一九八〇年代初頭、学校はツッパリたちの校内暴力の嵐に見舞われていた。その頃歌謡界を席巻していたのは「横浜銀蠅」だった。彼らは、リーゼント、黒の革ジャン、黒のサングラス、真っ白のスカーフと言う「銀蠅スタイル」で、ツッパリの象徴であり、兄貴であり、校内暴力世代のスターになった。彼らはコンサートを「集会」と呼び、会場にマイクを回して、学校や親や社会への不満を言わせた後、「自分の人生大切にしろよ」と説教するという「発言タイム」を特徴としていた。
しかし、大人の側も手をこまねいて見ているだけではなかった。そんな彼らのステージでの説教が大人の目に留まり、非行防止のポスターになり、総理大臣のパーティーに招待されるなど、大人の陣営の一員になる。ツッパリの兄貴とは言え、彼らは所詮大人でしかなかったのである。社会もツッパリを肯定し許容する時代が終わり、制度による強烈な締めつけと管理の時代に変化した。文部省は校長に「出席停止」処分の裁量権を与え、教育改革を推進していく。
そんな横浜銀蠅と入れ代わるように登場したのが「チェッカーズ」であった。彼らは、ファッションを、カラフルなジャケットと刈り上げにギザギザの前髪に一新した。そして、校内暴力の時代から、陰湿ないじめの時代が到来する。ツッパリはせつせつと自己主張をし、教師や学校に対する反権威であると同時に、生徒の権威であり、弱い者いじめをしている奴に制裁を加え生徒間の秩序を保っていた。いわばガキ大将の系譜が生きていた。しかし、大人に反抗して反撃されるより、教師の目の届かない所で、弱い生徒をいじめる方が面白いし安全だと考えるようになった。
前期の七五年〜八一年のツッパリは、激しく自己主張し、目立って、叩けば埃の出てくるような連中だった。しかし、後期の八二年〜八四年のツッパリは、成績も服装も普通で、強い連帯感もなく、教室の秩序から排除され、心に傷のある者同士が傷をなめ合うような存在に変化した。少数のツッパリだけでなく、普通の生徒も生傷を感じるようになった。チェッカーズの『ギザギサハートの子守唄』は、「何を卒業するのだろう」「わかってくれとはいわないが/そんなにおれが悪いのか」と彼らの生傷を歌った。
しかし、チェッカーズが生傷を歌ったのはそれだけで、後はラブソングばかり歌うようになった。これも大人たちが封印した結果だろうか。その代わりにその生傷という「影の部分」を掘り下げて中高生の心象を歌ったのが尾崎豊である。彼自身、校内暴力世代の中で育った。学校にいて操り人形のようになってしまっては駄目になると思い退学する。「支配からの卒業」である。そして、校内暴力のような一時的なことでは本物の自由は手に入れることができない」と言う。横浜銀蠅は実は大人の立場に立った「校内暴力」世代の偽のスターであったが、尾崎は「校内暴力」世代の心情を表現する本物のスターであり、中高生の熱い指示を得た。
一方、同じ生傷を明るく表現したのが渡辺美里である。「明日を変える」「自分だけの生き方 誰にも決められない」「マイ・リボリューション」と、明るい自己主張をする。
このような流れが進めば、中高生は歌謡曲の歌詞に自由や自分を確かめるのではなく、自分の力で自己革命を達成するのではないかと、作者は明るい未来を夢見ている。実際、自分で歌詞を作り曲をつけるシンガーが増えてきた。自分の主張を自分の言葉で表現するようになったのである。
横浜銀蠅 板書
1.「つっぱりハイスクールロックンロール」を聞かせる。
2.プリントを配布する。
3.音読させる。
4.基本問題をさせる。
5.時代を確認する。
6.横浜銀蠅は中高生にとってどんな存在だったか。
7.横浜銀蠅の変化について
1)どのように変化したか。
★中高生のアイドルから大人のスターに脱皮した。
★反権力側であった中高生の立場から、権力側についた。
★銀蠅スタイルで出席したのは最後の抵抗か、みせかけ。
2)ポスターになったりパーティーに招待された理由は。
★兄貴の立場にしろ、説教していたことにはかわりがない。
★銀蠅にも、大人と同じ視点があった。
★それでも銀蠅スタイルをしているところに中途半端な立場を保っている。
3)横浜銀蠅が変わった理由は。
8.ツッパリは時代の中でどのように変化したか。
↓
★子どもたちの自己主張は政治の力で押さえつけられた。
チェッカーズ 板書
1.「ギザギサハートの子守歌」を聞く。
2.プリントを配布する。
3.音読させる。
4.基本問題をさせる。
5.時代を確認する。
6.チェッカーズのファッションの変化は。
1)デビュー前のスタイルは。
2)どのようなスタイルでデビューしたか。
★チェッカーズ自身、革ジャンとリーゼントでデビューしたかった、レコード会社の 方針で変えさせられた。
7.中高生の変化は。
1)どのように表現しているか。
2)それまではどんな時代だったか。
3)中高生の声は。
4)どのような時代に変化したか。
5)中高生の声は。
6)ツッパリとはどんな存在だったか。
8.「前期七五〜八一年」と「後期八二〜八四年」の違いは?
1)前期七五〜八一年
2)後期八二〜八四年
9.チェッカーズの歌の中で、中高生の心情を表現している歌詞は。
尾崎豊と渡辺美里 板書
1.「卒業」と「マイ・リボリューション」を聞く。
2.プリントを配布する。
3.音読させる。
4.基本問題をさせる。
5.時代を確認する。
6.尾崎豊はどんな存在だったか。
★横浜銀蠅は兄貴だったが、尾崎は当事者なので、説得力がある。
7.尾崎のインタビューから
1)退学した理由は。
2)「校内暴力」をどのように思っていたか。
★ホンモノの自由を手に入れたいという切望がある。
8.渡辺美里はどんな存在か。
9.中高生の変化は。
↓
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横浜銀蠅 | 社会 |
・ツッパリの象徴、兄貴。 ・「校内暴力」世代のスター。 ↓ステージからの呼掛けが評価 ・非行防止のポスターに登場した。 ・国民的タレントになった。 ・総理大臣のパーティーに銀蠅スタイルで出席 |
・中高生の間で肯定され許容。 ↓ ・大人の強烈な締めつけと管理。 ・子どもたちは語らなくなる。 ・大人たちが「教育、子ども、国家 の将来」を語りだす。 |
チェッカーズ | 社会 |
・黒い皮ジャン ・リーゼント ↓ ・カラフルなチェックのジャケット・刈り上げとギザギサの前髪 |
・ツッパリ、校内暴力の時代 ・甘えを残しながらも自己主張 ・教師や学校に対する「反権威」 ・生徒たちのあいだの「権威」 ・イジメる奴を一喝した。 ↓何も語れなくなった。 ・陰湿なイジメの時代 ・教師や学校に「抗議」しなくなる。 ・大人の眼の届かない所で、恐怖にかられた生 徒を攻撃するほうが面白いし、安全である。 |
前期七五〜八一年 | 後期八二〜八四年 |
・暴走族 ・自己主張が激しい。 ・「目立ちたい」 ・単純ながら若者らしいエネルギー ・叩けばほこりでも何でも出てきた。 |
・忠生中学事件 ・強い連帯感がない。 ・教室の秩序から放り出されている。 ・心に傷ある者同士が寄り添うよう。 ・成績も普通、服装も派手ではない。 |
・尾崎豊
・渡辺美里
↓
・歌詞の中に「自由」や「自分宣言」を確かめる。
↓
・自分自身の力で現実の「私の革命」をはじめる。
該当する部分に線を引きなさい。
1)解散したのは西暦何年か。
2)スタイルは。
3)中高生のツッパリにとってどんな存在だったか。(3つ)
4)コンサートで異色だったのは何か。
5)位置に微妙なブレが見えた出来事は何か。(2つ)
6)解散する頃、文部省はどんな通達を出したか。
7)横浜銀蠅はどんな時代の変化を察知していたのか。
該当する部分に線を引きなさい。
1)デビューしたのは西暦何年か。
2)スタイルは。
3)「校内暴力」の時代からどんな時代に変化したか。
4)なぜそんな時代になったのか、中高生の意識の変化は。
5)かつてのツッパリはどんな存在だったか。
6)前期のツッパリの特徴は。
7)後期のツッパリの仲間意識は。
8)教師の話では、ツッパリはどうだったと言っているか。
9)また、今の子供の特徴はどうだと言っているか。
該当する部分に線を引きなさい。
1)尾崎豊の歌と、チェッカーズの歌の関係は。
2)尾崎はどんな存在だったか。
3)尾崎が中学の校内暴力が楽しくなかったと言っている理由は。
4)渡辺の歌と、尾崎の歌の関係は。
5)渡辺の歌の特徴は。
十代たちの「マイ・レボリューション」1 保坂展人
八三年暮、日本武道館でのコンサートを最後に「横浜銀蠅」は解散した。
リーゼントに皮ジャン、真黒のサングラスに白いスカーフという「横浜銀蠅」は、中高生のあいだに「銀蠅スタイル」と言われるファッションを流行らせた。日曜日の原宿では、銀蠅コピーのそろいのファッションできめた中学生ロックンローラーたちが銀蠅の曲で踊りまくっていた。「横浜銀蠅」はツッパリの象徴だった。肩をいからせ、長ランやドカンをきめて、教師につっかかっていく「校内暴力」世代のスターだった。
今日も元気にドカンをきめたら ヨーラン背負ってリーゼント
ツッパリ オHigh School Rockn'Roll エ
ツッパリ オHigh School Rockn'Roll エ
ソリも入れたし弁当も持ったし
(『ツッパリ オHigh School Rockn'Roll
エ登校編』
作詞・タミヤヨシユキ)
ツッパリ、という言葉が大人たちから、忌み嫌われてからも、中高生のあいたで市民権を得ていく時代のBGMが「横浜銀蠅」で、街では「ツッパリ」を可愛らしくキャラクター化した「ツッパリ文具」が人気を呼ぶようになる。
銀蠅はツッパリの兄貴だった。「横浜銀蠅」のコンサートで異色だったのは、会場にマイクをまわしてファンの中高生たちに、学校や親、社会への不満をどんどん言わせたという発言タイムだ。最後は、兄貴である銀蠅が「おまえら、いろんな不満わかるけど、自分の人生たいせつに生きろよ。とっておきのロックンロールをおくるぜ」と、メッセージして終わる。
銀蠅は自分たちのコンサートを「集会」と呼んだ。
ところが、「横浜銀蠅」の位置に微妙にブレが見えだしたのはいつのころだろうか。まず横浜市の「非行防止」のポスターに銀蠅が登場した。「シンナー、覚醒剤は絶対やるな」という銀蠅のステージの上からの呼びかけが、注目され評価されたのだ。そして「横浜銀蠅」は国民的タレントとして、中曽根総理大臣主催のパーティーにまでお呼びがかかって、銀蠅たちは、銀蠅スタイルのままに出席したのだった。
「横浜銀蠅」が解散する三週間ほど前、文部省は「出席停止」処分を現場校長の判断と裁量に委ねる情曹ニいう通達を出した。「荒れる中学生」「ツッパリ中学生」「校内暴力」などという言葉が氾濫した時代は、明らかに終息にむかっていた。
銀蠅はおそらく敏感に時代の変化を察知していたのではないか。中高生のあいだで「ツッパリ」がホップに肯定され、許容される時代が終わり、大人たちや制度の側からの強烈な締めつけと管理の時代がやってきていることを。
毎年、春になると年中行事のように「学校事件」がクローズアップされ、学校・教育をめぐる刺激的な事件がマスコミをにぎわせてきた。ところが、なぜか一九八四年の春だけは、異例の静けさにおおわれていた。この年、目立った事件の報道はなく、そのかわりに学校、教育をめぐる話題としては、中曽根首相のうたいあげる「戦後最大の教育改革」「臨調方式で徹底して大胆な教育論議を」という「臨時教育審議会」の発足へとつながっていく「文化と教育に関する懇談会」が始まっていった。
中高生のさまよえる魂の叫びであったはずの数々の事件や犠牲になった者たちの軌跡は「政治」の力学の中に収斂されていくかにみえた。子どもたちは語らず、大人たちは声高に「教育」を「子ども」を「国家の将来」を語りだす。
十代たちの「マイ・レボリューション」2
この空白の春、大人たちの知らないところで、野火のように広がる歌が中高生の心をとらえていた。『涙のリクエスト』でいきなり、ヒットチャートに飛び出した「チェッカーズ」の爆発的な快進撃だった。
歌というものが、時代の織り目に導かれながら、やがて大きな河になる情早wギザギザハートの子守歌』を唄ったチェッカーズが、中高生たちに受けとめられていくシーンは、そんな神秘をも思わせた。
八四年の芸能界はチェッカーズに明け、チェッカーズに暮れた。黒い皮ジャンのかわりにカラフルなチェックのジャケット。リーゼントの重苦しさは、刈り上げとギザギザの前髪の軽さに変わった。チェッカーズ自身、一時代前のツッパリ少年たちであった。デビュー直前までのかれらは、皮ジャンにリーゼントという例のスタイルだった。ご自慢のヘアーにハサミを入れろと言われた時、必死で抵抗したという。
泣く泣く訣別した「ツッパリ・ヘアー」だが、そのギザギザ頭が街の風俗を塗り変えることになるとは、本人たちですら思ってもみなかったことだろう。
その変化のスピードたるや、すごい勢いだった。あれよ、あれよというまに、中高生の風俗から「ツッパリ」が消えたのだ。
八三年秋、私は戸塚ヨットスクールに一度入り、出てきてから「非行」の限りをつくして荒れくるったひとりの少女と出会う。
その名をリサといった。初めて会った時には、赤いトレーナーの下にシンナーの袋を抱えて離さなかった。十三歳で戸塚ヨットに入り、暴力とリンチの恐怖に耐えてここを「卒業」し、それから待ってましたとばかりに「非行街道をつっ走った」と彼女は言う。
八四年の春、リサ中学三年生。卒業式を間近にひかえて「金髪のカーリーヘアーに長くひきずるようなスカート」という典型的なツッパリ・ファッションで決めていたリサだったが、世変わりへの予感はあったようだ。
「最近、街歩いていても、ツッパリがおらんでさみしいわ。もうきっとツッパリははやらんのだわ」
そう言ってこぼしていたリサは、それでも最後のツッパリとして「卒業」していった。
「卒業式だというけれど、何を卒業するのだろう」情巣潟Tのノートに書かれていた言葉の一片を私はなんとなくメモしておいたが、やがてそれはチェッカーズの歌詞だったことに気づく。
熱い心をしばられて
夢は机で削られて
卒業式だというけれど
何を卒業するのだろう
わかってくれとはいわないが
そんなにおれが悪いのか
ララバイ ララバイ
おやすみよ
ギザギザハートの子守り歌
(『ギザギザハートの子守り歌』作詞・康珍化)
ツッパリ仲間とともに肩を抱き合い、涙で顔をくちゃくちゃにしながら中学を卒業したリサは、二ヵ月後の五月にふいと東京に現れた。そのリサの頭を見て驚いた。なんと、ギザギザ頭だったのだ。
「これからは、これでなきゃね」というリサに、ツッパリはもうやめちゃったのかい?
と聞いてみる。
「やりたいよ。でも、ツッパリのかっこうしたやつが全然おらんもんで、やれんのだわ」と、リサははにかんだ。
かくして、街から、中高生の風俗から「ツッパリ」が一斉に消えていく。そして、あれだけマスコミを騒がした「校内暴力」も、「学校事件」も息をひそめた。窓ガラスが割れ、授業が成り立たず、ツッパリたちがのし歩いていた廊下は、いま、きれいに掃除され、スプレーで大書していったかれらのグループ名の跡も、白いペンキで塗りつぶされている。
そして、生徒たちは何も語らなくなった。
いや、語れなくなったという方が正確なのかもしれない。「俺の言い分聞いてくれよう」と、いくらかの甘えを残しながらも、せつせつと自己主張したツッパリたちはもういない。かわりに、教室の中には、陰湿なイジメの時代がやってくる。教師や学校に表立って「抗議」したり、「異議申し立て」するよりは、大人たちの眼の届かない教室の死角で、声も出ないような恐怖にかられた子を攻撃する方が面白いし、安全だ。
かつての教室の中でのツッパリというのは、教師や学校に対する「反権威」であると同時に、生徒たちのあいだの「権威」でもあった。
だから、抵抗できない状態にしておいて、やいのやいの「いじめ」をやりだすようなハンパなやつは、ツッパリどもに一喝されてしゅんとなる情曹ニいう具合のバランスが働いていた。かつてのガキ大将以来の子ども世界の秩序がそこにあった。
ただし、ツッパリも七〇年代後半の「暴走族」文化にいろどられた時期と忠生中学事件で登場したツッパリだちとでは、共通するのはファッションやポーズぐらいのもので、まったく「種族」が違うといってもいいくらいの差異があった。その差異をあえて図式化すると「前期七五年〜八一年」「後期八二年〜八四年」とここで呼んでみよう。
前期のツッパリたちは多弁で自己主張のひときわ激しい連中だった。ただただ「目立ちたい」という言葉は、単純ながらも若者らしいエネルギーを感じさせたのだ。だから、かれらの取材といっても、こんなに簡単なものはなく、ただマイクを向けるだけで相当のフカシ(誇張)も含めた、自己宣伝のセリフが溢れ出てくるのだった。
これが、後期ツッパリになると一変する。忠生中学のツッパリたちから、まとまった話を聞き出すのは一苦労だった。何せ、一メートル七〇センチを越えた立派な体格をした若者たちが、仲間のマンションの一室や、公園に集まって、やっていることといったらただひとつ。情巣^バコをふかしているということだけだった。
仲間同士のあいだにも、強い連帯感があるわけでもなく、教室の秩序から外され放り出された、心に傷ある者同士が寄り添うようにして時を過ごしていく情窓・悪犯のごとく報じられた忠生中学のツッパリたちと実際に会って話してみると、
「原宿、新宿? 怖くてそんなとこ、俺たち行けないよ。町田の街だって、この前よう、ヤーさんからのスカウトかかってよ、すみません、できません、と必死こいて謝って逃げてきたもん」
「俺たちのツッパリ? はい、みせかけだけのもんですよ。中身なんてないんだから」
かれらは、本当にタルそうだった。壁に背をもたせかけて、ダラリとよりかかって、ただマイルドセブンをふかす。
ツッパリといっても、もう教室から追放されてしまっているわけだし、硬派としての誇りがあるわけでもない。だから、もうかれらにガキ大将以来の系譜を求めることはできないのだ。だから、いじめや、陰湿な暴力に手を貸すといったことも少々出てくる。
「今だから言えるけれど、ツッパリ連中は叩けばホコリでもなんでも出てきた。けれども、今、学校で問題になっている子たちは成績も普通、服装も特に派手というわけでもない子たちで、いったい何を考えて盗みをしたり、ふいと家出をしたりするのかが、まったくつかめないんだ」という声も教師たちからあがっている。
外側にむけて、大人の社会にむけて声を限りに叫び、突撃した時代は終わった。ツッパリとは教室の少数でありながらも、時代の気分の先端を表現する「言葉」を持っている子たちだった。そのツッパリが力ずくでおさえられ、法律や制度の重圧のなかで沈黙の闇へと退いていく時、その「生傷」を感じたのは実は少数のツッパリ生徒たちだけではなく、心のなかに見えない汗をかきながら事態を見守ってきた相当に多くのマジメな生徒たちだった。
十代たちの「マイ・レボリューション」3
チェッカーズはただの一度しか「生傷」にさわった歌をうたっていない。『涙のリクエスト』以降、すべてラブソングでヒット街道をかけあがった。
尾崎豊はチェッカーズの残した影の部分を深く掘り下げて「時代の心象」を歌うことのできた存在だった。青山学院高校を中退したこの若者は、「校内暴力」世代初の表現者である。授業をろくに聞かずにノートのはじに書きつけてきた曲を、アジテーションのごとくに歌う。
行儀よくまじめなんて
クソくらえと思った
夜の校舎 窓ガラス
壊してまわった
逆らい続け あがき続けた
早く自由になりたかった
信じられぬ大人との
争いの中で
許し合い いったい何
解りあえただろう
うんざりしながら
それでも過ごした ひとつだけ解っていたこと
この支配からの 卒業 (『卒業』作詞・尾崎豊)
八四年三月、デビュー当時の彼に私はインタビューした。十七歳の尾崎豊は、マジメでシャイな青年だった。
情総mZは退学したんだってね?
先生にしてみれば、早くやっかい者を出したかったんでしょうね。三度目の停学処分を受けてその処分が解けた時に「反省の日誌」を書け、と言われましてね。たとえばだが「先生たちの恩情と学校に感謝します。学校に戻れて嬉しいです」というようなことが書けないのかって言われて情早u俺は先生にそんな媚びたこと書けない」って断ったんだ。
「俺は先生の言われたことをそのまま書くあやつり人形なんですか」と言ったら、「そうだ、あんたはあやつり人形よ」と言われて、「そうか、この学校にいたらオレはだめになるな」と思って退学届を出すことにしたんだ。
情葬学は荒れているころだったよね?
「校内暴力」も凄かった。俺自身はそうじゃなかったけど、友だちはツッパリとか悪の連中。バイク、タバコ、いろいろ一通りやったけど、全然楽しくなかった。やっぱり一時的なことでは本物の自由を手に入れることは出来ないなと思っていた。
(『学校解放新聞』第十二号)
やがて彼は、テレビや大量宣伝という手段をとらないで中高生の心のなかに確実な波紋を呼んでいく。八四年夏、「アトミック・カフェ・フェスティバル」という反核コンサートで熱演のあまり照明タワーによじのぼり、約四メートルの高さから飛び降りて足を折るというアクシデントを起こしたことによって、予定していたコンサート・ツアーは延期のやむなぎに陥ったが、逆に波紋は広がって、八五年には発売したLP『回帰線』が初登場でオリコン(音楽業界紙)の一位にランクされる。夏には大阪球場、秋には東京代々木国立競技場を数万のファンで埋めるというビック・アーティストに成長した。
一方、『マイ・レボリューション』というテレビ番組の主題歌がヒットして、尾崎の歌いこんだ影を表通りのイルミネーションに変容した渡辺美里という十九歳のシンガーも登場した。
求めていたい オMy Revolutionエ
明日を変えることさ 誰かに伝えたいよ
オMy Tears My Dreamエ 今すぐ
自分だけの生き方 誰にも決められない
君と見つめていたい
オMy Tears My Dreamエ 抱きしめたい
(『オMy Revolutionエ』作詞・川村真澄)
いつのまにか、「私自身の生き方は他の誰が指示するのではない。私自身が選ぶんだ!」という明るい自己主張が歌の中に芽生えはじめている。一時代前とくらべると「芸能」の世界で交わされる言葉と、中高生の日常意識のなかで生まれてくる言葉の距離は驚くほど近くなっている。
けっして時代のすべてを歌にゆだねて覗くことはできないにしても、学校にまつわる中高生たちの心象日記こそがヒットチャートの表裏に現れているということは言えるだろう。
学校と芸能界が次第に相互の距離を縮めて、すでに激しくクロスしはじめているとすれば、中高生たちが、やがて歌の歌詞の中に「自由」や「自分宣言」を確かめていくのではなくて、自分自身の力で現実の「私の革命」をしはじめる時が遠からず来ることだろう。
すると、学校や中高生の生活に活気が戻り、芸能の虚飾が崩れつつ双方の区別がつかなくなるかもしれない。時代を映す流行り歌を聴きながら、予想よりはるかに激しく、中高生の意識下の地下水に「大変化・世変わり」の兆しが浮き出ていると、私はひそかに感じている。