コージは部活を終え、剣友とすっかり葉っぱの落ちてしまった桜並木が続く初恋坂を歩いていた。半年前、希望と不安で胸を一杯にして入学式へと向かうコージたちを、初恋坂は桜のトンネルで歓迎してくれた。勿論、その時、この坂が初恋坂だとは知らなかった。剣道部の先輩が、夏合宿の打ち上げの日に教えてくれたのだった。しかし、坂の名前なんてどうてもよかった。その頃のコージは恋だの愛だのには興味がなかった。そして、今もそれは変わらない。友達との話題は専ら剣道のことであった。3年生が引退し、いよいよ新チームの初めての試合が近づいてきた。1年生のコージたちにもチャンスが巡ってきたわけだ。新入部員は4月には男子だけで12人もいたが、今は6人に減ってしまった。2年生が4人、試合に出られるのは5人。明日からリーグ戦でメンバーを決めることになっている。2年生に勝てば1年でもレギュラーになれる。気合が入るのも当然である。

コージは明日のライバルたちと健闘を誓って、いつものようにトンネルを抜けた所で友達と分かれて電車の駅に向かった。秋の日は短い、あたりは夕闇が迫っていた。コージは足を速めようとした。その時、コージの鞄を後ろから引っ張られるのに気がついて振り返った。後ろに立っていたのは剣道部のユーコだった。

「男の人の足って速いのね。一生懸命歩いたんだけどなかなか追いつかなかったわ。さよなら。」

ユーコはそれだけ言って夕闇の中へ消えていった。コージは何が起こったのかわからず、暫く動けなかった。電車が近づき、踏切の警笛がコージを現実の世界へ戻した。コージは慌てて改札を通り、下りかけた踏切の横木の下をくぐり抜けてホームに入ってきた電車に飛び乗った。

翌朝、コージは初恋坂を登って学校へ向かっていた。いつになく足が緊張している。歩き方がぎこちない。それとなく辺りを気にしながら歩いている。初恋坂、その言葉がコージの頭いっぱい広がってた。しかし、探している人にはあえないまま学校に着いてしまった。

放課後のクラブが待ち遠しかった。ユーコに会える。でも、会ってどうするのか。昨日なぜ声をかけてくれたのかユーコに聞くのか。聞きたいのはやまやまだが、どうやってきっかけをつかめばいいのか。いくら考えてもわからなかった。こんな問題は考えてどうなるものでもないが、経験のないコージにはそれもわからなかった。

─1─




昼休み、コージは図書館に行った。社会の宿題を調べるためたった。コージが探していた人が一人で本を探していた。

コージは信じられなかった。偶然なのか、運命なのか、逢いたくてたまらなかった人が目の前にいる。しかし、どうすればいいのだろう。いきなり気になっている昨日のことを切り出すわけにはいかない。なんと言って声をかければいいのか。声をかけて素っ気なくされたらどうしよう。何からどのように話せばよいのか。いっそ、昨日のように彼女の方から話しかけてくれればいいのに。でも、それではいくら何でもなさけない。だいたい、こんな事で悩んでいること自体おかしいんだ。高校生になってもっと積極的になろうとしてきたのに、こんな場面になると中学時代の嫌な自分が顔を出す。

コージは勇気を出してユーコの後ろ姿に近づいた。

「何の本探してるの」

自分の声が頭の中で反響している。一瞬の間があったが、コージにはそれがとてつもなく長い時間に感じられた。

「ミシマ君、数学わかる」

ユーコはさっきから話していたように言った。

「うん、少しぐらいなら」

コージは思わぬ展開に慌てながらも、それなら緊張しなくてすむと思った。

「ありがとう、とてもよくわかったわ。また教えてね」

コージは嬉しかった反面、一番聞きたかったことを聞けなかったことが心残りだった。

─2─




コージはユーコの本心が確かめられないまま、毎日クラブで顔を会わした。コージにとって剣道部は今まで修練の場であったが、今は期待と不安の場でもあった。練習中も、絶えずユーコのことが気になった。基本練習は回り稽古ですべての部員と当たる。コージはユーコと当たる順番が近づくにつれて落ち着かなくなった。いい所を見せようと打ちにも熱が入った。普段よりも声が大きくなり、動作も大きくなった。また、練習の終わりは地稽古といって誰と練習してもよいことになっていたが、その時もユーコが自分の所に来てくれないかそればかり気になった。しかし、コージの方から練習に行くことはなかった。できなかった。そういう時、コージは自分の受け身、消極性を悔やんだ。なんとか最後は自分からと思っていたが、なかなかその勇気はでなかった。

同級生でヤスムラという男がいる。この男はコージと正反対で、女の子には積極的であった。中学時代から女の子と付き合っていて、しかも相手が3ケ月ごとに変わるという、コージから見れば、ナンパな、でも羨ましい男であった。ヤスムラもコージと同じ中学校で同じ剣道部だった。そして、高校でも同じ剣道部だった。ヤスムラは地稽古になると進んで女の子と練習をする。当然、ユーコと気軽に練習をする。コージは地稽古の時間になると、ユーコが来てくれないかという期待半分、ヤスムラがユーコを誘わないかという不安半分、複雑な気持ちで練習をしていた。

初恋坂───。朝の登校時間、コージはユーコに会うことが楽しみであった。ユーコは家から歩いて学校へ通っている。コージは電車で登校している。コージはユーコが駅を通り過ぎた直後に着く電車に乗ることにした。そして、ちょうど初恋坂でユーコに追いつく。そして、自分が一人の時は「おはよう」と言って追い抜く。友達と一緒の時は横目でちらっと見ながら何も言わずに追い抜く。できれば、一緒に坂を歩きたいのだが、ユーコの気持ちがわからないし、友達に見られるのも気が引ける。

コージは毎日毎日、胸をときめかせながら初恋坂を登った。

そして、冬休みが近づいてきた。冬休みになれば、授業もクラブもなくなり、ユーコと会えなくなる。コージは何とかしなくてはと思い始めた。

2学期の期末考査も最終日、試験中もユーコのことが頭から離れない。やっと試験が終わって明日から試験休み、そして終業式で、冬休みに入る。クラブも今日のミーティングで終わり。ユーコに会えるのは今日と終業式の日だけだ。

─3─




クラブのミーティングでは1月4日に稽古始めの朝練習をして、その後新年会をすることが決まった。しかし、コージは上の空で、いつユーコに自分の気持ちを伝えればよいのか、そればかり考えていた。クラブが終わって、帰りにユーコと一緒になろうと校門の前に立っていた。友達が通りかかると見つからないように植え込みの影に隠れたり、自分でも一体何をしているのかと思った。ようやく、ユーコが現れた。ところが、ユーコは友達と一緒だった。まさか声をかけるわけにもいかず、ユーコの後ろ姿を見送るコージだった。

終業式の日、コージは普段どおり友達と帰った。この前のような惨めな思いをしたくなかった。運良くユーコと一緒になる機会があればと祈ったが、神はコージに味方してくれなかった。電車に乗って友達と話していても、後悔の念でいっぱいだった。このまま年を越すのか。ユーコに会えない2週間、正月もコージにとって憂鬱なものになりそうだった。その時、コージの頭に閃いたものがあった。コージは1分前とは打って変わって楽しい空想でいっぱいになった。

コージはデパートのカードの売り場に立っていた。こんなものを買ったことのないコージにとって、こんな所に立っていることはとても落ち着かないことだった。店内はクリスマス一色。樅の木のクリスマスツリーと赤いサンタクロースの人形がいたる所に置いてあり、ジングルベルの音楽が一日中流れている。店員や他の客の目線が気になってしかたがない。誰もが自分がこんな所にに立っているのを場違いだという奇異の目で見ているのではないか、そんな気がしてならなかった。何度買わずに帰ろうかと思ったことか。でも、勇気をふりしぼって、森の中の屋根に雪が降り積もった小さな家に天使が2人舞い降りている絵の描かれたクリスマスカードを買った。

その夜、コージは机の前で考え込んでいた。自分の気持ちをクリスマスカードに託してユーコ伝えよう、それは素晴らしい思いつきであった。しかし、いざ書くとなるとなんて書けばいいのか、わからなかった。自分の気持ちを長々と説明するのは教科書みたいで変だし、歯の浮くような言葉は自分には滑稽だし。3時間迷いに迷った挙げ句、単刀直入に「僕とつきあってくれませんか。返事は1月7日の新年会で聞かせてください」とだけ書いた。ユーコの親に見られてはマズイと思って、差出人の自分の名前は書かなかった。考えてみれば、差出人の書いてない手紙ほど怪しいものはないのだが。コージはこっそり家を出て、ポストに投函した。その夜、コージはなかなか寝つけなかった。

あと30分で新しい年を迎えようとしている。コージは日記の前に座っていた。日記に書くことはたくさんある。しかし、筆は遅々として進まなかった。手紙を出した時は、希望しかなかった。だが、時間がたつにつれて希望よりも不安、もっと正確に言えば後悔の念が強くなってきた。コージは石橋を叩いても尚渡るかどうか考え込んでしまうという慎重な性格である。手紙を出したのも恐らくユーコがOKをしてくれるだろうと判断したからだ。それは、クラブ中のユーコの態度や学校の行き帰りに何度か話した感じからそう思ったのである。いや、思い込んでいたのである。恋は盲目と言うが、コージの頭は希望的観測で一杯になっていた。それが、時間がたち、冷静さを取り戻すにつれて、ユーコがNOと言うのではないかという不安が強くなり、今は、断られるに決まっているとまで思い込むようになっていた。しかし、賽(サイ)は投げられたのである。後悔しても始まらない。手紙はすでにユーコの手元に届けられているのだ。

コージは楽しい空想に努めた。来年(正確に言えば再来年)の初詣はユーコと二人で行けるかもしれない。大晦日の夜から八坂神社のおけら参りに行くのは高校生として無理かもしれないが、元旦の日に平安神宮ぐらいは行けるだろう。お賽銭をあげて柏手をうって二人で願をかける。露店で綿菓子を二本買って二人で一本ずつ食べる。記念に二人の名前の彫金でも買おう。空想が次から次へと膨らんでいった時、除夜の鐘が遠くから聞こえてきた。

─4─




運命の1月7日が来た。

防具を担いで初恋坂をのぼるコージの心中は複雑だった。もし、今ユーコに会ったらどうしよう。いくらなんでも朝っぱらから返事は聞けないだろう。軽い挨拶程度で済ませるか。いや、一刻でも早く返事が聞きたい。練習が終わるまで待っていれば発狂してしまうかもしれない。しかし、もしNOだとしたらどうしよう。怖い、まだ心の準備ができていない。

道場に入るとまだ彼女の姿は見えない。ひょっとして今日は来ないのかもしれない。風邪でもひいたのだろうか。いや、来ないということが僕への返事なのかもしれない。考え始めるとキリがなかったが、その時胴着に着替えたユーコが見えた。コージは逃げるようにして更衣室に入った。練習中はできるだけ平静を保った。基本稽古でユーコを相手をする時も邪念を捨てて剣道に集中しようと努めた。

練習が終わり、教室を借りて新年会が始まった。一人一人皆の前で今年の目標を大声で言うのが剣道部の伝統であった。コージも言ったが自分で何を言ったか覚えていない。ユーコの抱負もありきたりのものだった。その後ゲームをしたり歌を歌ったり、宴は進んでいった。

飲み物がなくなり誰かが買い出しに行くことになった。コージは重苦しい雰囲気から逃れるためにその役を引き受けた。初恋坂をくだるコージの腕を後ろからつかむ手があった。ユーコだった

「ミシマ君、私も一緒に行く」

コージの頭の中は混乱していた。何をすればいいのか、何を離せばいいのか。コージは速度を緩めずにしばらくは無言で歩いた。 「ミシマ君、怒ってるの」

「いや、べつに」

「よかった」

何も言わずに歩いている自分が怒っているように見えるのだろう。何か言わなければ。コージが聞きたいことは決まっている。しかし、いきなりその話をするのはぶっきらぼうだ。ユーコの様子からイエスかノーかを感じとってからでなければ怖くて切り出せない。でも、ここにユーコがいるということは明らかに自分の後を追ってきたのだ。何のために。わざわざノーと言うのにか。いや、それなら何事もなかったようにすまそうとするはずではないか。いや、きっぱりと断るためかもしれない。そうだとすれば、よっぽど嫌われていることになる。もうしばらく、様子を見てみるか。いや、こんな話を女の子の方から切り出させるのは男らしくない。ここは、思い切って自分から切り出すしかない。コージは頭に全身の血が逆流したように感じた。

「このまえは、手紙、ごめんね」

なぜ、謝るのか。コージは自分で自分が情けなくなり、さらに血が逆上した。

で、返事は、どう───ついに、切り出してしまった。

「びっくりしたわ」───ユーコが話し始めた。コージは全身の神経を耳に集めた。だが、それとは裏腹に誰かに見られると照れ臭いと思ったからか、足は歩く速度を速めていた。頭の中は次に何を話そうか、話の展開があれこれと駆け巡っていたが、どれもこれもとりとめのないものばかりであった。もしかしたら、OKなのかもしれない。コージの中では期待が膨らんでいった。しかし、そんな幸福に慣れていないコージはそれを確かめるのが怖かった。できればこのまま永遠に時が止まってくれればいいと思った。時間がとてつもなく長いもの感じられた。しかし、初恋坂を下り終わったところまで来てしまった。

「びっくりした?」

コージの口から出た言葉がこれであった。

「うん、でも、嬉しかった」

嬉しい───確かに彼女はそう言った。ということは、次に出る言葉は───コージの頭の中は至福の光に満ち始めた。

「そんなら・・・」

残りの1%の不安が後の部分を言葉にしなかった。

「私でよかったら。友だちになってくれる?」

もちろんだ。コージは思わず踊り出しそうになるのを抑えるのに苦労した。「ああ」、というのが精一杯だった。

─5─




ミシマコージ、16歳。中学校までは女の子とは全く無縁だった男。

コージは今までより一本はやい電車で通学するようになった。駅を降りるとユーコが待っている。二人並んで初恋坂を登る。二人の間にはいつも30センチの距離がある。話はとりとめもない話。昨日のテレビの話、クラスであった話。ボツリボツリと話す。沈黙の時間の方が長い。そして、ゆっくりと歩く。友だちが自転車で二人を追い抜いていく時に声をかけてくれる。コージはいつも軽く右手を挙げて応える。

初恋坂にもまた桜が咲く季節になった。今日は新学期、2年のクラス発表の日である。コージは内心ユーコと同じクラスになれたらいいが、そんな上手い話はないだろうと半ばあきらめていた。クラス発表の掲示板の回りには大きな人垣ができていた。コージはゆっくりと人垣の中に入っていった。────2年7組38番ミシマコージ、2年7組15番カワイユーコ────。あった。同じクラスだ。コージは込み上げてくる嬉しさを必死で抑えようとしたが顔の笑みは消えない。人込みをかき分けて出てきた所にユーコが立っていた。二人は顔を見合わせてニッコリした。

始まりがあれば終わりがある。初恋坂もいつか失恋坂になるだろう。登り坂も登りきれば下り坂になる。今までのコージはいつもそれを恐れていた。しかし、今は、たとえ終わりが来ようとも、今をしっかり生きよう、そう考えることにした。   おわり 

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