想像力の危機


保坂和志


一 「温暖化が進むと百年後には八月の降水量が一・六倍になる」という記事を読んで、筆者は「百年後なら逃げ切れた」と思った。しかし、チェーホフの「ワーニャ伯父さん」の「百年あとから、この世に生まれてくる人たちは、われわれのことを、ありがたいと思ってくれるだろうか」という台詞を読んで思い直した。これは環境問題だけではない。
二 「百年後」と言われると、途中の変化に目を向けず、「百年後にならなければ何もない」と誤解しやすい。「一・六倍」というのも大きいさがわかりにくい。筆者は10パーセント違ったら「かなり違う」と感じる。このように「百年後に一・六倍」を、自分の身に引き寄せて現実的にとらえる方法はあるが、ここでの問題は百年」という時間である。百年前と案外地続きに生きている。
三 しかし、チェーホフは「百年」を「全然想像できないくらい遠く隔たった時代」と言う意味で使っている。自分と無縁の時代や土地に対して、「想像力を働かせろ」という意味である。
 CGの映像など科学によってもたらされた技術が私たちの想像力の不足を補ってくれる「科学の時代」に生きながら、「映像を超えた絶対的な想像力を持て」という意味である。
四 一部の職場の中で異常な管理体制が始まっている。勤務時間中一人の社員の仕事ぶりを撮影し分析し、無駄な時間を指摘する。想像力のない人の考えることは馬鹿馬鹿しく怖い。想像力のない人は相手がどれだけ想像力があるか想像することができない。「二」の想像力しかない人間が相手に「一〇」の想像力があることを想像することは不可能に近い。しかし、「二」の想像力しかない人でも「二」以上の想像力がこの世界に存在しうることは想像できる。それを相手に対する「敬意」と呼び、それは文化や教養によって育てられ、その人の内面も豊かさに向かって開かれる。
 しかし、敬意も想像力もない人が現れたらどうなるか。過度の数値化によって個人の内面の豊かさを奪う思考法は、他者に対する敬意の全体を殺すことになる。
五 文化や教養ははっきりした形がなく、一面的な論理の前では脆い。しかし、本当は実体があり脆くない。数字によってしか価値や効果が測定できない思考法に証明するのは難しいが、その強さは社会が危機に陥ったときに証明される。文化や教養が定着している社会は復元力があるが、それをないがしろにしてきた社会は、選択肢が出てこず、個人が守られている意識もないので、疲弊している個人を回復させるエネルギーが沸いてこず、崩れていく。
 チェーホフが「百年」の意味は、想像することに対する絶対的な敬意だった。想像力がなければ世界に対する信頼は生まれてこない。


導入

1.【指】学習プリントを配布し、漢字の読みと語句の意味調べを宿題にする。
2.【指】点検する。
3.【説】漢字の読みを確認する。
 甥  姪  伯父  台詞  泥炭  棲み家  涸れる  曖昧  精緻  費やす
 逐一  耽る  傍ら  休閑  脆い  疲弊
4.【説】語句の意味を確認する。
 歴然=はっきりとして間違えようもないさま。明白なさま。
 リアリティ=現実感。真実性。
 精緻=非常に細かな点にまで注意が行き届いている・こと(さま)。精密。緻密。
 逐一=一つ一つ順を追って。一つ一つ全部。
 休閑=耕地の地味・地力を回復させるため、一定期間作物の栽培をやめること。
 根こそぎ=根本からすべて。
 ないがしろにする=侮り軽んずること。
5.【指】段落番号を1〜28を付ける。
6.【指】10分間で全文黙読し、全体を大段落に分ける。
 ・何人かに発表させる。
 ・全体を大づかみにする。
 第一(1〜6)新聞記事に対する筆者の感想とチェーホフの言葉。百年後に一・六倍。
 第二(7〜12)チェーホフの言葉の表面的な意味。百年は地続きである。
 第三(13〜17)チェーホフの言葉の真の意味。想像力を働かせろ。
 第四(18〜24)異常な管理体制の問題点。想像力の欠如。
 第五(25〜28)文化・教養が社会の危機を救う。

第一段落(1〜6)
 
1.【指】1〜2を音読させる。
2.【確】新聞記事と筆者の感想を確認する。
 ・「温暖化が進むと百年後に降水量が一・六倍になる」
 ・「百年後なら逃げ切れた」
3.【L2】「百年後なら逃げ切れた」とはどういう意味か。
 ・そのころに死んでいるので関係がない。
4.【指】3〜6を音読する。
5.【確】チェーホフの言葉を確認する。
 ・「百年後の人たちはわれわれのことを感謝してくれるだろうか」
6.【L3】チェーホフの言葉は何を意味しているか。
 ・現在の環境破壊は百年後に影響を与える。

第二段落(7〜12)
 
1.【指】7〜10を音読する。
2.【L1】「百年後」という書き方の問題点は。
 ・百年後にならなければ何もないと思わせる。
 ・今すぐ起こらないと思わせる。
 ・途中の変化に注意を向けさせない。
3.【L1】「一・六倍」という書き方の問題点は。
 ・大きさがわからない。
4.【説】比較の対象を確認する。
 ・筆者は身長の例を挙げている。
5.【L4】他の例はどうか。
 ・一〇〇円のものが一六〇円ならどうか。
6.【指】11〜13を音読させる。
7.【L1】チェーホフの言葉が言いたかったことは。
 ・チェーホフの劇や夏目漱石の作品は今も読まれている。
 ・「百年」という時間が問題である。
 ・我々は百年前と地続きの世界を生きている。

第三段落(13〜17)
 
1.【指】13〜17を音読する。
2.【L1】「百年」という言葉の真の意図は。
 ・想像できないくらい遠い隔たった時代。
  ・私の第一印象と同じである。
 ・「想像力を働かせろ」
3.【L1】「科学の時代」の想像力は。
 ・CG映像や時代考証で想像力の不足を補ってくれる。
4.【L1】そういう「科学の時代」のチェーホフの言葉の意味は。
 ・「映像を超えた絶対的な想像力を持て」
5.【L3】「想像力を働かせろ」とはどういう意味か。
 ・自分の属する時代や地域と関係のないことにどれだけ想像力を持つことができ、責任  を感じられるか。

第四段落(18〜24)
 
1。【指】18〜21を音読する。
2.【確】話題転換が大きくかけ離れている。
 ・筆者が何を言おうとしているか注目する。
3.【L1】異常な管理体制の職場とは。
・一人の社員の仕事ぶりを撮影し分析し、無駄な時間を指摘する。
【説】学校のパソコンにもスパイウェアが導入された。
4.【L1】この例から言えることは。
 ・想像力のない人の馬鹿馬鹿しさと恐ろしさ。
 ・想像力のない人は相手がどれだけ想像力があるか想像することができない。
5.【説】具体的に説明する。
 ・「二」の想像力しかない人間が相手に「一〇」の想像力があることを想像することは  不可能に近い。
 ・想像力が存在することすら想像できない。
6.【L1】可能性があるとすれば。
 ・「二」の想像力しかない人が、「二」以上の想像力が存在しうることは想像できる。
 ・自分以上の想像力のある人間を想像できる。
7.【L1】それを一言で何と言うか。
 ・「敬意」。
8.【L1】「敬意」は何から生まれるか。
 ・文化や教養。
9.【指】22〜24を音読する。
10.【L1】以下の例は何を証明するためのものか。
 ・想像力や敬意が全くない人が現れたらどうなるか。
11.【L2】敬意を持たないB氏の求めているものは何か。
 ・具体的な説明。
 ・想像力がないので、具体的な形や数値がなければ理解できない。
12.【L4】Z氏の答えは。
13.【L2】この例からわかることは。
 ・過度の数値化によって個人の内面の豊かさを奪う思考法は、他者に対する敬意の全体  を殺すことになる。

第五段落(25〜28)
 
1.【指】音読する。
2.【確】文化や教養などはっきりした姿がないものは脆い。しかし、本当は実体があり、 脆くない。
3.【L2】文化や教養の「実体」とは何か。
 ・復元力。
4.【L1】文化や教養はどんな時に証明されるのか。
 ・社会が危機に陥ったとき。
5.【L3】社会が危機に陥った時とはどんな時か。
 ・今までのデータや知識では問題に対応できなくなった時。
 ・温暖化や原発事故や少子高齢化など。
6.【L1】社会が危機に陥った時、文化や教養をないがしろにした社会はどうなるか。
 ・回復するための選択肢が出てこない。
 ・個人が守られている意識がないので、疲弊を回復させるエネルギーが沸いてこない。
7.【L3】社会が危機に陥った時、文化や教養がどんな力を発揮するのか。
 ・想像力によって、今までにない解決方法が生まれる。
 ・相手に対する敬意によって、復元力がある。
8.【L1】チェーホフが言いたかったことは。
 ・想像力に対する絶対的な敬意。
 ・想像力がなければ世界に対する信頼が生まれてこない。



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想像力の危機  学習プリント

点検日  月  日
                  組  番 氏名
学習の準備
1.読み方を書きなさい。

 甥  姪  伯父  台詞  泥炭  棲み家  涸れる  曖昧  精緻  費やす

 逐一  耽る  傍ら  休閑  脆い  疲弊
2.語句の意味を調べなさい。
歴然      
リアリティ   
精緻      
逐一      
休閑
根こそぎ
ないがしろにする

学習のポイント
1.筆者が「逃げきれた」と感じた理由を理解する。
2.新聞記事の「百年後」という書き方の問題点を理解する。
3.新聞記事の「一・六倍」という書き方の問題点を理解する。
4.チェーホフのいう「百年」の表面的な意味を理解する。
5.チェーホフのいう「百年」の真の意味を理解する。
6.職場の異常な管理体制の問題点を理解する。
7.想像力のない人間は相手の想像力を想像することができない理由を理解する。
8.想像力に必要な「敬意」を理解する。
9.文化や教養の役割を理解する。