断片〜最近の日記から〜


「散華」
人間は死に追い詰められた時、快楽を貪りはしなかった。何かを後世に残したいと望んだが、大家は恋愛を抽象的に、崇高なものと考え、幻の妻を思っていた。華が散る時、僕は華を見ることしかできない。僕は(生きながらながら)散る華であることはできない。中清清人と同じく自ら散ろうとせず、散り行く華を眺め、或いは羨望しているに過ぎない。
(二月二十五日 高橋和巳「散華」の読後)
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嘔吐
極彩色の画面は古へに葬られ
ただ空虚しく淡黄色なる壁に囲まれ
下腹部から込み上げてくる言葉は
誰の鼓膜を震わせることなく消滅するを知りたる故に
気管を逆行して胸に痞える
溢れるイマージュは顳顬を痙攣させるのみ
重厚なる黄金の冠を取り去れ
彼らの杯に毒をば盛らん
我が嘔吐を飲ましめん
街に充ち零れたる皮底の靴達よ
願わくは我が額を踏み躙れ
(三月三日)
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果てしなく広がりを見せる僕の夢は
一度目を落とせば瞬間に崩れてしまう
この一メートル四方の桟橋の上で
遠くの海を眺めることは徒労だろうか
しかも僕を包み込んでいる血縁人を突き放してまで
海へ飛び込むことは明らかに罪悪なのだ
この面積でも享受できる自由の大きさには目もくれず
遠い海を眺めている
波間に浮かぶヨットの爆音は僕を誘う
空一面の灰色の雲さえも羨望である
(三月六日)
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何もやる気の起こらない一時に
あのショートピースを吸ってみた
辛いだけの味が口に拡がり
やるせなさは煙となって空中を舞った
 こんな時は夜の街に出て
 誰かに殴られてみたい
  本を読む淋しさを
  埋め尽くしてくれる女はいないのか
おとといまで張り詰めていた心が
今日は何故かだらけてしまった
ノルマに追われ
何をやりたいのかすら忘れてしまった
この変化のない時間の流れを
中断してくれ宇宙人が僕の前に現れ
死の世界のむなしさを見に連れて行ってくれないか
  単なる文字の羅列に過ぎない日記帳
もう一本吸いましょうか
いえもう結構あんな苦しいもの
ほれごらんなさい指まで厭な匂いが
しみついていますよ
どこのマッチで火をつけたのか
ふられたあの喫茶店のだよ
じゃ今のは失恋の味かい
いや煙だけが失恋の姿だったのでしょう
何故ってわからないけどそうだろうよ
詩が僕の恋人だなんて馬鹿なことは口にますまい
生きることが先決ですよ
何もしなくても生きているだけで死んだ人より恵まれています
ぜいたくなんですよ
生に追われて金儲けに励むものですよ
人生ってのはないんですよ あるのは生きることだけなんですから
何かの意味を見付ようなんて
   でも何も考えないで生きていくなんて女のすることだ
明日の朝食は保証されているんですよ
   でも足元のストーブをひっくり返しはそれすら消えてしまいます
今日だけが生きがいだなんて悲しいことだと
どこのロマンチストが言うのですか
肉体労働者はあんた等より利用価値がありますよ
   詩なんて文学何て芸術なんてなくても
     人間は生きてゆける
   それじゃ動物と変わらないじゃないか
何を寝とぼけたことを
私達は立派に動物ですよ
空しい言葉は持っていきますがね
   闇の中で一人亍む
   淋しい男見かけても
   声もかけずに通り行く
   高いプライドの女たち
   あんたらいつか地獄行き
   怨恨込めて歌いましょ
   あんたいつか地獄行き
(三月十二日)
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 観念的な絶望は、それを上回る絶望が与えられないために呻吟する。観念的な絶望者は自らを嫌悪して放棄せんが為にそれを破壊しうる絶望を求める。
 常識に判決を下す所の悪を成そうとして余りにも常識に強く束縛されている自己を発見する。道行く女を人の見ているところで強姦せよとの命令にも後退りする。山と盛られたりんごの頂上に二、三個を掠め取れとの教唆にも手が竦む。かくも自己を抑制するものか。幼年期から植え付けられた常識、或いは良識という概念ではないか。人は何でも成し得るという哲理に危機を感じながらも余りにも限定された自己を見るのである。絶望を夢見ていたに過ぎないのではないか。人間にはやはりしてはいけないことが共通の概念としてあるのではないかと考えるようになる。しかし、自分ができないことでもやる人がいる。実存敵な人間だと自己を称していたのが根底から崩れていくのを知る。それは大いなる屈辱である。そこでどうするか。忍んで悪を行うのである。自己の価値体系を壊して新たな体系を樹立せんとして背伸びする。結果的には同じことをなすにしてもそのスタートが異なる。これで果たして自己を変えられ得るか。生死は果てしなく実存の荒野を駆けていたが、肉体は依然として常識内に止まってたのか。精神と肉体の不合致、これが絶望を観念化する原因だ。両者の合致こそが今の課題である。肉代の伴侶を得た身を呈した崩壊へと至るのである
(三月十四日)
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 死ぬことは観念的であり、強姦することや盗むことに比べて容易である。高貴な革命家は死ぬことはできても強姦することはできない。それは革命の目的から外れているからである。革命と言っても、世界のすべての道徳を変えることではない。現在の世界のなかでも、理想の世界の実現に有用なものは温存せねばならない。人間がより良く繁栄するために現在の社会においても、理想社会においても共通の悪はあるのである。
 現在唱えられている革命とは一から五の上に六でない新たな数字を置くことである。しかし、人間が一から五までを持っている限りやはり、六しか来ないだろう。真の革命とは一をも否定し、0から始めなければならない。人間という概念を捨てること。人間は何でもしでかす。これを忠実に実行する事だ。
(三月十五日)
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 神は人間の創造物ある限り理性に制限されている。言い換えれば、人間の理性こそ神の姿である。何かに共鳴したり、賛意を得ようとするのは権威、民主主義における多数者による権威を確立せんがためである。一から五までの上に革命を起こそうとするものは、形こそ違え、結局、権威を手中にせんとするだけである。そして、一から五の中に人間の悪性を温存したまま、いずれ再び暴威を貪る事になる。
(三月十七日)
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むなしさってなんだろう
りんごのように形があるわけじゃない
今感じたものがむなしさのかどうか
心の底でああむなしいなぁと叫んだけれど
明日を生きる力を残している僕には
むなしさなどないはずなのに
(三月二十一日)
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 失敗に失敗を重ね、醜態に醜態を晒し、次第に自信を喪失していく。その過程で、少しでも苦痛を覚えるなら、まだ救い甲斐はあるのだ。最も恐ろしいのは、自信を持つことを放棄した場合である。自尊心の喪失、破滅志願と大上段に構えて自ら積極的に自尊心を傷つけていくのではない。そんな余裕すらないので。切羽詰った状況においてどんな事でもして生きていかなければならないという宿命を背負わされた状態である。自殺は破滅でありえない。なぜなら、自殺と絶望とは表裏一体をなしている限り、絶望とはある期待に対する報酬であるから、当然自殺も破滅よりも低い次元の行為である。破滅なる生とは何を期待するでもなく、また、何を信じるでなく、まして自分はすでになく、流れるままに生きてゆく。人生に浮漂するものである。人間性を超えた、人間にとって信じがたいまた耐え難い屈辱であっても、自らの身の上に起こるあらゆることは何ら不思議でない、自然な所為だと受け流すことをできる生である。
(四月十日)
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脆い気分だ
ワザと緩めておいた心が
次第次第に張り詰めていく
僕のせいじゃなく
他人の目だ
底知れぬ自信
その根拠の薄弱さ
腕白小僧を宥め透かしてきたのに
人の目が少し潤むと傲慢になる
壊れた橋を騙し騙し渡る
向こう岸に着くまでに壊れ去ってしまうだろう
それでも渡れと肉体を勇気付けるのだ
(四月十八日)
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ちっぽけな自信なんてすぐに消し飛んでしまうのだ
こんな思いをするのなら
やはり自信なんて初めからない方がいい
少し前にもそう思ったじゃないか
今更何を言っている
同じ事の繰り返し
行き着く所がない
喫茶店の扉も暗く重い
煙草の味もただ苦いだけ
結局、落ち着く所がない
(四月二十二日)
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奇跡が起こることをまたしても期待している。それはやがて根拠のない自信へと拡大していく。自信とは多かれ少なかれ、自分のをに対する過信に過ぎないのだ。僕は実存的と自らを自らの手で危機へ葬り去ろうと観念界において企てるのも、自分の運命への限りない信頼に過ぎない。運命に賭けるということは、自分はなんら努力しないで、あれ程否定していた神に許された超人、選民であろうとするはかない願望にすぎないのだ
(四月二十三日)
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「遊んで行かない」
「いや急ぐから」
(四月二十五日)

「浪曼」最終号 一九七六年四月
京都教育大学 三回生