愛は罪なりや〜「人間失格」における愛の一考察〜
《いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一切は過ぎて行きます》。葉蔵は問う。神に問う。《無抵抗は罪なりや?》
神は答えてくれない。《何でも、神にしておけば間違いない》と言った堀木の言葉さえ信じたくなる思いで神にすがる。しかし、神はついに存在しなかった。彼が最後の力を振り絞って賭けた一抹の期待は、報いられなかった。ドストエフスキーが言っている「もし神が存在しないとしたら、すべて許されるだろう」と。そして、今、人間にはすべてが許されている。価値は人間の内にも外にも与えられていない。《善悪の概念は人間が作ったものだ》善悪に限ったことではない。《万世一系の人間の「真理」というもの》を全てが許されている。それゆえ、人間は自由である。人間の自由は、あらゆることへの可能性を有している。しかし、ただ一つだけ不可能なことがある。自由でないと企てる自由である。人間は、自由であることを宿命付けられている。自由であるという地獄の中に見捨てられている。世間を形成している人間は、そのことに気づいていない。葉蔵は、そのことを知っている。自由の刑に処せられた自分を自覚し、地獄を垣間見ている。人間が生きていくこと、自由であることが即ち罪であり、自由であることによって、罰せられ生かされている。それゆえ、罪と罰は相通じないアントである。
自由とは、欠けている自分を充満させ、絶対者たる神に近づこうとする空虚な企てである。そのため、人間は、自己以外のあらゆる存在を超越せねばならぬ。他の人間を超越することも辞さない。人間は互いに超越し合い、そこに、地獄が生まれる。《欺き合いながら、清く明るく朗らかに生きている、或いは行き得る自信を持っているみたいな人間が難解なのです》。そんな人間との《一切の付き合いは、ただ苦痛を与えるばかり》なので、《彼ら人間たちの目障りになってはいけない。自分は無だ、風だ、空だというような思いばかりが募り、自分はお道化》を装うのである。そして、超越するために互いを欺き合っている《人間が、葉蔵という自分に対して信用の殻を固く閉ざしていた》のである。これが、彼の人間恐怖の正体である。
ここで我々は愛を論じることができる。愛とは何か。有島武郎も書いているように「惜しみなく愛は奪う」ものなのである。相手を欺き超越しながらも、その幻惑の力ゆえに許されているようなものである。人間の身勝手な偽善に包まれた世の中で最も酷悪な地獄である。《人間で女性の方が、男性よりもさらに数倍難解でした》それ程、女性は自信に満ちており、貪欲で、彼の孤独な匂いを本能によって嗅ぎ当て、彼を襲うのである。所有欲がほとんどない葉蔵の立ち迎える敵ではない。しかし、人間恐怖から、女性の機嫌を損なわぬよう道化ねばならない。
《してその翌日も同じことを繰返して
昨日に異ならぬ慣例に従えばよい
即ち荒っぽい大きな歓楽を避けてさえいれば
自然また大きな被害もやってこないのだ
行く手をふさぐ邪魔な石を
蟾蜍は廻って通る》(ギイ・シャルル・クロウ)
この詩が葉蔵を象徴している。
そんな葉蔵にも愛する心がなかったわけではない。固く閉ざした信用の殻を開けようとすることもある。売春婦がそうである。《みんな、哀しいくらい実に微塵も欲というものがないのでした。そうして自分に、同類の親和感とでも言ったようなものを覚える……何の打算もない好意押し売りではない好意、二度と来ないかもしれぬ人への好意を感じさせるのである。そして、葉蔵は彼女らの上に《マリアの円光》すら見る。ただ残念なことに、彼女らは、マリア同様、人間でも女性でもなかったのだ。次に恋したツネ子にも、その貧乏くささの中に、所有欲のなさを感じ、親和感を持つ。しかし、ツネ子は人間だった。葉蔵のがま口を覗いて発した《あら、たったそれだけ》という言葉によって、葉蔵はツネ子に裏切られ、その言葉に屈辱を感じた自分自身にも裏切られ、自殺を試みるのである。最後に恋したヨシ子。この頃になると、《世間、どうやら自分にもぼんやりわかりかけてきたような気がしました。個人と個人の争いで、しかも、その場の争いで勝てばいいのだ。人間は決して人間に服従しない点……だから、人間にはその場の一本勝負に頼る他、生き伸びる工夫がつかんのだ》と悟り、ヨシ子に悲愴な一本勝負を賭ける。ヨシ子は、信頼の天才であった。その時、欺き合う人間の中で、葉蔵にとっての唯一の救いは「信頼」しか残されていなかった。彼は、もう一度、自分の信頼の殻を開ける。しかし、ヨシ子の信頼も小商人に犯され、汚されてしまう。葉蔵は、信頼することすら裏切られた。
葉蔵は、怒りを通り越した絶望の中で神に問う。
《信頼は罪なりや》
紙は答えてくれない。
信頼も、無抵抗も、罪ではない。それらはもはや、人間ではないもの。……人間失格である。
感じることは、この地獄の中で愛を求めて彷徨する我々は、余りにも人間的な人間であり、マゾヒストだということだ。
「無為の会」第II号 一九七六年五月
京都教育大学 二回生