだ。

「ね、どうしてよ。私はね,あなたの命の恩人なのよ」

 黙っている方が面倒になって来たので、ぽつりぽつり話し始めた。

「あの本が欲しかった。でもお金が足りなかった。あまり不合理じゃないか。だからやったんだよ」

 勿論、嘘っぱちである。真実を話しても絶対わからない、それは確実だった。

「罪の意識はないの

「ないね」

「何故逃げなかったの」

 もう、面倒くさくなってきた。

「やっぱし、普通じゃないわね」

 そう言われるのには慣れていた。京都にいた頃でも、街頭で急に逃げるように走り出したり、階段の前で異常に怯えたり、周りの人を驚かしたものだった。他人から見れば発作としか思えないだろうが、健一にとっては致し方ない行動だった。

「あんた、学生」

「ああ」

「どこ」

「W大」

「からきしバカでもないわね。下宿」

「私大で下宿じゃ、金もないわね」

  魂胆があるなら早く言ってしまえばいいのに」

「ねぇ、私たちの仲間に入らない。その本ね、『自由への誘い』ってやつ.私たちはね、自由をエンジョイしなきゃだめなのよ。こんながんじがらめの社会なんか、オサラバするのよ。何したって自由よ。ねぇ、あんたもそうでしょ。なんせ平気で万引きできるんなんて、大したものよ。自由だもんね。私とつき合ったら、自由が保証してあげるわ」

 全く奇妙な話さ。誰が自由を保証するって。

 二人はそのまま別れた。彼は相も変わらぬアパートに帰ってきた。小さな台所はあるが、底の焦げた鍋が一つコンロにかかったままになっているだけ。六畳の間には木製の古机とスチールの棚が四つ、本をぎっしり詰めて置いてある。そして、そこらそれら安っぽい調度とはおよそ似つかわしくない立派な姫鏡台が一台ある。二年前、反対する母親一人残して、東京の大学へ入るため上京してきた。幼い頃に父を失い、母と二人暮らし。彼ははっきり認めている。母を捨てて来たのだと。母の恩を強く感じているだけに自責の念はぬぐえないものとなっていた。毎月仕送りはしているが、金では償えないものであることは、百も承知している。彼にとってもっとも大切なものを崩壊させるつもりであったが、今は、以前よりも一層強い絆を感じていた。切っても切れない絆を感じていた。彼を駆り立てたそれだけのものがこの大都会にはある。東京には人がいる。京都でも度々そして先程も経験したように、群衆のなかで突然発狂したように駆け出すことがあった。人間は異常な恐怖を抱いていた。しかし、それでも人間の中にないと安堵出来ないのである。

 隣の部屋で話し声がする。この二週間前から続いている。実行の日が近いのだろうか。彼は何を相談しているのか知っていた。隣に住んでいる男は二十八才の会社員である。背はあまり高くないががっしりしている。細い黒縁の眼鏡がインテリであることを表している。以前、健一の部屋に入ってきた時、何の用事であったか忘れたが、本棚に並んでいるマルクス全集やトロッキーの著書を認めて、それについて議論を仕掛けて来た。そして最後の方で彼の計画を熱っぽく打ち明けてくれた。彼らは爆弾を作っているのである。首相官邸をやるんだと言っていた。なぜ、こんな大事なこと話してくれたのか。あれだけ議論で私を信用したのだろうか。わからない。

 健一は、鏡に見入った。様々な顔を作って自分に見せた。一つの顔を作ると三分は崩さない。まず感情移入する。これは、嬉しい時、これは悲しい時、これは怒った時、感謝・驚き。覚える。疑問な時の顔の筋肉の緊張のバランス。一つ終えると他の顔の、飽くことなく繰り返す.悪いことをした時の顔.面を垂れ目を落とし、目の辺りの筋肉を僅かに緊張させる。今日本屋でこの顔を作っていればよかったろうに。でもあの時は後悔していなかった。今も同じ。それがいけなかった。店長の感情を荒立ててしまった。無理してでも、しかし、恐怖・戦慄、彼らでなく自分のやったことに対しての。もちろん、罪の意識とは全く無関係な−−今、鏡のなかにあるこの顔をしていれば。しかし、私の顔は私の顔、鏡に映る顔は誰のもの。少なくとも私じゃない。酷似しているが全く別人。鏡に幾ら縋っても私の顔は見えない。眼球を落とすと辛うじて鼻の側面が見える。上唇を突き出すとその上面が見える。そして、光に向かって目を細め上目使いすると瞼の裏側が見えるだけ。何という不安。自分の顔も知らないで生きているなんて。鏡を見つめることも所詮気休めに過ぎない.あとは鏡のなかの顔をもとにイマジネーションを働かせしかない.そうしたところで私だけのイマジネーションに過ぎない。本物の顔を見て私と異なるイマージュを描く人もいるかもしれないとしたら、いや、おそらく.あ、私は、私は一体誰なのだ。

 隣の部屋で金属音が始まる。いよいよやるのか。二、三日前にも仲間に入らないかと執拗に説得しに来た。首相を殺したぐらいでは良くならないのはわかっていると言った。道は遠いですね、私の言葉にも頷いていた。しかし、彼は、やらねばならないと言った。我々は自由を目指すならば人間全体に責任を持たなければならない。歴史の尻拭いすら辞さない。我々の先祖が不当にも奪われた自由を今こそ奪回せねばならないのだ。彼は熱く語った。人間全体の自由のために我々はここに布石を敷くのだ。私もあなたに賛同すると言った。実際私がずっと考えていたのはこの問題だったのだ。しかし、あなたの運動に参加できないと言った。彼はなおも誘ったが、私は肯じなかった。他言はしないからと約束して諦めてもらった。不思議なことに彼は信じてくれた。後ろめたさを感じないと言えば嘘になるだろう。私には勇気がなかった、怖かった。爆破することではなく、もっと他の事が。

 時計が五時を打った。隣の話し声は絶えず続いている。五つ目の鐘がなり終わったすぐ後、オートバイのけたたましい爆音が隣の音を消した。爆音の中からノックが聞こえた。確かに健一の部屋だ。ドアを開けると、黒い革ジャンパーに同じスラックスを履いた女が立っていた。昼間の女である。

「ドライブに行かない」

 オートバイに負けない大きな声で言った。彼は隣の部屋の壁へ目をやって微かに笑った。そしてコートを引っかけると部屋を出て行った。

「さぁ、しっかりつかまっていてよ。振り落とされるわよ」

 彼女は叫んだ。彼も大声で答えた。両腕を伸ばして彼女の胴に巻いた。柔らかい、やっぱり女だ。加速するに連れて彼女の腹部の弾力が彼の腕に伝わってくる。オートバイは都心高速に入った。さすがに車は少ない。

「ねぇ、気持ちいいでしょ」

「ああ」

「ビルディングが飛んでいくわ。現実が飛んでいくわ。脱出。そうよ、私たち自由なのよ」

  彼女は狂ったように叫んだ。ヘルメットをかぶっていない彼女の髪は風に乱れ、彼の顔にふりかかった。嫋かな髪だ。いい女だ。

 車ホテルの前に来て止まった。二階の奥の部屋に案内された。彼女は煙草に火をつける。燻れる煙の向こう側に彼女の顔がある。

「吸う」

「いや」

「珍しいのね」

  舶来物だ。彼女は実にうまそうだ。彼は煙を見て楽しんだ。一本吸い終わると、シャワールームに消えた。しばらくして水の落下音が聞こえて来た。健一の欲望は頂点に達した。淫らな想像に耽った。彼を焦らすように水の音が続いた。やがて,バスタオルを巻いた彼女が出て来た。髪を直しながらベッドに腰掛けた。

「あんたも浴びる」

彼は首を振った。彼女は鼻と口で微笑むとバスタオルを捨ててベッドに身を投げた。一糸纏わぬ女の肉体がそこにあった。彼は椅子に座ったまま、彼女に向かって目を見開いているだけで、動こうとしない。

「さぁ、どうしたのよ」

  彼女の体を見回すだけだった。

「私ね、あんたに惚れちまったんだよ」

「………」

「嫌なの。私、あんたみたいに自由な人大好きなの」

彼は眉をしかめた。

「さぁ、どうしたの。抱いていいのよ。変なヒモなんか付いてないわよ」

「き、きみは」

「私がどうしたの。これでもね、よく鏡に映してみて、ナルシズムってやつね、自分でいうのも変だけど、結構いいプロモーションねと自信持っているのよ」

「い、いや」

「意地悪ね。本当は優しいくせに。ちゃんとわかっているんだから。遠慮なんかいらないの。二人は自由なんだから」

  椅子が倒れた。彼は、躓きながら後ずさりした。鏡……自信……優しい……自由!彼の顔は恐怖で引きつった。壁に突き当たると崩れるように座り込んだ。彼女は驚いて近づいてきた。

「一体どうしたの」

 彼は黙ったまま怯えていた。彼女もどうしていいか戸惑っているだけだった。ようやく震える声で彼が言った。

「君は怖くないの」

「何が」

「僕の目や、君のしていることが」

「どうして怖がらなくちゃいけならないの。セックスは自由なのよ。こんなの常識でしょ」

「セックスじゃなくて、つまり、その……」

「もういいわ。見損なったわ。あんたもそこら辺に転がっているのと同じモラリストなのね。がんじがらめの世間に縛られて自由てものがないんだわ。臆病者」

「違うんだ、違うんだよ」

「もういいわ。たくさんよ。私としたことが、とんだ男に引っ掛かったものね。うんざりよ。出て行ってちょうだい」

  健一は悲しそうな目をして部屋を出て行った。彼女も当たり散らしながら服を着ると荒々らしくドアを閉めた。

  オートバイのエンジンがなかなか点火しなかった。彼女は躍起になってペダルをキックした。しかし、爆音は聞かれなかった。諦めてオートバイから降りた瞬間、誰か押し倒された。悲鳴をあげようとしたが、それより一瞬早く口を塞がれた。二、三発殴られ怯んだ隙に衣服を引き裂かれた。彼女の体は裸になって震えた。彼女の顔は歪んだ。

「どうだ、怖いか」

「あっ」

「そうだよ。健一だよ。オートバイのガソリンを抜いたのもね」

「どうして,こんな真似するのよ。やっぱり私が欲しいのね」

「ふん、生意気言ってはいけないよ。君に自由の恐ろしさを見せてやりたかったのさ」

 彼は彼女の体を放してやった。彼女は飛び退くと胸を隠した。

「君もそんなことをするようになったのかい」

「何よ、あんたは変態だわ」

「変態、そうかもしれないね。人間すべてね。君も含めて。君は先刻自由にならなくてはいけないと言ったね。でもね、人間はそうしなくても元来自由でしか生きられないはずなのだよ」

「そうよ、だからあたしも自由に生きているのよ。親にも干渉させないし、世間の目も見返してやるわ」

「君のは、現実に逆らっているだけなんだよ。現実というのものが既になかったら生きてはいけないんだよ。結局は現実に縛られている。中途半端に解放された自分の殻に閉じこもっているだけさ」

「自分の殻」

「そうさ、個人の自由と言ってもいい。それを包むように人間全体の自由がある。君が本当に自由でありたいなら、人間全体の自由にも責任をとらなければ、完全な自由は実現しない」

「でも、私さえ自由であればいいのよ」

「そうだ。でもいつか大きな壁に当たる」

「革命、あなたは左翼なの」

「いや.反対に彼らを恐れてさえいる」

「今がよければいいのよ。後はどうでもなるわ。運命よ。神様、キリスト様、仏様」

「そう思いたかった。でも、すべてを見てしまった。神はいなかった。人間が全く自由に生きようとするなら、自分で自分の未来を作らなければ、零から現実を作っていかなければならない。運命とはそういう意味でしか存在しない。つまり、人間は何をしても良いことになる。自由の中に見捨てられているんだよ。まさに地獄」

「難しいのね」

「難しくないさ。今、君を強姦しようとしたのも自由なんだ。先刻、君はセックスを予想して裸の体を曝していたね。しかし、僕は君の予想と全く違うことするかもしれなかった。君をナイフで刺し殺すことだってありえたわけだ。君の言う見事なプロポーションも君にとっての意味しか持たないのさ。何をしてもいい代わりに、何をされるかわからない。他人がいるんだよ。無人島でない限り、自由な他人がいるのさ。そして、より強い他人が僕の自由を緊縛するのだ。ますますもって地獄さ。強い者だけが生き残れるのだね」

「わからないわ」

「そうさ。わからないのさ。全体、人間全体の自由ってやつの正体がね。全体の自由って何だ。人間は各自自由であるなら、一体誰が決めるんだい。また、一番強い奴がかい」

「寒いわ」

 健一は自分のコートを脱いで彼女の肩に掛けてやった。

「優しいのね」

「君は幸せだね」

「あなたは」

「さぁ、どうかね」

「じゃ、なぜ生きてるの」

  彼は返答に詰まった。なぜ生きているのだろう。自由にしか生きられない苦しさ.束縛されて生きている苦しさ。弱い者に対しては自由であり、強い人からは自由を奪われ。完全に束縛されて生きるには自由が疼き、完全に自由に生きることは不可能である。なぜなら、乗り越えるべきもっとも強いものは、もはや人間ではなくメカニズムであるから。この絶望的な不条理。それでも生きて行きたいとすれば、「おそらく、自分をいじめたいからだろう。とんだマゾヒストさ。現実と血まみれになって戦いながら生きて行くことに幸せを見いだす」

  彼は寂しく笑った。


「浪曼」第四号 一九七六年一月

京都教育大学 三回生