身体の個別性
浜田寿美男


 人は自分の身体を持って生まれ、生きる。他者と重ね合わせることはできない。それぞれの身体を持って別個の人生を歩む。それを「個別性」という。ここで確認すべき論点は「自己中心性」の問題である。ここでいう自己中心性は、ピアジュの用語に依拠しながら、人はもとも自国中心的にできているという意味の「本源的自己中心性」である。(12)
 ピアジュは、幼児心性の特徴として、物事を自分の視点からしか見ることができず、他者の視点を理解できない「自己中心性」を取り出した。例えば、自分から見て兄が兄弟であることはわかるが、兄から見て自分が兄弟であることがわからない。つまり、自分の視点から正確な認識が持てるが、他者の視点に立って物事を見ることができない。これが、ヒアジュの「自己中心性」である。(3〜6)
 ヒアジュの「自己中心性」は発達の過程でいずれ克服される。これを「脱中心化」という。「脱中心化」できれば、自分以外の視点から物事をみることができ、他者や第三者の視点に立って、科学的な客観性に到達することや、相互的な社会関係を持てるようになる。ピアジュはその後の段階でもそれぞれの自己中心性があり、それを乗り越えて脱中心化し、大人の段階では完全に第三者の目で物事を客観的に考えることができると考える。しかし、現実は単純ではない。(7〜9)
 生身の身体を抱えている私たちは自分の身体につきまとわれているので、頭の中で脱中心化を徹底しようとしても限界がある。私は私の目の位置から見る以外にない。相手の視点に立って想像することは一種の脱中心化であるが、相手が見ている通りの世界をそのまま経験することはできない。自分が見えているようにしか見えない。この身体の位置から、この身体を通して世界を体験するしかできない。これを「本源的自己中心性」と呼ぶ。これは発達によって乗り越えられるものではない。完全な脱中心化はあり得ない。感覚運動のレベルだけでなく、思考や概念のレベルにおいても、人は本源的に自己中心的であらざるを得ない。(10〜14)
 加藤周一は河上肇を「自己中心的な利他主義者」と呼んだ。川上は強い時は他人に対して自分を押し通しその影響に無頓着であり、弱い時は成り行きに任せ望んでいなかったようにする。川上は社会的現実の正確な観察者でなく、自己に魅せられた観察者であった。スタンダールの言う「エゴティズム」である自我意識の持ち主である。しかし、集団への帰属感を必要とし、「無我愛」という利他主義の原理やマルクス主義の理論に、自己中心的な世界を克服しようとした。(15〜17)
 自己中心性とは自分の視点にこだわって離れないことである。利己主義とは自分の利益追求を優先することである。川上は、利他を貫くという自己に忠実であろうとし、社会的現実を正確に観察できない。この自己中心性は、敵とすべき権力になびかない重しでもある。加藤は川上の理論は評価しないが、倫理は評価している。川上は利他性が「利他主義」になっているが、普通の利他性は日常的であり、私たちの互いの関係を支えている。これがいわゆる「思いやり」である。(18〜21)
 思いやりとは、相手によかれと思うことをしてあげることである。しかし、「相手によかれ」と思うのは「私」であるから、自己中心性がつきまとう。自己中心的な思いやりである。例えば、勉強しない子供に注意する母親は、利他的に子供によかれと思ってするが、子供から見ればおせっかいである。互いの了解のないところでは、利他姓も自己中心性になる。互いの立場に上下の落差がある場合、上位から下位への利他には、自己中心的利他性の弊害が強い。教師と生徒、福祉施設の職員と利用者などである。さらに怖いのが、日本が東南アジアなどの解放を提唱した「大東亜共栄圏」という、美名に潜む自己中心性である。(22〜25)
 人間は自己中心性を抜け出して他者の視点に立つ脱中心の契機を持つ生き物であるが、自己中心性を抜け出せない。そのことに気づくことが脱中心化であるが、それでも完全な脱中心化は不可能である。人はそれぞれの身体を持っているので、自分の身体から離れて生きるわけにはいかない。そうした個別性を生きるので、本源的な自己中心性にとらわれていることを確認しておきたい。(26)

1.【指】学習プリントを配布して宿題にする。
2.【確】学習プリントの漢字の読みを確認する。
 54 直ちに 依拠 一線を画する 55 端的 57 生身 徹底 如実 58 触る 説こう 一見 59 波紋 無頓着 魅せられ 帰属感 60 邁進 61 免れ 62 結構 弊 大東亜共栄圏 毒牙 錦の御旗 横暴 至極 63 契機
3.【確】学習プリントの語句の意味を確認する。
 依拠=よりどころとすること。
 一線を画する=はっきり区別する。
 端的=はっきりとしているさま。
 如実=事実のとおりであること。
 一見=ちょっと見ること。
 無頓着=少しも気にかけないこと。
 帰属=特定の組織体などに所属し従うこと。
 弊=よくない習慣。害。
 温床=ある結果が生じやすい環境。多く、悪い意味に用いる。
 毒牙=邪悪なたくらみ。あくどい手段。
 錦の御旗=他に対して自己の行為、主張などを正当化し、権威づけるもの。
 横暴=権力や腕力にまかせて無法・乱暴な行いをすること。
 至極=この上ないこと。
 契機=きっかけ。

4.【指】形式段落に1〜26の番号を付ける。

第一段落(1〜2)

1.【指】ペアリーディングさせる。
2.結論と問題提起について
 1)【L3】1段落の役割は。
  ・この評論の結論と問題提起を示す。
  ・頭括型。
 2)【説】結論は。
  ・自分の身体を持って生まれ、生きる。
 3)【L1】言い換えは。
  ・他者とその身体を互いに重ね合わせることができない。
  ・それぞれの身体を持って個別の人生を歩む。
  ・個別性。
  【説】言い換えをたどりながら、言いたいことをまとめる。
 4)【L1】このことから確認しておきたい問題提起は。
  ・自己中心性。
3.筆者の考える「自己中心性」について
 1)【L2】どんなものか。
  ・ピアジュの自己中心性+本源的自己中心性
 2)【説】ピアジュの説明をする。
  ・スイスの心理学者。
  ・発達心理学の基礎を築いた。
  ・成人の認識は、発達過程を経て、形成されたものであり、児童を研究することによって人間の認識の発生を解明しようとした。
 3)【L1】「本源的」の意味は。
  ・もともと。
  ・人はもともと自己中心的にできている。
4.【W】適時、ライフサイクルチェックをする。

第二段落(3〜9)

1.【指】ペアリーディングさせる。
2.ピアジュの自己中心性について
 1)【L1】ピアジュの自己中心性とは。
  ・四,五歳くらいの幼児。
  ・物事を自分の視点しか見ることができない。
  ・他者の視点を理解できない。
  ・思考や概念、世界観や言語に影響している。
 2)【L2】兄弟問題とは。
  ・次郎は自分から見て太郎が兄弟だとわかっている。
  ・次郎は太郎から見て自分が兄弟だとわからない。
  【注】図示して説明する。
 3)【L1】何が問題なのか。
  ・自分の視点から正確な認識ができる。
  ・しかし、他者の視点に立って物事を見ることができない。
 4)【説】ピアジュの自己中心性について
  ・発達過程で克服される。
  ・しかし、筆者の言う「根源的自己中心性」ではない。
 5)【L1】「脱中心化」とは何か。
  ・自分の視点から離れて他者の視点から物事を考えることができること。
  【説】兄弟問題で説明する。
 6)【L1】脱中心化によって何ができるようになるか。
  ・科学的な客観性に到達できる。
  ・相互的な社会関係を持つことができる。
  【説】これは子どもの育ちにとって重要なことである。
 7)【L1】その後の発達段階でも、自己中心性と脱中心化が繰り返され、大人の段階ではどうなるか。
  ・完全に第三者の目で物事を客観的に考えることができるようになる。
 8)【説】ピアジュの理論ではそうなるが、現実は単純ではない。

第三段落(10〜14)

1.【指】ペアリーディングさせる。
2.「現実」について
 1)【L1】単純でない「現実」とは何か。言い換えは。
  ・生身の身体を抱えている。
  ・自分の体の内側から人生を生きている。
  ・生まれてから死ぬまで自分の体につきまとわれている。
 2)【L1】ものを見る場合の「一種の脱中心化」とはどういう意味か。
  ・相手の視点に立って想像する。
 3)【L2】それはピアジュの脱中心化との違いは。
  ・想像していること。
  ・私の目の位置から、相手の見ているものを想像する。
  ・相手が見ているとおりの世界をそのまま経験することはできない。
  ・自分の目に見えているようにしか見えない。
 4)【説】音を聞いたり、ものに触れたり、人の苦しみを感じたりするのも同じである。
 5)【L1】「本源的自己中心性」とは。
  ・自分の身体の位置から世の中を生きる以外ないという自己中心性。
  ・発達によって乗り換えられるものではない。
 6)【説】筆者はピアジュの脱自己化を、四、五歳までの発達論としては認めている。
 7)【L1】脱中心化の最大の教訓は。
  ・完全な脱中心化は本来あり得ない。
 8)【L2】これは第二段落のどの部分の否定か。
  ・9段落
  ・大人の段階では完全に第三者の目で物事を客観的に考えることができるようになる。
 9)【L1】筆者が強調したいことは。
  ・生身の身体の現実に即する限り、人は本源的に自己中心的である。
 10)【L2】これは第二段落のどの部分の否定か。
  ・8段落
  ・脱中心化することで、科学的客観性や社会相互性が獲得される。

第四段落(15〜21)

1.【指】ペアリーディングさせる。
2.自己中心的な利他主義者について
 1)【説】加藤周一、河上肇について
  ・加藤周一は、医学博士であるが、古典やフランス文学に興味を持ち、評論家になる。
  ・河上肇は、経済学者で、京都帝国大学でマルクス経済学の研究を行っていたが、教授の職を辞す。貧困というテーマに経済学的に取り組んだ『貧乏物語』はベストセラーになったが、貧乏をなくすには金持ちが奢侈をやめることだという程度の内容だった。日本共産党の党員となったため検挙され、獄中生活を送る。
 2)【L1】加藤は川上を何と呼んだか。
 ・自己中心的な利他主義者
 ・自己中心的と利他主義は矛盾する。
 ・しかし、この組み合わせは珍しくない。
 3)加藤の一文について
  1)【L1】川上の強い時の様子は。
   ・他人に向かって自己を押し通し、その影響については無頓着だった。
   ・自己中心的な面。
  2)【L1】川上の弱い時の様子は。
   ・成り行きに身を任せ、望んでいないことに辿り着いても、自分の経験として拡大 し強化する。
 3)【L3】「社会的現実の正確な観察者」と「自己に魅せられた観察者」の違いは。
  ・社会を観察するのでなく、自己を観察する。
  ・経済学者でありながら、社会よりも自分自身に興味がある。
 4)【説】スタンダールについて
  ・フランスの小説家。『赤と黒』『パルムの僧院』。
 5)【L1】スタンダールの「エゴティズム」との違いは。
  ・集団への帰属感を必要としていた。
  ・無我愛やマルクス主義に帰属を求めた。
 6)【説】無我愛、マルクス主義について 
  ・無我愛は、真宗僧侶の伊藤済信が始めた運動グループ。自我を離れた真の愛を求め る運動で、理想を求めて共同生活をする。
  ・マルクス主義は、生産手段の私有と私的管理、商品の自由競争という資本主義の原則を批判し、生産手段の共有と共同管理、計画的な清算と平等な分配を要求する社会主義の思想の一つで、革命的実践の戦略や戦術を立てることを目指す。
 7)【L1】自己中心性と利己主義の違いは。
  ・自己中心性は、自分の視点にこだわって離れられない。
  ・利己主義は、自分の利益追求を優先する。
 8)【L2】川上の自己中心性とは。
  ・思想は利他に貫かれている。
  ・思想に邁進する時に自分に忠実であろうとして、社会的現実を正確に観察できない。
 9)【L1】川上の自己中心性を批判できない理由は。
  ・敵とすべき権力になびかない重しを彼に与えたから。
  ・理論的には認められないが、倫理的には評価できる。
 10)【L1】川上ほど特殊でないが、普通の「利他性」を何と呼んでいるか。
  ・思いやり。

第五段落(22〜26)

1.【指】ペアリーディングさせる。
2.「思いやり」について
 1)【L1】「思いやり」とは。
  ・相手によかれと思うことをしてあげること。
  ・利他性。
  【説】自己中心性とは無縁のように見える。
 2)【L2】それが、「自己中心的な利他性」「自己中心的な思いやり」である理由は。
  ・「相手によかれ」と思うのは私だから。
 3)【説】母親の例。
  ・母親の視点からは、子供のために忠告する。
  ・子供の視点からは、大きなお世話である。
 4)【L1】この例から言えることは。
  ・互いが理解し合っていない場合は、利他性も自己中心性を免れない。
 5)【L1】互いの立場に上下の落差がある例は。
  ・親と子、教師と生徒、職員と利用者。
 6)【L2】立場が対等でない場合の利他の弊害とは。
  ・おせっかいと思っても言い返せない。
 7)【L1】もっと怖いのは。
  ・第二次大戦中の大東亜共栄圏。
 8)【説】大東亜共栄圏について。
  ・日本が欧米に侵略され植民地化してきた東南、東アジアを解放して、共に栄えるという思想。
  ・解放の美名のもとに、欧米に代わって日本が横暴な侵略をした。
  ・弱い立場のアジアの諸国は拒否できなかった。
 9)【L1】筆者の考える脱中心化とは。
  ・人間は、どう頑張っても自己中心性を引きずっていることに気づくこと。
 10)【L1】筆者の結論は。
  ・人間は本源的な自己中心性にとらわれている。



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学習の準備
1.読み方を書きなさい。
 54 直ちに 依拠 一線を画する 55 端的 57 生身 徹底 如実 58 触る
 説こう 一見 59 波紋 無頓着 魅せられ 帰属感 60 邁進 61 免れ 62 結構
 弊 大東亜共栄圏 毒牙 錦の御旗 横暴 至極 63 契機
2.語句の意味を調べなさい。
依拠
一線を画する
端的  
如実
一見
無頓着
帰属
邁進

温床
毒牙
錦の御旗
横暴
至極
契機
学習のポイント
1.個別性とは何かを理解する。
2.ピアジュの自己中心性について理解する。
3.ピアジュの脱心性について理解する。
4.本源的自己中心性について理解する。
5.河上肇が自己中心的な利他主義者であることを理解する。
6.自己中心的な思いやりについて理解する。