山月記の文体
ヌ私は山月記をもう一度読んでみて、本文中ん出てくる「月」の役割について考えてみた。山月記で出てくる「残月」「月に向かって咆えた」「すでに白く光りを失った月」など、これらは単なる背景の月というより、知人によって名を残すという李徴の気持ちを例えたものではなかろうか。例えば、「月に向かって咆えた」という場面では、李徴が人間であった頃の行いを悔やんでいるが、ここでは私に未練を多く残しているため月は夕方の月に情争テい分はっきり見えるよう描かれていると考えられないだろうか。また授業で取り上げた李徴の咆哮の場面の月も、明るくなって月が見えなくなって行くように、李徴の詩に対する思いも少しずつ薄らいでいったのではなかろうか。もしそうだとすると、「月」はこの話の骨組みになり、大変重要な役割を果たしているといえる。また、月は自分自身が光を放ち輝いているではなく、太陽の光を反射して光っている。これは、李徴が周囲からチヤホヤされて尊大だ倨傲だといわれ,結局何もしなかったのと同じことである。こういったところや、注目するポイントなどいろいろなところで、月は重要な役割を果たしていると思う。

山月記と人虎伝
ネ山月記も人虎伝も、どちらも天才李徴の身に起こった悲劇が主題であり、袁慘はあくまで聞き手である。この「2人の李徴」がともに他人を馬鹿にして低い官位に満足せず自信家であったという点が冒頭で語られている。しかし2つの作品は進んでいくにつれて違いがはっきりしてくる。もっとも大きく違っているように感じたのは、人虎伝の李徴は「本物の天才」で、山月記の李徴は「偽りの天才」であったのではないか、というところだ。「本物の天才」は別に詩家など目指しておらず、家に引きこもったのも任期が終わって外の交際を断つためであった。そのうえ生活に困って地方に行っても天才との評判が高かったため彼の自尊心を傷つけるようなことは全くされず、それどころか皆にチヤホヤされてその自尊心はますます増長していったのであろう。作った詩を袁慘に伝えた時も、袁慘 はただ感嘆するのみであった。しかし、この「本物の天才」は、虎になり袁慘と語り、何か得るものがあっただろうか。李徴の中で虎になったことに対する気持ちの整理はできたであろうか。それを匂わせる文章はない。おそらく、人虎伝の作者は「いくら天才でも悪事を働くと必ず報いがあるぞ」と言いたかったのだろう。山月記の「偽りの天才」はどうだっただろう。若いころは天才ともてはやされるも、詩家の夢破れ、低い身分に我慢できず発狂して虎になってしまう。しかし彼はなぜ自分が虎になったのか考えるうちに、自分が努力せず、憶病さに打ち勝てなかったばっかりに詩家になれなかっただけでなく、虎などに身を落としてしまったのだと語る。そして、最終的には虎としての自分を受け入れられるようになった。このことは李徴にとって最悪の状況下での唯一の「救い」といっていいだろう。人虎伝の気持ちの整理がつかなかった=救いがなかった「本物の天才」との大きな差がここにあるように思う。「本物の天才」が悪事を働きトラになった人虎伝も、「偽りの天才」が己の欠点のため虎になっていったが、その欠点に気づき虎の姿を受け入れた山月記。同じような物語に見えても、中身が大きく違っている。山月記の場合、逆に考えると李徴のようなことを続けているときっとしっぺ返しを食うぞ、という教訓も入っているのだろう。山月記は内容も深く、若者が陥りやすいことに対する教訓も入っている。教科書に最適な物語だと思う。作者も教師の経験があったので、人虎伝がこのように変化したのかもしれない。

ノ「人虎伝」では李徴が虎に変異した理由が、未亡人との密通殺人まで犯してしまったというのに対して、山月記の特徴として「詩人の苦悩」という部分が全面的に押し出されていると思います。詩によって名をなそう(自尊)としているにもかかわらず、俗物の間に伍することも潔しとせず(尊大)己の珠にあらざることを恐れ、あえて刻苦して磨こうともしない憶病。優越感や劣等感は誰でもある気持ちです。しかし李徴は、この気持ちを飼い太らせてしまったために虎に変異してしまったようです。また山月記と人虎伝には共通して「誰一人としてわかってくれるものはない」ということが書かれています。しかし山月記の方はこの文が繰り返し使われています。「誰も分からない」とは他人に対する自分勝手な不満であり他人とのコミュニケーションを図ろうとしない李徴の性格を表しています。詩人といえば、いかに多くの人々に自分の気持ちを鮮明に伝えることができるかというのが作品の決め手になるのだと思います。それに加え人虎伝では最後には李徴の息子にも会ってすべて話したと書かれているが、山月記には李徴が死んだと伝えられています。山月記の作者は李徴の詩人としての「死」を強調したかったのではないでしょうか。

人間存在の不条理
ハ「理由も分からずに押し付けられて理由も分からずに生きていく。」とは、なかなか言い得た表現である。はたしてこの時代に生きるどれだけの人が、自分が生きることに対しての明確な理由を即座に述べることができるだろうか。私の命も、誰かがふとした気まぐれに与えた、特に理由もないものなのかもしれない。ある日突然見知らぬ人に押し付けられた旅行鞄のように、重たくて正体がしれない、しかも安易に放り投げてしまうのがためらわれるような代物だ。預けた張本人に理由を問いただそうにも、それはとうの昔に走り去ってしまって、後姿さえ見えなくなっている。私は鞄を持て余して途方にくれ、その重さに辟易しながら、それを担いでいつ終わるとも知れない長い道のりを行くのである。まったくもって、人間の生というのはまさに不条理というにふさわしい。しかも厄介なことに、「生きる」という事柄自体が何か使命感のようなものを帯びているのである。生きるということは、些細な理由から簡単に放り出せるようなものではない。李徴は、トラになってからそのことをどれだけ恨めしく、歯痒く思っただろう。李徴は、果たして「不条理」ですべてかたをつけられてしまう己のさだめというものに納得できたのだろうか。おそらくできなかったはずであるが、虎になってしまったからには、もう答えを聞くすべもないのである。

ヒ私は、山月記を勉強して、何も特に意識しなかったことを考えるようになりました。私はなぜ生まれてきたのか。私はなぜ女なのか。今年はなぜ……。そんなことをよく考えるようになりました。でも、答えはいつも見つからず、考えるだけ無駄だと気づくのです。そう思うことが今回山月記を勉強して気づかされた「生き物さだめだ」、なぜ生まれてきて、なぜここにいるのか、なんて理由を求めても意味がなく、だからそんなことに理由を求めてはいけないんじゃないかと思いました。何も考えず、生きていく方が楽だと。李徴は虎になったことを受け入れた。理由もわからず押しつけられ、理由もわからずに生きている生き物のさだめだと。しかしもし私が李徴と同じように突然わけもわからぬまま虎や他の生き物になったら……。多分、私はその現実を受けいることができないだろうと思う。いくら理由もわからずに押し付けられたものを受け入れ、理由もわからずに生きていくことが生き物のさだめとわかっていても、私は現実を受けいることができず、きっと死を選ぶだろう。自分はこれまでの行いや性格が原因で、自分自身の姿を変えてしまったということは、現実には考え難く、信じられないことだ。でも、それが本当に現実になってしまったなら……。李徴はなぜ死を選ばず、生き物のさだめだと受け入れ、虎として生きようと思ったのだろう。それがさだめとしても受け入れたくなかったはずだ。理由もわからず生きることがさだめなら、虎になろうと何だろうとを生きていかなければならないのだろうか。それは人間として辛いことだと思った。

フ「理由もわからずに押し付けられて理由もわからずに生きている生き物のさだめ」のことについて自分なりに考えてみた。それで思ったことは、また私も一回は「何で自分は生きているんだろう、生きていて何の意味があるんだろう」と考えたことがある。多分誰でも一回はそういうふうに考えたことがあると思う。でも、そのことをどんなに頭がいい人でも、いろいろな知識を持った人でも、理論的な答えはあるかもしれないけど、最終的にみんなが納得するような答えを出すことはできないだろう。なぜなら誰かがその人の人生を操っているわけではないし、かといって誰かがその人の人生を決めているのだったら人生は楽しいことも苦しいこともないのではないだろうか。このことを考え出したら、いつまでたっても自分では答えを出すことができない。だから人間は生きているかもしれない。なぜ人間は生きているんだろう。なぜ鳥は空を飛んでいるのだろうか……。

ヘ李徴は「理由もわからずに押し付けられたものを受け取って、理由もわからずに生きていくのが、生き物のさだめ」と言っているが、自分は少し違うような気がしました。確かに自分たちは人間になりたくてなったわけではなく、この時代に生きたくてここに生きているのではなく、はっきり言ったら勝手になった、いわゆる運命としか言いようがないと思う。李徴だって虎なんかになりたくてなったわけではない。しかし李徴の言った「理由もわからずに生きていくのがわれわれ生き物のさだめだ」というのは少しおかしいと思う。自分は、例えば人間という「体」をもらうのは、それは運命だが、それからのこと、つまり「人生」は自分の作っていくものだと思う。よく何か悪いことがあると、「人生てこんなもんや」とかいうことがある。これは、自分の人生を少し自分から放して、次のステップに行かずにあきらめてしまうようなことだ。多分李徴もこのようだったと思う。だから、李徴の人生は、自分が気づかないうちにだんだんとおかしくなってきて、自分というものを忘れてしまったんだと思います。李徴の詩もいつしか理由がわからずに書いていたかもしれないと思います。人生というものは自分で変えていけるし、自分で決めるものであると思う。それは決して「さだめ」なんかではなく「自分の心」なんだと思う。その心が自らでコントロールしてこそ、彼の思う人生の道が開かれているなと思います。

ホ「理由もわからずに押しつけられて理由もわからずに生きている生き物のさだめ」とあるがこれについて僕の意見を述べてみよう。前の本は、マイナス思考だね。特に「理由もわからずに生きている」。確かにそうかもしれないけど、生きているのは自分の意思、死のうと思えば死ねるし、生きていたいとは思わなくても死にたくないと思っているはず。生きたいから生きている、生きている理由なんてそんなものでいいんじゃないかな。あと、「生き物のさだめ」とあるがこれは多分、「人間のさだめ」だで。李徴も虎になった後に語っている。「そのとき、目の前を〜消した。再び〜散らばっていた」と。つまり虎の時に人の感情はない。「理由は分からずに」とか「押しつけられて」とかそんな感情もない。そして僕の結論は、最初の文は、「生き物のさだめ」あたりから虎になってしまったことへのあきらめっぽい雰囲気を出しつつ、実は人でいたいという思い、「理由もわからず〜生きていたい」あたりから、生きていたいという思い、2つ合わせて「人間として生きていたいという気持ちを込めた文だと僕は勝手に思っている。人間の存在は不条理ではなく条理である。

マ山月記を読んで考えたことは、なぜ僕は人間に生まれたのか?。そういうことについて考えさせられました。この問いは簡単に答えられるようで、とても難しい課題だと思います。多分誰もその答えをしているものはいないでしょう。僕は何かの本でそのようなことについて書かれたのを少しだけ読んだことがあります。それには、なぜ人間などで生まれたかというと、自分の心を磨くためと書いてありました。僕はその本を読んで、なるほどなと思いました。でも僕の考えでは、人は答えを探すために生まれてきたのだと思います。李徴の場合、自分を虎にすることによって、その答えを探そうとしたのかもしれません。自分を知ろうとしたのかもしれません。答えを出すのにはまず自分がどんな人間かを知る必要があります。そしてそのことによって自分の欠点を見つけ出し、直していくことが自分の存在、つまり、なぜ自分が生まれたのかということに気づくと思います。李徴は多分このまま人間だったら自分の才能を見つけ出すことができなかったと思います。虎になって初めて自分の才能に気付きそして自分がどんな人間であるかを知ったと思います。理由もわからず押し付けられて生きていると、李徴は言っていますが、違うと思います。生きることによってその理由を探し出すために生まれたのだと僕は思います。

ミ私は、なぜ○○という名前でどうして女で、どうして人間でいるのか。そんな事をよく考えます。こういうふうになっているのは偶然なのか、それとも理由があってなのか。そんな事を考えていると全部がごちゃごちゃになってきます。人間だから考えているのか、それとも私だからこんな事を考えているのかいろいろ考えていると変な考えが浮かびました。それは、この世界は、大きな巨人があやつっているのではないかということです。普通の時に聞いたらおかしい話だと思うかもしれないけど考える事がいろいろあり、考えても考えても答えが見つからない時に聞いたら、わかってもらえるかもしれません。それは、
大きな巨人がゲームをしていて、人間たちが生活している様子を上から眺めているのです。
そしてその巨人は思い通りに人間たちを動かすのです。私がこんな事を思いついたのは、アリを見ていてです。アリはたぶん何も考えていないのだろうけど体に組み込まれたプログラムで毎日せっせと働きます。でもアリはどうやってそのプログラムを作ったのでしょうか。それもまた不思議な事です。何かそういう事を思うと人生はやっぱり作られているもののような気がしてきました。私がすること全部決められた事でどう決断するかも、同行動するかもいつ死ぬのかも全部決まっているような気がしました。
 
詩人の苦悩
ム博学才頴、天宝末年、若くして名を虎榜に連ね、要するに李徴という男はエリートコースを歩いてきた世間でいう「やり手」という種の人間なんだろう。ところが性格はそううまくはいかず、協調性はないし、自信過剰過ぎて良いところはほとんどない。そのままエリートコースを歩んでいればよかったとも思うけれど、それを捨ててまでなりたかった詩人に李徴はどうしてなり切れなかったのだろうか。話の中で、頻繁に自尊心と羞恥心という言葉が出てきていた。「人より優れている、自分には才能がある」という自尊心、言い換えるなら優越感と、「自分より優れた人がいるかもしれない、自分には才能がないのかもしれない」という羞恥心、言い換えれば劣等感にさいなまれていた結果、詩人にもなれず、人間にもならなかったんだと思う。詩人のような芸術家になるためには、単なる普通の人じはいけないと思う。多分変人ぐらいにならないといけないと思う。発狂して虎になったのは本当の詩人になるために変になった結果、そうなってしまったのではと思う。それに、詩人として自由になりたいなら、妻子を犠牲にするくらいの覚悟がないとダメだと思う。そういうところも中途半端だったと思う。劣等感を隠すために人目を避け、優越な態度をとり、自分に甘い、そういう臆病さや羞恥心により、詩人になれず、また中途半端で怠け者だから虎になってしまってなんだろうと思う。

メ李徴が生まれながらにして詩の素晴らしい才能思っていた。その才能があったために、李徴は気性が荒く人を馬鹿にするような性格になったのだと思う。もし李徴が平凡な才能を持っていたならば、一生懸命努力していたかもしれない。山月記の李徴は、いつも頭の中で詩のことを考えていたのだと思う。だから、だんだんと虎になっていく自分を本当に恐れていた。そして悩んでいた。李徴は自分の才能を半分信じ半分疑っていた。だから役人にもならず、努力して立派な詩人にもなろうとしなかった。この李徴の天才であるがゆえの悩みが一番いけなかったと僕は思う。その中途半端さがまた李徴の作った詩を一流の詩にしなかったのだと思う。生涯を詩を作ることに捧げた李徴、最後の最後に詩人への未練を断ち切ったときの気持ちはどのようなものだっただろうか。哀しさや寂しさの中にも何か、すがすがしいものがあったのだろうと僕は感じた。

モ李徴は確かに詩人の才能があったと思う。けど自分の力を認め過ぎて十分な練習をせず詩を作ったって無駄だと思う。そういうことをして常に優越感に浸っていたから虎になったと思う。多分李徴は虎になって気づいたことがいくつかあると思う。まず詩が思いついても筆が持てないのではそれは書けない。人との交わりがないからその詩を売ることができないなど。ふだん何気なくしている行動ができなくなることがとてもつらいと思います。もし李徴が虎から人に戻ったとしても、自分は多分詩の練習をせずにまた自分の力を信じて詩を作ると思います。普通の人なら「またいつ虎になるか分からない」と思って必死に詩を作ると思う。李徴も最初はそうするでしょう。でも李徴の性格ではすぐやめてしまうと思います。だから李徴はいつまでも何年かかっても虎の姿から人の姿に戻ることはできないと思う。

山月記を読んで
ヤ人はそれぞれ長所がある代わりに、短所もある。それが機械とは違う「人間らしさ」なのだが、その短所を皆必死に隠そうとし、そこから逃げようとしている。李徴もその一人ではないだろうか。いろいろな人と関わって自分の才能のなさを知られたくないという尊大な羞恥心を、ただの協調性がないという形でゴマかそうとしているように見える。そしてその結果、内に秘めている「詩人として名を残したい」という純粋な気持ち、臆病な自尊心が掻き消されている。そんな気持ちや状態が積もり積もって、虎という姿に変わったのだろう。でも私は虎になったということがかわいそうだと思わない。確かに姿が変わっていってしまったことによって、詩人の夢や家族や友達のことをあきらめなければならないのはすごくつらい。しかし今までできなかったありのままの自分を真正面から受け止められた。その時きっと彼の中で何かが生まれ、これからの人生においてとても大切なものになったと思う。また、もしそのまま人間の姿でいたら、この大切なものを得ることはできなかったのではないだろうか。そう考えると彼にとって決してマイナスのことばかりではなかったはずだ。これから時がたち、李徴議長に会えない日々が続いたとしても、袁慘は彼を忘れることはないだろう。だって唯一彼が弱さや本当の自分の姿を見せた人だから。