遺伝子解読の不安
岩井克人
ヒトゲノムとは、人間機設計図のようなもので、人間のDNAを構成する四種類の化学物質が三十二億続く配列のことである。その中の遺伝子と呼ばれる部分が、人間の成長から老化まであらゆる生命現象をつかさどっている。それが、解読された。
病気治療の診断や予防について新たな時代の始まりとして、世界の製薬会社を初めとする経済界は巨大なビジネス分野の出現に、興奮状態にある。
しかし、人々の間では自分の運命があらかじめ決まっているのではないかという不安が広がっている。人間が人間であるべき「自由」とは、遺伝子情報に関する無知ゆえの幻想に過ぎなかった野手はないかという形而上学的不安である。
二十年前、人間は、人間とは本来可塑性を持つ存在であり、その本性の大部分を後天的に習得するという「環境説」に希望を持っていた。
しかし、生物学の進展によって、遺伝が人間の能力や性格や行動パターンに決定的な影響を与えているということが明らかになった。
遺伝学は、ナチスによる民族浄化のために悪用された忌まわしい過去があるので、良心的な知識人は警戒している。しかし、世の中は「遺伝説」に傾きつつある。
エドワード・ウィルソン博士は、経済学や人類学や倫理学や宗教や芸術まで、人間に関するあらゆる知識が遺伝学や分子生物学に還元されるべきだという考えを提示した。
遺伝子によって脳の内部にあらかじめ書き込まれた行動パターンの総計こそ、社会的な生物としての「人間の本性」であると主張している。
人間の精神活動がヒトゲノムの中の遺伝子の作用に還元されるのかといえば、「否」である。人間は「言語」「法」「貨幣」を使う生物であるからである。
人間は社会的な生物で、言語を媒介として集団を形成し、法を媒介として共同体を形成し、貨幣を媒介として交換関係を形成する。そうした媒介が必須の存在として含まれている。
もちろん、ヒトゲノムの中に言語や法や貨幣に対応する遺伝子は見いだせない。なぜなら、それらは脳の外部から与えられた存在だからである。
そこに、人間の「自由」の可能性が生まれる。
言語や法や貨幣が一個の人間の自由にならない外部の存在であることが、人間に人間としての自由の可能性を与える。
言語や法や貨幣は歴史的な存在で、個々の人間の認識や目的や欲求をはるか超えた、意味の体系、規範の体系、価値の体系を築き上げている。
ユートピア主義者たちは、言語や法や貨幣がない社会を理想としているが、人間は言語を語り、法に従い、貨幣を使うことで、私たちを超えた意味や規範や価値の体系を自分のものにする。その立場から、一個の人間としての自分の認識や欲求を相対化し、「外部」からの目を手に入れる。それによって、自分の「内部」に遺伝的に書き込まれた行動パターンの総計としての存在から「自由」になる可能性を持つのである。つまり、人間が人間になるのである。
つまり、筆者は、遺伝子は先天的に自分の内部にあり自分の運命を支配しているので、人間が自分で自分の運命を決定するという自由を奪うものであると考えている。すべての精神活動は遺伝子によって決定すると言う主張に反論しようとしている。そこで、人間が遺伝子に影響されずに獲得した後天的環境的なものに意味を見いだそうとしている。それが、言語や法や貨幣である。それらは遺伝子に支配された一個人の自由にならないからこそ遺伝子から自由になる。
しかし、もともと人間も遺伝子によって設計された存在であり、自由なんて物は神のみぞ所有するとすれば、筆者の根本的な思想自体が傲慢なものである。また、自由に活路を見いだすと言う言語や法や貨幣も人間の欲望やそれを制御しようと言う働きから生じたものであるとすれば、所詮遺伝子に支配されていることになる。
26ベンチャー企業 | 高度な技術と専門的な知識を生かして創造的な新事業を行う企業 | |||
DNA | 人間の全遺伝子情報。 | |||
幕開け | 物事の始まり。 | |||
28裏腹 | 相反していること。 | |||
形而上学 | 事実を離れて抽象的なものにだけとどまる議論。経験の世界を越えた、物事の存在の究極的・絶対的な根本原理を研究する学問。 |
可塑性 | 固体に外力を加えて変形させ、力を取り去ってももとに戻らない性質。 | |
後天的 | 生まれてからのちに身にそなわるさま。 | |
嗜好 | ある物を特に好み、それに親しむこと。好み。主に飲食物についていう。 | |
浄化 | 心身の罪やけがれを取り除くこと。社会の悪弊などを除いて、あるべき状態にすること。 | |
29趨勢 | ある方向へと動く勢い。社会などの、全体の流れ。 | |
還元 | 物事をもとの形・性質・状態などに戻すこと。 |
30憂き目 | つらいこと。苦しい体験。 | |
権威 | 他を支配し服従させる力。ある方面でぬきんでてすぐれていると一般に認められていること。 | |
31媒介 | 両方の間に立って、なかだちをすること。 | |
必須 | 必ず用いるべきこと。 | |
32規範 | 行動や判断の基準となる模範。手本。 |
32相対化 | 他との関係の上に存在あるいは成立していること。 |
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遺伝子解読の不安 第一・二段 学習プリント
第一段 11)クリントン大統領が記者会見で発表したことは。 22)ヒトゲノムを比喩的に言うと。 3)ヒトゲノムとは何か。 4)その中の遺伝子の働きは。 35)ヒトゲノムの解読に対する、クリントン大統領の期待は。 6)ヒトゲノムの解読に対する、製薬会社の期待は。 47)人間の「言い知れぬ不安」とは。2つ。 第二段 58)二十年前の「人間の希望」とは。 69)生物学の進展によって明らかになったことは。 10)遺伝によって影響されるものは。7つ。 711)遺伝学にある忌まわしい過去とは。 12)遺伝学に対する良心的知識人の意識は。 8913)エドワード・ウィルソン博士の主張は。2つ。 学習のポイント 1.ヒトゲノムとは何かを理解する。 2.ヒトゲノムの解読完了が経済界に与える影響を理解する。 3.ヒトゲノムの解読完了が人間に与える影響を理解する。 4.二十年前の「環境説」を理解する。 5.この二十年間の生物学の進展を理解する。 6.遺伝学の過去の評価を理解する。 7.エドワード・ウィルソン博士の主張を理解する。 遺伝子解読の不安 第三・四段 学習プリント
組 番 氏名 点検日 月 日
学習の準備1.読み方を書きなさい。・ 30 憂き目 遭いそう 権威 貨幣 31 媒介 必須 32 継承 乾杯 2.語句の意味を調べなさい。
第三段 1114)問題提起は。 1215)14)の問題提起に「否」と答える理由は。 1316)社会的な生物としての「人間の本性」には何が含まれているか。 1417)ヒトゲノムの中に言語や法や貨幣に対応する遺伝子が見いだせない理由は。 1618)それらから人間の「自由」の可能性が生まれてくる理由は。 1719)それらはどんな存在か。 20)それらは何を築き上げてきたか。 第四段 1821)言語や法や貨幣がある社会は、何ができるか。2つ。 22)人間が人間になるとは。 2023)筆者は何を祝っているのか。 学習のポイント 1.筆者の問題提起を理解する。 2.筆者がウィルソン博士の主張を否定する理由を理解する。 3.言語や法や貨幣が人間に自由をもたらす理由を理解する。 4.言語や法や貨幣がある社会の可能性を理解する。 5.人間が人間になると言うことを理解する。 |
第一段落 ・ヒトゲノムの解読作業が完了した。 「人間の設計図」 人間の成長から老化までのあらゆる生命現象をつかさどる。 ↓ ・クリントン大統領=新薬の開発、病気の治療や診断や予防に役立つ。 ・経済界=巨大なビジネス分野の出現に興奮し、新薬の開発に乗り出す。 ・一般の人々=言い知れぬ不安が広がる。 ・自分の運命はあらかじめ決まっているのではないかと言う不安。 第二段落 ・環境説=人間とは本来的な可塑性を持つ存在であり、その本性の大部分を後天的に習得する。 遺伝説=親からの遺伝子が人間の能力や性格や行動パターンに決定的な影響を与えている。 ・エドワード・ウィルソン博士 ・ハーバード大学の名誉教授 ・アリの生態学の第一人者。 ・生物多様性の概念の提唱者。 ・社会生物学の主導者。 ↓ ・人間に関する知識はすべて遺伝学に還元されるべきである。 ・遺伝子によって脳の内部にあらかじめ書き込まれた行動パターンの総計が人間の本性である。 ・「自由」とは遺伝子情報に関する無知ゆえの幻想にすぎなかったのでは人間が人間であるること 第三段落 ・人間の精神活動は遺伝子の作用に還元されるのか? ↓ ・「否」 ・人間は「言語」を語り、「法」に従い、「貨幣」を使う生物だから。 ・人間は社会的な生物である。 間接的な関係 媒介 ・言語─→集団 ・法 ─→共同体 ・貨幣─→交換関係 ↓ ・対応する遺伝子を見いだせない ・脳の「外部」から与えられたものである。 │ 歴史的な存在 │ 人間の認識や目的や欲求を超えている │ 人間の記憶の遠いかなたに起源を持ち、継承されてきた │ ‖ ↓ 遺伝子に左右されない ・人間の「自由」の可能性が生まれる 遺伝子からの 第四段落 ・ユートピア主義者 ・媒介のない社会を夢見てきた。 ・言語や法や貨幣が人間の自由を束縛しているから。 社会によって決められ、個人の意志では変えることができない ・筆者 ・媒介のある社会こそ自由である。 ・私たちを超えた体系を自分のものにすることができるから。 ・超越的な立場から、自分の認識や目的や欲求を相対化できるから。 ・外部からの目を手に入れることができるから。 ↓ ・自分の「内部」に遺伝的に書き込まれた行動のパターンの存在から自由になる。 ‖ 人間が人間になる。 自分で自分の生き方を決める自由を有している存在のあかし ないかという形而上学的な不安。 |