ミロのビーナス
08
 
清岡卓行


第一段落
 まず、「彼女がこんなにも魅惑的であるためには両腕を失っていなければならなかったのだ」に注目する。それは筆者の思いが端的に述べられている箇所であるからである。その思いは「不思議な思い」であるそこで浮かぶ疑問はなぜ「不思議」なの か。元来、芸術作品は完全であってこそ芸術的価値がある。「両腕を失う」というマイナス要因が「魅惑的」というプラス要因に転換しているからだ。それはさらに「美術作品の運命」という上位概念に言い換えられる。さらに平易なあいまいな表現で 「制作者のあずかり知らぬ何ものか」と言い換えられる。小説の入試問題などは、作者でも正解が出せないことがあるのは好例である。ここではまだ「魅惑的」とはどのような状態を指すのかが明らかにされていないが、今後の論点の一つになる。また、ミロのビーナスを「彼女」と擬人化していることも注意すべきである。単なる親密化というだけでなく、次段でミロのビーナスが人間のように振る舞っている擬人化の伏線にもなっている。要約すると、『ミロのビーナスが、両腕を失ったにもかかわらず魅力的であるのは不思議であるが、それは制作者すらあずかり知らぬ美術作品の運命である』
 「彼女」が発見されルーヴル美術館に至るまでの経緯が書かれ、両腕の喪失を「生臭い秘密の場所にうまく忘れてきた」「自分の美しさのために、無意識的に隠してきた」と言い換える。「忘れる」「隠す」はミロのビーナスを一つの人格としての人格を持った「彼女」と擬人化している。さらに喪失した意図を、「自分の美しさのために」「よりよく国境を渡ってゆくため」 「よりよく時代を超えてゆくため」と言い換えている。空間的、時間的な美の伝播を表現しようとしている。「生臭い秘密の場所」という比喩は、現実と言う意味でありそこから夢の世界へ飛躍する。「このこ と」の指示内容は「両腕の喪失によって魅惑的になる」であり、それを抽象化して 「特殊から普遍への巧まざる跳躍」「部分的な具象の放棄による、ある全体性への偶然の肉薄」と言い換えている。前者は端的であり、後者はより詳細であるが内容は抽象的である。両腕の喪失を「特殊」「部分的な具象」と抽象化し、「魅惑」を「普 遍」「全体性」と抽象化しているが、その具体的な内容はまだ示されていない。
 「両腕の喪失によって魅惑的になる」は筆者の論理的レトリックとしての「逆説」ではなく、実際にそう感じた「実感」であると断り書きを入れる。実感はその人の主観であり、他人の評価が入り込むことを拒絶する。その分、表現者の責任が大きくなり、説明する責任を負う。「魅惑」の説明として、まず多くの人が認める「美というものの一つの典型」であるミロのヴィーナスの「高雅と豊満の驚くべき合致」「均整の魔」を確認する。その上で、「ふと気づくならば」と筆者独自の気づきとして、失われた両腕の魅力を、「あるとらえ難い神秘的な雰囲気」「生命の多様な可能性の 夢」「存在すべき無数の美しい腕への暗 示」「微妙な全体性への羽搏き」「不思議に心象的な表現」と表現する。いずれも、実際の二本の腕を失った結果、その腕を想像することによって無数の美しい腕を獲得することができて「魅惑的」になったのである。想像の美は無限に広がり、想像する人の最高の美となる。

第二段落
 想像した美しい腕を持つミロのビーナスこそ最高である以上、すべての復元案を否定される。それは、もともとあった両腕である「限定されてあるところのなんらかの有」を喪失したという「量の変化」ではなく、両腕を喪失した結果「おびただしい夢をはらんでいる無」という「感動」を獲得した「質の変化」である。ここでは、両腕のある状態とない状態が対比され、対照的な言葉で表現されている。
 筆者は今考えられている実証的想像的な復元案を挙げるが、失われている以上の美を感じられないので「恐ろしくむなしい気持ち」になる。それが「芸術」である。ここでいう芸術の根幹をなすものは美への想像である。
第三段落
 ここで、観点が変わる。ここまでは喪失の有無であったが、今度は喪失の対象である。失われたものは両腕でなければならなかった。その理由は、「手というものの人間存在における象徴的な意味」が、自分と「世界との、他人との、あるいは自己と の」「千変万化する交渉の手段」「関係を媒介するもの」「原則的な方式そのもの であるからである。その手の「欠落によって、逆に、可能なあらゆる手への夢を奏でる」という「不思議なアイロニー」を呈示する。


1.【指】学習プリントを配布して宿題にする。
2.【確】学習プリントの漢字の読みを確認する。
 ・魅惑 生臭い 普遍 巧まざる 跳躍 具象 逆説 弄す 羽搏き 滑稽 掌 羞恥
  損なう 変幻自在 千変万化 媒介 讃えた 述懐 厳粛 担う 奏でる
3.【確】学習プリントの語句の意味を確認する。
 ・特殊=限られた範囲のものにしかあてはまらないこと。
 ・普遍=ある範囲のすべての事物に共通する性質。
 ・具象=はっきりした姿・形を備えていること。
 ・肉薄=相手に接するほど迫ること。
 ・逆説=一見、真理にそむいているようにみえて、実は一面の真理を言い表している表現。
 ・弄す=もてあそぶ。思うままに操る。
 ・心象=心の中に描き出される姿・形。心に浮かぶ像。イメージ。
 ・グロテスク=ひどく異様なさま。怪奇なさま。
 ・おびただしい=程数や量が非常に多い。ものすごい。
 ・変幻自在=思うままに姿を変えて、現れ消えること。
 ・千変万化=さまざまに変化すること。
 ・媒介=両方の間に立って、なかだちをすること。
 ・述懐=思いをのべること。
 ・アイロニー=皮肉。あてこすり。反語。逆説。
4.【説】この後、小論文を書いてもらう。自分が書くことを意識しながら読解していく。
5.【指】形式段落に1〜7の番号を付ける。
6.【指】全文、ペアリーディングさせる。
7.【L3】指名して、要点を答えさせる。
 ・ミロのビーナスは、両腕を失うことによって美を獲得した。
 ・復元案は受け入れられない。
 ・失われるのは両腕でなければならなかった。
 ★いきなりではあるが、3学期になるので、敢えて試してみた。
8.【説】筆者の主張はこれだけである。これだけのことを読者にうまく伝えるために、5頁   からなる評論を書いた。

第一段

1.【指】1〜2を範読し、キーワード、キーセンテンスに線を引かせる。
2.【指】ペアになって、どこに引いたか交流する。
3.「不思議な思い」について
 1)【L1】筆者がミロのビーナスを眺めながらとらわれた「不思議な思い」とは《何》か。
  ・彼女がこんなにも魅惑的であるためには、両腕を失っていなければならなかった。
  ★断定的な表現に注意する。
 2)【L1】「彼女」とは誰か。
  ・ミロのビーナス。
 3)【L2】「彼女」と呼ぶ《理由》は。
  ・愛情を込めている。
  ★次の擬人法の布石であるが、ここではこれで止める。
 4)「不思議」である《理由》について
  1)【説】不思議とは矛盾するものがあるから。
  2)【L2】魅惑的なものとは《何》か。
   ・完全、完璧なもの。
  3)【L2】失われた両腕は《どう》か。
   ・欠陥、不完全なもの。
  4)【L2】不思議である《理由》は。
   ・両腕の喪失は欠陥であるのに、完全なもの対する魅惑を感じているから。
  ★喪失と魅惑の対立点を明確にする。
 5)【確】「そこには」の《指示内容》。
  ・不思議な思い。
 6)【L1】そこにはあるものはなった《何》か。
  ・美術作品の運命。
 7)【L1】美術作品の運命の《言い換え》は。
  ・制作者のあずかり知らぬ何ものか。
 8)【説】「何ものか」という曖昧な表現の意味を明らかにすることが、この評論を読解して  いく目的になる。
 9)【L3】「制作者のあずかり知らぬ何ものか」とは《どういうこと》か。
  ・美術作品は完成して鑑賞者の目に触れると、その価値や評価は制作者の意図を離れて、  鑑賞者のものになる。
  ★一般化する。
 10)【L3】ミロのビーナスに当てはめて説明すると《どういうこと》か。
  ・両腕を失って魅惑的になったことは、制作者の意図したことではない。
  ★個別化する。
 11)【L4】同じような例は。
  ・例えば、入試に出題される小説は、作者でも正解が出せないことがある。
  ★凡化する。

4.両腕の喪失について
 1)【説】ミロのビーナスが発見される経緯を説明する。
  ・ミロのヴィーナスは、1820年4月8日に小作農であったヨルゴス(Yorgos)によって、オスマントルコ統治下のエーゲ海のミロス島で発見された。彼は最初、官吏に見付からぬようにヴィーナス像を隠していたが、トルコ人の官吏に発見され没収された。後に、フランス海軍提督ジュール・デュモン・デュルヴィルは、この像を見て価値を認め、フランス大使に頼みこんでトルコ政府から買い上げた。これは修復された後に、ルイ18世に献上された。ルイ18世は、これをルーヴル美術館に寄付し、現在でもそこで管理されている。
 2)【L1】「両腕を失った」の《言い換え》は。
  ・生臭い秘密の場所にうまく忘れてきた。
  ・無意識的に隠してきた。
  ★擬人化を確認する。「彼女」と表現した意図を明らかにする。
 3)【L3】「生臭い」とは《どういうこと》か。
  ・欲望・利害などがからんでいるさま
  ・現実味がある。
  ・両腕を忘れた胴体は、現実世界から離れ、聖なる世界のものになった。
 4)【L2】「失う」と「忘れてきた」「隠してきた」の《違い》は。
  ・ビーナスに生命があり、自分の意志でそうしたように表現している。
  ・「隠す」は「忘れる」より意図的である。
  ★言い換えの差異を考える。
 5)【説】「隠す」という意図的な行為を「無意識」にしているところに、不思議さがある。
  ★意味の対照的な語に注意させる。
 6)【L1】両腕を隠した《理由》は。
  ・自分の美しさのため
 7)【L1】「自分の美しさのため」の《言い換え》は。
  ・よりよく国境を渡っていくために
  ・よりよく時代を超えていくために
 8)【L2】「国境を渡っていく」「時代を超えていく」とは《どういうこと》か。
  ・空間や時間を越える。
  ・世界中のどこでも、いつの時代でも、自分の美しさを見てもらう。
  ★比喩を読解する。
 9)【確】「このこと」の《指示内容》。
  ・魅惑的であるためには、両腕を失っていなければならなかったこと。
 10)【L1】「このこと」をどう思ったのか。《言い換え》
  ・特殊から普遍への巧まざる跳躍
  ・部分的な具象の放棄による、ある全体性への偶然の肉薄
 11)【L2】「特殊」とは《何》か。
  ・両腕がある状態。
  ・一つの固定した、目の前の具体的な美しさ。
  ★両腕のない状態を「特殊」と誤解しやすい。
 12)【L2】「部分的な具象」とは《何》か。
  ・両腕
 13)【L2】「普遍」「ある全体性」とは《何》か。
  ・両腕を失って魅惑的になった状態。
 14)【L3】両腕を喪失したのに、「普遍」「全体性」を獲得した《理由》は。
  ★欠落した状態が、普遍、全体であるのはおかしい。
  ★ここでは答えが出ない。問題提起としての発問になる。
 15)【説】「巧まざる跳躍」「偶然の肉薄」は無意識であることの表現。
  ★11)〜15)は具体化

5.【指】3を範読し、キーワード、キーセンテンスに線を引かせる。
6.ミロのビーナスの美しさについて
 1)【確】ここまでの内容は、ミロのビーナスは両腕を失ったから魅惑的になった。
 2)【L2】逆説と実感の《違い》は。
  ・逆説は、理性によって論理的に考えたもの。
  ・実感は、感性によって直観的にとらえたもの。
 3)【L3】筆者は実感を強調する《理由》は。
  ・清岡卓行は、詩人であり、自分の感受性を信じた。
 4)【L2】この形式段落では、2つの美について書かれているが、2つ目の初めは《何》か。
  ・しかも、それらに比較して
  ★大きく全体を把握させる。
  ★「しかも」という添加の接続詞に注目させる。
 5)【L2】それぞれは、《何》についての美か。
  ・一つ目は、残された胴体の美。
  ・二つ目は、失われた両腕の美。
 6)【L1】一つ目の美は《何》か。また、《言い換え》は。
  ・高雅と豊満の驚くべき合致
  ・美というもののひとつの典型
  ・均整の魔
 7)【説】写真と記述に沿って、実演を交えながら、具体的に説明する。
  ・胸から腹のくねり。S字ライン。
  ・背中の広がり。
  ・モデル立ち。
 8)【L1】それに対する、失われた両腕の美は《何》か。《言い換え》は。
  ・とらえがたい神秘的な雰囲気
  ・生命の多様な可能性の夢
  ・存在すべき無数の美しい腕への暗示
  ・不思議に心象的な表現
  ・微妙な全体性へのはばたき
 9)【説】「ふと気づくならば」と冒頭の「ふと」と同じ気づき方である。
 10)【L2】言い換え部の対応は。
  ・とらえがたい神秘的=夢=暗示=不思議に心象的な=微妙な
  ・生命の多様な可能性=存在すべき無数の美しい腕=全体性へのはばたき
 11)【L3】これらの語を使って前段の「普遍」「全体性」を説明すると。
  ・失われた両腕の理想の姿を想像することによって、一つの固定された腕の美しさではなく、無数の美しい腕の可能性を獲得できること。


第二段

1.【指】ミロのビーナスの写真のプリントを配布して、両腕を書かせる。
 ・完成すれば、他の生徒の作品を見て歩き、気に入った作品を3つ選んで、○をつけさせる。
2.【指】4〜5を範読し、キーワードに線を引かせる。
3.ミロのビーナスの復元案について
 1)【説】復元案について教科書の記述を説明する。
  ・様々な芸術家や科学者が欠けた部分を補った姿を復元しよう試みているが、現在のところ、定説と呼べるほど成功しているものはない。しかしながら、俗説として、林檎を手にしているという話が広く伝わっている。この林檎とはトロイア戦争の際、アテナとヘラを出し抜いてパリスから得た黄金の林檎のことである。アドルフ・フルトヴェングラーによる復元像でも、やはり、左手に林檎を持っている。
 2)【L1】筆者はミロのビーナスの復元案を《どう》思っているか。
  ・興ざめたもの
  ・滑稽でグロテスクなもの。
 3)【L1】筆者は否定する《理由》は。
  ・失われていることにひとたび心から感動した場合、もはや以前の失われていない昔に感   動することはほとんどできない。
  ・芸術の美は、目の前にあるものを見たその時その場のものである。
 4)【L1】そんなことが起こる《理由》は。
  ・量の変化ではなく、質の変化であるから。
 5)【L2】「量の変化」とは《何》か。
  ・両腕がない状態から、ある状態への変化。
  ・物質的で現実的な量の変化。
 6)【L3】質の変化とは《何》か。
  ・両腕のないビーナスと、両腕を復元したビーナスでは、全く違ったものになる。
 7)【L1】「両腕があるビーナス」の《言い換え》は。
  ・限定されてあるところのなんらかの有
  ・両腕が有ることによって、美が限定されてしまう。
 8)【L1】「両腕がない美しさ」の《言い換え》は。
  ・おびただしい夢をはらんでいる無
  ・両腕が無いことによって、多くの夢を含んだ美を想像できる。

第三段

1.【指】6〜7を範読し、キーワードに線を引かせる。
2.失われたものが両腕でなければならない理由について
 1)【L3】論点の変化は《何》か。
  ・失ったことの意味から、失った手の意味へ。
 2)【L1】「手の人間存在における象徴的な意味」とは《何》か。
  ・世界との、他人との、自己との、千変万化する交渉の手段であること。
 3)【L1】《言い換え》は。
  ・そうした関係を媒介するもの
  ・その原則的な方式
 4)【L1】「そうした」の《指示内容》は。
  ・世界との、他人との、自己との、千変万化する。
 5)【L1】「その」の《指示内容》は。
  ・世界との、他人との、自己との、千変万化する関係
 6)【L3】「機械とは手の延長である」とは《どういうこと》か。
  ・機械は人間の手の働きの変わりをするものである。
  ・例えば、機織り機やワープロやなど。
 7)【L4】「恋人と初めて手を握る幸福」について、ファーストコンタクトの身体の部分は。
  ・恋人の手を握ることによって、他者との愛情や、自分の愛情の深さを感じる。
 8)【説】『ノンバーバル事典』で手の象徴的な意味を紹介する。
  ・例えば、握手をしたり、手振りで表現したり、自分の胸に手を当てて考えてみたりする。
 9)【L1】「不思議なアイロニー」とは《何》か。
  ・欠落によって、逆に、可能なあらゆる手への夢を奏でる。
 10)【L2】「奏でる」を言い換えると。
  ・表出する。
  ・生み出す。
 11)【L2】「アイロニー」と同じ意味で使われている語は。
  ・逆説。

まとめ
1.【説】図解する。

2.【指】一五〇字以内で要約させる。
・1)ミロのビーナスは2)両腕を失ったことによって、3)無数の美しい腕を手に入れ、4)魅惑的になった。5)復元案は6)限定されてある何らかの有であり、7)おびただしい夢をはらんだ無とは8)質的に変化している。失われたものが9)自分と他者との関係の媒介である手であることも、その10)欠落によって可能なあらゆる手への夢を奏でる。(一三五字)
 ★10個のポイントを押さえているかチェックする。



コメント

ホーム


























ミロのビーナス  学習プリント             点検日  月  日                    組  番 氏名
学習の準備
1.読み方を書きなさい。
 魅惑 生臭い 普遍 巧まざる 跳躍 具象 逆説 弄す 羽搏き 滑稽 掌 羞恥 損なう 変幻自在 千変万化 媒介 讃えた 述懐 厳粛 担う 奏でる
2.語句の意味を調べなさい。
特殊
普遍
具象
肉薄
逆説
弄す
心象
グロテスク
おびただしい
変幻自在
千変万化
媒介
述懐
アイロニー
学習のポイント
1.作者がミロのビーナスを「彼女」と読んでいる理由を理解する。
2.ミロのビーナスが両腕を失ったことの言い換えを理解する。
3.ミロのビーナスの美しさの秘密を理解する。
4.ミロのビーナスの復元案が興ざめである理由を理解する。
5.ミロのビーナスが両腕を失ったことによる質的な変化を理解する。
6.失われたものが両腕でなければならなかった理由を理解する。
7.手の意味を理解する。