不幸への旅


 メルヘン───空想的で驚異的な物語・童話。我々がメルヘンと口にする時、楽しい夢の世界を思い浮かべる。しかし、メルヘンはそのような世界ばかりではない、と僕は思う。もっと現実の世界のような顔したメルヘン。僕は、この作品も一つのメルヘンだと思う。
 
 六月の初め、まだ太陽が頭の上にあるのに、働き盛りの男たちが屯している。焼酎の匂いを漂わせて五、六人の男は一升瓶を囲んでいる。炎天下の下、大の字に寝ている男もいる。向こうでは十人ばかりが路上で蓆を敷いて博打をしている。中で二人が掴み合いの喧嘩を始める。それを囲んで汚い子供達がいる。小便や反吐がへばりついた道路を、煙草の吸い殻を探して男がうろつく。ぼんやり道に座れ込んだ女が、それを見るともなく見ている。甲高い赤子の泣き声、それを追うように癇性な女の叱る声が響き渡る。一人の男が、髪を無精に伸ばし、肩に布袋ひとつ掛けた、ヨレヨレのデニムのジャケットに洗い晒しのジーパン姿の男が、口笛を吹きながらドヤ街の中に入ってきた。近くの男や女は物珍しいそうに彼を見た。男は宿(どや)の前に立ち止まる。男の目線を確かめるように少し間をおいてその汚い宿に姿を消した。人々の目は、もはや彼の姿を追わなかった。そして、また甲高い声だけが人々の耳に響いていた。あたりはようやく夕闇が迫ってきた。

 ドヤ街の朝は、昼間と打って変わって活気に満ちている。手配師がトラックに乗って日雇い労働者を拾いに来る。手配師が荷台の上で四本、五本指を見せてその日の日当示す。人々は争うようにその元に集まる。乗り遅れたが最後、昼間の男たちのように太陽の下で一日棒に振らなければならない。手に弁当の風呂敷を持った男も持たない男も先を争ってトラックの荷台に手を掛ける。足を掛ける。横から割り込んでくる手もある。乗り掛かった人の腰に手を回す男もある。全てが戦争である。生きるがための戦争である。
 昨日の男もいた。彼がトラックに手を掛けた一瞬、後から痩せた男が彼を押しのけてトラックに乗ろうとした。その背後では女の声が「あんた、今日こそ」と悲惨に叫ぶ。痩せた男の手を振り払おうと思えば他愛のないことだった。でも、彼は自ら降りた。その時、「今日はこれまで」と、手配師の声がしてトラックは動き出した。痩せた男は手を離すまいとトラックの後を追った。が力尽き取り残された。戻ってきた男の目は憎悪を秘めて彼を見た。その目は女の目と二つになって、一層憎悪を秘めて彼を睨んだ。彼は逃げるようにその場を離れた。彼は今まであのような恐ろしい目を経験したことがなった。まだ、あの目が彼を追ってくるような気がした。彼は力ない足取りで宿に戻った。宿の主人が目玉だけ動かして彼を一瞥すると、また新聞を読み始めた。彼は益々怯えて二階に上がった。部屋に入ると仰向けになって天井を眺めた。
 牧野信介、十九歳、某大学二回生。十九年間何の苦労もない平凡な、平凡すぎる日々を送ってきた。十九回の誕生日をただ経てきた男、男の子。彼は、平和な平凡な毎日の生活に反発を感じていた。このまま幸福の中に浸っていると自分は駄目になる。幸せすぎる自分に劣等感を抱いていた。奇妙な劣等感かもしれない。幸福という優位の中で安閑と座っていることに耐えられなかった。幸福の崩壊を恐れていたのではない。幸福それ自体がもつひ弱さが怖かった。不幸のもつ居直ったような逞しく、生命力に絶えず脅かされ、また憧れていた。不幸の持つ生命力に触れてみたい。知りたい、見つけたい、不幸になりたい、彼はいつもそう願っていた。でも、実行に移せなかった。
 そのような彼に幸福をへの旅を決断する勇気を与えたもの、それは、失恋だった。これまた陳腐切っ掛けだった。でも、彼に訪れたし初めての悲しみらしい悲しみだった。二、三枚の一万円札を財布に詰め込み、手元の荷物をまとめると、こっそり家を抜け出した。机の上には、ただ「旅に出ます」とだけ書いたノートを置いてきた。汽車に乗って着いたのがこの街だった。
 彼は不幸をドヤ街に求めた。酒、売春、犯罪、人生の落伍者の行き着く先、それが彼のドヤ街であり不幸の聖地のイメージだった。その日を生きてくるために働く人々、しばしの暴動に見える富なき若者たちの団結、そのような所に、不幸の持つ逞しい生命力をを求めていた。
 ここまで考えて彼の思考は中断した。先刻の痩せた男の目、その意味の不思議に突き当たった。幾ら考えても自分には非はないと思った。それでしか解らなかった。
 あきらめて散歩することにした。ドアを開けると靴がない。辺りを見回したが、影も形もなかった。盗まれたのだ。彼は別段驚きはしなかったが、他の荷物を取りに戻って主人に預けで外へ出た。街の中を歩くのは初めてだった。道路では、昨日と同じように、酒を飲んだり、賭博をしている連中がいる。道路の脇では、スイトン屋や飲み屋の屋台がある。その中に、ゴザを広げて地下足袋を売っている少年がいた。彼は裸足で出てきたので一足買った。金を渡し、少年に話し掛けた。
「ぽうやいくつだい」
「ぼうやって誰の事言ってんだい。なめるなよ」
「何と呼べばいいんだい」
「呼ばなきゃいいのさ」
 信介は舐められていると感じたが、どうしても話し掛けでみたかった。
「そういわずに教えてくれよ。何歳なんだい」
 少年は上目使いに「何円くれる」と言った。信介は百円硬貨をその子にやった。
「九歳だよ」
「学校へ行かないのかい」
 少年は「いちいち五月蠅いなあ」と言って、口唇を突き出して上目使いに見た。信介はまた百円やった。
「学校生活のためだよ。勉強させてもらえるような結構な身分じゃないんでね」
と大人みたい言い方をすると、これ以上はごめんだ、というように目を遠くにやった。義務教育の小学校へさえ行けない子がある。信介にとって新事実だった。彼は同情に満ちた目で少年を見た。
「用が済んだら、あっちへ行ってくれよ。商売ならないじゃないか。」
 その声で弾かれるように、信介は立ち去った。彼の目に映るもの、すべてが珍しかった。でも、あまりキョロキョロはできなかった。時々会う人の目が「何か文句があるか。命が惜しけりゃ、真っ直ぐ見て歩け」と言っているような気がした。ビクビクして歩いていると、後から肩を叩くものがあった。信介はお化けでも出たようにようにビクンと肩を引き攣らせた。それを確かめるように、男の声がした。
「あんた、だいぶビビッているようですね」
 信介はゆっくりと声の主の方を振り返った。そこに立っていたのは、小柄で色の白いひ弱そうな男だった。信介と同じぐらいの年頃か、少し上ぐらいだった。
「こんなところ、初めての人が一人で歩くのは良くありませんね」
 その男は媚びるような物の言い方をした。
「それに、あんたドヤ街を怖いところだと思い込んでいますね」
 信介の身体を向き直して言った。
「あてたは誰です」
「みんな『トモ』と呼んでいます。そんなことより、あなた、ドヤ街を恐ろしい所と思う人間は、こんな所に住めやしません。お見受けした所、あなたは学生さんですね。一体、どうしてまたこんな所へ」
 信介はそう言われて初めて気が付いた。彼の恐れは、すべて劣等感から出ているのだ。彼はその劣等感を拭い去るためにここにきたはずだ。あくまで、彼らと対等に振る舞わなくてはならないと認識した。となると、この男に対する答えも考えなければならない。
「そう見えるかい。光栄だね。でも、残念ながら俺は中学しか出ていない。町工場で働いてたのだが、そこのオヤジが安い賃金でこき使いやがるから二発ほどぶん殴ってやったら、これだよ」
 と手で首を切る真似をした。トモは、さも敬服したように、
「これはお見逸れしました兄貴、お供します」
 呼び方まで変えて、信介に道を譲った。信介も、この男のわざとらしい態度を見抜けない程愚かではなかった。でも、何となく快かった。信介は煽てられたような振りをして、トモの前は歩き出した。トモは色々とドヤ街での生活の知恵を教えてくれた。信介には耳新しい事ばかりだった。でも、口先では「いちいち五月蠅いな、黙って歩けないのか」と言っていた。それでも、トモは止めなかった。暫く歩いていくとトモが言った。
「兄貴、腹が減りましたね」
 そら来た、と信介はほくそえんだ。先刻から諂いは、昼飯にありつく為だったのだと決めつけた。
「あの店が安くてうまいですよ」
 トモに誘われるまま、信介はその店に入った。食べ終わって、信介が何も言わず二人分の勘定を払おうとすると、トモが慌てて遮った。
「そいつはいけません。こんなところでは、何でも割り勘が一番ですよ」
と言って自分の分を払った。可笑しな奴だなと信介は思った。ある諂いの意味がまた解らなくなった。二人は少し歩くと別れた。

 また新しい朝が来た。その日も、信介は仕事にあぶれた。ドヤでの生存競争の凄まじさに驚いた。想像以上のものだった。信介は仕事にありつけなかったことを悔いるより、生きる為に働く人々の姿を見て素晴らしいと羨んだ。しばらく立ちんぼにいると、向こうからトモがやってきた。
「おはようございます。兄貴、今日も仕事あぶれたのですか」
 彼はさも気の毒そうにこう言った。信介まだ自分を装わなくてはならない。
「おお、トモか。凄いもんだね。オレ、途中で嫌気がさして止めたよ」
「でも、ひょっとすると、また仕事の口をを持って来る奴があるかもしれませんよ」
 信介はそれを当てにするわけでもなかったが、しばらくトモと話していた。そこへ一台のトラック止まった。荷台の上に、きちんと洗濯してアイロンのかかった作業着を着た若い男が立った。
「十人程、いないか。ビルの建築現場で日当五千円だ」
と、片手を上げて叫んだ。宿から、信介と同じように仕事にあぶらた男たちが出てきた。
「兄貴、今日はついてますね」
というトモの声と同時に、二人はトラックに飛び乗った。トラックは三十分程走って止まった。信介の乗っている間、トモに訊いた。
「先刻の男、どう見ても、手配師には見えなかったが、奴はいったい何なのだ」
「えぇ、あの男はちょくちょく今日みたいやって来るのですが、仲間の話では、今年大学を出たとかで、今は現場監督をやっています。我々の仲間の内では、あんなのをハリキリボーイと呼んでいます。とにかく新米なものですから、人の扱い方もよく知らない。私達も、相当頭にきている奴なのですよ」
「それであんなにキチンとした身なりをしているのか。全く、エリート意識過剰の嫌な野郎だね」
 信介はそう言って優越感に浸っていた。数日前の自分も、老い老いあのようになっていたのだなと思うと、一層蔑んでみたかった。
 現場に降ろされると、早速仕事が始まった。信介は嬉しかった。その日を生きるために働くのだと思うと、一生懸命動かす手や足に喜びを覚えた。働く喜びとは正に今の心境を言うのだろう。体を動かす度に、自分は自分力で生きているとひしひしと感じられた。長年、憧れてたものを、自分は今手にしているのだ。その満足感は形容しがたかった。太陽と大地と自分、この三つが今ひとつになった。彼はそう感じた。周りの人は々は、一心不乱に働く信介を見て呆れ返った。信介はそのようなことには一向気づく気配を見せなかった。
 一時間程たつと、あたりの様子がおかしい。働くことに熱中していた信介にも感じられた。人夫たちは仕事を止めて、円陣になって座っていた。彼らの真ん中に先刻の大学出の現場監督が立ちすくんでいた。彼らの一人が、彼の胸ぐらを掴んで凄んでいた。
「おい、貴様、若いくせに生意気だぞ。オレ達が音無しくしていればいい気になりやがって扱き使いやがる。大学では人の扱い方ってのは教えないのか。オレ達が働いてやっているから、お前たち、おまんまが食えるんだぜ。何とか言ったらどうなんだ」
 現場監督はしどろもどろに何か言ったが、言葉になっていなかった。他の人夫たちはニヤニヤ笑っている。「坊や早くママの所にお帰り」と言って面白がっていた。現場監督は今にも泣きそうにブルブル震えている。その罵倒は過去の自分にも向けられるものだし、この現場監督は過去の自分の姿でもあった。そう思うと、信介は今の自分の強い立場が得意になった。でも、どこか不安なものがあった。彼も一緒になって罵ってみた。でも、その不安は依然として残った。
 結局、その日は昼までしか仕事をしないで一日分の日当と慰謝料をせしめて帰った。帰り道、信介は元気がなかった。トモが心配そうに訊いた。
「兄貴、どうしたのです。元気がありませんね。初日で頑張り過ぎだのでしょう」
 信介は体に疲れを感じていなかった。しかし、心は疲れ切っていた。先刻の不安もそうだが、もっと大きな痛手を受けていた。
「なぁトモ、どうしてみんな一生懸命に働かないのだろう。その日の生活がかかっているというのに」
 信介はひとり言を言っているように、トモに訊いた。
「どうしてって」トモは苦笑いをしながら言った。「誰もえらい目をして稼ぐより楽をして稼ぐ方がいいに決まっているからでしょ。みんな、いかにサボるか、そればかり考えていますよ」
「そ、そうか」
 信介の言葉には力がなかった。不幸が産み出す生命力、もっと美しいものだと信じていた。追い詰められた人間の強さは、もっと素晴らしいはずだった。それがこんな狡猾なものだったとは。信介は自分の甘さを感じた。人間が本当に生きようとする時、人間はどんな悪い事でもするのだ。しなければ、生きていけないのだ。それが人間の強さだ。彼はそう思うようになった。

 ドヤに帰ると、誰かが酒でも飲もうぜと言い出した。みんなが入るのにつられて、信介も飲み屋に入った。
「昼間からご機嫌のようだね」と親爺が言った。
「あったりめぇよ。さ、どんどんつけてくれ」
「それはいいけど、金はあるのかい。先月分だって大分残っているんだよ」
「心配するなってことよ。みんなまとめて払ってやらぁ」
 信介はそれを聞きながら、稼いだ金を全部酒に代えているドヤの人を見て、一層気が荒んだ。いつも酒など飲まない信介だが、今日は無性に飲みたかった。幾ら飲んでも悲しさは消えなかった。店のラジオから、チータの「いっぽんどっこの唄」が流れてくる。
  ボロは着てても 心の錦 どんな花より綺麗だぜ 若いときゃ 二度ない どんとやれ 男なら  人のやれないことをやれ
 信介はいい歌だなと思った。今の自分の心を慰めて応援しているような気がした。「人生の応援歌」この歌は、このようなドヤの人々の為にあるのだなと考えた。信介は何だか嬉しくなって、隣に座っている男に話し掛けた。
「いい唄ですね」
 男は吐き出すように、こう言った。
「いい気なもんだ。人のお節介ばかり焼いて、自分ひとりいい子ぶってやがる。あんなアマに俺達の気持ちがわかってたまるか」
 信介は決まりが悪くなって、あとは黙って飲んでいた。
 数日が過ぎた。信介は怠けることを覚え、できるだけ楽をして働こうと努めた。そんな時、信介ばドヤの世界にのめり込んでいく自分を感じて得意になった。しかし、やる瀬なさも否定できなかった。
 仕事に出ないでブラブラしている日もあった。手配師が来ている様子もないのに、騒がしい日があることに信介は気が付いた。ある日、あまり退屈なので、その方に行ってみると、ドヤの人々の真ん中でハンドマイクを使って盛んにアピールしている学生風の男がいる。
「現代日本の社会から疎外されているこのドヤ街に、自由と人間らしさを取り戻そう。この非人間的な生活から一日も早く抜け出し、人間らしい生活を勝ち取る為に我々は、今こそ断固立ち上がるべきだ。我々の敵は、我々を疎外の状態に追いやった国家権力であり、その手先として、我々に様々な迫害を与えている警察である。革命の機は熟した。力を合わせて、断固、戦い抜こう」
 そう叫んでいる男の横で、二、三人の男がビラを配っている。彼の周りには、仕事に溢れた労働者が幾重にも集まっている。信介は目を見張った。彼らこそ自由の使者だ。正義の使者だ。信介の考えていた不幸の持つ生命力が、今爆発せんとしている。その素晴らしい破壊力を想像すると、信介は居ても立ってもいられなかった。人を押し退けて、彼らの方に進んでいた。
 彼らが一通り演説し終わって、人垣も散ってしまった時、信介はそこに残っていた。信介は彼らの方に近づくと、興奮した声で言った。
「僕にも協力させてください。リーダーらしい男が、少し驚いたような顔して信介の方を見た。僕たちに協力してくれるって」
「えぇ、僕にも手伝わせてください。僕、全く感激したのです。漠然と頭の中で考えていたことが、あなた達に寄って具体化されたのです」
「そうですか、それは有り難う。私は岡部と言います。殺気の演説でお判りと思いますが、我々は民主主義の社会が生み出す欺瞞を実行によって解消しようと考えています。現在、革新勢力と称している連中は、労働者の味方と言っているが、このようなドヤ街の労働者を排除した形で運動を進めて行こうとしている。ここにいる労働者、すなわち、社会最下層部の人々なくして、心の革命はなしえないのです。もっと詳しく話したのですが、そうだ、今日はこれを持って帰って読んでください。と言って小冊子を渡した。信介は宿に帰ると、早速読み始めた。表紙には、バクーニン語録と登録と書いてあった」
「任意の村を、蜂起に持っていくのはたやすいことだ。人民には常に革命の気構えがあり、革命後自主的に自己を組織する能力もある。……。革命家は、人民に自己の能力を目覚めさせ、一揆の試みによって、その力量を鍛えればよい。

 梅雨になった。ドヤの人々に苦難の季節が来た。───土方殺すにゃ刃物はいらぬ。雨の十日も振れば良い
 というように仕事はほとんどなく、人々は滅入っていた。信介はこの頃、岡部らの所に上がりこんでいた。計画は着々と進んでいた。この梅雨の間に労働者の中に募った不満を、蒸し暑くて強い欲求不満に襲われる夏に爆発させ、暴動を引き起こす。これが、今後の計画であった。彼らは真剣だった。行動の日まで毎日忙しく準備を進めていった。
 梅雨が過ぎ、暑い夏が来た。そして、ついに行動の日。二千人ほどの人々が轟々として集まった。「まさに革命の時だ」という岡部の言葉と同時に、その黒い塊が警察署に向かって動き出した。人々の顔は生き生きとしていた。信介の顔も興奮で赤らんでいた。これこそ不幸な虐げられた人の持つ強い生命力なのだ。自分はここにきてよかった、と今、ひしひしと実感している。そして、その先頭を自分は歩いている。彼の満足感は絶頂に達した。
 黒い塊は、警察署の前に到着した。岡部の煽動によって激しいしシュプレヒコールが繰り返された。
「ポリ公、帰れ!」「税金ドロボー、俺たちだって人間だ」
 警察官や機動隊員との間に小競り合いが始まった。ここぞばかり、労働者は警官に殴りかかる。警官も警棒で本気に殴りつける。罵る声と悲鳴の大合唱。血まみれの労働者がパトカーで連行される。暴動は二時間程してやっと静まった。道路には、石や角棒、引き裂かれた布切れ等が散らばり、血で赤く染まった所もあった。
 信介はトモと二人、無事ドヤまで帰ってきた。二人は信介の部屋へ入った。
「大成功、大成功」
と信介は熱に浮かされたように言った。トモもしてやったりというか顔で言った。いやぁ、胸がスッとしましたね。こんないい気持ちは久しぶりですね。あの警官の泣き出しそうな顔、瞼に浮かんできますね」
「ドヤ革命の記念すべき夜明け」
 信介は自分の言葉に酔っていた。トモも酔っていた。
「革命って面白いものですね。私はあのように暴れている時に、何て言うか自分は人間だ、生きているのだ───と自覚しますね。みんなにとっても、革命だと言って暴動を起こすことは、人間である証なのでしょうね」
「革命は今始まったばかりだ。今後、第二、第三の革命を起こして……」
「いやそんなにしょっちゅうじゃ体が持ちませんよ。また、ストレスが溜まったときにお願いします。
「何を言っているんだ。革命の時は今だ。俺はやるぞ」
「まあ、せいぜい頑張ってくださいね。私たち、自分の自由に干渉されるのはまっぴらですからね」
「惚けたこと言うな。俺はお前らのためにだな。」
 信介の声は決して怒ってはいなかった。ちょうど酔っぱらいが絡むような調子だった。トモも真剣に議論を戦わせている様子ではなかった。
「あぁあ、あんたの優越感にはついていけませんね。そんなの偽善て言うんですよ。あんたはあんたの世界にだけしか、住めないよ」
「な、なんだと」
 信介は拳を振り上げてトモに殴り掛かろうと凄んだ。トモは赤ん坊でもあやすように、「まぁまぁ」と言いながら、信介の肩口に手をかけた。信介がまだ何か言おうとした時、トモは肩に置いていた手を首に回して、もう一方の手を信介の頬に触れてきた。信介はまだ解らなかった。トモは自分の頬を紳助の頬に近づけてきた。そこにあった手はもう胸のところまで下りていて、円を描くように何度も何度も信介を弄っている。信介はやっと気づいた。男娼だ。トモのあの諂いは、そうだったのか。信介は自分でも青ざめていくのがわかった。あんまりの恐ろしさの為声も出ない。トモの手はさらに下に伸びる。「アッ!」と信介はそれからどうなったか、覚えていなかった。

 そして、今、信介は自分の家の机の前にいる。あの一カ月ほどの出来事を思い出している。走馬灯のように、ただ、グルグル止めどもなく回っているだけ。考えれば考える程、信介にはわからなくなってくる。ただ一つ、はっきりわかっていることは、もう一度不幸の旅をしてみたい、その事だけ。
「宿酔」一月号・二月号 一九七五年
京都教育大学一回生