『十代のマイリボリューション』から十六年、若者はどう変わったか。作者の保坂は社民党の国会議員になった。今の若者をとらえるのに、心理学者の香山リカに登場願う。

 二〇〇二年、若者のエネルギーの表現の場は、「祭」である。その中でも、「YOSAKOIソーラン」である。

 YOSAKOIソーランは本家の「よさこい祭」の、手に鳴子を持って踊る、参加者は費用を自己負担するというスタイルを残し、後は、ソーラン節のフレーズが入っていれば音楽も衣装も振り付けも自由である。伝統に縛られずに誰でもが参加できるというのが最大の特徴である。踊りと言うより、集団ストリートパフォーマンスである。参加者の中心は二十代の若者である。

 このような和風の要素を取り入れたストリートパフォーマンスは、「一世風靡セピア」「氣志圑」「竹の子族」「期待族」に通じるものがある。共通点は、自己表現とエネルギーの発散である。しかし、自分だけが目立ちたいと言う若者をチームとして束ねていくのには何かが必要だ。それが「ニッポン」である。それは本当に誇りを感じているというものではなく、「とりあえず自分はニッポン人だし」という程度である。その共通認識は、「『日本は特別な国なのだ』という妙な思い込み」である。つまり、和の要素を取り入れたイベントのポイントは、参加者がニッポンやニッポン人を確認できる小さなルールと、それ以外はすべて自由である。

 ただし、ここで問題なのは、参加者が、ニッポンという旗印のもとにゆるやかに集まって安心感を得ているということを自覚していないことである。フランスでは極右政党が抑圧層の不満をすくい取って多くの得票を得ている。日本でも、この和の要素を取り入れたイベントを意識的に操作する人物が登場すれば、若者のエネルギーが一気に全体主義に向かっていく可能性があるのだ。若者が、自由な自己表現のためにニッポン的な格好をしているだけなのか、信条の部分まで硬直化したナショナリズムに支配されているのかを見極める必要がある。

 劇作家の山崎正和は、前者の見方をする。W杯での顔に日の丸のペイントをし、日の丸の旗を振って日本チームを応援したサポーターは、ニッポンが好きというよりは、日本的カッコよさから出た行動であると見る。日本的カッコよさとは、ポケモン、キティちゃん、北野武、宮崎駿の映画に共通するものである。それは、主義や理念を超えた超民族性であり、「カッコよければ、国なんて関係ない」という国際性である。日本サポーターの熱狂性は、芝居の約束事のように、面白がって愛国ごっこをしているだけだと言う。

 しかし、芝居なら演技している自分を見る、自己相対化の視点が必要である。しかし、今の若者は、目の前の現実を歴史や抽象思考から切り離し、もっと得になること、健康に良いこと、利潤が出やすいことを選択する。つまり、自分は絶対的な存在であると言う自己中心主義になっている。この感覚を国家レベルに当てはめると、「日本が強くなってどこが悪い」となる。このような一元的な強者の論理を信じている若者が、責任を取れるだけの自己を確立しているとは思えない。やはり、煽動者が登場すれば、フラフラとそちらへ付いていく若者が多く、楽観できる状況ではない。


板書

1.今の時代を象徴する曲を問う。

2.「ロック・ソーラン」を聴く。

3.プリント1を配布する。

4.音読させる。

5.基本問題プリントをさせる。

6.今、若者の中で「祭」が、その中でも、「YOSAKOIソーラン」がブームになっていることを確認する。

7.ルールを確認する。

8.最大の特徴は。

 ★しかし、その裏に大きな仕掛けがあることを後で気づかせる。

9.参加者の中心は。

10.このような和の要素を取り入れたストリートパフォーマンスは他に何があるか。

11.共通点は。

12.しかし、自分だけ目立ちたい若者をチームとして束ねるのはむずかしい。それは何か。

13.暴走族や竹の子族の衣装や漢字表現に注目する。

14.「ニッポン」とはどういう意識か。

15.つまり、和の要素を取り入れた祭のポイントは。

 ★多くの自由の中で唯一の制約である「ニッポン」という設定が巧妙である。実は、そ  のことに強烈に縛りつけられ、潜在意識化されていく。

16.そこで生じる問題とは。

 ★ある旗印のもとに安心感を持って集まるのは全体主義の前兆である。

17.フランスの政治状況を説明する。

 ★アメリカのブッシュも同じ穴の狢である。

18.日本でも、ルペンのような人物が登場すれば、彼らが簡単に右傾化する可能性がある。

19.「YOSAKOIソーラン」ブームの二つの可能性は。

20.プリント2を配布する。

21.音読させる。

22.基本問題プリントをさせる。

23.W杯の日本人サポーターの熱狂ぶりを振り返る。

24.劇作家の山崎正和は、W杯の日本人サポーターの熱狂ぶりをどのように解釈したか。

25.言い換えると。

26.分かりやすく言うと。

 ★「国なんて関係ない」は「GO」に似ている。

27.日本人サポーターの熱狂ぶりを何に例えているか。

28.しかし、芝居に必要な視点は。

29.言い換えると。

30.しかし、今の若者にはそうした視点はなく、どんな傾向があるのか。

31.それが国家レベルになるとどうなるか。

32.言い換えると。

33.とすれば、前者の「信条まで硬直したナショナリズムに支配される」可能性が強い。

34.今の日本の、世界の状況を考える。



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YOSAKOIソーラン=一世風靡セピア、氣志圑、竹の子族、期待族

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            日本は特別な国なのだと言う妙な思い込み。

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 A 自由な自己表現への足場としてニッポン的な格好をしているだけ。

W杯の日本人サポーターの熱狂ぶり

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  演技をしている自分を見る自分。

  自己相対化の視点。

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  もっと得になること、健康にいいこと、利潤が出やすいものを選択する。

  自己絶対視、自己中心的である。

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YOSAKOIソーラン  基本問題

1)今の若者のブームになっているものは。

2)本家の「よさこい祭」にならったスタイルは。

3)「YOSAKOIソーラン」独自のルールは。

4)最大の特徴は。

5)参加者の中心は。

6)和の要素を取り入れたストリートパフォーマンスは他に何があるか。

7)それらとの共通点は。

8)若者をチームとして束ねる何かとは。

9)「ニッポン」とはどういう意識か。

10)和の要素を取り入れた祭のポイントは。

11)そこで生じる問題とは。

12)「YOSAKOIソーラン」ブームの二つの可能性は。





W杯の日本人サポーター  基本問題

1)山崎正和が見て取ったW杯の日本人サポーターの熱狂ぶりの原因は。

2)難しく言い換えると。

3)分かりやすく言い換えると。

4)日本人サポーターの熱狂ぶりを何に例えているか。

5)しかし、芝居に必要な視点は。

6)難しく言い換えると。

7)しかし、今の若者のどんな傾向は。

8)それが国家レベルになるとどんな価値判断になるか。

9)難しく言い換えると。












ぷちナショナリズム症候群 1                                     香 山 リ カ

 いま全国の各地で若いエネルギーの表現の場としての「祭り」がブームになっている。そのひとつ、札幌のYOSAKOIソーラン祭りは二〇〇二年第一一回目を迎えた。
 YOSAKOlソーラン祭りのルーツは、もちろん高知の「よさこい祭り」。「手に鳴子を持って踊る」「参加者は費用を自己負担する」というスタイルは「本家」にならっているが、札幌の場合はさらに自由度が高く曲にソーラン節のフレーズが入っていればあとは音楽も衣装も振り付けもまったく自由。盆踊りを延々と踊り続けながら町を練り歩く祭りは昔から全国各地にあったが、YOSAKOIソーラン祭りの場合は踊りは一回四分三〇秒までで完結する作品となっていて、参加チームはそれぞれの会場で順次それを披露しながら移動。最終日には審査結果が発表され、YOSAKOIソーラン大賞以下一〇位までの順位が決定される。
 初夏の札幌で行われるこの祭り、いまでは数十人から一〇〇人規模のチームが約三五〇参加し、一年かけて練り上げられた踊りを見ようと全国から集まる観客は二〇〇万人、という大イベントになっている。
 伝統に縛られずだれもが参加できる、というのがYOSAKOIソーラン祭りの最大の特徴だが、仮面をつけての舞あり、「テーマは宇宙」などのファンタスティックな創作舞踊あり、踊りというよりは集団ストリートパフォーマンス大会といったほうがイメージしやすいかもしれない。
 そしていまでは、「地元民謡の一節を盛り込んで自作の曲に合わせ、手に持った鳴子を鳴らしながら、チームを組んで踊ること」が広くYOSAKOI方式と呼ばれるようになり、大きなものだけで全国で八〇近くのYOSAKOI祭りが行われている。
 参加者の年齢は二歳から八十代まで、とは言うが、中心になるのは二十代の若者だ。彼らは専門学校や大学、職場や地元の自治体単位でチームを作り、大漁旗をはためかせたり和太鼓を打ち鳴らしたりと「ソーラン節」という民謡のにおいを残しながら、少しでも目立つために派手な衣装や斬新な振り付けで飛んだり跳ねたり、走ったりの群舞を繰り広げる。
 和風の要素を取り入れたストリートパフォーマンスと聞けば、古くは柳葉敏郎などのスターを生んだ「一世風靡セピア」、最近では千葉県木更津市出身の六人組「氣志團」を連想するかもしれない。あるいは、二〇年ほど前に東京・原宿の歩行者天国を占拠した「竹の子族」たちを思い出す人もいるだろう。彼らに共通しているのは、ツッパリ、ヤンキーと呼ばれる「反・いい子」風のファッションとそれとは裏腹な体育会的な団結力、統率力である。
 もしかするとこの若者たちは、「何かおもしろいことが起こらないか」と暴走族を見に行く期待族となる人たちと本質的には変わらないのかもしれない。退屈な日常の中で自己表現の手段も手に入れられず、動機も目的もない日々が続く。若いエネルギーは行き場もないまま蓄積し、カラオケや飲み会といった週末の娯楽だけではとても発散しきれない。このエネルギーがそれ以上、鬱屈すると、本人も意図しない突然の暴走情草ャ人式や地方の祭りでふつうの若者が暴徒化することなど情曹ノつながることも考えられる。そういう若者たちにとって、簡単な決まりを守りあとは創意工夫で作品を仕上げる、というYOSAKOI方式は、これ以上ない自己表現、エネルギー発散の場になっているに違いない。
 しかも、若者がチームとしてまとまり、協力して作品を作り上げていくには、彼らを束ねる何かが必要だ。エネルギーを持て余し「自分だけ目立ちたい」と思っている若者が、何カ月もかけて集団のパフォーマンスを練習し続けるのはたいへんなことだろう。
 そのとき、彼らが団結する大きな「旗印」になっているのが、ニッポンというものなのではないか。
 唐突にややわかりにくい言い方をしてしまったが、かつての暴走族は特攻服と呼ばれるツナギに身を包み、チーム名には「龍神」といった漢語を好んで用いた。テクノやユーロビートにあわせて踊っていた竹の子族たちの中にも、衣装に虎や龍といった和風のキャラクターを刺繍している人が少なくなかった。既成社会や大人へのアンチテーゼとして出てきた彼らであるが、実はアメリカにしか目が向いていないようなビジネスマンより、よほど強く自分がニッポン人であることを意識し、それを行動やファッションのどこかに取り入れている。
 それは、彼らがニッポンにあることに本当に誇りを感じているから、というよりは、むしろ社会に適応してそこで自分の居場所やアイデンティティを確立する道からややはずれ気味の彼らが、最後のよりどころとするのが「とりあえず自分はニッポン人だし」ということだからなのではないだろうか。というより、それさえ薄く意識していさえすれば、あとは糸が切れたタコになる不安からも解放されて、思う存分、文字通り「暴走」できるわけだ。
 逆に、そこでゆるやかな形で一度、ニッポン、ニッポン人という旗印を背負った自分を確認しさえすれば、あとは逆に自由奔放に無国籍の舞やパフォーマンスに打ち興じることができるというわけだ。そこで彼らの共通認識になっている「ニッポン」とは、形のあるものというよりは、「『日本は特別な国なのだ』という妙な思い込み」と同じような意識である。
 おそらく今後、このように「参加者にも意識されない程度の『和』の要素が取り入れられた大規模の祭りやイベント」が、全国各地で次々に開かれていくことだろう。ポイントはどれでも同じ、「参加者がニッポンやニッポン人を確認できる小さなルール」と「それ以外はすべて自由」という二点だ。
 ほんの少し「和」の要素を取り入れた上で自由度を高くした祭りやイベント。ここに若いエネルギーを回収するというのは、若者の不満の鬱積やその果ての暴走を防ぐためにはたいへん有効だと思うが、そこにも問題はある。それは、彼らがその祭りでニッポンという旗印のもとにゆるやかに集まって安心感を得ているのを、自分たちでは自覚していないということだ。
 これでは、自分たちは極右と自覚もせずにルペンに投票してしまったフランス人たちと、本質的には同じなのではないだろうか。いまはまだ、ルペンのようにことばにならない抑圧層の不満、不安をすくい取って得票に結びつけてやろう、と陰謀する悪人がいないので、祭りは祭りのまま楽しく行われているが、今後、そういう人間が出てきたときに、彼らは簡単に利用されてしまうのではないか。
 ことばにできない鬱積を抱えた若者の暴走や、行き場のない彼らのエネルギーが全体主義的な社会の形成に向かっていくのを一時的にくい止めるためには、ぷちナショナリズム的な「和」のブームや、ニッポンの要素を取り入れた祭りやイベントもしばらくは有効であろう。しかしこれは、何かのきっかけでフランス型ナショナリズムに転じていく危険性もはらんだ「賭け」でもある。「日の丸」鉢巻き、半纏、パッチの粋な和風スタイルの若者が、あくまで自由な自己表現への足場としてそういうニッポン的な格好をしているだけなのか、それともすでに信条の部分まで硬直化したナショナリズムに支配されつつあるのか、その線引きは非常にむずかしいからである。




ぷちナショナリズム症候群 2

 しかし、事態をそれほど悲観的に考えなくてもよいのではないか、という主張もある。
 劇作家の山崎正和は、今回のW杯の「日の丸」に日本民族主義の高揚を感じるのは早急に過ぎる、と述べる。
 よく見れば、大半を占める若い観客は髪を茶色やオレンジ色に染め、鉢巻きの下にはピアスの耳飾りを光らせていたはずである。彼らはスペイン語で「オーレ」と声を揃え、応援歌としてヴェルディの歌劇『アイーダ』の行進曲を歌っていた。(「地球を読む」『読売新聞』二〇〇二年七月二十九日)
 また多くの若者は日本チームだけではなく、ベッカムのイングランドなど外国チームにも熱い声援を送った。山崎はこの一連の行動から、彼らは日本が好きというよりは単に「カッよさ」が好きなのだと感じた。そして、外国でも大人気のポケモン、キティちゃん、北野武や宮崎駿の映画などにも、W杯における若者の振舞いに通じる「日本的カッコよさ」を見て取る。そこにあるのは主張や理念を超えた超民族性だけであり、「フランスの愛国主義と対照的であるだけでなく、かねて普遍性を誇るアメリカ文化と比べても極端」だと山崎は言う。そして、主義主張のない流動的なこの「日本的カッコよさ」を特徴とする超民族性は、「民族主義の克服という点で、ひょっとすると日本は歴史上初めて、世界の頂点に近づきつつあるのかもしれない」と言ってもよいほどの「立派な国民的特性」とまで述べるのだ。
 もし、日本人が本当に「カツコよければ、国なんて関係ないじゃん」というこの特性を身につけ、いついかなるところでも発揮できるとするならば、たしかにこれは画期的なことだと思う。しかし、そうだとしたら彼らの圧倒的多くはなぜ、W杯で「日の丸」「君が代」側にまわったのだろう。ロシアやチュニジアを「カッコいい」と応援する人も、半分までとは言わなくてももう少し多くてもよかったのではないか。この日本サポーターの熱狂ぶりを、山崎はこう解釈する。
 民族や国家単位の結束はいわば芝居の約束事であり、観客は承知のうえで「愛国ごっこ」を面白がって演じていたと考えられる。「どちらかの気持ちになって応援したほうが楽しいじゃないですか」。新聞の取材にそう答えた若い会社員は、試合ごとにジャージーを替えて各国の応援席に座っていたという。あの「必勝」と日の丸の鉢巻きも、おそらく本質はこの「芝居心」の現れと見ることができるのである。(前掲記事)
 愛国ごっこ。民族主義のパロディー。
 あれは、本当にそうだったのだろうか。彼らは、「これって芝居だから」と自覚した上で、あえて「日の丸」を振り「君が代」を大声で歌ったのだろうか。
 芝居であるからには、「演技をしている自分を見る自分」という視点が必ずどこかにあるはずだ。「ニッポンばんざーい……なんちゃって」と自己の態度を相対化してみる視点のことである。しかし、われわれは、いまや多くの若い世代の人たち情曹サれが知的エリートと呼ばれる類の人であっても情曹ノこの自己相対化の視点が欠如していることを、見てきたはずではなかったか。彼らは、いま目の前に起きている現実を歴史や抽象的思考から「切り離し」た上で、もっとも得になること、つまり健康にいいこと、利潤が出やすいことを選択する。体育会系の無邪気な屈託のない笑顔を振りまきながら。そして、「身体が健康なのが何が悪い?」「お金もうけのどこがいけない?」という非常に現実的な、ほとんど身も蓋もないほどの価値判断の延長として「自分の国が強くなってどこが悪い」とごくあたりまえのことのように口にしたのではなかったか。
 言論人、知識人と呼ばれ、本来ならば日本を引っ張っていかなければならないはずの彼らでさえ、おそらくは自分が「愛国ごっこ」を演じているなどという自覚はないであろう。
 演技をするには、「私はこれを演じる」と自覚するだけの確立した自己が必要なのだ。個の時代、自己責任の時代などと言われているが、健康、富(とそのための低コスト)、強さや快適さこそが大切、と一元的な「強者の論理」を無邪気に信じている人たちに、何かあったときに責任を取れるだけの自己が確立しているとはとても思えない。そういう彼らに「芝居心」を見ようとする山崎は、彼らを自分の世代の教養人と同じ繊細さ、複雑さを持った人間だと買いかぶっているからではないだろうか。
 山崎の希望的な解釈が当たっているように、と願わずにはいられないが、事態はそれほど楽観的ではないだろう。