空飛ぶ男
 
安部公房


 ふと外を見ると、夜明けの空を、男がひとり飛んでいた。男は、三十五、六歳、風になびく颯爽とした髪ではなく、風にも軽く見られてなぶられる髪、腰から胴の太っていて線も鈍く、空を飛ぶ膝の角度もビンと張りつめているのでなく自信なさそうであった。当然、僕は信じなかった。驚きもしなかった。なぜなら、それは幻のような夢、夢のような幻、夢でなければ錯覚、錯覚でなければ夢、夢の続きだと思ったからだ。
 男は突然こちらを振り向く、僕は夢だと思っていたので油断して身を引いた。しかし、相手は確かにぼくを確認した。ぼくはばかばかしいとつぶやいて、再び寝る。
 見慣れぬ男がドアをノックする。くたびれかけたグレイの背広、肉のそげた毛穴の目立つ顔、後から別にとってつけたような長い顎、不釣り合いな派手な朱色と緑の縦じまのネクタイが、曖昧でとらえどころのない印象を与える。ぼくは、セールスマンだと思って不機嫌になる。男は強引に部屋に入り込んで、「しらばっくれないでくださいよ」と息をはずませながら震える声で言う。その物腰が、抗議しに来たのであろうが、弱々しく受身に聞こえる。夢の続きなのか、夢のような現実なのか、次第に現実感覚に近づいてくる。用件は、男はぼくに空を飛んでいるところをちに見られたと思い込んで、男が空を飛んでいたことを言いふらさないように忠告することだった。そういいながら、こんなばかばかしい話を誰も信じないだろうと卑下する。ぼくは、夢の続きだと思って信じてないと言う。すると男は夢でないとわかったのになぜ驚かないのかと言い始める。自分の存在を信じてもらえない方が言いふらされる恐れもないので好都合のはずなのに、男は自分の存在を確認してもらいたがる。矛盾している。ぼくはその矛盾を「鵜呑みにするのはつらい」という表現で指摘する。空を飛ぶのは誰でもできることではないのに、びくびく悪びれている、ぼくなら自慢して見せびらかすと一歩踏み込んで言う。しかし、男が実際に飛んでいる姿を見て、戸惑いからいらだつ。
 男は、飛んでいる自分の姿を見ちゃいられない、様がない、見せ物ぐらいにしかならないと、自らを嘲る。ぼくは、便利でうらやましい、特殊能力だとほめる。すると、男は嬉しくなったのか、空を飛べるようになる薬をぼくに差し出す。その時、二人の和やかだったのびきった感情が切れて、ぼくはこの男のように空を飛べるようになることに怯える。そして、空を飛ぶ男に憎悪を抱いて糾弾する。逃げ去る男の後ろ姿がぼくと重なる。ぼくも薬を飲んで空を飛んだなら、この男のように糾弾されていただろう。この世の中は、特殊な能力を持ったものは排除される。社会の均衡を保っている秩序を破壊するからである。ぼくは、以前は特殊能力に憧れていたが、以後は憧れを抱かなくなった。地球の引力から逃れて空を飛んでも、そこに待ち受けているものは、排除される涙の海でしかない。


1.【L4】持ちたい特殊能力を問う。
2.【L4】空を飛ぶ特殊能力を持ちたい思うか
3.漢字の読み方と語句の意味を確認する。
 凝らす  輪郭  眼鏡  海老  翻し  布団  顎  曖昧  不機嫌
 迷惑千万  狼狽  衝いた  喧嘩腰  仰向いた  被害妄想  丸薬  妖怪
目を凝らす じっと見つめる。
なぶる
からかってばかにする。
狼狽
うろたえる。驚いたり慌てたりして取り乱す。
追い打ち
弱っているところに重ねて打撃を与えること。
うのみ   真意をよく理解せずに受け入れること。
悪びれる  気おくれがして、恥ずかしがったり、卑屈な振る舞いをしたりする。 
4.【指】通読する。
5.【L2】2つの段落に分ける。
 ・二七二01〜
 

第一段落

1.【L1】空飛ぶ男の容貌は。
 ・推定年齢は、三五、六歳。
 ・風になぶられる
  ・「風になびく」のではない。
  ・風にも馬鹿にされている。
 ・腰から胴回りの鈍い線。
  ・太っていて締まりがない。
 ・自信なさそうな膝の角度。
  ・普通空を飛ぶ時は膝を伸ばして颯爽としている。
2.【L1】空飛ぶ男を見た時の僕の気持ちは。
 ・信じなかった。
 ・驚きもしなかった。
3.【L1】その理由は。
 ・夢の続きだと思った。
 ・幻のような夢、夢のような幻。
 ・夢でなければ錯覚、錯覚でなければ夢以外にはありえない。
4.【L1】「変わった夢」とどんな点か。
 ・自分が飛ぶのでなく、他人が飛ぶ夢であること。
 ・喉の渇きや牛乳の味など、現実的で生々しいこと。
5.【L1】男が突然こちらを向いた時のぼくの対応は。
 ・相手は確かにぼくを確認した。
 ・あわてて身を引いた。
 ・夢だと思っていたので油断していた。
6.【L1】その後の気持ちは。
 ・ばかばかしい。
 ・再び寝る。
 

第二段落

1.【L1】見慣れぬ男の容貌は。
 ・くたびれかけたグレイの背広。
 ・肉のそげた毛穴の目立つ顔。
 ・あとで取り付けたような顎。
 ・派手な朱色と緑の縦縞のネクタイ。
  ・これだけ、反対のイメージである。
2.【L1】どんな印象か。
 ・正体が曖昧でとらえどころがない。
3.【L1】ぼくの気持ちと理由は。
 ・不機嫌。
 ・セールスマンだと思った。
4.【L1】男の正体は。
 ・空飛ぶ男。
5.【L2】「しらばっくれない」とは。
 ・おれが飛ぶのを見たのに、しらないふりをしていること。
6.【L1】その時の様子は。
 ・震える声。
 ・受け身。
 ★自信がない、弱気なところがある。
7.【L1】ぼくの気持ちは。
 ・これは夢の続きか。
 ・あれ(明け方音たが空を飛んでいるのを見たこと)が夢のような現実だったのか。
 ・狼狽する。
8.【L2】男の用件は。
 ・ぼくに飛んでいる姿を見られたと思っている。
 ・男が空を飛んでいたことを言いふらさないように言いに来た。
9.【L2】ぼくが夢だと思っていた理由は。
 ・逆光線で顔まではっきり見えなかった。
10.【L3】男が急所を衝かれるとは。
 ・ぼくに顔まで見られていなかった。
 ・それなのに、自分から正体を明かしてしまったこと。
 ・狼狽する。

11.【L1】男が気に入らない理由は。
 ・夢でないはないとわかったのに驚かないから。
 ・もっと驚いてほしい。
 ★男の視点が変化している。
12.【L2】ぼくが気に入らない理由は。
 ・まだ、現実だと確信できないのに、驚けと言われたから。
13.【説】先に男が視線を外す。
 ・立場が逆転している。
14.【L2】ぼくが「そっくりうのみにするのはつらい」と言った理由は。
 ・空を飛ぶのはたいへんなこと。
 ・ぼくなら自慢して見せびらかす。
 ・なのに、びくびくして悪びれている。
15.【L1】ぼくが「本当に空を飛べるかの」と言った理由は。
 ・現実かどうか確かめる。
16.【L3】ぼくがいらだった理由は。
 ・非現実的な事象を客観的にどのように受け入れていいかわからなくなった。
17.【L2】空を飛ぶことにたいする男の評価は。
 ・みちゃいられない。
 ・ざまない。(格好悪いことを嘲ったり恥じたりする)
 ・見せ物にはなる。
 ★否定的。
18.【L2】ぼくの評価は。
 ・うらやましい。
 ・便利
 ・すごい特殊能力。
 ・夢のなかでも好きだった。
 ・気分かすかっとする。
 ★肯定的。
19.【L3】「ほんとうかね」の気持ちは。
 ・空を飛ぶことを肯定的に受け止めつつ。
20.【L3】男が空を飛べる丸薬をくれた理由は。
 ・ぼくも空を飛びたいと思っていると思ったから。
 ・この男も、空を飛びたいと思って薬を飲んだ。
21.【L3】「のびきった感情の、切断音」とは。
 ・ぼくと男とのなごやかなやりとりが切れた。
 ・聴覚的。
22.【L1】ぼくの感情は。
 ・おびえの感情。
 ・憎悪。
23.【L3】なぜ、おびえたり憎悪したりするのか。
 ・特殊能力を持つことは、社会の秩序を破壊することになるので、社会から排除される  から。
24.【L3】「逃げ去って行くのも、ぼくの後ろ姿」とは。
・ぼくも丸薬を飲んでいたら、男と同じ立場になっていた。
25.【L3】「地球の引力を逃れても、いずれ泳ぎ続けるのは、涙の海」とは。
 ・空を飛ぶことができても、憎悪されて涙を流し続けなければならない。
26.【L3】この小説の主題は。
・特殊能力を持つ者は、秩序を乱す異物として憎悪され排除される。



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空飛ぶ男 学習プリント   組  番 氏名

学習の準備
1.読み方を書きなさい。
 凝らす  輪郭  眼鏡  海老  翻し  布団  顎  曖昧  不機嫌 迷惑千万  狼狽  衝いた  喧嘩腰  仰向いた  被害妄想  丸薬  妖怪
2.語句の意味を調べなさい。
目を凝らす
なぶる
狼狽
追い打ち
うのみ  
悪びれる 

学習のポイント
1.ぼくが空飛ぶ男を見たときの気持ちを理解する。
2.空飛ぶ男の容貌を理解する。
3.空飛ぶ男がこちらを見た時のぼくの気持ちを理解する。
4.見慣れぬ男の容貌と正体を理解する。
5.男の用件と態度を理解する。
6.ぼくの対応を理解する。
7.空を飛ぶ特殊能力に対する、ぼくと男の評価の違いを理解する。
8.男がぼくに空を飛べる丸薬を勧めた理由を理解する。
9.ぼくが空を飛べる丸薬を拒絶した理由を理解する。