エンプティセルフ(空虚な自己) 〜透明な存在としての私〜

大和道和
1)学校での生活態度もよく、成績も悪くはない。友達もいて、部活動もまじめにこなし、家庭においても、さしたる問題を抱えていなかったという、ごくふつうの少年による犯罪が、多発している。
2)これらには、従来の、古典型、遊び型などの犯罪にみられた、性欲、物欲などを満たしたり、スリルや快楽を求めるといった、ある意味で明確な理由が存在しない。
3)他人からしてみれば、なんの不満も悩みもなさそうに思える少年たちがなぜ、犯罪に踏み込んでしまうのか。その背景を考察していくと、若年層を中心とした「自己の空虚感」の蔓延という現代社会の抱える病理が浮かび上がってくる。
4)「生きていて楽しいと思うことなんて何もない」「自分が本当は何をしたいのかわからない」「将来の夢?そんなものないね」自らについて問われた時、このような答えをする若者が増えている。
5)豊かさが当たりまえの時代に生きる彼らは、高望みさえしなければ、基本的にはどんなものでも手に入れることが可能だ。一昔前には、誰もが欲しつつも、かなえることが難しかった夢の生活がそこにはある。だが、その代償として得たものは、生きる楽しさも、将来の夢も、自分がしたいことも、わからない、何もない自己の空虚感なのである。
6)空虚感に満たされながらも、彼らは、日々の生活を無難にこなし続けている。親や友人と派手なケンカをすることも、教師に反抗することもない。勉強もまじめにやる。それは、嫌なことがあったとしても、そこで何らかの問題を起こすことによって自分がこうむるデメリットを、知り尽くしているからだ。
7)コミックなどをはじめとした雑誌類、テレビ、インターネットなど、さまざまなメディアによる膨大な情報は、彼らに多くの恩恵をもたらす一方で、生きることの容赦のない現実をも見せつける。
8)メディアは、声高らかに「本当の自分を知ることが幸せにつながる」「自分の夢をつかめ!」「努力することが大事だ」とうたう。
9)だが、そのためには「今の自分」をどうすればいいのか教えてくれるものはほとんどない。そればかりか、将来自分たちがなるかもしれないサラリーマンの悲哀や、成功した者、自分の夢を達成した者すべてが幸せを感じているわけではないといった現実を提示し続けるものもある。「いくつになっても、どれほど成功しても、苦しみから逃れられないかもしれない」「理想的な生き方なんてないのじゃないか」───漠然とした予感が彼らの中に深く静かに広がっていく。
10)金のためにいやいや働く大人になんかなりたくないと心の中で叫んではみるものの、「でも」と彼らは思う。だからといって、どうすればそんな大人にならなくてすむのかわからない。なにより、今の生活レベルを下げたり、好き勝手に行動して他人ともめごとを起こすのも嫌だ。ならば、たとえそこに意味を見出せなくても、親や社会や学校が「こうしていれば、いい」という意見に従って、勉強し、ふつうに暮らしていくしかないんだと。
11)すべての幼児は、自分は何でもできるという幼児的万能感を持っている。自分がオッパイを望めば、当たり前のようにオッパイが与えられるというのは、その万能感が満たされるということだ。しかし、この幼児的万能感を、いつまでも完全な状態で持ち続けることはできない。ふだん子どもの欲求を満たそうと行動している母親も、家事が忙しいなどの理由でそれを完璧に満たすことなどできないからだ。
12)このように、自分の万能感は満たされないものであるといった経験を通して、幼児は、傷つきながらも、ぬいぐるみなど母親の代わりとなる対象(移行対象)へ愛情を注ぐことを覚え、自立を果たしていく。そうした過程の中で、自発的な「真の自己」は形成され、成長していくのだ。
13)これに対し、幼児的万能感がまったく満たされなかったり、移行対象が適切に与えられなかったりした場合、幼児は「真の自己」を形成する変わりに、母親や他人の思うとおりに反応する「偽りの自己」を形成して、人生に対応しようとするのである。
14)空虚感は、「偽りの自己」や、幼児的万能感が傷つけられることなく肥大してしまったために、小さくなることを余儀なくされた「真の自己」、言いかえるならば、「等身大の自分」との間に生じるものである。「等身大」の「本当」の自分とは違う「偽りの自己」をもって生き続けたならば、それは必然の結果といえるだろう。
15)だからといって、彼らを責めることはできない。
16)人は、親を含む自分以外の者という「鏡」に自分を映すことで、その存在や現実の姿を知り、自己をより強く、逞しく、健全に成長させていく。だが、現代社会においては、そうした自分の姿を映してくれる「鏡」となる相手や関係を求めること自体、難しいのが現状なのだ。
17)空虚感を抱えて生きる者たちは、周囲にいるほとんどの者が、自分を押し殺しながら「偽りの自己」という仮面を被って生きていること、そして、それは自分たちに限られたことではなくて、親や学絞の先生など大人も同じだということを、自分の体験や直感、メディアなどの情報を通して知っている。
18)「自分の本音を話したところで、他人がそれを理解してくれるはずはない」という確信にも似た思いは、「他人に本音を打ち明けられたとしても、おっくうなだけで、理解できるともしたいとも思わない」という思いとあいまって、今や、若者層だけでなく成年層までに広がっている。
19)しかし、彼らの話を聞いていくと、「偽りの自己」を持って生きている他人という「鏡」に自分を映したところで、本当の姿が映らないと心底思っているのではないことがわかる。そこに見え隠れするのは、自分をさらけ出し、「等身大の自己」を知ってしまうことによって、これまで密かに育てて来た幼児的万能感を傷つけられることへの恐れだ。
20)自分はやればできる、でもいまは、やらないだけだという考え方は、幼児的万能感をなんとかして守ろうとする心の動きだとも言えよう。「真の自己」を映しあって、傷つけ合うよりも、ほどほどの付き合いを行なうようにすることは、今では、若者たちの不文律になっていると言っても過言ではないだろう。
21)他人を通して、自己の真の姿を映し出すことができないばかりか、それに脅える若者たち。そこに芽生える空虚感は、時として、われわれの想像を越えた方向へと向けられる。それが、冒頭に述べたごくふつうの少年たちによる犯罪なのである。
22)彼らが犯罪をおかす目的は、犯罪行為を行なうことで、自己の姿を社会に映し、「本当の自分」を確認するためだといわれている。
23)このような「自己確認型犯罪」においては、事件を起こした少年自らが、マスメディアに対して犯行声明文を送りつける事例がいくつも見受けられる。神戸の連続児童殺傷事件を起こした少年が、マスコミにメッセージを送り続けたことや、そのなかで幾度となく自分のことを「透明な存在」と述べていたことは、それを裏付けるものといえるだろう。
24)いま、われわれに問われているのは、自己を映し出す「鏡」となる人間関係を、ふたたび取り戻すことではないだろうか。