平凡
おっといけない、もう青色が点滅している。命知らずの人々だなぁ。頭のてっぺんも少し薄くなって、油の乗り切った男たち、息子は大学受験を控え、だが、あまり頭脳がよくないから私立の大学しか入れない.親にも半分責任はあるのだが、馬鹿な息子のために、貴重な人生の大部分の時間を売る。何を期待しているのだろう。老後養ってもらうことをか。おそらく純粋な義務感からではないだろう。だがそんな期待はすぐに裏切られる。親は子の将来を持って(究極的には自分の老後を思って)一流の私大を受験させようとするだろうが、分相応で、結局は、浪人の末、二流か三流の私大へ。子供にとってはどの大学でもいいのだ。四年間、好きにできる時間さえ保証してくれれば。そんなことも知らずに、親は子供に貢ぎ続け、親が退職する年、子供は親の勤めている会社と同じくらいかそれより小さい会社に就職する。子と親は一緒に住まないだろう。大学からつき合っていた女と週に何回か寝るために、安アパート住まいをする。たとえ、住宅難から親と一緒に住むとしても、親のために金を使おうとはしないだろう。酒代になったり、車の月賦を払ったり、ひどい場合は、ほとんどを貯金してしまうだろう。それでも親は、まだ働ける内はと、十年後まで期待を伸ばして、定年を過ぎても雇ってくれる条件の悪い会社へ転職する。そんな息子のために一生懸命働くことはないのだ。もっとゆとりを持って生きるべきなんだ。ほら、あんたの息子があんたの命を狙っている。五十ccのバイクに乗って、工事現場から盗んできたような黒いヘルメットかぶって、細いサングラスを鼻にずらして、上目使いで狙っていやがる.十万円以上もするバイクを苦しい家計の中からせしめる。食わしてもらうことを当然のことのように考え、自分一人で生きているように思い上がっているガキども。こいつらにとっては、親は一つの道具でしかない.使い様によってはいくらでも甘い汁が吸えるし、使い物にならなくなったら、燃え尽きたマッチのように捨ててしまえる。ほら、言わないこっちゃない。まだ青に変わっていないのに、飛び出した。寸前の所で身を交わして、走り去っていくバイクに怒鳴り付けても仕方がない。奴の後ろには耳はない。その怒りはもっと早くぶつけるべきなんだ。点滅している信号で渡るのやめた私を道徳屋であると嘲り、自分を実際家と誇る前に、がんじがらめの規制社会の中で、爪の垢ほどでもない交通規則を破ったところで仕方ないじゃないか。規則社会の一員として組み込まれたからには、あくまで遵守すべきだ。そうだ。私は、敬遠なる道徳家だ。勤務三十年、いまだかつて会社に遅刻したことはない。仕事も真面目にやってきた。だからこそ、課長になれた。私と同じ年に入ってきた者の何人かは部長になった。彼らは上司に取り入ってその地位を得たのだ。彼らが酒の付き合いをし、ゴルフの付き合いをしている間も、私は工場に向かっていた。私は真面目に働いた。だから課長になれたのだ。息子は二人いる。長男は立派な社会人だ。給料の中からいくらか家に入れてくれる。この正月も家内と二人を温泉でやってくれた。次男は大学の三回生だ。浪人もせず国立の大学に入ってくれた。思想的にもかぶれていない。二十歳を越えたのに酒も煙草もやらない。私が見る時はいつも机に向かって何か書物を読んでいる。私が疲れたというと、肩を揉んでくれる。長女は高校出で大学へは行かず事務員になった。妻によく似て、家庭的な娘だ。堅苦しいだけの学歴など欲しがらず、掃除や洗濯、料理・裁縫などを好む。ローンも払い終わった我家で、親子五人が幸福な日々を送っている。平々凡々なサラリーマンとして、あと三年働き、後は子供たちに見守られて釣りなどをしながら余命を送る。
信号が青に変わった。それでも、もう一度左右を確かめて渡ろう。あの車、停止線をはるかに越え、横断歩道の真ん中まで突き出ている。横に化粧の濃い女を座らせた若い運転手は、悪びれた風もなく、むしろそのまま赤信号を突っ切らなかった不甲斐なさを、女に謝ってでもいるのか、フロントガラスの向こうで、頻りに話し掛けている。風采の上がらない私を話題に載せて、ああ草臥れたくないものだと将来の希望を膨らませているだろう。しかし、これは断言できる。彼らの行く末も、私と肩を並べて歩いている多くの男たちと同じなのだ。彼らのいきがりで、何とかなるほど、この社会は甘くない。何とかしようとするには、彼は才能がなさすぎる。誰もがするように、女を車に乗せて喜んでいる男に、何とかできるような社会ではない。女を人力車に乗せて、引っ張るぐらいの肝っ玉の男でも、その可能性が僅か一パーセントあるかなしかの社会なのだから。今は私を嘲り笑うがいい。私と肩を並べて歩く、車の二人からは私と同じに見える人々もだ。自分だけはあいつと違うという僅かな差を見つけては優越感にひたるがいい。だが、これだけは言っておく。人間は上辺で判断するものではない。それは、顔の醜い人ほど心は美しいとか、人を平気で殺す人間ほど、小さな生き物を大切にするとかいった極端から極端へ走る逆説ではない。極端ではない中間的な、平凡な物が一番恐ろしいのだ。今までの歴史は、左右の端を往復することによって展開されてきた。あらゆる意味を含めて、ある時期は右へ傾き、やがて右の端に突き当たると左へ傾き始め、左の端まで達するとまた右へ傾く。ある時代までは、その運動に全ての人々が同じ周期で従った。だがいつからか、いや、戦争に負けてからはっきりと、人々の周期が揃わなくなってきた。ある者は左へ傾き、ある者は右へ傾く。それでも、最初の頃は、左と右でそれぞれ立場を主張して激しく対立した。あれは激しいエネルギーの迸りだった。最近では、そのエネルギーは薄れて来た。だが、緩慢になりながらも依然、左右に分れている。現代は混沌の時代だという。あらゆる形態のものが本性を剥き出しにして存在しているという。あらゆる可能性が不可能な時代。発見の起こらない時代。英雄の出現しない時代。ふふふ。一見何の変哲もない中年男の私が、かくも形而上学的な理論を頭の中で転がしているとは、私を見ている誰もが想像出来ないだろう。ましてや、真面目そのものに見える私が半月も家には帰らず、若い女のアパートで同棲しているとは。こんな思考に更けれるのも、全くあの女のおかげだ。あの女と暮らした半月の間に、私は、閉塞の現代を打破する可能性を見いだしたのだ。私は左右に揺れることをやめた。両端の中心に留まることを決めた。するとどうしたことか、私は前進し始めた。九時から五時まで会社で働く以外、往復に要する時間を除くと、あの女と一緒なのだ。家族の者には、出張だと言ってある。こんな年よりに、しかも一ヶ月の長期にわたる出張など会社が命ずるなんて常識で考えても及びもつかないことなのだが、家族の者は皆信じた。それほど私は信頼されている、真面目な父なのである。あと半月たっても帰らず、家族の者が会社に問い合わせ、私の嘘がばれても、もうそのときは、私の超人化は完成していて、家族の泣き落としすら通じないだろう。これ程まで反社会化した私の正体を、誰も見とることができないのは、私の振る舞いが、極めて平凡だからである。そして、私の超人化が完成の域に近づいているからである。
あの女に出会ったのは、強い雨の夜だった。私は残業で遅くなった。若い者は、五時になると明日までに提出しなければいけない書類をほっぽり出して帰ってしまった。仕方なく私は、残ってくれた二、三人とその仕事を仕上げた。そして帰りに寿司とビールを奢ってやった。飲み始めた時が遅かったので、それほど飲んでいない。終電に乗るために、私は余分に金を置いて店を出た。外は雨が降っていた。出掛けに妻が鞄に入れてくれた折り畳みの傘を広げて、小走りに駆け出した。近道をするために通り抜けようとした公園の真ん中に、あの女がつっ立っていた。コートは雨に濡れてビショビショだ。手には傘ではなく、白い杖を持っている。街路灯に照らされた顔には、黒いサングラスをはめられている。可哀相だと思いながらも、構ってやるだけの余裕と良心はなかった。その女を見つけた位置から、円を描くように、女を避けて歩いた。すると女は、今まで微動だにしなかったのに、私の進行方向へ真っ直ぐ歩いてくるのだ。私を捕まえると、入れてください、駅まで送ってください、蚊の鳴くような声で言うのだ。私は避けようとしたことを後悔しながら、女を傘に入れて駅へ向かった。駅に着くと、まだ最終電車は出ていなかった。私は女と別れようとしたのだが、女は私の腕に巻き付けた手をほどこうとせず、家まで送ってくれと言うのだ。どっちですかと聞くと、私と反対方向だった。私がそのことを、やさしい口調で言い、最後にはこの傘をあげようとまで言った。だが、女は、私目が見えないんですとばかり繰り返す。最終電車がホームに入るというアナウンスがあって、私が強引に女の腕の外そうとした。後に、嫌な気持ちが残ることは覚悟の上だった。だが、女は想像もできない強い力をしていた。揉み合っている二人を、通行人たちはどんな目で見ていたか。どんな風に思っていたにせよ、関わり合いになろうとする者は一人もいない。そうこうしているうちに、とうとう電車は出てしまった。私は諦めて力を抜くと、女はこう言った。私はあなたを待っていたのだと。それ以上は幾ら質問しても言わず、送ってくれの一点張りだった。私は女を送ってやってそこからタクシーで帰ることに決めた。タクシー代に五千円もかかるだろう。電車を降りて、女の言うままに歩いた。着いた所は、アパートの一階だった。アパートと言っても、二階建ての粗末な物だった。ドアの前まで送り届けて帰ろうとしたが、また、腕を外さず、中へ入れという。女の一人住まいのアパートにやすやす入る年ではなかった。私は、すぐに下手な思いつきをして、金を払うから勘弁してくれ、妻子が待っているからと言ってやった。女は、自分はそんな女じゃないと言った。だが、その声に怒りの表情はなく、極めて穏やかだった。それじゃ、どうしてこんなまねをするのだと問うと、また、あなたを待っていたと答える.どういう意味だ、私はあなたなんか知らない。すると、私はずーっと以前からあなたを知っていると言う。その時、私は思った。この女はきちがいなのだ。再び私は抗った。その弾みで、女のサングラスが外れた。サングラスの下から現れた目は、大きく開いてはいるが、黒目の部分が、白目の真ん中にあって動かない美しい目だった。女は、静かに言った。さあどうぞ。私は部屋に入り、超人への一歩が踏み出された。
女の部屋には、入口から向かって正面と右側に窓がある。だが、そのどちらも、三十センチとは離れない所に、隣のビルの壁が迫り、採光は零だった。しかも、天井には電灯がぶら下がっていない。もっとも、女の場合、光とは無関係なのだが、その闇の中で、目を見開いたまま向き合う。女は、聞いては知っているが実際見たことのないものについて、説明を求める.私にそれを答えてやるのだが、彼女はなかなかわかろうとせず、しつこく、それはどういう物、と重ねてくる。私は答えに詰まると、言葉では言えないものだ、と決まって逃げる。でも彼女は諦めない。そうしているうちに、私は、何一つ知らなかったということに気づいた。抽象的な目に見えないものをもそうだが、目に見えるものでも、いつも見ているものでも、何一つ知らないのだ。私は今まで本当に見ていたのだろうか。リンゴをかじりながら女は聞く。リンゴってどんなもの。丸くて赤いもの。丸くて赤いものなら他にもいくらでもある。だが彼女の質問は、そんな方へは進まず、丸いってどういうもの、赤いってどういうものというふうに進んでいく。丸いとは、指でなぞってみても終わりのない形だよ。リンゴってそんな大きいの。赤いって夕日みたいな色だよ。リンゴってそんなに熱いという調子だ。私もこの女同様、目が見えていないのではないだろうか。この女はソクラテスのような哲学者なのかもしれない。だが、ソクラテスのような知ったかぶりな哲学者ではない。無知の哲学者。私は女に質問される前に、自分で自分に答えを問いかけるようになった。そしてようやくわかりかけて来た。本当は何もないのだ。あるように思い込んでいるだけなのだ。幼い頃から無条件で植え付けられて来た概念を適当に構成させられて、恰もあるように信じこんでいるに過ぎないのだ。その無条件に与えられた常識をつつかれると、何とも説明することができなくなるのだ。だから、私たちの夜は変わって来た。闇の部屋の中で、私が見ているものを女に話して聞かせる。それは、私自身が心の中で構成したものである。そして、女も同じようにする。次に、お互い見ているものについて追究しあうのだ。すると、どんどん説明できるし、彼女も以前とは違って納得してくれる。彼女の言うことについても同じだ。私たちは私たちの世界を広げている。だが、私には、それがまだ闇の中でしか可能でない。光のある所では、私の意思に反して見えてしまう。光の中に私の世界を築けた時、超人化は完了する。
どうして、私にこのようなことができるようになったのか。どうして、彼女が私を選んだのか。今、言えることは、長い間、何事にも逆らわずに平凡に生きて来たからだ、ということだ。
「文学以前」 第三号 一九七七年四月
京都教育大学 三回生