評論文の授業研究
 


1.国語の力
2.評論文を扱う意義
3.評論文の扱い方
4.評論文で習得させたい力
5.教科書の教材
6.論理展開の読解
7.論理記号〜接続語〜

8.授業の流れ
9.授業の展開
10.指導の方法
11.授業の大技・小技


1.国語の力
 
 国語といっても、まず大きく2つに分けて現代文と古典がある。古典はさらに古文と漢文に分かれる。現代文も、文学的文章と論説的文章に分かれる。現代文の分野を数直線で表せば、一方の極に感受性があり、もう一方の極に論理性がある。私なりに、感受性から論理性におおまかなジャンルで並べると、詩・和歌・俳句・小説・随想・評論となる。もちろん、詩の中にも大いに論理性の要素があり、評論の中にも感受性がある。度合いの問題である。ここでは、現代文の中の論論について考察する。
 模擬試験の偏差値が上がった、希望する大学の国語の試験で点数が取れた。大学入試の国語の問題を解く力である。しかし、問題自体が国語の力とは何かという観点から作成されているわけではない。教科書よりも難解な文章を引っ張りだしてきて、そこから問題になりそうな箇所をほじくり出して、採点の便宜を図るために恣意的な選択肢を作って、問題作成者の意図に合った答えを選ばせる。
 もっとも、国公立の個別試験になると論述問題が多くなり、その文章の核心部分について問う問題が多くなる。ただ、採点の基準が分からず、失礼な話だが、解答者の力量と同時に採点者の力量も試される。
 こうした入試対策として問題演習をやっていると、世間一般の文章と言うのはこんなのを指すのだと誤解してしまう。教師もそうであり、生徒も同じであろう。大学で学ぶ専門の文献も似たようなレベルの文章であることもある。しかし、設問の立て方は、これから大学で専門の文献を読む時に求められる力を問う立て方ではない。そして、社会に出て仕事で読む文章はこんな複雑で難解な文章ではない。
 それでは、社会人として仕事をしていく上で必要になる国語の力とは何か。これが問題である。人間として生きるという大目標はあるが、敢えて実用的なレベルで考える。社会に出で仕事で読む文献の多くは、偉い学者が書いたものではなく、上司や同僚やクライエントが書いた文章である。そこでのよい文章というのは、一読してよく分かる文章である。複雑な問題であっても、それをわかりやすく説明してある文章である。決して、教科書に採録されているような、教師のフォローがなければ読解できない文章ではない。また、観点を逆転させると、そういう分かりやすい文章を書けるような力の育成が必要になってくる。書き手が分かりやすい文章を書ければ、読み手もより正確に理解することができる。つまり、書き手は論理的に思考した内容を論理的に表現し、読み手はそれを論理的に読解するのである。
 このような観点は従来の国語教育、特に評論文の読解にはなかった。これからの国語教育は、こうした観点も視野に入れながら、実践していく必要がある。それでは、従来の評論文の国語教育は不必要であるのかと言えば、そうではない。結論から言ってしまえば、物の考え方、論理的な思考力を育成するのに必要である。分かりやすい文章を書こうとすれば、論理的に物事を考えなければならない。その力を付けるのが、評論文における国語教育である。ある小学校では、国語科ではなく論理科という教科を設置しているが、小学校に限らず、学校で論理を教える教科はない。高校では「倫理」という教科はあり、哲学者などの思想を教えているが、これは先人の考え方を紹介するのが目的で、自分が思考する力を養うものではない。
 私が最初の授業で生徒にいつも言うのは、「国語に一番近い教科は数学である」ということである。数学の図形問題や証明問題などは、数字や数学記号や公式を使って論理的に説明していくが、国語は、言葉を使って説明する。数学記号や公式のような明確なものはないが、分かりにくいけれども、1対1で対応しているわけではないが、それに近いものはある。それらは、数学記号や公式のように明確に示せないものが多い。それだけに、それらを使って説明するのは難しいが、それをするのが国語である。そのために、教科書に採録されているような複雑な文章を読解するのは意味のあることである。


2.評論文を扱う意義
 
 高校の国語の教師はほとんどが、教育学部の国文科であったり文学部であったりして、どっぷりと文学に浸ってきた。大学の授業で、評論文を勉強した記憶がない。したがって、授業で国語の教材を取り上げる時も、文学教材が多くなりがちである。小学校は専門性が薄いのでそれほど大きな影響はないかもしれないが、中学校、高校と国語の専門性が高まるに連れて、新しい教師がその時代に習った教師の影響を大きく受けるとすれば、文学教材を重視するという傾向は、綿々と続いていくことになる。
 しかし、大学入試問題を見ていると、センター試験は評論と小説が50点ずつ出題されるが、私立大学の入試においてはほとんど評論が出題される。そこで、3年になると問題集を使って評論問題の演習を繰り返すというのが現状である。
 このように書くと、高校での国語の勉強は大学受験のためにやっているのではないと反論かありそうである。しかし、一般社会に出て接する文章は、論理性の高い文章である。趣味で小説を読むことはあるだろうが、仕事で読むのは論理的な文章である。将来の趣味の時間を豊かにするために、高校で文学教材偏重の教育をしていいという訳ではないだろう。感受性を豊かにして人生を楽しむことは大切であり、それもしながら、やはり社会に出て役立つ力を育成するのが学校教育であるから、論理的な文章である評論教材は、言い切ってしまえば、文学教材よりもウエイトが重くなる。


3.評論文の扱い方
 
 問題は、評論文の扱い方である。前任校は生徒もおとなしくそこそこの学力もあり、授業を聞いてくれる。ベテランの先生も多く、何度か授業を見ていただいたり、見せていただいたりもした。僕がよく言われたのが、進度が早いということだった。他の先生の授業を見ると、教科書の一字一句を丁寧に説明しながら授業を展開されていた。内容にまつわる詳しい解説や体験などを豊富に盛り込みながら、完全に教師主導の展開である。先に書いたような生徒だから、じっくりと聞いていた。時々発せられる発問にも的確に答えていた。それに影響されて、僕の授業も一文ずつ順番に丁寧に教えるようになった。進度も結構遅くなった。授業の幅が広がったとは思う。
 前々任校までの生徒に学習意欲が乏しく、教材が面白くなければ授業に参加しないで状態だった。いや、教材がそこそこ面白くても、すぐに飽きてしまい、強烈なインパクトが必要であった。だから、教材を選ぶ時も、まずテーマであった。生徒の身近なテーマであることを第一条件に選んできた。そして、授業展開の中にもイベント性を持たせる工夫をしてきた。前任校では、そうした工夫はすればより興味を持ってくれるかもしれないが、あえてしなければならないような窮地にはなかった。緊張感は薄かった。その分リラックスして授業内容の深化を図り、緻密になった。しかし、ダイナミックスさが失われたように思える。
 その両者の利点を欠点を止揚して、より高見へ飛躍したいというのが今回の研究の狙いである。前置きが長くなった。


4.評論文で習得させたい力
 
 評論文を教えることによって習得させたい力は、論理的な思考力と論理的な表現力である。ただ読解のためだけに教材があるのでなく、読解したことを生かして表現する、もっと極端に言えば逆に、論理的な表現力を付けるためのサンプルとして論理的な文章を読むのである。
 第一に、論理展開を教える。文と文の関係、キーワード、段落の区切り、段落の役割、段落間の構成を考え、筆者の論証の仕方を解明する。さらに、教材の中で使われている筆者の様々な表現の技を解明し会得できれば最高である。内容には深入りしない。内容に興味を持ってもらうことは大いに結構だが、それは国語の授業ではじっくり扱わない。水先案内ぐらいはしてもいいが、それも生徒に聞きに行かせればいいことである。内容を深めていくのは他の教科に任せる。そして、同じような論理構造をしている評論文を探して、練習問題として演習形式でさせる。
 さらに、思考の結果を図解化すると論理はより明確になる。具体的には、その文章の中で重要なキーワードを抽出し、それらをグループ化したり、矢印で関連づけたりする力である。
 そして、そのパターンを使って文章を書かせる。短い単純な文章から次第に長く複雑な文章へと発展させていく。書く材料を集めるために必要な発想力を身につけるためには、まず情報の収集、インプットである。そのためには読書に限らず、たとえテレビを視聴するにしても、絶えず目的意識を持ってアンテナを張っていることが必要である。そうして、収集した情報を有意的に引き出すアウトプットのスキルを教える。ブレーンストーミング法、KJ法、ウェビング法、マッピング法、ポジショニング法、マトリックス法、サークル法など様々な技法がある。
 この観点から考えると、前々任校までで考えていたような、生徒に興味のあるテーマであるかどうかだけで教材を選ぶことには問題が生じてくる。中心に考えなければならないのは、教材になる評論文のテーマでなく論理展開の仕方である。
 また、内容に深入りし過ぎる展開も問題がある。国語の教師は公民や地歴や理科の知識もなければ教えられないのか、そんなことまでかなり詳しく下調べして生徒に提示しなければならないのかと思えば気が遠くなることがあった。雑学があり、生徒に面白い話をすることは、生徒の興味関心を高める有効な手段である。筆者の意見を補う具体例を提示することは理解を深める上で重要なことではある。しかし、それが第一義ではないだろう。


5.教科書の教材
 
 教科書に収録されている評論文の問題点は2つある。1つは、評論文のレベルである。一読して分かるような教材なんて教えることがない、生徒が読んでも分からないことを解説してやる教師の出番がないと思ってしまうのである。もっとも、教師が一読して分かると思っていても、読解力が低下している生徒にとっては分からないかもしれないが。
 また、教科書にも、それは教師が望まない評論文を入れると教科書が売れないからでもあるが、一読して分かる文章は収録されていない。非常に難解な、教師の解説しどころ満載の評論しか採録されていない。しかも、指導書には難解な箇所の解説が付いていて、このように解説すればいいと教えてくれる。関連する知識も補充してくれている。私も最初の10年ぐらいは指導書を見なかったが、だんだんと堕落して指導書も見るように、やがては指導書を、とうとう指導書しか見ないようになっていた。難解で解説を要する箇所が示され、その答えまで書いてあるのだから、こんな調法なものはない。個々の内容や知識については深まるのであるが、全体が見えなくなる。
 複雑な問題を追及するには、それなりの綿密な論理展開が必要になるので、難解にならざるをえない文章もある。それでも、分かりやすく書こうと思えばできる余地はある。ところが、たいした内容でもないのにやたら難解に書いている評論文もある。敢えて難解な文章を書くのは、読み飛ばさせないでじっくり考えさせるために意図的にしていることだと言う人もいるが、本末転倒である。
 では、難解な文章とはどんな文章か。語彙の面から言えば、抽象語や長い漢熟語やカタカナ語を多用している。文の構成から言えば、英語で言うところの関係代名詞に当る長い多くの修飾語が多く使われていたり、句点で区切るところを読点で繋げたりして、係り受けの複雑な文である。また、逆接等の屈折率の高い接続詞が多用されていたり、さらにその接続詞さえ使わないで、文と文が複雑に絡み合ったりしている。さらに、論ばかりで具体的な例示がないもの、実は筆者の論理構造自体が矛盾していたり破綻しているものである。あまり複雑でない問題を、分かりやすく書いている文章から、複雑な内容を分かりやすく書いている文章へと、段階的に発展して行ければいい学習ができるだろう。
 もう1つは、テーマや内容よりも論理構造のパターンとその順序性を考えた教材配置である。すべての教科書は、芸術論であるとか社会論であるとか人生論であるとか環境論であるとか科学論であるとか、テーマ別に単元が構成されている。例えばある教科書の編集趣意書を見ると、「日本人のアイデンティティを考えさせる教材。日本語や日本文化に対して深い思考をいざなう」「現代をとらえる新鮮な視点の社会論教材。現代社会と、その中で生きる自己を考えさせます」「科学や環境への視野を広げる教材。明快な論理でヒトの未来を考察します」とある。明らかに、内容主義である。国語で教えるべきことは、こんなことなのか。国語の教師は、芸術や社会や人生や環境問題や科学に精通していなければならないのか。


6.論理展開の読解
 
 評論は筆者の意見を読者に理解してもらうために、論理的に筋道を立てて作成した文章である。その論理構造を読解するには、「主張」「根拠」「対比」「換言」「列挙」の5つの要素が必要である。これらの要素が、どこにどのように使われているかを分析すると論理構造が明確にある。
1)主張
  当然であるが、評論は自分の考えを読者に伝えることを目的にしているのであるから、「主張」が必要である。主張は1つの場合もあるし、並列的に複数ある場合もあるし、階層的に複数ある場合もある。問題提起は主張の誘導であり、主張に含めて考える。
 論理記号として、根拠や具体例を述べた後で「つまり」などの要約の接続詞を使うこともあるし、「このように」などの指示語を総括する方法もある。「〜は〜である」と命題的な表現をする方法もある。また、構造的に評論の最初に主張を述べる場合もある。
2)根拠
 主張も「根拠」を明確にしなければ説得力がない。主張の根拠の示されない文章は雑文であり、評論の名に値しない。教科書に収録されている評論の中にも、根拠が明確には示されていないものがある。
 主張が階層的に積み上げられている場合は、階層ごとに根拠を示す必要がある。これを縦への深まりと呼ぶ。また、一つの主張に対して根拠が並列して複数ある場合もある。これを横への広がりと呼ぶ。
 論理記号として、「なぜなら」と理由の接続詞を使ったり、「〜からである」と理由の文末表現を使ったり、「それ(これ)は〜である」と指示語を使って理由を明確にする場合もある。
3)対比
 評論では、自分の主張を対立するものと比較することによって自分の主張の正当性を証明していく手法を取ることが多い。対立するものを否定したり批判する場合もあるし、評価はせずに差異を述べるだけのものもある。
 最初に自分の主張を述べ、次に対比するものを述べる場合もあるし、最初に対比する意見を提示した後に、自分の主張を述べる場合もあるので、どちらが筆者の意見であるか確認する必要がある。
 論理記号として、「しかし、だが」などの逆接、「むしろ、他方」などの比較、「ただし、もっとも」などの限定の接続詞や、「〜ではなく、〜より」など否定や比較の句末表現や文末表現、対義語、対句的構文を使う。
4)換言
   自分の意見をより理解してもらうために、言葉を変えて「換言」する。評論は、抽象と具体の往復といわれるが、これが「換言」である。具体的な例を挙げたり易しい言葉に換えたり、抽象的な一般的な言葉にしたりする。
 主張の部分を換言したり、根拠の部分を換言したり、対比されているものを換言したりする。
 論理記号として、「すなわち、つまり」などの換言の接続詞、「たとえば」などの例示の接続詞、「言い換えると、正確に言うと」など語句を組み合わせる。指示語は元来重複を避けるためのものであり、換言の役割を持っている。
 5)列挙
 同内容の言換ではなく、異なる内容を並列的に「列挙」する。「主張」「根拠」「対比」を列挙するがある。
 論理記号として、「第一に、第二に」「まず、次に」などの序数や、「さらに、そのうえ」などの添加・累加の接続詞がある。


7.論理記号〜接続語〜
 
 論理を展開する論理記号の中で最も論理性が高いのが接続語である。接続詞は独立した品詞として機能するし、指示語や名詞を含んだ連語を使うこともある。ここでは、石黒圭の『文章は接続詞で決まる』(2008)に沿って整理した。
(1)論理の接続詞
1)順接の接続詞(正)
前提となっているその一般的知識をなぞることによって、相手を説得する。
a)「だから」系
 「だから」は、先行文脈と後続文脈が原因−結果の関係であることを明示し、それによって文章の説得力を高める。原因が明確に示されず、読み手が一般的知識から結果を推論することもある。読み手にとって少し意外な後続文脈に橋渡しをすることが多い。強引な文章の場合は、書き手が突然顔を出して、予め用意しておいた結論に強引に結びつけることがある。
 「したがって・ゆえに・よって」は、論理的必然性の高い結論に帰着させる。
 「そのため」は、因果関係を事実として客観的に伝える。
 「それで」は、比較的くだけた文体で用いられる。
b)「それなら」系
肯定の仮定を表す「それなら・それでは・すると・そうすると」、否定の仮定を表す「そうしないと・さもないと」がある。
 「すると」は、因果関係の発見を強調し、前提となる条件関係が新たに生まれる瞬間を注視させたり、何が起こるか期待させる効果がある。
2)逆接の接続詞(反)
a)「しかし」系
 「しかし」は、先行文脈と後続文脈の食い違いを強調する。
 「だが」は、先行文脈の延長線上に後続文脈が来ない。それまで文脈に示さなかった事実や書き手の意見を差し出す。
 「でも」は、変化が起こりそうでありながら、やはり事態に変化がない状態を表す。外的条件が変化しても、表現者自身の内面は変わらないという時に使われるので、頑固さや協調性のなさ、言い訳っぽさにつながりやすいが、内面の告白をうまく表現できる。
 「ただ」は、補足修正的な意味合いが強い。部分的に引っかかるところがあるのでその部分だけ修正する。読み手の存在を意識し、抵抗感なく読んでもらおうとする。
b)「ところが」系
「ところが・にもかかわらず・そのくせ」などがある。
「ところが」は、想定外の展開を表す。読み手の立場に立ってはじめて意識的に使える。
「にもかかわらず」は、論理的な受け入れ難さを表す。
「それなのに」は、感情的な受け入れ難さを表す。
「にもかかわらず」は、現実に対する不当さや不合理さ、意外さなどを暗示する。
「それなのに」は、書き手の不満や憤り、不思議さなどを伝える。
(2)整理の接続詞
  ある話題について同じレベルにある事柄を対等に並べて示す。箇条書き形式を、流れのある文章の中に実現する。頭の中にある複雑な物事を整理して書く。
1)並列の接続詞(正)
a)「そして」系

 添加の接続詞である。安易に使われやすく、書き手がきちんと準備して書いているのだろうかと疑われることがある。
 「そして」は、最後に一つ、大切な情報を付け加える。並列関係を自由に表せる。
 「それから」は、&に近い。何度も重ねて使える。並列されたものが情報の面で軽重が生じることはない。
 「また」は、過剰感もなく、読み手の情報の整理に役立つ。
b)「それに」系
 累加の接続詞である。すでに示したものに重ね、ダメを押す。繰り返して使うことができない。
 「しかも」は、同じ対象に別の側面からさらに深く突っ込んで、たたみかける。
c)「かつ」系
論理を明確にする。
「かつ」は、両方同時に満たす。
「および」は、同時に満たすという強い制約はない。
「ならびに」は、比較的長い要素を結ぶ。
2)対比の接続詞(反)
a)「一方」系
ある事象の2つの異なる面を見せる。前後の関係を制約する程度が低く、前後が何らかの点で違っていればよい。
b)「または」系
「または・もしくは・ないし」がある。2つの中からの選択する。
「あるいは」は、3者以上からなるグループの中から幾つかを選んで並列させ    る。
3)列挙の接続詞(正)
序列副詞である。
a)「第一に」系
出現順序を入れ替えても矛盾が生じることがない。
b)「最初に」系
列挙される項目に時間的順序性があるものしか使えない。
c)「まず」系
オールマイティ
(3)理解の接続詞
先行文脈では理解しきれない内容を、後続文脈で読み手にわかりやすく示すことを予告する。自分が書いた文章を読み手がどう理解するかを意識して、読み手の理解に歩み寄る。
1)換言の接続詞
今表現している言葉も捨て難い、難しきけれども基本となる概念を含んでいて、出さない訳にはいかない。推敲の過程で、敢えて言葉として残した方が、却って読み手に分かりやすくなる。
a)「つまり」系(正)
「すなわち・つまり・ようするに・いいかえると、いわば」などがある。
「いわば」は、比喩的・象徴的な表現に言い換える。
「すなわち」は、言い換える時に書き手の主観や解釈が入りにくい。
「つまり」は、先行文脈の内容をわかりやすく言い換える。しかし、書き手の解釈を押しつけられている印象や、読み手の理解のレベルを低く見られているような印象を受ける。
「ようするに」は、内容の同一性よりも、いかに内容の核心をつかんで端的に言い換えているかという点に比重がある。やや論理的に飛躍が見られる。
b)「むしろ」系(反)
「むしろ・かえって・というより・そのかわり」などがある。
「むしろ、かえって」は、一見常識的・直観的に当然のように見える内容を否定しつつ、じつは常識的直観的におかしく見える事態の方が相対的に優れているということを予告する。説得のレトリックとして有力な方法である。根拠とセットで示す。
「というより」は、先行文脈の内容そのものでなく、表現の仕方を問題にする。
2)例示の接続詞(正)
先行文脈の内容に当てはまる具体的な例の提示を予告する。
a)「たとえば」系
「たとえば・具体的には・実際・事実」などがある。
「たとえば」は、現実にありそうな具体的な例を挙げる。いくつかの例が考えられる時、その中から論旨が明確になりそうなものを1つ選んで示す。後続文に、具体例が比較的長く続く場合に明示のために使う。具体的な例が1つに限られている時や書き手の判断が入る未確定の内容の場合は使えない。
「具体的には」は、具体例が1つしかない。
b)「とくに」系
「とくに・ことに・なかでも」がある。
その場合にとくに当てはまりそうな例や、その内容に合う典型的な例が示される。読み手が意識してその部分を読むように仕向ける。
3)補足の接続詞
先行文脈の内容を受けて、それが後続文脈にどう展開していくのかを示す。理解する上での情報が不足しているので、その情報を後ろから補う。
a)「なぜなら」系(正)
「なぜなら・というのは」などがある。ここからが理由だと予告して補足する。
唐突感を和らげ、文脈が円滑になる。ただし、表出しない方が日本語としては洗練されている。
b)「ただし」系(反)
関連情報を補足する。伝えたい内容をより正確に伝えるために、情報の微調整を行う。
「ただし」は、条件節が、文の後ろに転出したものを示す。
「もっとも」は、読み手に誤解を与えるおそれのある先行文脈に留保をつけて控えめな内容にし、読み手の理解が偏ったものにならないようにする。
「なお」は、本筋から外れるが、必要な情報なので簡単に触れておき、その後が読み手にとって重要な情報であることを示す。
「ちなみに」は、本題とは関係のないことだが、参考になるかもしれないので一言言っておくという感じで使う。間接的にでも読み手の役立ちそうな情報を入れることができる。
(4)展開の接続詞
話の本筋を切り換えたりまとめたりする。
1)転換の接続詞(転)
話の大きな切れ目を示し、その後の展開がどのようになるかを予告する。重層構造の上位に位置する話題の転換点になるところに付ける。話の大きな分岐点なので、読み手にそのことを強く意識させる。
a)「ところで」系
自由な連想に基づき話題を転換させる。
b)「さて」系
書き手が準備している話題に戻す。
c)「では」系
いよいよ本題に入ることを示す。最も展開の制約が強い。論理的に厳密である。
2)結論の接続詞(合)
それまでの話をまとめ、最終的にどのような結論になるかを予告する。
a)「このように」系
「このように・こうして・以上・結局」なとがある。先行文脈で述べてきた内    容を大きくまとめて、最後に結論を示す。
b)「とにかく」系
一応の結論を示すことを予告する。それまでの議論の経過を無視して、話し手が用意した結論に強引に着地させる。
「とにかく」は、議論の過程を飛ばして結論を急ぐ。論証過程が粗雑な印象を相手に与える。
「いずれにしても」は、どれを選んでも同じ結論に至る。
(5)文末の接続詞
1)否定の文末接続詞(反)
a)「のではない」系
文脈に不安定感を持ち込み、読み手の心に疑問を生む。
b)「だけではない」系
限定を解除し、該当するものが1つだけでなく複数ある。
2)疑問の文末接続詞
「か→のか→のだろうか」と展開する。疑問の力が強くなると、次にどんな答えが示されるのか、読み手の期待が高まる。その問いが読者の注意を強く喚起するほどの価値があるのか提起する。
3)説明の文末接続詞
a)「のだ」系(合)
先行文脈からの帰結を表すことが多い。ここまで読んで初めて説明の全体像が見えたというところに付ける。断定的な情報が組み合わさって、それが一つのまとまった内容として認識される。文章の流れを適度に止めたり、理解者の立場に立って調整するが、押しつけがましくなる。
「わけだ・ということだ・ことになる」は、推論の帰結を表す。うまく使えていれば説得力が高まるが、書き手に無理な解釈を押しつけられたような気がする。
b)「〜からだ」系(正)
先行文脈の理由を表す。先行文脈に何らかの違和感がある時に、その理由を示し、違和感を軽減させる。
4)意見の文末接続詞(合)
a)「と思う」系
書き手の積極的な判断を示す。
b)「と思われる」系
思考や伝達をする動詞の自発形・可能形。自然にそうなるという論理の必然的な帰結を示す。
c)「のではないか」系
「のだ」の否定疑問形。断定を避け、慎重な判断を示す。
d)「必要がある」系
望ましい姿を示してそれまでの話をまとめる。その主張に至るまでの文章展開は論理的必然性を高めるような流れになっている。

8.授業の流れ
 
 国語の授業には共通する一定の流れがある。ある程度のベテランなら、それなりに授業の格好をつけることは可能である。それが目的に適っているならそれでいい。しかし、体裁だけを整えて無難に、つまりたいした中身を伴わずにすませているなら再考しなければならない。
 国語の授業の一般的な流れは、音読して、段落に切って、適当に発問を交えながら、論理構造や補助的な説明をして、最後に要約をしておしまい。1つの教材が終われば、目先を変えて次の教材に入る。目先というのは、評論の後は小説をやって、また評論をやる。しかも、テーマのつながりは勿論、論理展開のパターンの連続性などもお構いなしに、教科書に載っている教材を、最悪の場合は順番に、ちょっと工夫してたところで順番を入れ替えてする。だいたい定期試験までに、文学教材1と、評論なら2〜3。それを3学期制なら5回繰り返す。それが3年分。これで力が付いたと実感できるのか。確かに数はこなしたし、教科書もこなした。しかし、国語の教科書は、数学や理科や地歴のように、教えなければならないことがあり、それを年度ごとに積み上げていくという体系的なプログラムはない。卒業させていつも思うことは、国語でどんな力を付けたのだろうかという根源的な問いである。


9.授業の展開
 
 教材の初めから終わりまで、満遍なく、のんべんだらりと指導する訳にはいかない。学ぶべき内容を絞らなければならない。そのために、教材をよく研究する必要がある。中心の主張があって、それを立証するのにいくつかの論点が積み上げられている。まずは、教師が自分で大意をとり、段落に分け、要約する。論点を一つ一つ、それらを繋げて全体を説明できるようにする。次に、生徒に理解しやすいようにするにはどの順序で指導すればいいか、発問や指示の形に転換する。最後に、生徒が興味を持てるような仕掛けを考える。
 展開は、全体的な大きなことから根拠になる個々に進んでいくトップダウン方式と、個々から積み上げて全体の大きなことへ進んでいくボトムアップ方式がある。トップダウン方式はダイナミックで変化があって面白いが、生徒の理解が付いてくるかどうかは難しい。ボトムアップ方式はオーソドックスで堅実な方法であるが、面白味に欠ける。
 授業の展開を段階に分けると、「序言」「提言」「助言」「結言」「展言」の5段階になる。
 1)序言
 導入に部分に当る。生徒の先行知識を呼び起こし、教材に結びつける発問である。例えば、題名から生徒の経験や知識を引き出してみたり、内容に関するアンケートや心理テストをしてみるなどの方法がある。
 2)提言
 一読した後、その評論で提起されている問題を明確にする。普通、提言は第一段落にあることが多く、その中から抜き出す形で問いかける。
 3)助言
 授業の本体に当る。提言の問題提起の正解を読解していく。ここでは、いろいろな指導言を駆使する。
 4)結言
 まとめる。よくある方法は、段落ごとに要約させたり、全体の要約をさせる。
 5)展言
 学んだことを発展させる。序言に似ているが、一通り読解した後、深まった理解を基にして、新たな発見などを試みる。


10.指導の方法
 
指導の方法には、「説明」と「発問」と「指示」がある。基本は「説明」であり、それを「発問」や「指示」に形を変える。
(1)説明
教材に重きを置き、生徒の思考と行動に働きかけ、理解の難しい部分など順序立てて説明することによって生徒の理解を助ける。効率的に指導ができるが、生徒が受身になる可能性がある。
1)確認する。
単独の内容を、文脈に沿って説明していく。文末は「〜だね」「〜だったね」などになる。
2)分析する。
複数の内容を関連づけて説明する。文末は「〜は〜である」「〜すると〜」「〜だから〜」「〜だが〜」「なぜなら〜」などになる。
3)解釈する。
本文にはないが、分析した結果導き出せる事柄について説明する。文末は「つまり〜である」「〜と考えることができる」などになる。
(2)発問
今まで獲得した知識やスキルを使って生徒に思考させて理解させる。生徒の活動は活発になるが、進度は遅くなる。2者択一や知識を問う閉じた発問と、いろいろな答えが予想される開いた発問がある。閉じた発問は初歩的であり、生徒の知識や理解を整理して新たな問題への準備という役割を持っている。開いた質問は、自由な思考や疑問を生み出すが、体系的に教えるには難点がある。うまく混ぜて使うと効果的である。
1)知識を問う。
以前に教えた知識であったり、常識であったり、時事問題であったり。
 2)本文から抜粋する。
「〜的?」「〜と言う考え方?」など、本文にある引き出そうとする正解の一部の語を使って誘導する型と、「理由は?」「言い換えると?」など概念的な語を使って誘導する型がある。いずれも、レベルとしては【L1】である。長々と抜粋した場合は、大事なところはどこかと問い正す。
答えが文脈の近くにあるものほど易しく、遠く離れたところにあるほど難しくなる。また、言い換えなどがある場合は複数ある。これらは【L2】になる。
3)要約させる。
文中の語を使ってまとめる。キーワードをしっかり押さえているか、論理的なつながりは正しいかなどをチェックする。できるだけ簡潔に答えるようにさせる。レベルでは【L2】〜【L3】になる。
4)解釈させる。
自分の言葉でまとめる。自分で言い換えの作業をすることになる。この場合も、言い換えるべきポイントをしっかり押さえているか、言い換えの言葉が適切かなどをチェックする。」【L3】になる。
5)感想や経験を問う。
読解したことについて、自分の感想や、似たような体験を問う。様々な答えが予想される。【L4】とする。
(3)指示
生徒にウエイトを置き、今まで獲得した知識やスキルで生徒に作業させて理解させる。理解が定着しやすいが、操作的になり生徒が受身的になる恐れがある。
読解の手掛かりになる作業させる。作業の規模によって、個人ワーク、ペアワーク、グループワーク、全体ワークに分類される。個人ワークは、一人読みやプリント完成などがある。ペアワークは、ペアリーディングや協同学習の手法がある。グループワークは4〜6人のグループに分かれて、比較的大きなテーマについて話し合ったりする。全体ワークはかなり大がかりな作業になる。


11.授業の大技・小技
 
いくらしっかりと教材研究をして、立派な目標を立てても、実際に授業で生徒に示す時に様々な工夫が必要である。
1)学習プリント
授業に入る前に配布するプリント。内容は、難読漢字、難解語句、学習のポイント。
難読漢字や難解語句は、事前に調べてくるように指示し、机間巡視をして点検する。学習のポイントは、その教材を読解するのに重要な点が挙げてあり、復習やテスト前の勉強での確認に役立つ。
2)ペアリーディング
協同学習の手法。左右あるいは前後の人とペアになって、1文ずつ交代で音読する。一斉音読では読まない生徒もいるし、曖昧なまま読み過ごしてしまう。この方法だと、必ず読まなければならないし、読めない箇所が明らかになる。また、席の近くの人と親しくなれる。4人組でサークルリーディングをすることもある。
3)レベル別発問
発問を用意する時にレベルを4段階に設定しておき、発問する前にレベルを生徒に提示する。【L1】は、答えを近くから1つある抜き出したり、簡単な知識を問う。【L2】は、答えを遠くから、あるいは複数抜き出したり、少し専門的な知識を問う。【L3】は、答えを抜き出すのではなく、要約したり、推測したりする。【L4】は、感想や意見や体験など、答えの決まっていないもの。
4)ホップ・ステップ・チェンジ、あるいはチーム、あるいはクラス
協同学習の手法。答えの複数ある発問や、やや難しい発問、要約、感想などを、まず自分で考えさせたりノートに書かせたりした後(ホップ)、左右(前後)の人と交流し(ステップ)、さらに前後(左右)の別のペアに伝える(チェンジ)。あるいは、ステップの段階で4人組になって発表させる(チーム)。あるいは、ステップ段階の後指名してクラス全体に対して相手の意見を発表させる(クラス)。一人を指名して発問する方法は、指名された生徒しか考えないことが多い。この方法だと全員が考え、口頭で伝えることによって自分の考えがより明確になるし、相手の意見を聞くことによって様々な答えがあることに気づく。
5)学び合いもどき
佐藤学や西川純が提唱している「学び合い」の手法を部分的に取り入れる。本来なら、授業の最初に5分程度指示をしたりプリントを提示して、その後は生徒同士の学び合いに任せる。私の場合は、1時間すべて任せることもあるが、勇気がないのと教えたいという煩悩が拭えないので、部分的に取り入れることが多い。個々の作業にする場合より、4人チームですることの方が多い。この方法の成否の鍵は指示やプリントにある。生徒が考えるのに値するような課題を、系統的に与えられるかどうかである。どうでもいいような課題設定では、生徒が食いついて来ないし、教師も惰性に流されてしまう。いい課題を設定するには、やはり教材研究を入念にしなければならない。
6)ファシリテーション・グラフィック
会議や話し合いの進行状況を箇条書きや矢印を使って図示していく手法であるが、授業の板書に転用する。筆者の意見を会議の発言と見なし、図示していく。筆者一人の考え方なので、論理的に矛盾は少なく、きれいにつながっていく。それを目に見える形で提示する。この方法によって、頭の中を整理することができる。
7)自力ノート法
教師が一切板書をしないで、生徒が各自でノートを作り上げていく。それまでに、いくつかのモデルを示すために教師が意図的な板書を見せておく段階が必要である。また、板書しやすいような説明や発問の工夫が必要である。ある範囲まで授業した後、ノートを作る時間を与える。教師は机間巡視をして、アドバイスをする。いいノートがあれば紹介したり、実際に板書させる。あるいは完成後ノートを回収して、優れたノートについてはプリントして配布する方法もある。さらに、ノートの展覧会として、生徒が他の生徒のノートを見て、優れたノートをに投票していく方法もある。
8)アンケート
 教材の内容に関して、興味深い項目について事前にアンケートをしておく。該当する部分を教える時に、その結果を公表する。内容主義を補助する方法だが、興味付けになる。その場で、挙手でアンケートをとる簡易的な方法もある。
9)心理テストもどき
 教材の内容に関連することについて、心理テストもどきの質問紙をする。生徒は心理テストが大好きであり、教材を自分事と重ねて理解できるようになる。これも内容主義の補助手段である。
10)ランキングゲーム
 答えが各自の価値観に基づいているために正解が決められないようなことについて、幾つかの答えを用意しておいて、まず自分でランキングした後、4〜6人チームで話し合って合意し、チームとしてのランキングを決定する。多様な価値観があることを実感させる目的がある。



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