無常ということ

小林秀雄


 筆者は、『一言芳談抄』の「なま女房が、人間の生き死には定まらない不確かなものなので現世のことはどうでもいいが,どうか後世がけは救ってほしい」はいう一文を、突然心に浮かび、心にしみわたった。あの時、自分は何を感じ何を考えていたのか。取るに足りない幻想だと解釈するのは便利であるが、そういう考えは信用できない。
 『一言芳談抄』が『徒然草』に匹敵する作品だという古典文学上の解釈はつまらないことである。あの美しさがどこかへ消えたのか、自分の心身のある状態だけが消え去ったのか。そんな子どもらしい疑問、美学の萌芽ともいうべ状態には反抗しないが、美とは何かを追究する美学に行き着くつもりはない。
 あの一文を思い出した時、余計なことは何一つ考えなかった、ただ満ち足りた時間、自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている時間であった。満ち足りた時間である。うまく思い出しているのでなく、鎌倉時代を実に巧みに思い出していた。
 歴史の新しい解釈という思想は、魅力ある手管めいたものを備えているので、逃れるのが難しい。一方、歴史は動かし難い形で、新しい解釈などにはびとともせず、いよいよ美しく感じられる。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい。生きている人間は、何を考えているのか何を言いだすのかわからないので、仕方のない代物である。一方、死んだ人間は、はっきりとしていてたいしたものだ。死んでしまった人間は、動くことのない人間の形をしているが、生きている人間は絶えず変化し続ける一種の動物である。
 歴史には死人しか現れず、動じないので美しい。過去の思い出(歴史)が美しいのは、過去が余計な思いをさせてからである。思い出が僕らを一種の動物であることから救うとは、思い出が僕らに余計なことをあれこれ考えさせず、動じない存在にしてくれるからである。記憶するだけでなく、思い出さなければならない。
 上手に思い出すことが、過去から未来に向けてただなんとなくつながっている時間という面白みのない思想から逃れる唯一の手段である。この世が無常であることは、動物的状態である。なま女房はそれに気づいて現世はどうでもいいが後世に望みを託したが。常なるものを見失った現代人は無常ということがわかっていない。


1.【指】学習プリントの漢字と語句を確認する。
 細勁  遜色  術  萌芽  洒落  巧み  手管  脆弱  合点  堕した
 代物  蒼ざめる
2.語句の意味を調べなさい。
細勁 細くて強い                              
判然 はっきりと明らかになる
遜色 見劣り。                               
萌芽 新しい物事が起こりはじめること。                   
手管 人をだます方法。                           
脆弱 もろくて弱いこと。                          
合点 同意すること。                            
考証 昔のことを調べ考え、証拠を引いて説明すること。
推参 自分のほうから出かけて行くこと。                   
代物 人や物を低く評価して言う。
のっぴきならない 退くことも避けることもできない。どうにもならない。
3.【指】通読する。
4.【指】段落分けをする。
 ・第一段落(はじめ〜二三七6)
 ・第二段落(二三七7〜二三八13)
 ・第三段落(二三八14〜二四〇5)
 ・第四段落(二四〇6〜おわり)
 

第一段落(はじめ〜二三七6)

1.【説】『一言芳談抄』を訳す。
 ・ある人が言うことには、比叡山の御社に偽って巫女の真似をする年若い女房が、十禅寺の前で、夜遅く人が静まってから、鼓を打って、心を澄ました声で、どうでもかまいません、どうぞどうぞと歌っていた。その心を人から無理やりに聞かれて言うには、人間の生死は定めがたいというありさまを考えると、現世のことはどうあってもかまいません。なにとぞ後世ではお救いくださいと申し上げたのです。ということだった。
2.【L2】なぜ、現世はどうでもよいのか。
 ・生死は無常なので仏の力でもどうすることもできないから。
3.【L2】なぜ、後世は救ってほしいのか。
 ・後世は仏の世界だから仏の力でなんとかなる。
4.【L1】比叡山で思い出した時の様子は。
 ・突然、文字ではなく絵として心に浮かぶ。
 ・絵の線のように一つ一つはっきりと心にしみわたった。
5.【L1】その時の何が気になったのか。
 ・自分は何を感じ、なにを考えていたのか。
6.【L1】便利な考えとは。
 ・取るに足りない幻覚が起こったにすぎない。
 ・しかし、そういう便利な考えは信用できない。
7.【説】何を書くかはっきりしないままに書き始めている。
 ・いい加減な態度のようであるが、主題と結びついている。
 ・新しい味方や解釈でなく、思いつくままに書く。
 

第二段落(二三七7〜二三八13)

1.【L1】つまらぬこととは。
 ・『一言芳談抄』は「徒然草」のうちにおいても遜色ない。
 ★後で出てくる解釈に当たる。
2.【L1】子どもらしい疑問とは。
 ・文章の美しさが消えてしまったのか、こちらの心身のある状態だけが消え去ったのか。
3.【L1】子どもらしい疑問を言い換えると。
 ・美学の萌芽とも呼ぶべき状態。
4.【L3】美学の萌芽と美学の違いは。
 ・美学の萌芽は、美に対する自分の体験。
 ・美学は、美を理論化すること。
 ★後で出てくる解釈に当たる。
5.【L2】文章を思い出した時の様子は。
 ・空想などしていなかった。
 ・余計なことを何一つ考えなかった。
 ・ある満ち足りた時間。
 ・自分が生きている証拠だけが充満し、そのひとつひとつがはっきりとわかっているような時間。
 ・鎌倉時代を、実に巧みに思い出していた。
 ★「思い出す」が後でキーワードになる。
 

第三段落(二三八14〜二四〇5)

1.【L2】対比されている3組は。
 ・解釈と歴史
 ・生きている人間と死んだ人間
 ・思い出すことと記憶すること。
2.解釈について
 1)【L1】なぜ、解釈から逃れるのが難しいのか。
  ・魅力ある手管を備えている。
   ・手管とは、人をだます方法。否定的。
 2)【L2】なぜ、魅力的なのか。
  ・自分の考え方で、歴史に次々と新しい解釈を加えることができるから。
  ・絶えず新しくなるから。変化するから。
 3)【L2】変化することを言い換えると。
  ・無常(常でないこと)
4.歴史について
 1)【L1】歴史の特徴は。
  ・動かしがたいもの。
  ・新しい解釈ではびくともしない。
 2)【説】事実なので、変化しない。
 3)【L3】変化しないことを何と言うか。「無常」の反対は。
  ・常住
 4)【説】動じないものは美しい。
5.生きている人間について
 1)【L1】特徴は。
  ・しかたのない代物。
 2)【L1】なぜ、しかたないのか。
  ・何を考えているのか、言いだすのか、しでかすのかわからない。
 3)【L2】生きている人間は、無常か、常住か。
  ・変化(成長)するから、無常である。
 4)【L1】生きている人間は何と言えるか。
  ・人間になりつつある一種の動物。
6.死んだ人間について
 1)【L1】特徴は。
  ・はっきりしっかりしている。
  ・人間の形をしている。
 2)【L2】死んだ人間は、無常か、常住か。
  ・変化しないので、常住である。
 3)【説】歴史には死んだ人間しか出てこない。歴史は常住だから美しい。だから、死ん  だ人間も美しい。
7.思い出について
 1)【L2】第二段落での思い出に当たる部分は。
  ・余計なことは何一つ考えなかった。
  ・ただある満ち足りた時間。
  ・自分が生きている証拠だけが充満している時間。
 2)【L1】なぜ、思い出は美しいのか。
  ・過去を飾るからでなく、過去が余計な思いをさせないから。
  ・過去とは歴史である。
  ・歴史は変化しない、常住だから、美しい。
  ・だから、美しい過去をそのまま思い出すので、美しい。
 3)【L3】なぜ、思い出は僕らを一種の動物であることから救うのか。
  ・僕らは生きている人間である。
  ・生きている人間は一種の動物である。
  ・一種の動物は、無常であり、不安定な存在である。
  ・思い出すことは、生きている証拠だけが充満している時間である。
  ・だから、思い出すことは、無常な一種の動物である僕らに、満ち足りた時間を与え、
   救ってくれる。
 

第四段落(二四〇6〜おわり)

1.「過去から未来に向かって飴のように延びた時間という蒼ざめた思想」について
 1)【L3】「飴のように延びた」とはどんな様子か。
  ・起伏がなく、変化が乏しく、ただだらだらと続いている。
 2)【L3】なぜ、「蒼ざめた」なのか。
  ・だらだらと続く間に様々な解釈が付け加えられるから。
2.【L3】なぜ、思い出すことがその思想から逃れる唯一の方法なのか。
 ・思い出すことは、突然の出来事である。
 ・だから、過去から未来に延びた時間を断ち切ることができる。
3.「現代人は、鎌倉時代のなま女房ほどにも無常ということがわかっていない」につい て
 1)【L2】なま女房の生き方は。
  ・生死は無常なのでどうすることもできない。
 2)【L2】現代人の生き方は。
  ・余計な解釈ばかりしたり妄想にとらわれたりしている。
  ・常なるものを見失った。



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学習の準備
1.読み方を書きなさい。
 細勁  遜色  術  萌芽  洒落  巧み  手管  脆弱  合点  堕した 代物  蒼ざめる
2.語句の意味を調べなさい。
細勁
判然
遜色
萌芽
手管
脆弱
合点
考証
推参
代物
のっぴきならない

学習のポイント
1.『一言芳談抄』を訳す。
2.この一文を思い出したときの様子を理解する。
3.歴史と歴史の新しい見方や解釈の違いを理解する。
4.生きている人間と死んだ人間の違いを理解する。
5.思い出が、僕らを一種の動物であることから救うという意味を理解する。
6.過去から未来に向かって飴のように延びた時間という青ざめた思想の意味を理解する。
7.現代人は、鎌倉時代のなま女房ほどにも無常ということがわかっていないの意味を理解する。