徒然草


 五月五日といえば、現在では子ども日である。古代中国では、端午といい、邪気を払うために菖蒲を屋根にかけた。菖蒲は尚武(武術や勇気を尊ぶこと)に通じることから、
男児の節句になった。この日、上賀茂神社では、2頭の馬が走り競う勇壮な行事が行われた。多くの人が見物した。兼好法師は車に乗って見物に出かけた。車というのは牛車である。貴族の乗り物である。兼好は下級とはいえ貴族の子息である。ところが、遅く行ったので前の方に身分の低い見物人が立ち並んでいて見えない。貧乏人は暇なのであろうか、今でも行事があると早くから並ぶ。せっかく来たのに見えない。入る隙間もない。
 ちょうどそのとき、向かいの楝の木の股に座って見物している法師がいた。獄門に植えてさらし首をかけるのに利用された。そこなら誰もいないし、混んでいてもよく見える。ところが、朝早くから見物に来ていたからだろうか、法師は居眠りをしているので落ちそうである。落ちそうになっては目を覚ます。
 見ている人も冷や汗モノである。こんな無茶をする法師もいるものだと軽蔑したり、驚いたり、呆れたり。危険な状態の中で安穏としていられるものだなぁと笑っている。そのとき、兼好の心にふとこんな考えが浮かんできた。自分たちもいつ死ぬかわからない危険な状態なのに、それを忘れて、安穏として競馬を見物している。愚かさでいえば、法師を上回っている。思ったままを口に出すと、前にいた見物人が、本当にそうだと感心して、場所を空けてくれた。こんな言葉にどうして人は感心して、場所を譲ってくれたのか。一説には、このとき兼好は十三歳であり、幼い子どもが言ったからみんなが感心してくれたという。これなら納得できるが、いい大人が言ったとしても、小賢しいといって相手にされなかったであろう。
 最後の兼好のコメントであるが、最初は分け入る隙もなかったが、私の話を聞いて感動して、場所を譲ってくれるほど態度が変化したことを取り上げている。こんな道理は大したことはなく、だれでも思いつくことだが、言ったタイミングがよかったから感動したのだとしている。人は、木や石のように感情がない生き物ではなく感情があるので、同じことを言っても時と場合に応じて感動もするものだ。とはいえ、こう書いてみると自慢話に聞こえる。兼好が大人でもそうだが、十三歳であったとしたらなおさらである。しかし、達観した兼好自身、競馬を見に来ているし、場所を空けてもらったら喜んで見物しているのは、大きな矛盾である。


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0.「学習プリント」を配布し、学習の準備を宿題にする。

1.教師が音読する。
 
2.生徒と音読する。
★単語に区切らせ、助動詞を説明し(指摘させ)、難解語句説明し、訳させ、補足説明や 質問をする。
 
3.五月五日、賀茂の競べ馬を見はべりしに、車の前に雑人立ち隔てて見えざりしかば、おのおの下りて、埒の際に寄りたれど、ことに人多く立ち込みて、分け入りぬべきやうもなし。
 1)五月五日について説明する。
  ・古代中国の節句の一つ。「図説国語(東京書籍)」二七七頁。
  ・一月七日=人日。七草がゆや、高い所で詩を作る。
   三月三日=上巳。曲水の宴をしたり、川で身を清めたり人形に身の穢れを移して流したりして災厄を払う。雛祭り。
   五月五日=端午。菖蒲を酒に浮かべて飲んだり、ちまきを作ったりした。菖蒲が尚武につながり、男子の節句になった。
   七月七日=七夕。牽牛と織女が年に一度天の川で会う。裁縫などの技芸を祈って針供養などを行う。
   九月九日=重陽。九という陽数が重なる。高い所に登って菊の花の酒を飲み、邪気を払い、長寿を祈った。
 2)加茂の競べ馬を説明する。
  ・二頭の馬が走り比べをする。
  ・普通は五月一日に行われるが、この年は五日に行われた。
 3)「はべりし」の「し」が直接過去の助動詞の連体形で、自分の体験である。したがって主語は私である。
 4)「車」とはどんな車か。
  ・牛車。図説二三八頁参照。
  ・身分の高い人の乗り物。作者である兼好法師は身分が高い。
  ・「雑人」とあることからも、作者は身分が低くないことがわかる。
 5)接続助詞に注意する。
 6)「入りぬべき」の助動詞の意味を考える。
  ・ぬ+推量=強意
 7)身分の低い貧しい人にとって、この行事は少ない娯楽の一つであり、早くから来て待っている。そこに、身分の高い作者らが牛車に乗って見物にやってきたという状況を確認する。
 
4.かかる折に、向かひなる楝の木に、法師の登りて木の股についゐて物見るあり。取り つきながらいたう眠りて、落ちぬべき時に目を覚ますことたびたびなり。
 1)「楝の木」は、獄門に植えてさらし首を書けるのに使った、三メートルばかりの木である。
 2)格助詞「の」の用法を考える。
 3)「落ちぬべき」の助動詞の意味を考える。
  ・ぬ+推量=強意
 4)「たびたびなり」の助動詞の意味を考える。
  ・断定「なり」終止形。体言に接続する。
 5)法師の様子を図示しながら理解する。
 
5.これを見る人、あざけりあさみて、「世のしれ者かな。かく危ふき枝の上にて、安き心ありて眠るらんよ。」と言ふに、
 1)「眠るらんよ」の「らむ」の助動詞の意味を考える。
 2)人々は、法師の何を嘲り呆れたのか。
  ・危険な状態にあるのに、それに気づかず安心しているから。
 
6.わが心にふと思ひしままに、「我らが生死の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日を暮らす。愚かなることは、なほまさりたるものを。」と言ひたれば、
 1)「わが心」とは誰の心か。
  ・作者の心。
 2)「ただ今にもやあらん」の品詞分解をする。
  ・に=断定「なり」連用形(体言に接続)
  ・や=疑問の係助詞。
  ・あら=ラ変未然形
  ・推量「む」連体形(係り結び)
 3)「それ」の指示内容は。
  ・我らが生死の到来
 4)「物見て」とは具体的に何を見るのか。
  ・加茂の競べ馬の行事。
 5)法師とわれらの愚かさを比較する。
  ・法師=木の上で落ちそうになっているのに、木の上で安心して眠っている。
  ・我ら=死がいつ訪れのかわからないのに、競べ馬を見て楽しんでいる。
 
7.前なる人ども、「まことに、さにこそさうらひけれ。最も愚かにさうらふ。」と言ひて、皆後ろを見返りて、「ここへ入らせたまへ。」とて、所を去りて呼び入れはべりにき。
 1)「さこそさうらひけれ」の係り結びを考える。
 2)敬語に注意して訳す。
 3)「はべりにき」の助動詞を考える。
  ・に=完了「ぬ」連用形
  ・き=過去「き」終止形。
 4)さっきは作者に無関心で、場所も譲らなかった雑人が、作者の言葉で、場所を空けて招き入れるという態度が大きく変わったことに注意する。
 
8.かほどの理、誰かは思ひ寄らざらんなれども、折からの思ひかけぬ心地して、胸に当たりけるにや。人、木石にあらねば、時にとりて物に感ずることなきにあらず。
 1)「かほどの理」とは何を指しているか。
  ・我らが生死の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日を暮らす。
 2)「誰かは思ひ寄らざらんなれども、」の助動詞と係り結びを考える。
  ・か=反語の係助詞
  ・ざら=打消「ず」未然形
  ・ん=推量「む」連体形
  ・なれ=断定「なり」已然形
  ・係助詞「か」の結びで「なる」になるはずであるが、接続助詞「ども」が接続した ので、結びが流れた(消滅した)。        3)「折りからの」の訳に注意する。
  ・時が時なので
 4)「思ひかけぬ心地」の助動詞を識別する。
  ・ぬ=打消「ず」連体形。完了「ぬ」終止形との識別である。
   接続で見れば、「かけ」が未然形か連用形か判断できない。
   体言「心地」が接続するので連体形になる。
 5)「にや」の説明し、省略部分の補足する。
  ・に=断定「なり」連用形
  ・や=疑問の係助詞。
  ・あらむ(む=連体形)が省略されている。
 6)「木石にあらねば」の助動詞を考える。
  ・に=断定「なり」連用形
  ・ね=打消「ず」已然形
 7)「なきにしもあらず」の助動詞を考える。
  ・に=断定「なり」連用形
  ・ず=打消「ず」終止形
 8)人が木石ではないとは、木や石をどのようなものととらえているか。
  ・感情がないもの。
 
9.作者は何が言いたかったのか。この章段の主題は何か。
 ・人は感情を持っているので、何気ない言葉にも時によって感動するものである。
 ・人々の態度の変化が中心になっている。
 ・しかし、この話のようなことを祭の場で言われて、感動するだろうか。
 
10.作者の死生観について考える。
 ・人間は死と背中合わせに生きているのに、それを忘れて安心して生活している。
 
11.という死生観を持っているにもかかわらず、この章段の作者の行動に矛盾はないか。
 ・自分も加茂の競べ馬を見に来ている。
 ・場所を譲られて喜んで見物している。
 ・一説によると、この話は作者が十三歳の時の話であるとされている。そうすれば、人々が感動したことも、作者が続いて見物したことも理解できる。



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