赤い絶望


「星が綺麗だね」
 これが、津村に可能な精一杯の言葉であった。彼にとっては、これ以上の文句は必要でない。津村は、この一言によって、時枝に達し得る筈であり、時枝は、彼の予想を裏切ってさらに彼方へ脱ける筈であった。それらは、暗黙のうちの津村の意識であった。しかし、時枝は、彼女の身体を彼の胸に擦りつけてきた。その白く細い指が、津村の首筋に沿って這い上がってくる。彼は、薄桃色マニキュアに意外な感じを受けた。が、それも、求め続けてきた激しい欲望が充足されようとする過渡的な過去によって跡形も止めず飛び散った。津村は、自らの唇を、彼女のそれに押し重ねた。その時、二人の将来に、赤い失望を燈したことを、津村も時枝も気づかなかった。二人の熾烈な抱擁は、薄寒い公園のベンチの上で、幻滅の鞴に吹き立てられ、星が秋の夜明けに消えるまで、蒼い炎をたてて絶望的に揺らめいていた。
 時枝は平凡な女だった。それでも、絶えず津村の目の前で、不規則な周期を持って眩しい光を放ち嘲弄するかのように散らついた。それが、彼の幻覚に過ぎないことには気づかず、その度毎に目を顰め、かすかな残像を追わずにいられなかった津村であった。そんな状態で追えば追う程、彼女は、変わらぬ間隔を持って遠ざかっていくかに思われた。髪の毛をカールさせ、比較的大きな二重瞼の上にアイラインをひき、潤いのない赤い唇に頬をほんのり朱に塗った在り来りの美人顔も、霞がかかりぼやけると、まるで秘密の園から微笑みかけるビーナスのようで、彼の性欲を誘ったのだった。中央出版社の駆け出し社員は、一流会社のOLに挑みかかった。いつまでも縮まらぬ距離の苛立たしさだ何とも言えず楽しく、いっそそのままが続けばいいと感じたこともあったが、彼はついに、彼女を至近距離に追い詰めた。そして、今、彼の手中に収めた。その夜の津村の感激は、一入のものである筈だった。
 日曜日の朝、津村の下宿に決まって訪問者が来るようになった。時枝である。あの夜以来、彼女の一種高慢な自閉症は消え、可愛い女として津村の前に変貌を遂げた。甲斐甲斐しく包丁動かす時枝のいる台所と襖一枚隔てた六畳の部屋で、津村は気だるそうに着替えをしていた。襖越しに彼の声がする。
「おい、長袖のシャツはどこに入れた」
 時枝は間髪を入れず返事を返す等、包丁の手を止めて襖を開けた。
「もう、そろそろ冬支度ね。今年は秋がなかったみたいね」
 そう言いながら、箪笥の一番下の引き出しから、長袖のシャツを引っ張り出した。時枝は、彼の部屋のことなら何でも、津村以上に熟知しているまでになっていた。
「男の人って、下着、あんまり持っていないのね。同じのを何日も着ているんでしょう。不潔。今度、新しいの買わなくちゃね」
 意味のない言葉を並べながら、器用に箪笥の中を整理すると、彼の方に向き直ってシャツを差し出した。上半身裸のままの津村は、片手をだらしなく下げたまま、彼女に意味深気な眼差しを送った。時枝は、それを察し、いつものように「だめよ」と言っても一向に両膝を上げる気配を見せない。津村は彼女を引き寄せ横倒しにすると、静かに、しかし十分な重みをもって唇を重ねてきた。
 小さな食卓に、向こうとこっちに座って、朝食を取るのは、日曜の朝の決まった風景となっていた。
「おや、髪型変えたのかい」
「ええ、似合う。この前、あなたとテレビ見てた時、あの女優さんの髪型がいいなってあなたが言ってるでしょ」
「でも、やっぱり、お前は前の方が魅力的だよ」
「そんなこと言ったって、これを結うのに、物凄くついたんだから。給料前だというのに、無理して美容院に行ったのよ」
 津村の言葉に不満を訴える時枝だったが、次に見る時枝の髪型が元通りになっているだろうことは、津村にとって明らかな未来である。今度会うとき、この髪型のままだったらいいのに、彼の心の中では、こんな矛盾した望みもあった。朝の接吻にしても、それを求める気持ちと、それ以上に、拒んで欲しい気持ちが彼を襲った。期待は、今朝も裏切られ、その連続性は益々確実になってしまった。時枝の唇と触れた唇が、彼自身のものでなくなってしまったような気さえした。
 時枝は、箸を口に運びながら
「ねぇ、今日は、洋服買いに連れて行ってくれるはずだったわね」
と言ったが、津村は何も答えないでいると、追い討ちをかけてきた。
「だって、先週約束したじゃない。逃げようったって、そうは問屋が下ろさないわよ」
 津村は忘れてわけではない。それどころか忘れてしまおうとどれほど苦しんだことか。金がない訳じゃない。ただ、忘れてみたかった。
「俺たち、何だか同棲してるみたいだね」
「まぁ、嫌ね」
 時枝は具に否定したが、顔は隠せず、喜びの色を湛えていた。それは、津村の意味を取り違えた表情だった。
 二人は、街へ出た。電車の中であろうと歩道の上であろうと、それが二人のうちの暗黙の了解であるかのように、時枝は、彼女の腕を津村の腕に絡めてきた。最初の頃、照れ臭さからその腕を振り払おうとすると、彼女は、外国では若い男女はこうして歩くのが普通なのよ、と海外旅行から帰ってきた友達から聞いた話をして、その手を止めなかった。近頃では、慣れてしまって、恥ずかしさはなくなったが、また別の理由で、その腕を嫌った。映画を見た後、洋装品店に入った。彼女は、おもちゃ売り場ではしゃぐ子どものように、あれこれ手にとって鏡の前でポーズを作り、何か独り言を言って、違う品物を取り替える。選んでいるのか遊んでいるのかわからないぐらいだ。さんざん迷った挙げ句、水色の可愛いワンピースを引っ張ってきて彼に示した。
「これなら、あなたも好きな色でしょう。それに、それほど高くないしね」
 確かに彼女は水色が好きだった。だが、彼女からそう言われると、急に嫌いな色になったような気がした。
「お前が、それでいいなら、俺もそれでいいさ。とってもチャーミングだよ」
 津村は水色のワンピースを買ってやった。
喫茶店でお茶を飲んだ後、夕食も共にしたそうな時枝を振り切って別れた。それでも、時枝は陽気さを失わず、別れていった。その後ろ姿を送りながら、津村は
「あいつ、余程惚れてんだな」
と一人言ちた。そして、思わずに身震いをした。
 津村が電車に乗った頃には、もうとっぷりと暮れていた。そのまま下宿に帰る気になれず、会社の帰りよく立ち寄るスナックに行くために電車を降りた。駅前通りを少し離れたところにある小ぢんまりとした店である。そこの椅子に腰かけると、いつも落ち着いた気分になれるのだった。扉を開けると、いつもと変わらぬ濃茶の雰囲気が彼を迎えてくれた。津村は、いつものように、一番奥に席をとった。
 別れる時の時枝の満ち足りた食べた幸福そうな顔は、また、彼を脅かしていた。時枝が彼に惚れ込んでいるのは確かだ。彼も時枝が好きだ。このことも間違いない。けれども、今、彼は時枝から逃れようとしている。時枝、彼の言うことならどんなことだってやるだろう。寸分の違いもなく。つき合い始めた頃は、そのことに対して大変得心していた。時枝という一人の女性を征服し、彼女から彼女の可能性を奪い取り、それを彼の意のまま、彼にとって《あるべきものである》として、未来の時枝に与えている。そのことで、時枝は粘土という道具に堕し、津村は芸術家になりうるのである。人間を物の様に扱える快感はどれほど素晴らしいことか。しかし、一定量の粘土から創造されるものには限界があった。子供が古くなった玩具に飽きるように、彼も、時枝に飽きを感じ始めていることは、彼も知っている。このことだけなら、彼はまだ我慢できた。しかし、彼は見てしまった。それは恐ろしい光景だった。自業自得と言ってしまえばそれまでかもしれない。が、彼には耐え難いことだった。時枝も粘土であると同時に、芸術家として彼を見守るたった一人の観客であったのだ。恐らく、彼女は気づいていないだろう。彼女は彼女の可能性すべてを彼に託し、自ら粘土に化して彼に形を与えてもらう他、何も望んではいなかっただろう。しかし、どうしても抹殺し得なかったのは、彼女が人間でしかないということだった。彼女の人間は、知らず知らずのうちに、彼女を観客にしていた。彼が、彼女の可能性を使用して彼の可能性で創造した塑像を、すっかり彼女自身の可能性へと転化しようとする観客だったのだ。彼が彼女から奪えば奪うほど、逆に彼は彼女の中にそれ以上のものを奪われていたのだった。
 津村がコーヒーに手もつけないで、思い悩んでいる様子を見かねて、マダムが彼のテーブルに近寄ってきた。気が付いてみると店の中は空っぽだった。
「ああ、もう時間かい」
「ええ。でも、そんなことより、どうしたの。今日の津村さん妙に考え込んじゃって、いつもらしくないわよ。あらあら、せっかくのコーヒーが冷めちゃっているじゃないの。新しいのを入れてあげるわ」
 彼は、こんな会話ができる程、顔馴染みになっていた。宮子は彼の返事も聞かず、カウンターに戻ってサイフォンでコーヒーを入れ始めた。
「そんなに深刻なの。私でよけりゃ聞いてあげるわよ」
 そのすべてを貪欲に吸い込もうとする大きな目に今なら飛び込んで行ける、そんな気がした。
 次の日曜日、時枝はやはり津村の下宿を訪れた。しかし、ドアは閉ざされたままだった。時枝は不思議に思いながらも、悪戯程度に解しながら、鍵を開けた。部屋の中、蒲団の中にも彼はいなかった。時枝は必死になって彼の名を呼んだ。ようやく、不在であることに気づくと、その不在は、この部屋にとどまらず、この世界からの不在と広がっていき、ついには無限の無となって、彼女の未来へ伸びていた線路を遮断し、過去から続いているはずの線路も、その影が薄くなってきて、彼女を孤立無縁の現在に閉じ込めた。彼女は、彼女の置かれた状況の恐ろしさに、死ぬことも考え及ばず、ただ大声で泣いた。
 その頃、津村は、京都のマンションに居た。あの日以来、下宿には帰っていない。昼は、宮子の店でウェイターをやり、夜は、宮子のマンションで暮らした。彼は時枝が彼女に彼に示したのと同じ型の愛をもって宮子を愛した。彼自身の可能性をすべて放棄し、それを宮子に委ねることによって、全く新たなはるか彼方への超越を試みた。宮子にはそういう現実性が十分あると、彼は見た。宮子は、やがて三十歳になろうとしていたが、容貌は全く衰えていない。決して若作りをしようとはせずに、三十を前にした女としての最大限の輝きを発揮するのを好んだ。そんな無理をしてまで欲望を遂げることを好まない宮子にとって、津村の存在は最も好ましいものであった。彼女はあらん限りを尽くして津村をペットのように可愛がった。二つの意味で異常であるこの生活は、とにかく暫くの間続いた。しかし、津村が赤い失望を直感するのに、そう時間はかからなかった。今の状態のままでいれば、彼は己を見失っこともなく、まさに、安住の地であるのだが、しかし、幾らカウンターパンチをくらうにしても、津村は、彼自身の可能性が欲しくなってきた。そんな思いが募れば募る程、この二つの疑問が相互に、同じ速度で大きさを増してくるのに気づいていた。ひとつは、時枝である。彼女には、今、彼が抱いている欲望が芽生えなかったのか。また宮子には、彼が時枝に見た恐怖が浮かび上がってこないのだろうか。この二つの疑問に対する解答は、両者の公約数を求めれば済むことだが、それによって得られた答えが、余りにも簡明過ぎた為、却って戸惑わせた。
 彼に決定な出会い訪れたのは、そんなある日のことだった。定休日で宮子は珍しく津村一人残し、友達と買い物に出かけていなかった。津村は、ソファに腰掛けて新聞を読んでいた。一人でいると彼の人間は益々疼き、宮子から逃れようとする自己が強まる。彼女の安心仕切った顔からは、表記が押せ、屈辱を、さらには、嫌悪を感じさせるようになった。彼女が彼の前に高圧的に現れるのではなく、彼の方が彼女の前に積極的に現れる彼女の前から立ち去ることと一元であることに思い至りつつあった。
 そんな彼の思考を中断するかのごとく、ノックの音があった。彼は、こんな可能性をも奪われてしまうのであろう出現に不快を感じながらも、ドアを開けた。
「姉、います」
 そこに立っていたのは、宮子ではなかった。
「いえ」
 あの顔を上げて、応対しようとした彼の声が止まった。女の人を見て、これ程驚いたことは初めてだった。今までに彼が見てきたような「人間」を「人間」と呼ぶならば、その女はもはや「人間」とは呼べなかった。柔らかな曲線を描く真っ黒な髪が、肩口の所で身体に巻き込まれ、そこでぷっつりと断ち切れている。前髪は、真っ直ぐ眉の下まで垂れるのを緩やか弧を内側に描いてカットされている。その直ぐ下から、幾何図形のような三角錐が延びている。目は、一重で比較的大きく切れ長な目尻が僅かに上がっている。唇は、非常に厚くその間が薄く開いている。顔全体としては、全く動きを示さず、恰も、一つの無であるかのようだった。そんな体を、黒い細身のワンピースで隠し、襟の所から、その黒が滲んだよな鈍い赤色のスカーフを出している。
「どうかしました」
「いえ、あのう」
「可笑しな人。で、姉は」
「ああ、お友達と一緒に買い物です」
「そう」
「あのう、僕は」
「津村さん。姉から聞いております」
 津村も、宮子に妹が一人いることを聞かされていた。再び、沈黙が漂った。津村の世界は、まさにダムが決壊したように、この女に流れ込もうとしていた。しかし、口を切ったのは、その女の方だった。
「帰るまで、待たせてもらえます」
 彼は、意外な進展に戸惑いながらも、その女を部屋に入れた。二人は、テーブルを挟んで腰を下ろした。
「あなたのことは、宮子さんから聞いています」
「そうですか。冴子です」
 と無造作に答えると、例の目で彼を直撃した。津村は、その眼差しに自分の眼差しのやり場を失った。そして、急に、席を立った。
「お茶でも入れましょうか」
 冴子の唇が僅かに動いた。津村はそれに跳ね返されて台所に向かった。彼は、コーヒーの壜をとった。蓋を開けて、匙で粉を掬った。その時、冴子の声がした。低く澄んだ声が。
「紅茶にしてください」
 彼は紅茶の罐をとった。そして、初めて笑を浮かべた。彼の人間が笑った。紅茶の罐にはいっぱいの紅茶の葉が詰まっていた。しかし、彼は言った。
「すいませんが、紅茶切れているんです」
「そうですか」
 冴子も笑を浮かべた。
「コーヒーでも構いませんか。それとも、紅茶を買ってきましょうか」
 冴子の唇は尚も笑を湛えた。
「そうですね。買ってきてもらえる」
 その時、すでに、津村はコーヒーを運んで来ていた。津村が目元に笑をしてコーヒーを勧めると、冴子は微笑んだ口元にカップをを当てた。
 冴子は恐ろしい程生きている。そして、自分も確かに生きていると津村は感じた。そして、二人の間に展開される、赤黒い血のような絶望的な未来へとのめり込んでいく二人を予感した。それは、人間であるがための宿命のように思えた。

「浪曼」第三号 一九七五年十一月
京都教育大学二回生