逆説の時代
真理とは、という問いも、ナンセンス、という答えで虚しくされてしまう時代だ。真理などどうでもいい、いや、真理などないのか。現代の動向を理路整然と系統立てよ、と要求されても殆ど不可能なまでに雑多な物が渾然と共存している。果してパーソナリティの問題で片付くのか。人それぞれに他とは違ったものを持つことは勿論大切だが、ただそれが、本当に自分自身の内から発生したものかどうかということが問題だ。自分の言動に野暮ったい論理付けをしようとせず、既成概念にただ反発し、逆説を述べることのみに終始しているのではないか。現代という時代を銘名すれば、逆説の時代だ。元にAがあれば、次はA、その次は再びAに戻るか非Aの二乗になるか、そのまた次は……と繰り返されていく。プラスを掛けるかマイナスを賭けるか、二者択一しかしようとしない。自我を介入させないまま、安易な逆説だけで発展してきた。
逆説の根元にあるA。これが、充実した存在であるならば、逆説の時代もまたいいはずだ。僕は、このAを敗戦直後の廃墟に求めたい。椎名麟三『深夜の酒宴』でデビューする前、戦後最初に書いた『境界線上の恋』の冒頭の部分に「どこまでを異常と認めるかは正に時代感覚の問題である。(中略)彼等はすべてを時代のために許すのである」という文章がある。戦前には、善悪の評価を抜きにして天皇を頂点とする完全な価値体系があった。敗戦によってそれらが崩壊し、そのあとに築かれたものは、占領軍によって与えられた民主主義の器に、戦前の体質を詰め込んだ、表面的な否定に過ぎない紛い物の価値体系だった。秋山駿が『高橋和論』の中で、敗戦によって味わった零の感覚が作り出した白紙の地図の上に、任意の地図の可能へと自分を追放すること、これが敗戦の経験が強制するものだった、と述べている。しかし、飢えと私欲に翻弄されて重大な使命を怠った。虚構に過ぎないAの上に幾つ逆説を積み重ねたところで虚構であることに変わりはない。今やらねばならぬことは、安易な逃避に走ることではなく、零に戻ること、零からの出発である。
「文苑」第九号 一九七六年九月
京都教育大学 三回生