ミロのビーナス 2018
生徒はミロのビーナスを知っているか。そこから始まる。知らないものを知っていると思って授業しても齟齬が生じるだけである。知らなければ、まず説明する必要がある。
ウィキペディアによると、ミロのヴィーナスはギリシア神話におけるアプロディーテーの像と考えられている。高さは二〇三cm。材質は大理石。紀元前一三〇年頃に作成されたと考えられている。作者はわからない。一八二〇年に小作農によって、オスマン帝国統治下のエーゲ海のミロス島で発見された。トルコ人の官吏に没収され、フランス海軍提督がトルコ政府から買い上げ、ルイ十八世に献上され、ルーヴル美術館に寄付され、現在に至る。ルーヴルを出て海外へ渡ったことは、一九六四年東京と京都(京都市美術館)で行われた特別展示のみである。両腕復元像は定説と呼べるほど成功しているものはない。俗説として、林檎を手にしているという話が広く伝わっている。
教科書にも写真があるが、図書館から美術書を借りて見せるのがよいだろう。生徒に感想を聞いてみる。
第一段落
ミロのビーナスを見ると、「魅惑的であるためには両腕を失っていなければならなかった」という「不思議な思い」にとらわれる。「両腕を失う」というマイナス要因が「魅惑的」というプラス要因に転換している。そこには、「美術品の運命」が協力している。
両腕を「失う」を言い換えると、「忘れてきた」「隠してきた」となる。「忘れる」は無意識であり、「隠す」は意識的である。それは、「自分の美しさのため」「よりよく国境を渡ってゆくため」「よりよく時代を超えてゆくため」である。空間的、時間的な美の伝播である。このことを「特殊から普遍への巧まざる跳躍」、「部分的な具象の放棄によるある全体性への偶然の肉薄」と表現している。両腕のある状態が「特殊」「部分的な具象」、両腕のない状態を「普遍」「全体性」である。
これは「逆説」ではなく筆者の「実感」である。ミロのビーナスの残された胴体は、「美というものの一つの典型」「均整の魔」である。それに比較して、失われた両腕は、「あるとらえ難い神秘的な雰囲気」「生命の多様な可能性の夢」「存在すべき無数の美しい腕への暗示」「微妙な全体性への羽搏き」「不思議に心象的な表現」である。両腕を失った結果、その腕を想像することによって無数の美しい腕を獲得した。
第二段落
筆者は、復元案を正当であり自分の実感を勝手だと認めた上で、復元案を「興ざめ」「滑稽」て「グロテスク」と否定する。一度失われているもの感動したら、失われていないものに感動することはできない。それは両腕の有無という「量の変化」ではなく、「おびただしい夢をはらんでいる無」と「限定されてあるところのなんらかの有」の「質の変化」である。
「芸術というものの名」において、さまざまな実証的想像的な復元案も、「恐ろしくむなし」く、「一種の怒り」で否認したいと思う。
第三段落
「喪失の有無」ではなく「喪失の対象」という意味で考える。失われたものは「両腕」でなければならなかった。手には「人間存在における象徴的な意味」があり、「自分と世界との、他人との、あるいは自己との」「千変万化する交渉の手段」「関係を媒介するもの」「原則的な方式そのもの」であるからである。ミロのビーナスは、腕の「欠落」によって「可能なあらゆる手」を獲得するという「不思議なアイロニー」を提示する。
1.【L4】ミロのビーナスの写真を見せて疑問に思うことをあげさせる。
2.【指】形式段落に1〜7の番号を付ける。
第一段落(1〜3)
1.【指】音読する。
2.【指】学習プリントを配布する。
3.【確】学習プリントの漢字の読みを確認する。
・魅惑 普遍 巧まざる 具象 逆説 弄す
4.【確】学習プリントの語句の意味を確認する。
・普遍=ある範囲のすべての事物に共通する性質。
・具象=はっきりした姿・形を備えていること。
・肉迫=相手に接するほど迫ること。
・逆説=一見、真理にそむいているようにみえて、実は一面の真理を言い表している表現。
・弄す=もてあそぶ。思うままに操る。
・心象=心の中に描き出される姿・形。心に浮かぶ像。イメージ。
5.設問に解答しながら読解する。
■「不思議な思い」について
1)【L1】筆者がミロのビーナスを眺めながらとらわれた「不思議な思い」とは何か。
・彼女がこんなにも魅惑的であるためには、両腕を失っていなければならなかった。
2)【L2】なぜ「不思議」なのか。
・両腕の喪失は欠陥であるのに、逆に魅惑を感じているから。
3)【L1】「不思議な思い」に微妙に協力している「美術作品の運命」とは何か。
・制作者のあずかり知らぬなにものか。
・制作者が意図しなかったこと。
4)【L2】なぜミロのビーナスを「彼女」と呼ぶ擬人法を使っているのか。
・愛情を込めている。
■両腕の喪失について
●【説】ミロのビーナスが発見される経緯を説明する。
・ミロのヴィーナスは、1820年4月8日に小作農であったヨルゴス(Yorgos)によって、オスマントルコ統治下のエーゲ海のミロス島で発見された。
・彼は最初、官吏に見付からぬようにヴィーナス像を隠していたが、トルコ人の官吏に発見され没収された。
・後に、フランス海軍提督ジュール・デュモン・デュルヴィルは、この像を見て価値を認め、フランス大使に頼みこんでトルコ政府から買い上げた。
・修復された後に、ルイ18世に献上された。
・ルイ18世は、ルーヴル美術館に寄付し、現在でもそこで管理されている。
★ルーヴルを出て海外へ渡ったことは、一九六四年東京と京都(京都市美術館)で行われた特別展示のみである。
5)【L1】両腕を「失った」の言い換えは。
・うまく忘れてきた。
・無意識的に隠してきた。
★「もっと的確にいうならば」に注目する。
6)【L2】「忘れる」と「隠す」の違いは。
・「忘れる」は無意識的。
・「隠す」は意識的、意図的。
★意図的であるのに「無意識的」と表現し、意図性を隠蔽している。
7)【L1】何のために両腕を隠したのか。3つ。
・自分の美しさのため
・よりよく国境を渡っていくために
・よりよく時代を超えていくために
8)【L2】「国境を渡る」「時代を超える」とはどういうことか。
・空間や時間を越える。
・世界中のどこでも、いつの時代でも、自分の美しさを見てもらう。
【L2】「このこと」の指示内容は。
・空間や時間を超えるために両腕を失くしたこと。
9)【L1】筆者は「このこと」をどう思っているのか。2つ。
・特殊から普遍への巧まざる跳躍
・部分的な具象の放棄による、ある全体性への偶然の肉迫
10)【L3】「特殊から普遍への巧まざる跳躍」「部分的な具象の放棄による、ある全体性への 偶然の肉迫」とはどういうことか。
・特殊=一つの限定されたもの。普遍=多くのものに当てはまるもの。
・特殊=部分的な具象=両腕のある状態。
・普遍=ある全体性=両腕が失われた状態。
・両腕がある状態から、失った状態になることによって、たまたま魅惑的になった。
■ミロのビーナスの美しさについて
11)【L1】逆説の意味は。これを使ったことわざは。
・一見、真理にそむいているようにみえて、実は一面の真理を言い表している表現。
・急がば回れ。負けるが勝ち。
★アキレスと亀
・あるところにアキレスと亀がいて、徒競走をすることとなった。しかしアキレスの方が足が速いのは明らかなので亀がハンディキャップをもらって、いくらか進んだA地点からスタートすることとなった。アキレスは永遠に亀を追い抜けない。
・スタート後、アキレスがA地点に達した時には、亀はB地点まで進んでいる。アキレスがB地点に達したときには、亀はC地点まで進んでいる。結果、いつまでたってもアキレスは亀に追いつけない。
★『すべてのクレタ人は嘘つきだ』とクレタ人が言った。
・『クレタ人は嘘つきだ』が真ならば,クレタ人が発した『クレタ人は嘘つきだ』自体が嘘で,クレタ人は嘘をつかないことになり,『クレタ人は嘘つきだ』が真という仮定と矛盾する.
・『クレタ人は嘘つきだ』が偽ならば,クレタ人は嘘をつかないことになる.つまり,『クレタ人は嘘つきだ』が真となってしまい,『クレタ人は嘘つきだ』が偽という仮定と矛盾する.
・『クレタ人は嘘つきだ』の真偽がいずれであると仮定しても,矛盾が起こる.
12)【L1】残された胴体の美を何と言っているか。3つ。
・高雅と豊満の驚くべき合致。
・美というものの一つの典型。
・均整の魔。
13)【L1】失われた両腕の美を何と言っているか。5つ。
・とらえがたい神秘的な雰囲気
・(いわば)生命の多様な可能性の夢
・(つまり)存在すべき無数の美しい腕への暗示(という)
・ふしぎに心象的な表現
・微妙な全体性への羽ばたき
3.板書する。
第一段落(1〜3)
1.不思議な思い+美術作品の運命
ミロのビーナス
・彼女が魅惑的であるためには、両腕を失っていなければならなかった。
+ −
2.両腕を失った
うまく忘れてきた=無意識的
無意識的に隠してきた=意識的
↑
・自分の美しさのため
・よりよく国境を渡っていくために=空間
・よりよく時代を超えていくために=時間
↓
・特殊から普遍への巧まざる跳躍
腕アリ 腕ナシ
・部分的な具象の放棄による、ある全体性への偶然の肉迫
腕アリ 腕ナシ
3.ミロのビーナスの美しさ
残された胴体 │失われた両腕
───────────────┼─────
・高雅と豊満の驚くべき合致 │・とらえがたい神秘的な雰囲気
・美というものの一つの典型 │・生命の多様な可能性の夢
・均整の魔。 │・存在すべき無数の美しい腕への暗示
│・ふしぎに心象的な表現
│・微妙な全体性への羽ばたき
第二段落(4〜5)
0.【W】ミロのビーナスの写真に両腕を書かせる。
1.【指】音読する。
2.【指】学習プリントを配布する。
3.【確】学習プリントの漢字の読みを確認する。
滑稽 林檎 変幻自在 千変万化 媒介 讃えた 述懐 厳粛 担う 奏でる
4.【確】学習プリントの語句の意味を確認する。
・グロテスク=ひどく異様なさま。怪奇なさま。
・変幻自在=思うままに姿を変えて、現れ消えること。
・千変万化=さまざまに変化すること。
・媒介=両方の間に立って、なかだちをすること。
・述懐=思いをのべること。
・アイロニー=皮肉。反語。
5.設問に解答しながら読解する。
■両腕の復元について
1)【L1】筆者はミロのビーナスの復元案をどう思っているか。2つ。
・興ざめたもの
・滑稽でグロテスクなもの。
★「もちろん」でその正当性と自分の身勝手を認めている。
2)【L1】なぜ、そう思うのか。
・失われていることにひとたび心から感動した場合、もはや以前の失われていない昔に感動することはほとんどできない。
3)【L1】なぜ、感動できないのか。
・量の変化ではなく、質の変化であるから。
4)【L2】「量の変化」とは何から何への変化か。
・両腕がない状態から、ある状態への変化。
・物質的で現実的な変化。
5)【L2】「質の変化」とは何から何への変化か。
・「限定されてあるところのなんらかの有」から「おびただしい夢をはらんでいる無」
・心理的な美意識の変化。
6)【L2】「限定されてあるところのなんらかの有」とは何か。
・両腕があることによって、美が一つに限定されてしまう。
7)【L2】「おびただしい夢をはらんでいる無」とは何か。
・両腕がないことによって、無数の理想的な美を想像できる。
■ミロのビーナスの復元案について
8)【L1】どんな復元案があるか。
・左手の手のひらに林檎を持っていた。
盾を持っていた。
笏を持っていた。
・入浴前後の羞恥の姿。(胸や前を隠している)
・群像の一つで、左手は恋人の肩に置かれていた。
●【説】復元案について説明する。
・画像を見せる。
・様々な芸術家や科学者が欠けた部分を補った姿を復元しよう試みているが、現在のところ、定説と呼べるほど成功しているものはない。しかしながら、俗説として、林檎を手にしているという話が広く伝わっている。この林檎とはトロイア戦争の際、アテナとヘラを出し抜いてパリスから得た黄金の林檎のことである。アドルフ・フルトヴェングラーによる復元像でも、やはり、左手に林檎を持っている。
9)【L1】筆者は復元案をどのように感じているのか。
・おそろしくむなしい。
・一種の怒り
10)【L1】なぜそう感じるのか。
・失われていること以上の美しさを生み出すことができないから。
・芸術の名において。
11)【L3】芸術とは何か。
・見るものに多くの美の可能性を与えるもの。
3.板書する。
第二段落(4〜5)
・両腕の復元案
したがって=順接
・滑稽でグロテスクなもの。
もちろん=譲歩
・正当な試み
しかし=逆接・
○失われている現在への感動
×失われていない昔への感動
なぜなら=理由
×量の変化
○質の変化
・おびただしい夢をはらんでいる無=失われた両腕
↓
・限定されてあるところのなんらかの有=復元案
↓
・おそろしくむなしい。
・一種の怒り
↑
・芸術の名において。
第三段落
1.【指】音読する。
2.失われたものが両腕でなければならない理由について
1)【L1】筆者が別の意味で興味があることは。
・失われているものが、両腕以外の何ものかであってはならないこと。
2)【L1】「手の人間存在における象徴的な意味」とは何か。3つ。
・世界との、他人との、自己との、千変万化する交渉の手段であること。
・(言い換えるなら)そうした関係を媒介するもの
・(あるいは)その原則的な方式
●【説】『ノンバーバル事典』で手の象徴的な意味を紹介する。
・例えば、握手をしたり、手振りで表現したり、自分の胸に手を当てて考えてみたりする。
3)【L1】「不思議なアイロニー」とは《何》か。
・欠落によって、逆に、可能なあらゆる手への夢を奏でる。
3.板書する。
・なぜ、失われたものが両腕でなければならないのか?
・世界や他人や自己との千変万化する交渉の手段
|
・あらゆるものと交渉できる
↓
・不思議なアイロニー
・欠落によって、可能なあらゆる手への夢を奏でる