エイジ
 
                       重松 清
    
 
 土谷先生はファイルを開いて明日の連絡事項を簡単に伝え、「それから」と口調を少し強めた。「警察のほうから各中学宛てに連絡がありました。例の通り魔事件のこともあるんで、学校や、特に塾や部活の帰りは、なるべく誰かといっしょに、明るい道を通って帰ること。あと、不審な人を見かけたらすぐに近くのオトナに連絡すること。いいですね」
 返事の代わりに、ざわめきが教室をめぐる。
 土谷先生もそれは覚悟していたんだろう、私語を注意することもなく、「わかりましたね」と形だけ念を押して教室を出ていった。
 通り魔───。七月の初め頃はみんな、その言葉を習ったばかりの英単語のようにぎごちなく発音していた。でも、二ヵ月たったいまでは耳にも口にもなじんで、まるで「通り魔」という苗字の人の話をしているみたいに、ぼくたちは帰りじたくも忘れて夏休み中に仕入れた噂話を交換していく。
 最初の事件が起きたのは七月二日の夜だった。帰宅途中のOLが、後ろから自転車で近づいてきた男に背中を棒のようなもので殴られて、全治一週間のケガを負った。三日の朝刊に載った。地方版の片隅の、ほんの十行ほどの短い記事だった。七月三日は期末試験の初日で、一コマめに数学をぶつけられていたこともあって、いや、そんなのなくたって新聞の地方版なんて誰も読んでないんだけど、とにかくぼくたちは数学の試験のことで頭がいっぱいで、通り魔のことはギャグのネタにもならなかった。
 でも、事件は、それからたてつづけに起きた。七月に八件、八月には十三件。犯行の手口はどれも最初の事件と同じで、被害者はいつも女性。ケガの具合は肩や背中や腕の打撲程度がほとんどだったけど、肩の骨を折った人や、とっさに身をかわしたのがあだになって棒が口元にあたり、鼻の骨と前歯を折った人もいた。
 七月の終わりに新聞の社会面で事件のことがわりと大きくとりあげられ、八月の半ば頃にはテレビの夕方のニュースにも出たせいで、「東京・桜ヶ丘ニュータウン」の名前はすっかり有名になってしまった。
 夏休み中は街のあちこちに警官の姿を見かけ、自治会でパトロールをする地区もあった。でも、犯人はまだ捕まっていない。似顔絵も出ていない。「男」としかわからない。八月頃には「東南アジア系の外国人」という噂が流れ、「三浪中の予備校生」という噂も聞いたことがあるし、たったいま後ろの席の伊藤由香梨が教えてくれた、伊藤の通う塾では「会社をリストラされたオヤジ」説も有力なのだという。

「飽きちゃったよ、もう、マジ」
 その日の昼休み、ツカちゃんはうんざりした顔で言った。まわりにいた男子にはウケたけど、女子からは「ひっどーい」と声があがる。
「だってさ、なんつーの? ぬるいよ、あいつ。たかだが骨折だもん、やった回数多いから盛り上がってるだけで、中身ぜんぜんつまんねえじゃん」
 通り魔のことだ。
「どうせやるんなら、もっと派手にやれっつーの。セコいと思わねえ? 骨折とか打撲とか、おまえ体育の時間でもそれくらいのケガするぜ。通り魔やるんなら、もっと気合い入れてさ、殺す覚悟でやんなきゃ、つって」
 女子のブーイングはますます激しくなり、男子も、ノッていいのか悪いのかよくわからず、そばにいる奴どうしで苦笑いを交わす。そんな反応を見て、ツカちやんはヘヘッと笑う。
 偽悪───という言葉があるのかどうか知らないけど、ツカちゃんはいつもワルぶった態度をとる。ヒンシュクを買うのを楽しむみたいに、ヤバいことばかり言う。深刻な話であればあるほど、舌はなめらかになり、頬がゆるんでいく。
「だいたいよ、通り魔の『魔』って悪魔の『魔』だろ? 悪魔にやられて全治一週間とかじゃ、デビルマンも泣くぜ。あいつなんて、通り魔じゃないね、はっきり言って。通りグソ、通りっ屁ってか?」
「やだぁ」と女子のブーイングは別のニュアンスになり、男子の苦笑いも、肩から力が抜けてしまう。調子に乗るとすぐに小学生レベルの下ネタに走ってしまうのが、悪い癖だ。
 ツカちゃんはさらに、シャドーボクシングをしながらつづけた。
「オレなら、相手は一人だけでいいから、そいつ思いっきり殴ったほうがいいけどなあ。どうでもいい奴を後ろから一発殴って逃げるんじゃなくて、むかつく奴をきっちりシメてやりてえよ。そうしねえと、なんか、気がおさまんねえだろ」
 パンチが、まわりの連中に向く。中山、大谷、コウジ、途中からはキックのジェスチャーも交じえて、海老沢、イシくん、シュンちゃん、タカやん、永田、大沢、そして、ぼく。
 あたるはずのない距離とスピードだけど、なにしろすべてがウケ狙いのツカちゃんだ、タイミングを見計らって「あ、悪い悪い」と一発ぶつけてくる可能性は大いにある。それを察した大沢やタカやんはおおげさに身をすくめ、仲間うちでいちばん臆病なコウジはジャンプまでしてあとずさった。ツカちゃんと付き合うのは、こんなふうに、けっこう面倒くさい。ぼくも二年生に進級して初めて同じクラスになったときは、うざったい奴といっしょになったなあ、と舌打ちしたものだった。
「まあ、とにかくさ、通り魔やるんなら気合い入れろっつーことよ。このままじゃ、もうみんな飽きちゃってさ、新聞にも載んなくなるぜ。次は、殺し、これっきゃないっ」
 さすがに、これはウケなかった。
 ツカちゃんは一瞬、ヤべえ、という顔になり、ぼくに目配せした。言いたい放題しゃべっているように見えて、じつは周囲の反応に敏感で、話が空回りしてしまうのが怖いのだ。
 しかたなく言ってやった。
「じゃあさ、ツカちゃん、女装して歩けよ。で、通り魔が襲ってきたら、逆にシメてやるの」
「いやーん、襲っちゃ怖ーいっ」
 ツカちゃんはしわがれた裏声を出して、オカマっぽく腰をくねらせた。今度は、なんとかウケた。ツカちゃんはまたぼくに目配せして、サンキュー、と伝える。ぼくも、おまえ調子に乗りすぎ、と目で返す。
 仲良くなった一学期の半ば頃から、このパターンを繰り返している。よく付き合うよなあオレも、と自分にあきれることもある。
 でも、年がら年中ふざけているツカちゃんだけど、ボケた部分を取り除いてみると、言っていることは、すごく、よくわかる。
 通り魔は、どうして見ず知らずの通行人を殴るんだろう。むかつく奴を殴ればいいのに。それとも、むかつく奴がいないから、通り魔になってしまったんだろうか。
 むかつかないのに殴る。なに? それ。見ず知らずってことは、自分とはぜんぜん無関係ってことで、好きとか嫌いとかもなくて、そんな人をいきなり殴る? 
 頭おかしいんじゃねーの? あんた。
 もし通り魔に会えたら、そう言ってやろう。

 その週の木曜日───九月十七日、しばらく鳴りをひそめていた通り魔が、また通行人を襲った。犯行時間は午後九時前。ちょうどその時刻、ぼくは塾から帰る途中だった。団地につづく坂道を自転車で上っていたら遠くでパトカーか救急車のサイレンが聞こえ、いっしょにいた佐伯と「通り魔かな」なんて話していたら、それがほんとうになってしまったのだ。
 今度もまた被害者は女性。携帯電話で話しながら歩いているところを後ろから殴られた。ケガじたいは、いつもどおりたいしたことはなかったけど、被害者は妊娠していた。殴られて転んだはずみにおなかを強く打って、流産した。生まれてくる赤ちゃんを緑豊かな環境で育てようと、先週、桜ヶ丘ニュータウンに引っ越してきたばかりだったという。
 金曜日の桜ヶ丘は朝から騒然としていた。ヘリコプターが何機も街の上空を飛び交い、朝刊も社会面のトップ記事で通り魔の事件を扱った。遅刻ぎりぎりで教室に駆け込んできた山野が、ワイドショーのスタッフが駅前の遊歩道でロケをしていた、と興奮した口調で言った。
 七月に初めての事件が起きてから約二ヵ月半、通算二十三件めの犯行で、ついに通り魔は全国版のニュースの主役になった。前の事件のときには「こんなのじゃみんなに飽きられちゃうぜ」と笑いとばしていたツカちゃんも、さすがに今度はどうボケていいのかわからないみたいで、だけど黙っていてはコケンにかかわると思ったのか、苦しまぎれに「隠れキャラ殺してどーするんだよ、あのバカ」と言って、やっぱりみんなからヒンシュクを買った。ぼくもツッコミやフォローは入れなかった。ツカちゃんの言葉にいっとう怒っていたのは相沢志穂だったからだ。

    

 十月八日の朝、教室に入るとすぐ、海老沢たちとベランダに出ていた中山に「エイジ、ちょっと来いよ」と手招かれた。みんな奇妙な顔をしていた。興奮しているような、あせっているような、でもどう興奮してどうあせればいいのかわからずに困っているような。
「どうした? なんかおもしろい話?」
 ベランダに出て、中山に訊いた。
 勢い込んで答えたのは、海老沢だった。
「あのさ、ゆうべ通り魔が逮捕されたって、知ってる?」
「マジ?」
「マジマジマジ、激マジ」
 他の奴らも、海老沢の話すテンポに合わせるみたいに小刻みにうなずいた。
「ゆうべの七時過ぎだったって。ウチの母ちゃんの友だち、警察の近所の定食屋でパートしてるんだけど、出前を届けに行ったら、もう警察、パニクってたって」と山野が言う。
 コウジが「そいでさ、もっとすげえんだよ、犯人、中坊だって」とつづけた。言い方も表情もおおげさで、山野の話のときとは違う、中山たちも、ほんとかよ、といったふうに笑いながら顔を見合わせていた。
「コウジ、それ、スゴすぎ」と、ぼくも苦笑いで聞き流す。
「まあ、あれだよな、もしマジに中坊だったら、けっこう盛り上がるけどな」と中山。
「でも、ガシチュウはないだろ。ナンチュウなら、可能性ないわけじゃないけどさ」と海老沢。
「ガシチュウでそんな根性入った奴なんて、ほら、ツカちゃんぐらいのもんなんじゃねーの?」
 調子に乗って言った中山を、海老沢は「あ、いまのツカちゃんに言っちゃおーぜ、ここにいるのみんな証人な、な? な?」と脅す。でも、実際には海老沢はツカちゃんを前にするとなにも言えないだろう。ツカちゃんは自分の悪口を言う奴も嫌いだけど、それを密告してくる奴はもっと嫌いなのだ。
「おっ、タモっちゃん、来たぜ」
 山野は教室に入ってきたタモツくんを見つけ、手振りで呼んだ。これも、ほんとうは調子に乗りすぎ。B級の連中に呼びつけられて素直に来るようなタモツくんじゃない。
 でも、タモツくんは机にカバンを置くとすぐに、ちょっと小走りにさえなって、ベランダに出てきた。なにかみんなに言いたいことがあるような顔だった。
「どうしたの、タモっちゃん」とぼくが訊くと、タモツくんはそこにいる全員を見回して、「通り魔のこと、おまえらどこまで知ってる?」と言った。
「どこまでって……だから、ゆうべ逮捕されたんだろ?」と海老沢。
「あとは?」
「中学生かもしんないって」とコウジ。
「あとは?」
「中坊ってのは噂だけどさ」と大谷。
「あとは?」
「ウチの母ちゃんの知り合いが警察に出前に行ったんだよ、それでわかったんだ、もう警察パニックだったって」と山野。
「そんなのべつにいいから、あとは?」
 タモツくんの顔と声は、しだいにいらだってきた。こういうときのタモツくんには、ツカちゃんとは別の種類の迫力がある。中山たちはけおされたように「それだけだよなあ」と言い訳めいたささやきを交わした。
「もうないわけね」
 タモツくんは念を押して、ちょっと考えてから、「これ、はっきり言ってヤバい話かもしれない」と言った。
「ヤバいって?」とぼく。
「犯人、ガシチュウの生徒の可能性あるから」
「はあ?」と中山が甲高い声をあげ、「マジ?」と海老沢が聞き返した。
 口をぽかんと開けたままの二人にタモツくんはなにも答えず、残りの連中も黙りこくった。みんな知っている。タモツくんはこんなときに冗談を言う奴じゃない。
 沈黙のなか、タモツくんの説明がつづいた。職員室では、いま、職員会議が開かれているのだという。ドアに『生徒入室禁止』の札が掛けられ、各クラスの日直が始業前に取りに来る学級日誌は、すべて廊下に出してあった。
「ふつうなら放課後だろ、あと昼休みとか。こんな時間に会議やるのって、ちょっとおかしいと思わない?」
 たしかに。
「それにさ、ここがひっかかったんだよ、職員室の電話、すげえ鳴ってんの。切ってもすぐ鳴るって感じ。なんか事件っぽいじゃん、そういうの」
 ほんとうだ。
「……先生とか、どんなこと話してたわけ?」と山野がうわずった声で訊いた。
「知らない。オレ、職員室の前、通っただけだから」
 タモツくんはそっけなく言って、中山たちが一瞬不満そうになったのを見逃さず、「気になるんなら、おまえら行ってくれば? まだ会議やってるぜ」と廊下のほうに顎をしゃくった。
 立ち聞きに向かうほど度胸のある連中じゃない。さっきと同じようにたじろぎながら、もごもごとなにかささやきあうだけだ。
「ちょっとさ、オレ、いま思ったんだけど」コウジがあせって言った。「だったらさ、犯人は今日学校来てないよな? そういうことだよな? ってことはさ、今日休んでる奴が犯人ってわけじゃん。な? そういうことだもんな?」
 その言葉に、中山たちの声が急ににぎやかになった。いますぐにでも欠席者の確認に他のクラスを回りそうな盛り上がりぶりだった。それを見るタモツくんの口元が小さく動いた。半分は、フフッと笑ったせい。残り半分は、そっか、そういうのが気になるわけね、おまえらーと声になるかならないかのつぶやき。
 タモツくんの目配せを受けて、ぼくはおしゃべりの輪から離れ、タモツくんのあとを追って教室に戻った。
 自分の席につくと、タモツくんはうんざりしたようにため息をついて、「死ぬほどバカ、あいつら」と言った。「もし、マジに犯人がガシチュウの生徒だったら、これから大変なことになるんだぜ。あいつら、なにもわかってないけど」
「うん……」
「大騒ぎになるよ。マスコミとか、すげえ集まってさ、たまんねえぜ」
 たしかにそうだろう。ぼくにも、中学生が通り魔事件の犯人だった場合の騒ぎは見当がつく。中学生の犯罪が最近クローズアップされていることも、知っている。近所の小学生を殺したり、学校の先生をナイフで刺したり、いじめで自殺したり、いろんなことが、ある。連続二十何件の通り魔は、中学生の犯罪としてどの程度のレベルなんだろう。軽くはないだろう、たぶん。一発勝負の派手な盛り上がりには欠けるかもしれないけど。
 ベランダの話し声がひときわ高くなった。
 振り向くと、中山たちが教室を覗き込んでいた。誰かを捜しているようなしぐさだった。
 なんだろう、と見ていたら、山野と目が合った。
「エイジ、ツカちゃん、まだ来てない?」
「ツカちゃん?」
 教室を見回した。いない。そこに、まるでタイミングを計ったみたいに、始業五分前のチャイムが鳴り響く。
 タモツくんが、ぽつりと言った。
「……シャレになんないよ、それ」
 ざわめきが教室をめぐる。「うそぉ」と女子が声を跳ね上げ、男子の誰かが「そんなことないよ、いくらなんでも」と笑う。ツカちやんは遅刻の常習犯だし、あれだけ通り魔をネタに冗談ばかり言っていたんだし、なにより、あいつが見ず知らずの通行人を殴る理由なんて、どこにもない。
 でも、タモツくんは「犯人が誰でも、理由なんて考えたらダメさ」と言う。
「通り魔に動機はないよ、快楽があるだけだから」
「殴るのが気持ちいいわけ?」
 ぼくには、よくわからない。
「殴るだけじゃないんだ」タモツくんは冷静な口調でつづけた。「殴る直前がいちばん気持ちいいのかもしれないし、逃げるときに快感があるのかもしれないし、新聞やテレビに出るのが楽しいかもしれないし……なにが気持ちいいのかって、そんなの百人いたら百通りあるんだ」
「そういうものなのかなあ」
「そうだよ」
 理屈は、タモツくんのほうが正しい。でも、なにか納得できない。筋道を通す以前のスタート地点で、違うよなあ、と思ってしまう。
 それにしても、ツカちゃんは遅い。教室のざわめきもしだいに重くなってきて、ツカちゃんの席にちらちらと目をやる奴らも増えてきた。
「あのさ、タモっちゃん」
「うん?」
「もし、ツカちゃんがマジ犯人だったら、どうする?」
「どうするって、そんなの、どうしようもないじゃん」
 あっさり言われた。
「でもさ……」
「だいじょうぶだよ、あいつは犯人なんかじゃないって。七月から三ヵ月だろ? あんな単純でおしゃべりな奴が、三ヵ月も黙ってられるわけないだろ」
「万が一ってこともあるじゃん」
「べつにいいよ、あいつの人生だし……」
 始業のチャイムが鳴った───と同時に、教室の前のドアが開いた。
「セーフ?」
 ツカちゃんが駆け込んできた。
 教室の空気が、ふわっとゆるんだ。
「なになに、おまえら、なに見てんのよ、照れるじゃんよ」
 ツカちゃんはいつもの調子で席につき、みんなもそれぞれ自分の席に戻っていった。安心した、でもちょっと拍子抜けした、奇妙な感覚だ。
 なにも知らないツカちゃんは、中山をつかまえて「いやあ、まいっちゃったよ、寝坊しちゃってよお」と気楽にしゃべっている。中山は見るからにおどおどと受け答えする。どうせあいつのことだ、ツカちゃんが犯人だと完璧に思い込んでいたんだろう。
「よかったな、なんか」
 ぼくはタモツくんに言った。
「べつにいいよ、どっちだって」とタモツくんの答えはいつもどおりそっけなかったけど、とにかくよかった、たとえ犯人が東中学の生徒だったとしても、知らない奴だったら、やっぱりひとごとだ。
 席に戻ろうとしたら、教室のドアがまた開いた。
 入ってきたのは、副担任の大野先生だった。
 けげんなぼくたちの視線を振り払うように、大野先生はせかせかした足取りで教壇に立ち、手に持った学級日誌を頭上に掲げて、「今日の日直って誰だ? 職員室に取りに来てなかったぞ」と言った。
 みんなの視線が、タモツくんの席の横に立ったままのぼくに向く。
 日直は席順で二人一組。今日は、ぼくとタカやんだった。
「なんだ、高橋か。おまえなにやってんだ、二のCだけだったぞ、取りに来てなかったの」
 大野先生は体育教師だ。水泳部の顧問をしている。怒ると学校でいちばんおっかない。左右のこめかみを握り拳でグリグリと押すのが、死ぬほど痛い。
 でも、ぼくたちは昨日のうちに分担を決めていた。ホームルームの司会はぼくがやる代わりに、学級日誌はタカやんの担当だった。
 なにやってんだよ、あいつ。
 タカやんを捜した。
 教室の真ん中から、ちょっと後ろ───縦に二つ並んで空席がある。
 ぼくの席と、タカやん───タカやん?
「なんだよ、タカやん休みなの?」と橋本が言った。
 教室がざわめく。
 大野先生は教卓に貼った席順表に目を落とし、なかなか顔を上げなかった。
 教室のざわめきはしだいに音が低くなり、そのぶん重さが増していく。
「ああそうか、石川貴史は欠席だな、連絡があったから」
 うつむいたまま言った大野先生の声は、気のせいじゃない、震えていた。

    

 翌朝、教室に入ってきた中山はカバンからスポーツ新聞を何紙も取り出した。学校に来る前にコンビニに寄って買い込んだのだという。「一人百円ずつな」とセコい商売をもくろんでいたようだけど、「ゴタク言ってんじゃねーぞタコ」とツカちゃんに新聞を奪い取られ、けっきょくみんなで回し読みすることになった。
 どの新聞にもタカやんのことが大きく載っていた。
 最初はみんな「タカやん、チョー有名人じゃん」なんて盛り上がっていたけど、記事をよく読んでみると、じつはタカやんは主役じゃなかった。
 どの新聞も、通り魔が十四歳の少年だったことに驚き、その驚きを読者と分かち合おうとしていた。タカやんは、顔も名前も出ていない。どんな奴だったかについても「公立中学に通うごくふつうの生徒」程度しか書いていない。呼び方は「少年」か「A」。それをすべて「石川貴史」に置き換えてみても、ぜんぜんタカやんにつながらない。犯行の動機も、ストレスとかマンガの影響とかゆがんだ性欲とか、いろんなことを並べ立てていたけど、どれもタカやんがじっさいに話したわけじゃない。
 だからなのか、記事を読んだあとも、なにかがわかった、という感じがしない。胸がもやもやする。タカやんが警察に捕まる前、正体のわからない通り魔について話していた頃のほうが、よほどすっきりしていた。
 みんなが読み終えた新聞を、自分の席で本を読んでいたタモツくんに持っていった。タモツくんは「べつにいいよ、スポーツ新聞なんて」と気乗りしない様子だったけど、「まあ、ちょっと読んでくれよ」と頼むようにして渡した。
 タモツくんは面倒くさそうに記事をざっと読んで、「ふうん」とうなずいた。
「なんかさ、犯人なんて誰でもよかったって感じしない?」と声をかけると、「そんなのあたりまえじゃん」とあっさり返された。
「未成年だから、やっぱり詳しく書くとヤバいのかなあ」
「それもあるけど、ようするにさ、誰でもいいんだよ。犯人が中学生だったってことが、今回の事件のウリなんだから」
「ウリ、ねえ……」
「流行ってるもん、いま、中学生」
「流行ってる」という言い方がおかしくて、思わず笑った。
 でも、たしかに新聞やテレビのニュースには「中学生」という言葉がしょっちゅう出てくる。いじめとか不登校とかナイフとか体罰とか、ろくな話題のときじゃない。「中学生」にくっつく言葉も、「キレる」とか「荒れる」とか「病んだ」とか「疲れた」とか「きしみ」とか「ひずみ」とか「悲鳴」とか「SOS」とか「行き詰まり」とか「窒息」とか……イオン式の空気清浄機と同じで、いやな言葉がどんどん「中学生」に引き寄せられているみたいだ。
 タモツくんは新聞の別のページにクロスワードパズルを見つけ、「あ、これレベル高そう」とつぶやいて、シャーペンを手に解きはじめた。
「でもさあ、名前が出ないのって、タカやんにとってはそっちのほうがいいに決まってるけど、なんかさびしい気しない?」
「名前が出ても同じだよ」タモツくんはパズルの升目をどんどん埋めていく。「オレ、賭けてもいいぜ、もしタカやんの名前が出てても、すぐにみんな忘れるよ。覚えてるのは、犯人が中学生っていうことだけだって」
「忘れるかなあ」
「オレらは違うさ、本人のこと知ってるんだから。でも、関係ない奴にとっては、『石川貴史』なんてどうでもいいんだよ。でも、『中学生』はみんなに関係あるだろ?」
 うまく答えられなかった。ぼくが思い描いた「みんな」は現役の中学生や中学生の子供がいる家族だけだった。
 あいまいな相槌の理由を見抜いたのか、タモツくんはパズルを解く手を休めずに、しょうがないなあ、というふうに笑った。
「ちょっとキザっぽく言うけどさ、人間には三種類しかないんだよ。わかる?」
 わかるわけない。
「これから中学生になる奴らと、いま中学生の奴らと、昔中学生だった奴ら。この三種類で人間ぜんぶだろ? だから、『石川貴史』と関係のある奴なんてほんのちょっとしかいないけど、『中学生』は日本中みんなに関係あるんだよ」
 なるほど、と半分思い、残り半分で、それ屁理屈じゃないのかな、とも思った。話を聞いているときには納得するけど、あとになって思い返すと「あれ?」と首をひねってしまう───タモツくんには、そういうところがある。イソップ童話のキツネみたいだ。
 タモツくんは「これ持ってっていいよ」とタカやんの記事が載ったページを抜き取って、ぼくに渡した。
「もう読まないの?」
「一回読めばじゅうぶんだろ、そんなの」
 ぼくはすでに三回読んでいた。
 そして、四回め。
「少年」の文字とあらためて向き合っても、やっぱりタカやんの顔にはつながらない。代わりに、
『少年マガジン』の表紙が思い浮かんだ。次に、テレビの『電波少年』。『十五少年漂流記』や『少年探偵団』なんていうのも浮かんだ。
 けっこうカッコいい言葉なんだな、と思った。

     

 土谷先生は朝のホームルームに来たきりで、数学の授業は自習になった。放課後のホームルームは大野先生が教室に来て、「特になにもありません」とだけ言って、そそくさと帰ってしまった。
 タカやんはどうなってしまうんだろう。
 先生は誰も教えてくれない。そもそも、タカやんが通り魔事件の犯人だったことも警察に捕まったことも、一度も説明されていない。それでいて「無責任な噂を流すな」とか「興味本位でおもしろがるな」とか、まだなにもやっていないうちからぼくたちを締めつけようとする。
 家に帰ってから、そのことが急に腹立たしくなってきた。
「それはまあ、しょうがないだろうな」
 父はぼくの不満を苦笑いで受け流して、「学校としてはな」と付け加えた。
「でも、なんか、ひきょうじゃん」
「ひきょうじゃないさ。お父さんがエイジのクラスの先生でも、やっばりなにも話さないと思う。エイジたちの気持ちはわかるけど、石川くんだっけ、彼の今後のことを思うと、たとえ同級生にでも話すわけにはいかんだろうな」
「プライバシー?」
「うーん、ちょっと違うかな」
「じゃあ、なんで?」
 重ねて訊くと、父は「待ってろ」と言って寝室に入っていった。
 父は、使い込んで表紙がぼろぼろになったファイルを手に戻ってきた。
「エイジは少年法っていうの、知ってるか?」
「うん、まあ……未成年だと名前出しちゃいけないんでしょ?」
「それだけじゃないんだ。ちょっと、ここ、読んでみろ。第六十一条のところ」    
 父はファイルから少年法のコピーを取り出して、ぼくに渡した。
『家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容貌等によりその者が当該事件の本人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない』
「だいじょうぶか? 難しい言葉があったら言えよ、説明してやるから」
「うん、でも、だいたいわかるから」
「だから、名前だけ仮名にすればいいってもんじゃないんだ。実際にはすごくいいかげんになってるけど、『桜ヶ丘ニュータウン』や『中学二年生』や『十四歳』っていうのも、厳密に言えば少年法に反してるわけだよな」
 父は「なんか授業みたいになってきたな」と笑い、その前の第六十条も読むように言った。
『少年のとき犯した罪により刑に処せられてその執行を受け終わり、又は執行の免除を受けた者は、人の資格に関する法令の適用については、将来に向かって刑の言渡を受けなかったものとみなす』
 これは意味がよくわからなかった。
「ちゃんと処分を受ければ、あとはもう、なかったことにするっていうのかな、こんなことをしてこんな処分を受けたんだっていうことじたい、正式にはなにも残らなくなるわけだ。なんでだと思う?」
「さあ……」
「間違ったことをしちゃっただけ、っていうことなんだ。立ち直るチャンスはいくらでもあるし、石川くんの場合はまだ中学生だろう? 義務教育を受けてる途中の、ほんとうにコドモなんだ。だから、せっかく反省して立ち直ろうとしてるときに、『あいつは昔あんなことをした』とか『あのときの犯人はあいつだったんだ』なんてずーっと言われちゃったら、困るだろう。マスコミで騒ぐ以上に、身近な友だちや近所の人なんかの評判って、大きな影響があるんだ。そこ、わかるな?」
「うん……」
「学校の先生は、やっぱりなにも言えないよ。エイジたちのこと信じてないわけじゃなくても、まだ処分も決まってないうちにしゃべっちゃったら、それこそ無責任だと思うな、お父さんは」
 父の言うことは、よくわかる。
 でも、「なかったことにする」なんて、ほんとうにできるんだろうか。ぼくたちは通り魔の事件を知っている。タカやんのことだって知っている。知っていることを二つ合わせて、そこだけ知らん顔をする───って、すごく難しいんじゃないかと思う。
 父は、ファイルから別の紙を出してテーブルに置いた。フローチャートのような図が書いてある。ちらりと目をやると、『逮捕』『家庭裁判所』『勾留』なんていう文字が見えた。
「どういう処分になるのかはわからないけど」と前置きして、父は『逮捕』から矢印をなぞりながら説明していった。
「まず、逮捕だ。そこから、四十八時間以内に身柄が検察官に送られる、と」
『逮捕』から『検察官』へと指が動く。『検察官』からは三本の矢印が出ていた。『勾留』か『勾留に代わる観護措置』か『家庭裁判所』。
「勾留って、なに?」
「家に帰さないってことだ」
 指が『勾留』へ動き、さらに『勾留延長』へ。
「勾留は最大十日間だけど、今回は実況検分にも時間がかかるだろうし、延長するだろうな。プラス十日間で、合計二十日だ」
 そこから、『家庭裁判所』。二十四時間以内に『観護措置』。
「裁判官が家に帰してもかまわないと判断したら在宅で観護っていうこともあり得るんだけど、犯罪として相当重大な事件だしな、身柄を拘束したまま観護……ようするに、少年鑑別所送りになるんじゃないかな」
「どんなことするの?」
「心理検査とか行動検査とか、その少年がどんな精神状態なのか、どんな環境で育ってきたのか、そういうのを調べるんだ。で、鑑別所に入ってる間に、家庭裁判所の調査官が事件の背景や少年のことを調べて、それから最終的な審判が出るわけだ」
 父の指は『審判』の上に来て、そこをトントンと叩いた。
「問題はここからなんだけど……少年院になるか、施設に行くか、保護観察ですむか……わかんないなあ、ちょっと。まだ中学生だし、初犯だし、家庭にも問題がないんだったら、保護観察になりそうな気もするけどなあ」
 仮に少年院に送られても、半年足らずで退院できるのだという。
 保護観察処分なら、鑑別所からすぐに帰ってくる。
「鑑別所にいるのは最大でも四週間なんだけど、お父さんの生徒なんかの例でいけば、まあ、ふつうは三週間ってところだな。エイジ、ちょっと計算してみろよ。十月七日か八日の朝に逮捕されて、保護観察なら、十一月中に帰ってくるんじゃないか?」
「うん……」
「な? だから、先生も軽々しく事件のことはしゃべれないんだよ。このままもう二度と会わない相手じゃないんだから」
 父はそう言って話をしめくくり、「はい、授業終わり」と紙をファイルに戻した。
 カレンダーを見ながら日にちを数えてみたら、ほんとうだ、十一月二十日過ぎに帰ってくることになる。
 そんなに早いんだ───と、意外そうな顔になったのが、自分でもわかった。

    

 週刊誌に、タカやんに襲われて流産した人の夫が書いた手記が載った。朝刊の広告ではトップ記事の扱いだった。テレビの情報番組でも紹介されていた。
 タイトルは、『少年よ、おまえは私たちの未来を奪った』。
「未来」というのは、文字どおりの未来に加え、流産しなければ来月に生まれるはずだった赤ん坊の名前でもあった。女の子。「未来」と書いてミクと読む。結婚五年めで初めての子供だった。
 手記の前半は、いまの妻の様子。毎日泣いている。事件直後は半狂乱の状態で、いまも精神的にひどく不安定なのだという。一人で外出できない。カウンセリングに通うときも付き添いが必要で、商社マンの夫は転職も考えている。事件の記憶は消えない。たとえ夫でも、誰かが後ろに立っただけで、その場にかがみこんで声をかぎりに叫んでしまう。「助けて?」ではなく「許してください!」と叫ぶところがかなしくてたまらない、と夫は書いていた。
 後半は、「少年」の犯した罪と、科せられる罰とのギャップについて。見ず知らずの通行人を次々に襲った犯人が、未成年だからというだけで、なぜ法に保護されなければならないのか。
「少年」と呼ばれて人権を守られ、たとえ少年院送致の処分になっても半年もすれば素知らぬ顔で街を歩けるというのは、どう考えてもおかしいではないか……。
 最後に、夫は「少年」に呼びかけていた。
 『私は、おまえが中学生であることが悔しくてたまらない。妻のために、生まれることすらかなわなかった娘のために、振り上げた拳を、私はどこに下ろせばいいのか。法はおまえを守るだろう。だが、おまえの心は、自分の犯した罪をちゃんと悔いて、そして裁いているのだろうか。私には信じられない。おまえがやがてこの街に帰ってきて、なにくわぬ顔をして暮らすのかと思うと、胸が張り裂けそうになってしまう』
 一行空けて。
 『私は、おまえを許さない』
 誰が買ってきたのかは知らない、教室に一冊あったその雑誌を回し読みしながら、ぼくたちは朝から放課後まで、まくしたてるようにしゃべった。
 「すっげーえ、復讐宣言じゃん、これ」とか、「タカやん読んでたら、マジ、ビビるよな」とか、「こーゆーのって、ゴーストライターっていうんだっけ、別の奴が書いてんだよな」とか、「こいつ、桜ヶ丘のどこに住んでんの?」とか、そんなことばかり言った。話したんじゃない。誰の言葉も受け取ってもらう相手がいなかったので、会話にはならなかった。でも、ぼくたちはみんな先を争うように、どうでもいいことを、はしゃいだ声で口にした。
 誰かが言った。
「文句あるんなら、タカやんにチョクに言えよなあ。オレらに言われたって知らねーよ。こっちに話、振ってくるなっつーの」
 ぼくもそう思う。そう思っちゃいけないんだろうな、ともわかっている。よく読み返してみたら、ぼくたちに向けた言葉は、手記のどこにもなかったんだけど。
 手記は、その日のうちに大きな反響を呼んだ。塾に出かけるぎりぎりまで観ていた夕方のニュースでは、いろんな有名人───政治家や評論家や芸能人がコメントを寄せていた。ほとんどが被害者に同情し、夫の主張に共感する声だった。最近の中学生は社会をなめきっていて、人間としての常識や倫理に欠けていて、犯罪もオトナ以上の凶悪なものが増えているので、いまの少年法では手ぬるいのだという。実名で報道して、刑罰もオトナと同じように科して、そんな子供を育てた親の責任ももっと厳しく問うべきなのだそうだ。
「まあ、しょうがないのかもね、こんなめちゃくちゃな世の中になっちゃったんだから」
 母はため息交じりに言って、「石川くんもかわいそうなコだけど、やっぱり被害者の人のこと思うとね」と付け加えた。
「なんでタカやんがかわいそうなの?」
 ぼくがあきれて言うと、母は「そりゃあそうよ」と、ぼくの口ぶりを叱るような強い口調で返した。「なにかがあったのよ、そうじゃなかったら、まじめでおとなしいコが、あんなことするわけないじゃない」
「ふつうの生徒」が、いつのまにか「まじめでおとなしいコ」に変わってしまっている。
 なんでそうなるかなあ、とぼくは首をかしげ、でもいつもみたいに笑ったりはしなかった。
 その代わり、こんなことを訊いてみた。
「お母さん、オレ、まじめでおとなしいコだと思う?」
 母は考える間もなく答えた。
「ぜんぜん」
「マジ?」
「あたりまえじゃない、あんたちっともまじめじゃないし、どこがおとなしいのよ」
 まあそうだろうな、と納得してうなずき、それでも、母親に「まじめじゃない」と面と向かって言われる奴って、じつはとびっきり「まじめ」なんじゃないかな、なんてふうにも思う。
「ねえ、お母さん、じゃあさ、オレ、ふつうの中学生?」
「ふつうでしょ、それは」
「ふうん……」
「それより、『オレ』ってのやめなさい。『マジ』とか、そういうのも」
 言葉づかいで母親に叱られて、「はーい」と謝るところなんか、まさに「まじめ」な中学生だ。
 でも、ほんとうに「まじめ」な奴だったら最初から自分のことを「ぼく」と呼ぶだろうし、「まじめじゃない」奴なら叱られて謝るもなにも、テレビを観てオヤツを食べながら母親と話すことなんかないのかもしれないし、だから、やっぱりよくわからない。ぼくは「まじめ」なのか「まじめじゃない」のか、そういうのをぜんぶひっくるめて、とりあえず「ふつうの中学生」ということ、なんだろうか。
 ぼくはタカやんのことを「かわいそう」だと思ってなんかいない。でも、手記を書いた人のように「許さない」とも思わない。
「かわいそう」と「許さない」の間に、ぼくの気持ちはある。それをどんな言葉で言えばいいのか、いまはわからない。

    

 塾に行っている間に、ツカちゃんから電話があった。今夜十一時からのニュースを観るように、と姉に伝言を頼んでいた。
「なんか、すごい盛り上がってたよ。死んでも観てくれってエイジくんに言っといてください、って」
 取材を受けたんだな、とすぐにわかった。伝言だけでも興奮した口調は想像できる。向こうから声をかけられたんじゃなくて、自分で売り込んだ可能性だってありそうだ。
 ウケ狙いでしゃべる。それはもう、確実。どっち方面にボケていくかも、だいたい見当がつく。ただ、あんな手記が出た直後の取材で、どこまでならボケが許されるか、あいつ、ちゃんと考えているんだろうか。そこが不安で、よけいなことしゃべらなきゃいいけどな、と思っていたら、不安はみごとに的中してしまった。
「お父さん、エイジの友だちテレビに出てるんだって」「塚本くんっていってね、ちょっとワルぶってるけど、いいコなのよ」なんて言って、風呂上がりの育毛マッサージをしていた父まで呼んだ母と姉は、テレビの画面に映ったツカちゃんを観たとたん、あぜんとした顔になった。
 腰穿きしたワークパンツのポケットに両手を突っ込み、上着は両胸と背中に竜が刺繍されたサテン地のスカジャン。カメラは斜め後ろからのアングルで、顔にはぼかしも入っていたけど、耳のピアスはしっかり映った。穴を開けずにつけられるバネ式の安いやつだけど、薄暗いせいでホンモノっぽく見える。黒いニットのキャップを深くかぶり、たぶん目は半分しか覗いていないだろう。手首のブレスレットと、中指にはめたスカルのシルバーリングと、手の甲に貼ったタランチュラのペーパータトゥーが、順にアップで映しだされた。
「塚本くんって、こんなコなの? もろバカじゃん」と姉が言った。
「気合い入れてお酒落してるつもりなんだよ、あれで」というぼくのフォローも、母の「こんなときにお酒落しようなんて考える?
ふつう」の一言で、あっけなくしぼんでしまう。
 インタビューの内容もひどかった。
 事件のことをどう思うか訊かれて、ツカちゃんはためらうそぶりもなく言った。
「通り魔だからっつって、べつにいいんじゃないスかあ? 誰も死んでないし、あ、ガキ死んだっけか、違うか、ま、いいや、それに前科とかって、なんかカッコいいっスよね。え? 前科つかないんスか? ガキだと? マジ? じゃあぜんぜん楽勝っスよお……」
 声はひらべったく処理されていたけど、へらへら笑いながら、ガムを噛んでいるんだろう、ニチャニチャという耳ざわりな音が交じっていた。
 手記についても、同じような調子で。
「ああ、あれね、読みましたよお、ほんと、大変でしたねっつー感じ? 災難っつったらアレだけど、運悪かったんスよね、あの人。これから夜道には気をつけましょう、っつーところスかね。え?
いや、だから読みましたよマジ、んな感じたことっつわれても、べつにだってオレがやったんじゃないし、あたりまえじゃないスか、やんないやんない、犯罪ダメっスよね、そりやダメっスよ、ああ、でもオレ、さっき楽勝っつったんだっけ、じゃあ、やっぱ、よくわかんないっスね……」
 画面は、トイレットペーパーを乱暴に引きちぎるような感じでスタジオに切り替わった。
 男女コンビのキャスターは、二人ともこれ以上ないほど倫然とした様子でモニターから顔を上げ、そろって深々とため息をついた。
「ツカちゃん、サービス精神ありすぎだよお」
 ぼくはおおげさにソファーに倒れ込み、「まいっちゃうよな、なんだよ、あれ」と天井を見上げて笑った。
 でも、家族は誰も付き合って笑ってくれない。
「こいつ、サイテー」と姉が吐き捨てるように言った。
 母も、キャスターに負けないくらい深いため息をついて、救いようがない、とでもいうように首をゆっくり横に振る。
 キャスターは、いまどきの中学生はこんなにもすさんでいるとか、通り魔事件はAくん個人の問題だけにとどまらないとか、そんなことを交互に並べ立てていた。きっと、いま、ツカちゃんは日本中を敵に回しているんだろう。バカだ。あいつ、死ぬほど、バカ。
「あんなのシャレに決まってるじゃん、ウケ狙いだって、なんでわかんねーのかなあ」
 今度も家族に無視された。
 ぼくは肩をすぼめて体を起こし、おそるおそる父を振り向いた。父はずっと黙っている。腕組みをしてテレビを観ていた。べつに驚いた様子じゃなかったし、怒っているような表情でもない。その沈黙が、さっきからいちばん怖かった。
 テレビがコマーシャルに切り替わる。
 姉は「いやー、ひさしぶりに見たね、天然バカ。テレビ局の仕込みでもあそこまではできないよ」と、あきれはてた顔と声で言って、自分の部屋にひきあげていった。
 母もうんざりしきった様子でチャンネルを替えた。しばらく、家でツカちゃんの名前は出さないほうがよさそうだ。
「エイジ」
 父が、テレビに目を据えたまま言った。
 ぼくはうつむいて、「なに?」と返す。
「おまえは、いまの、どう思うんだ」
「どうって……」無理に軽く笑った。「あんなのシャレだもん」
「シャレでもなんでもいい。とにかくどう思うんだ」
「……あんなことテレビで言うのって、ダメだと思う。ダメっていうか、よくないと思うけど」
「そうよ」母が口を挟む。「言っていいことと悪いことの区別ぐらいつけないと。あんなの非常識よ」
 父は母の腹立ちをいなすように、そうだな、とうなずき、ソファーから立ち上がって言った。
「お父さんの生徒にもたくさんいるよ、あんなこと言ったり作文に書いたりする奴」
「高校生と中学生は違うわよ」と母が言ったけど、父は「似たようなもんさ」と笑って、その笑顔をぼくにも向けた。
「塚本くんは通り魔になるタイプじゃないな」
 ぼくも、そう思う。
「悪いことはいっぱいやっちゃいそうだけどな」
 それも、わかる。
 でも、父が洗面所に戻って育毛マッサージのつづきに取りかかってから、ふと気づいた。
 通り魔になるタイプって、なんだ?
 リビングに残った母は、「あんたはぜったいあんなこと言っちゃダメよ」とか「あんなの被害者の人が聞いたらどう思うか、わかってんのかしら」とか、くどくどと言いつのる。
 ぼくは生返事を繰り返しながら、けっきょく父はなにを訊きたくて、なにを言いたかったんだろう、そればかり考えていた。

    

 始業前や休憩時間や放課後、ぼくたちはときどきタカやんの話をした。「タカやん、いまなにやってんのかなあ」とか、「鑑別所や少年院ってリンチあるんじゃねーの?」とか、「土谷ちゃん面会に行ってるんなら、なんかオレらにも教えてくれればいいのにな」とか、たいした話じゃないけど、いままでのような噂話の交換じゃなくて、カッコよく言えばぼくたち自身の言葉で、話した。
「少年」になってからのタカやんは、ぼくたちの知るタカやんじゃなかった。テレビや新聞や雑誌に出てくる通り魔の「少年」は、たしかにタカやんではあったけど、べつにタカやんである必要はなかった。昼休みの廊下や塾の教室でタカやんのことを話していても、テレビや新聞や雑誌の伝える「少年」の姿を説明し直しているみたいで、けっきょく十四歳の中学二年生なら誰でもよかったんじゃないか、とさえ思う。
 でも、いまは違う。ぼくたちは「少年」じゃなくて、たしかにタカやんの話をしている。
 だから、ぼくは気づいていないかもしれないけど、ほかの奴らもみんな、「タカやん、なんであんなことしたのかな」と口にしなくなった。いちばん知りたいことだから、その話題には触れない。答えが見つからないまま問いだけ残ってしまう気持ち悪さがいやだった。
 タカやんの机は、まだぼくの席のすぐ前にある。片付けていないということは、やっぱり、タカやんはもうすぐ教室に帰ってくるんだろう。
 授業中、ぼんやりとタカやんの机を見つめていると、不意に背中がゾクッとすることがある。
 ついこの間まで、タカやんはここにいた。ぼくと同じ教室で、同じ授業を受け、同じ給食を食べて、同じような毎日を過ごしていた。通り魔になる以前と、通り魔になってからのタカやんを、ぼくは見分けられなかった。なにも変化はなかったんだろうか。そんなことはないはずだ。ぜったいに、どこか、なにかが違っていたはずなのに、わからなかった。
 もしも、通り魔がもう一人このクラスにいたとしても、ぼくはそいつを見抜けないような気がする。というより、タカやんが通り魔になって警察に捕まり、ぼくたちの教室から姿を消した、そのことじたい、ひょっとしたら「たまたま」だったんじゃないか、なんていう気もする。ぬいぐるみを拾い上げるクレーンゲームみたいに、クレーンがたまたまぼくの前の席に座った奴をつかんで、遠くに連れ去ってしまっただけなんじゃないか、なんて。
 目をつぶり、頬づえをついて、通り魔になったタカやんのことを、ときどき考える。
 まず、自転車だ。マウンテンバイク。覚えてる。六月の日曜日に合唱大会の練習をしたとき、タカやんはマウンテンバイクに乗って学校に来た。まだ新しかった。ペダルに立ち上がってバランスをとりながら、校門の車止めの隙間をすり抜けたり前輪を浮かせたりして遊んでいた。
 キャップを目深にかぶる。色は、被害者の証言によると、黒。ナイキかdjホンダか、そんなところだろう。デイパックを背負う。色は知らないけど、黒っぽい色だと思う。デイパックのポケットに特殊警棒。後ろ手に取り出せるよう、ファスナーを半分開けて。
 夜の闇に紛れて、マウンテンバイクはゆっくりと走る。人通りの少ない道で標的を見つける。標的に気づかれないようライトを消して、後ろからそっと近づいていく。なにも知らない標的は、隙だらけで歩いている。女の人だ。年齢や外見の特徴はばらばらでも、とにかく女の人。
 タカやんは、どんな気持ちだったんだろう。興奮していたのか、冷静だったのか。襲う瞬間を思い描いて舌なめずりしていたのか、万が一失敗したときのことを思って不安に震えていたのか、それとも、成功が間違いないからこそ、震えるのか……。
 距離が少しずつ詰まっていく。静かに、静かに、マウンテンバイクは標的に迫る。
 デイパックのポケットから、特殊警棒を取り出す。あいつは右利きだから、たぶん右手で。いや、それとも、標的が歩道のどっち側を歩いているかで変えるんだろうか。タカやんの腕力、握力、よく知らない。体育はどうだったっけ。部活をやっている奴らほどじゃないけど、運動が苦手ということはなかったような気がする。足の速さは? 五月の運動会で、クラス対抗リレーの選手には選ばれていなかった。特に速いというわけじゃないんだろう、きっと。
 タイミングを計って、ペダルを踏み込み、一気にスピードを上げる。特殊警棒を握りしめた右手を振りかざす。
 向かい風。
 特殊警棒の重みと手ざわり。
 なんとなく───わかる。いや、やっぱり、わからない。
 標的の背中を、殴りつける。
 その瞬間、タカやんも標的も、ふっと消えてしまう。夜の闇だけが残る。
 ぼくはまだ目を開けない。
 タカやんの顔が浮かぶ。キャップはかぶっていない。教室にいる。ぼくの前の席に座っている。背中をよじってぼくを振り向き、明日の日直の分担を決めているところだ。
 「じゃあさあ、学級日誌はオレが書くから、ホームルームの司会はエイジってことでいい?」
 声が聞こえる。細く、ちょっと高い声。声変わりがまだ終わっていないのかもしれない。
 ぼくはそのとき、なんて答えたんだっけ。はっきりとは覚えていないけど、「わかった」とか「いいぜ」とか「オッケー」とか、短い言葉を、たいして気を入れずに返した。
 十月七日の放課後。それが、タカやんとぼくの交わした最後の会話だった。
 タカやんは、まさかその夜警察に捕まるとは思っていなかったはずだ。ずっとそうだったんだろうか。捕まるわけないと安心しきっていたのか、それとも、いつ捕まってしまうか心配でたまらなかったのか。
 最近、考えごとが疑問形のまま終わってしまうことが増えた。頭より胸が、もやもやする。
「わからない」が胸に降り積もるにつれて、いま自分が答えを探している問いまで、わからなくなってしまう。なにを「わからない」と思っているかが、わからない。ノートの真ん中にぽつんと「=」か「↓」のマークを書いて、あとは空白、そんな感じだ。
 夏休みの頃までは、胸の中はもっと単純だった気がする。毎日をシンプルに過ごしていた。なにも考えていなかったなんて言うとバカみたいだけど、ちゃんと自分で答えの出せることしか考えていなかったのかもしれない。
 バスケットボールは、ボールを持ったチームは三十秒以内にシュートしなければいけない。相手のディフェンスが堅くてどうしようもなくても、とにかく、打つ。ぜったいにはずれるとわかっていても、打つ。やけっぱちのシュートだけど、ボールが手を離れた瞬間のなんともいえない解放感が、いま、懐かしい。
 目を開けて頬づえをはずせば、タカやんの顔も声も、すべて消える。「わからない」がいくつも胸に残り、同じだけ「わかる」が体から離れてふわふわと漂う。
 そうして、ぼくは、通り魔のいなくなった街を歩き、タカやんのいなくなった教室で授業を受ける。
 十月がもうすぐ終わる。

    

 十一月二十七日の朝、一週間後に始まる期末試験の日程が発表された。ぼくたちがそれをノートに書き取ったのを教壇からたしかめた土谷先生は、「えーと、それで……」とつぶやくように言って、窓際の最前列、タカやんの席をちらっと見た。
 迷う顔になる。ためらっているようにも見える。「だから、なんだったっけな……」と間をとる声もくぐもった。
「まあ、とにかく、中間テストで失敗した人は、期末で挽回するようがんばってください」
 最後はどうでもいいことを言って、話をしめくくった。自分でもそれが悔しかったのか、教室を出ていくとき、後ろ手にドアを閉めるしぐさは、いつもより乱暴だった。
 タカやんの帰ってくるXデーが近いことを、ぼくはそれで知った。
 その日の昼休み、中山といっしょにトイレに行った。隣り合わせに並んで用をたしながら、中山に「ツカちゃん、どうしちゃったんだろうなあ」と心配顔で訊かれ、ぼくはあいまいにうなずいた。同じことは昨日、海老沢やコウジにも訊かれていた。いつもツカちゃんにやりたい放題されているのに、みんな意外と優しい。ツカちゃん、人気者じゃん、なんて笑う気にはならないけど。
 オヤジ狩りの現場を見て以来、ツカちゃんはずっとヘンだ。最初は二、三日もすれば立ち直るかと思っていたけど、逆にどんどん落ち込んでいる。いつも不機嫌な顔で黙りこくって、休憩時間もほとんど自分の席から動かない。ニキビが増えた。口の横に、黄色く膿んだブツブツがいくつもできている。薬を塗ってそっとしておけばいいのに、汚れた手ですぐにつぶしてしまうから、ところどころ、血のかたまりがかさぶたになっている。少し痩せたようにも見える。いまでも、あの血まみれのタオルが目に焼き付いたままなんだろうか。訊いても「うっせーよ」としか言わない。教えてくれないことが、たぶん、答えだ。
「なんかさあ、オレ思うんだけど……」中山が、ブルッと身震いして小便を切りながら言った。
「タカやんがいなくなってから、なんか、おかしいよな、みんな。ひと月半ぐらいしかたってないのに、すっげえ時間たったような気がしない?」
「する」
 その感覚、わかる。なにも考えてないように見えて、こいつも意外と一人になったらマジなこと、いろいろ思ってるのかもしれない。
「あいつ、もうすぐ帰ってくるんだろ? 期末とか受けるのかなあ。したらオレ、順位一コ、落ちちゃうよなあ」
 なんだよそれ、と笑った。せっかく見直してやったのに。ガキでも思いつかないような、つまらないこと言い出す奴だ。
 でも、中山は洗面台の鏡に向かって髪型を整えながら、笑っていない声で言った。
「だってよ、あいつ、通り魔だぜ? でも頭悪くないじゃん、オレよりいいもん。高校だってオレよりいいとこ行くよ、ぜったい。そういうのって、なんか、悔しくなんない?」
 ぼくは黙って小便を終え、中山の隣で手を洗う。
 中山は濡れた手を制服の裾で拭いて、言った。
「タカやんって、オレより幸せな人生送るのかなあ……なんつって」
 答えなかった。
 午後イチの授業は国語。給食のあとに渡辺先生のぼそぼそした声の授業を受けていると、眠くてたまらない。頬づえをはずせばそのまま机に突っ伏して、放課後まで寝入ってしまいそうだ。
 あくびをかみころして、教室を眺め渡した。タモツくんがいる。中山がいる。ツカちゃんもいる。相沢志穂。大谷。コウジ。ワタルっち。山野。橋本……。
 教室をめぐった視線は、最後に海老沢の背中にぶつかって止まり、なにも書いていないノートに落ちる。
「ここは期末に出しますから」
 渡辺先生の声に教室がざわめいた。みんな、あわててノートになにか書き込んだり、シャーペンを赤ペンや蛍光マーカーに持ち替えたりする。「ここ」を聞きそこねていたぼくは、まわりの席の奴らの教科書やノートを軽く覗き込んで、まあいいや、と顎をまた掌に載せた。
 先生がなにか冗談言って、前のほうで笑い声があがった。でも、それもすぐにしぼみ、教室はまた静かになる。
 窓をもう少し開けた。ベランダの手すりの間からグラウンドが見える。三年生の男子が、体育の授業でサッカーをしていた。
 ガタン、と机が揺れた。海老沢が引いた椅子の背がぼくの机にあたったのだ。海老沢は背中を低くして机に突っ伏し、昼寝の体勢に入った。缶ペンの中で、シャーペンやボールペンが触れあって音をたてる。海老沢の貧乏揺すりがこっちにも伝わる。ぼくはムッとして机を少し後ろに下げた。午後の授業中は、いつもこのパターンだ。「うっせえよ」と言っても、海老沢の奴、「癖なんだからしょうがねえだろ」と開き直って返す。
 タカやんはどうだったっけ。なにか癖があっただろうか。退屈な授業のときにはどんなことをして暇をつぶしていたんだろう。思いだせない。忘れてしまったんじゃなくて、最初から記憶にひっかかっていなかった。
 あくびが、また漏れる。まぶたに涙がにじんで、海老沢の背中がぼやける。
 隙だらけだ───ふと、思った。
 缶ペンからコンパスを取り出しても、海老沢は気づかないだろう。握りしめてもだいじょうぶ。針を向けてもわからない。息を詰め、タイミングを計る。振りかざさなくても、ただまっすぐに突けばいい。コンパスを握る指先に力を込めて、背中の一点をじっと見つめる。海老沢の背中は、息づかいに合わせてゆっくりと上下している。まったく警戒していない。後ろから刺されるかもしれない、なんて頭の片隅をよぎることすらないんだろう。かんたんだ。その気にさえなれば、かんたんに刺せる。狙う位置を背中から首筋に変えれば、殺すことだって……。
 窓の外に目を移した。まなざしだけじゃない、なにかをあわてて手元に引き戻した。まぶだが痛くなるくらい強くまばたいて、肩から力を抜き、なーんちゃって、と笑った。
 でも、海老沢の背中にまなざしが向き直ると、ぼくはまた幻のコンパスを握りしめる。「その気」になるぎりぎりまで思いを強めていき、不意にまなざしをひるがえして、深く息をつく。何度も繰り返した。繰り返すたびに「その気」になるかどうかの境界線があやふやになっていく。
「その気」が少しずつ近づいてくるのがわかる。遠近法の逆。遠くにあるときには乗り越えることも突き破ることもできないような高く分厚い壁だった「その気」が、近づけば近づくほど、ちっぽけでささいなもののように思えてくる。
 授業はあいかわらず退屈で、教室はあいかわらず静かだ。いやなことばかり思いだす。いまなにを思いだしているのかたしかめるのもいやな、そんなことばかり。海老沢は寝入ってしまったんだろう、貧乏揺すりがいつのまにか止まっていた。幻のコンパスを握りしめる掌がじっとりと汗ばんで、詰めた息が胸の底によどむ。
 何度めだったろう。
 水たまりをひょいとまたぐように、ぼくは境界線の向こう側に抜けた。
 幻のコンパスの針が、海老沢の背中に突き刺さった。手応えがあった。血が噴き出した。返り血を浴びた頬の、ぬるりとした温みがわかる。生ぐさい、鉄錆のにおい。初めてなのに懐かしい。ずっと昔、ぼくはあふれ出る血の中にいた。血に包み込まれ、血の中を泳いでいた。いつだろう。どこでだろう。
 チャイムが鳴る。
 海老沢はゆっくりと体を起こし、バーベルを持ち上げるような格好で、大きなあくびをした。
「エイジ、ガムかなんか持ってねーの?」
 振り向いて、目をしょぼつかせながら、言った。
 家に帰る途中、ぼくは何人もの人とすれ違い、何人もの人を追い越した。みんな隙だらけで歩いていた。いままでそんなの気にしたこともなかったけど、道を歩く人って、どうしてこんなに無防備なんだろう。
 歩きながら、ぼくは何度もため息をついた。「その気」をどこに隠しておけばいいかわからない。「その気」なんてないよ───とはもう言えない。ある。「その気」はぼくの中に、たしかにある。ある。ある。ここに。買い物帰りのオバサンを追い越しざま、幻の特殊警棒で殴った。信号待ちをしている小学生を、幻の両手でバス通りに突き飛ばした。
 胸がむかむかする。「その気」が体の中をナメクジみたいに這いまわる。いつか外に飛び出してやろうと、隙をうかがっている。タカやんのことを思う。通り魔の犯行と犯行の間、タカやんは「その気」をどこに隠していたんだろう。隙だらけのぼくの背中をタカやんが見る、そんなことも、きっと何度かあったはずなのに。

    

 月曜日、玄関から聞こえる母の声で目が覚めた。くどいほど何度も「気をつけてね」と言って、父を送り出していた。
 頭はまだ半分眠っていたけど、なにかあったな、と思った。
 枕元の時計のアラームが鳴る少し前、今度は母と姉の話し声が聞こえた。母は防犯ブザーの電池が切れていないかどうか確認しろと言い、姉はそれを面倒くさがって「心配性すぎるよ、お母さん」と返す。最後は口ゲンカみたいな調子のやり取りになって、けっきょく姉が根負けしたんだろう、短いけどびっくりするほど大きなブザーの音が玄関に響いた。
 その音で完全に目が覚めてしまい、なんなんだろう、とけげんに思いながらベッドから出た。カーテンを開けると、外はゆうべからの雨がまだ降りつづいていた。
 服を着替え、リビングに入る。あんのじょう、母は形だけ「おはよう」と挨拶して、すぐに「ちょっとエイジ、これ読んでごらん」と朝刊から地方版を抜き取って、ぼくに渡した。
 『相次ぐ傷害事件に不安つのる桜ヶ丘ニュータウン』───と見出しがついた、トップ扱いの大きな記事だった。
 ゆうべ、また通り魔が出た。男の人が襲われた。バス停から近道をして公園の中に足を踏み入れた直後、物陰にひそんでいた男にスタンガンを背中に押しつけられ、電気ショックでその場に倒れたところを、木刀のようなものでめった打ちにされた。被害者は大学生。 記事には、タカやんの通り魔事件をマクラに、ツカちゃんが現場を通りがかったオヤジ狩りや、中央広場のエアガンのことも書いてあった。駅の駐輪場の露出魔は出ていなかったけど、代わりに、初めて知った、駅前の遊歩道からバス通りを走る車に向けてレーザーポインターの光線をぶつける奴もいるらしい。先週、光をまともに目にくらった女性ドライバーの車がガードレールにぶつかる事故が起きたのだという。
 キッチンに立った母は、オーブントースターのタイマーをセットして、フライパンに卵を割り入れながら言った。
「ほんと、怖いわ。もう、めちゃくちゃな世の中だよね……」
 いつものつぶやきが、いつもより低い声で、ため息といっしょにこぼれ落ちる。
 ぼくは新聞を畳んで、うなずいた。認める。たしかに、めちゃくちゃな世の中だ。でも、それが特別ってわけじゃない。明日の朝刊にも似たような事件は出ているだろうし、ゆうべの夕刊にも載っていたような気がする。「めちゃくちゃ」が「ふつう」の世の中で、ぼくたちは暮らしている───そのことを、認めた。
 教室はゆうべの事件の話で盛り上がっていた。
 最初は中山たちがスタンガンの威力について興奮した口調でまくしたてていたけど、途中で犯人の話になると、珍しくタモツくんが口を挟んだ。誰かが「あのテのムチャする奴って、『愚蓮』しかいねえんじゃねーの?」と言って、ぼくたちも「だよなあ」と納得していたら、自分の席で文庫本を読んでいたタモツくんが振り向いて、「もっと頭使って考えろよ」と言ったのだ。
 うんざりした顔だった。もう聞いてられないよ、というような。
「なによ、じゃあ、タモっちゃん、見当つくわけ?」
 話の腰を折られた中山が少しムッとして言うと、タモツくんは文庫本にしおりを挟んで「おまえらよりは、つくよ」とそっけなく返した。
「なになに、じゃあ言ってみてよ」と海老沢。
「だからさ、ゆうべの天気考えてみろよ。雨だろ? けっこう強く降ってただろ。物陰にひそんでて、スタンガンあてて、ボコると、そいつもずぶ濡れになっちゃうんだぜ。しかも、金もとってないわけだろ。『愚蓮』でもなんでもいいけど、そこまでして通行人襲わなきゃいけない理由、どこにあるわけ?」
 たしかに、そうだ。
 タモツくんはさらにつづけた。
「それに、犯人は一人だったろ。『愚蓮』みたいな奴らだと、こないだのオヤジ狩りみたいに集団でやるんじゃないの? スタンガンの効き目だってさ、いまおまえらが言っているほどすごくないんだぜ」
「そうなの?」
「あたりまえだろ。なにが百万ボルトだよ、いいかげんなこと言うなよ」
 さんざんフいていた中山は、顔を真っ赤にしてうつむいてしまう。
「だから、被害者に逆襲される可能性だってあったんだよ。たまたま、襲った相手が弱かったっていうだけだったんだ。犯人は一人だぜ、逆襲されたら、捕まるよ。『愚蓮』の連中が、そんなへタ打つと思うわけ? ちょっとは考えてもの言えよな」
 キツい言い方だけど、筋道は通っている。みんなで感心してうなずいていたら、ふとツカちゃんの姿が目に入った。通学カバンを肩にかつぐように持って、おしゃべりの輪のいっとう外側に、ぼうっとした顔でたたずんでいる。ぼくの視線に気づくと、おう、と口を小さく動かして、タモツくんをちらりと見た。ふうん、あいつがしゃべってるんだ、というように。
「よお、ツカちゃん、いま来たのか」
 海老沢が声をかけると、「来ちゃ悪いのかよ」とぶっきらぼうに言って、空いた机の上に腰かける。
 大谷が「よおよお、タモっちゃん、犯人がわかってるんだってよ」と、スーパーマーケットの特売みたいに声を張り上げたせいで、タモツくんのまわりには女子も含めてクラスの半分以上が集まった。相沢志穂もいる。ぼくは相沢と目の合わない位置に移る。
「いいかげんなこと言うなよ、オレそんなこと言ってないじゃん」
 タモツくんは唇をとがらせて、でも悪い気はしないんだろう、ちょっと声を高めてつづけた。
「つまりさ、遊びで襲ったわけじゃないと思うんだ。もっと、せっぱつまって……たとえば、通り魔じゃなくて被害者の大学生に個人的な恨みがあったのかもしれないし、通り魔だとしたら自分でもどうしようもないような暴力衝動っていうか、狂気っていうか、そういうのを持った奴だと思うんだよ」
 胸がドキンとした。首の後ろで、「その気」が、寝返りを打つみたいに動く。
「だから、もし個人的な怨恨だったらオッケーだけど、そうじゃなかったら、同じようなこと繰り返す可能性あるよ。人食い虎じゃないけど、人を襲うことを覚えちゃったわけだから」
「すっげえーっ、プロファイリングみたいじゃん」と海老沢がおどけて言ったけど、そこでにこりともしないのが、タモツくんだ。
「襲うだけだったらまだいいけど、ケガさせるだけじゃ気がすまなくなって、犯行がエスカレートする可能性だってあるよな」
 女子の何人かが「やだぁ」と顔を見合わせた。
「まあ、警察もそこらへんは考えてると思うんだ。タカやんのときはめちゃくちゃ批判されたしさ、気合い入れるよ。警察と犯人の闘いだよ。なんだっけ、映画であったじゃん、ロバート・デ・ニーロが……」
 そのときだった。
「いいかげんにしろよ、てめえ!」
 怒鳴り声と、カバンを机に叩きつける音───ツカちゃんだ。
 ツカちゃんは「ちょっとどけよ、そこ」と前にいた連中をかき分けて、タモツくんに迫る。タモツくんは一瞬ビクッとしたけど、「なにアツくなってんの?」と笑った。
 その声のしっぽを押さえるように、ツカちゃんはタモツくんの胸倉をつかんだ。机や椅子が音をたてて倒れ、女子の悲鳴があがる。
 でも、次の瞬間、タモツくんはツカちゃんの右手をとり、手首をひねりあげた。短い気合いとともに腰を沈め、右手を離すと、ツカちゃんはあっけなく床に尻もちをつく。文武両道のタモツくんだ。合気道もそうとう強いという噂が、これで証明された。
 ツカちゃんはのろのろと立ちあがり、「なめんなよ……」と、うめくように言った。
「なにが?」
 タモツくんはうっとうしそうに聞き返す。
「てめえなあ、調子くれてっけどなあ、マジふざけんなよ」
「だから、なにがって訊いてるわけ」
「えらそーにしゃべんなっつってんだよ、犯人がどうしたこうしたっつってよお」
「はあ?」
「タモツ、てめえなあ、理屈こねるのもいいかげんにしろよ。ゲームじゃねえんだぞバカ野郎。人が、大ケガして、死ぬかもしんねえんだぞ、わかってんのかよ」
 ざわついていた教室が静まり返るなか、タモツくんもさすがに気まずそうに頬を引き締め、ツカちゃんから目をそらして言った。
「そんなの、オレだってわかってるよ」
「わかってねえよ?」
 怒鳴り声が、裏返った。
「なんなんだよ、なにキレてんだよ」
 タモツくんの声も負けずにとがってきたけど、ツカちゃんは一気につづけた。
「ふつうに歩いててなあ、なんにも悪いことなんかしてなくて、恨み買ったりしてるわけじゃないのに、いきなり後ろから殴られるんだぞ。へたすりゃ、頭かち割られるんだぞ、死ぬぞ、マジ死ぬぞ。怖えよ、オレ、マジ怖えよ。ウチ、母ちゃん仕事してんだよ、帰り遅くなるときもあるんだよ、こないだから、それ、死ぬほど怖くてよ、母ちゃん平気な顔してんだけど、オレがさ、ビビってんの、母ちゃん帰ってくるまで心配でさ、なんかよお、えらい親孝行になっちゃってんの……」
 言葉の後半は笑いに紛れた。でも、ぼくたちは誰も笑わない。母と姉の顔が、浮かぶ。もしも母や姉が通り魔に襲われたら───。いままでだって考えなかったわけじゃない。でも、初めてだ、首筋に鳥肌がたっているのがわかる。
「あのさ、なんでみんな人間の悪意を認めないわけ? 善意は求めるくせに悪意は認めないのって、身勝手じゃない? 通りすがりの人に優しくしてもらうこともあるし、ひどい目にあわされることもある、それがあたりまえの理屈なのに、みんな、知らん顔してるだけなんだよ。ツカちゃんが母ちゃんのこと心配するのは自由だけど、怖いとかいやだとを言う前に、それもあるんだってこと認めなきゃしょうがないじゃん。母ちゃんがバスに乗ってるときに具合悪くなって、知らない人に席を譲ってもらうことだってあるわけで、誰も譲ってくれなかったら、ツカちゃん怒るだろ? だったら、歩いてて通り魔に襲われる可能性だって認めろよ。困ってるときに他人の善意に期待するんだったら、いきなり他人に悪意をぶっけられることも覚悟してなきゃおかしいじゃん」
 タモツくんはそこで言葉を切り、ツカちゃんやぼくたちがどこまで理解したか確認するみたいに、視線をぐるりとめぐらせた。最初から最後まで冷静な口調だった。売り言葉に買い言葉じゃない。これはタモツくんの信条で、だからぼくたち少なくともぼくは、どこかが、なにかが、ほんのちょっと違うんじゃないかと思いながら、なにも言い返せない。
「だから、ようするにさ……」
「うっせえ! もういいよバカ野郎!」
 ツカちゃんは怒鳴り声でさえぎり、手に持ったカバンで机を一回叩いて、自分の席に戻っていった。
 タモツくんが言いかけた言葉は宙ぶらりんになったままで、始業のチャイムにもまだ間があった。でも、タモツくんは「予習するから」とカバンから教科書を取り出し、話のつづきをうながす奴もいなかったので、おしゃべりの輪はぎごちなくほどけた。
 違う───一人だけ、タモツくんの前に残った奴がいる。
 相沢だ。
「藤田くんの言ってること、あたし、違うと思う」
 タモツくんは顔を上げて、「どこが?」と訊いた。
 相沢はうつむいて、首を横に振る。
「なんだよ、それ」とタモツくんはあきれて笑い、使い込んだ英和辞典をぱらぱらめくった。
「わかんないけど……やっぱり違うと思う」
 相沢はうつむいたまま言って、タモツくんから離れた。涙交じりの声のようにも聞こえた。自分の席についてからも顔を上げず、なにかじっと考え込んでいるみたいだった。オレも違うと思う、相沢の言ってること合ってると思う……なんて、言いたくて、言えない。
 タモツくんはしばらく決まり悪そうにしていたけど、「ま、いいけど」と息をつき、ノートを広げた。

    10

 ぼくはいつも思う。「キレる」っていう言葉、オトナが考えている意味は違うんじゃないか。我慢とか辛抱とか感情を抑えるとか、そういうものがプツンとキレるんじゃない。自分と相手とのつながりがわずらわしくなって断ち切ってしまうことが、「キレる」なんじゃないか。
 体じゅうあちこちをチューブでつながれた重病人みたいなものだ。チューブをはずせばヤバいのはわかっているけど、うっとうしくてたまらない。細くてどうでもいいチューブなら、あっさり───オトナが「なんで?」と驚くほどかんたんにはずせる。でも、太いチューブは、暴れても暴れてもはずれない。逆に体にからみついてくる。
 キレたい。
 あとで結び直してもいいから、いまは、ぼくにつながれたものぜんぶ切ってしまいたい。
 ぼくは「中学生」で、父と母の「息子」で、姉の「弟」で、岡野やツカちゃんやタモツくんの「友だち」で、本条めぐみの「カレシ」で、相沢志穂に「ひきょう者」と言われ、タカやんの「同級生」で、バスケ部の三年生の「後輩」で、一年生の「先輩」で、「十四歳」で、「オトコ」で、「ぼく」で……。どれから断ち切っていこう。どれを、断ち切れるだろう。
 先生の声も黒板の文字も、ぜんぜん頭の中に入っていかない。海老沢の癖がうつったみたいに、膝が勝手に小刻みに動く。無理に抑えると、大声で叫びたくなる。椅子を後ろに倒して立ち上がり、机を両手でつかんで、窓ガラスに叩きつけて、何度も何度も叩きつけて、それから……遠くに、たとえばベランダから遠くに……。
 ふと思いついてコンパスをケースから取り出して、針の先を消しゴムに突き刺した。最初にグッと押し返してくる感触が伝わったけど、あとはすんなりと奥まで入っていく。針の根元まで沈めると、いったん抜き取って、もう一度。さらにもう一度、もう一度……。 何度か繰り返すうちに、気持ちが少しだけ落ち着いてきた。引き替えに、胸の別のところがざらつきはじめる。
 傷だらけになった消しゴムをぼんやり見つめ、ぼくはタカやんのことを思う。タカやんもあせっていたんだろうか。相沢に言われたことや、やられた仕打ちを思い出しては、胸がむかむかしていたんだろうか。コンパスの針を消しゴムに刺してもダメだったんだろうか。タカやんもキレたかったんだろうか。だから、あんなことをしちゃったんだろうか。首の後ろで、「その気」が爆ぜる。いいじゃんいいじゃん、もういいじゃん、どーだっていいじゃん───なんてリズムで、爆ぜる。
「先生」ぼくは立ち上がる。「あの、ちょっと頭痛いんで、保健室行ってきていいですか」
 とりあえず、「授業を受ける中学生」というつながりから、キレた。
 一階の廊下を保健室に向かう途中で、曲がった。昇降口で靴を履き替えて、外に出た。いい天気だ。校門までダッシュして、その勢いのままフェンスをよじのぼって、越えた。
「学校」から、キレた。
 駐輪場に母の自転車がないのをたしかめて、家に入った。時計を見ると十一時を少し回ったところだった。母は、みのもんたの番組には間に合うように帰ってくるはずだ。時間は、あまりない。
 キッチンに入り、電子レンジの下の隙間から茶封筒を取り出す。クリーニングの集金用のお金が、うまいぐあいにまだ三千円残っていた。
 十一時半。家を出た。自転車にまたがって、大きく深呼吸をした。どこに行こう。どこでもいい。ハンドルを握り、バイクにエンジンをかけるときみたいに手首をこねて、ペダルを強く踏み込んだ。
 ブチブチブチブチブチッと、チューブがちぎれていく。
 ぼくは、どんどん身軽になる。
 駅に着いた。自動券売機で切符を買った。乗り継ぎ二回。快速電車を使えば、一時間たらずで、渋谷。自動改札を抜けた。精算所の窓口にいた駅員がちらりとぼくを見たけど、なにも言われなかった。
 ぼくは「桜ヶ丘」からキレた。
 一人で渋谷に行くのは初めてだったけど、電車の中でぼくと似たような年格好の連中を見つけ、電車を降りてからも奴らのあとを追っていったら、かんたんにセンター街まで行けた。
 早足で歩けば数分で端から端まで行ってしまうセンター街を、何往復もした。なぜ渋谷なのか、なぜセンター街なのか、自分でもよくわからない。なんかパターンじゃん、とツッコミを入れられたら、なにも返せない。
 でも、キレていそうな奴はたくさんいた。逆ギレみたいな突発性じゃなくて、持続性……慢性でもいいや、そういうキレ方をしてるような奴が、この街のこの一角には、たくさんいる。一人で歩いている奴は、たいがいキレている。グループの中でも、一人や二人、キレていそうな奴はいる。十人近いグループなのに、全員ばらばらにキレている連中もいた。
 うざい───母が、いっとう嫌う言葉。姉やぼくが「うざいよお」とか「うぜーっ」なんて言うたびに、本気で怒る。「うざったい」はそうでもないのに、短縮形になっただけで急に神経を逆撫でする響きになるらしい。でも、「うっとうしい」でも「うざったい」でもなくて、いま、感じているのは、やっぱり「うざい」。
 こいつら、うざい。
 死ぬほど、うざい。
「その気」が首の後ろで爆ぜる。ぼくは、心おきなく「その気」をまなざしに載せる。前を歩くオンナの背中を、すれ違うオトコの脇腹を、幻のナイフで次々に刺していく。
 でも、ぼくの背中や脇腹も、きっといろんな奴らの手にした幻のナイフで血まみれになっているだろう。おあいこだ。
 帰りの電車の中で、ぼくはずっと眠っていた。キャップで顔をほとんど隠し、腕組みをして、途中で停まった駅をどこも覚えていない。穴ぼこに落っこちるような深い眠りだった。
 終点の桜ヶ丘の駅に着き、折り返し運転の案内をするアナウンスで目が覚めた。電車から降りると、ホームを吹き渡る強い風がキャップのツバを少し持ち上げた。額の生え際にたまっていた汗に風が触れて、冷やっこい。
 けっこー楽になれたじゃん、と思った。
 一日を、まだ終わらせたくない。姉が言うように、ぼくはキレてもすぐに結び直すタイプの奴で、じっさい、もういくつかのチューブはぼくの体につなぎ直されているような気がする。それでも、あと少しだけ、このままでいたい。

    11

 ショッピングセンターの駐輪場から自転車を出して、ゆっくりとスピードを上げていく。今日は西の空の夕焼けがきれいだ。ショッピングセンターの裏口には、工務店のトラックが停まっていた。荷台に金銀のモールや大きな鈴が載っていた。それを見て、今日から十二月なんだ、と気づいた。今夜中に飾り付けをして、明日の朝には、桜ヶ丘でいっとう最初にジングルベルが鳴り響くんだろう。
 バス通りの交差点を曲がる。ペダルを動かさず、でもブレーキはかけず、ハンドルさばきだけでカーブをなぞる。体を内側に倒して外にふくらむのを抑え、ぶぃいん、ぐぉうぉん、なんてバイクの真似をして喉の奥を鳴らした。
 今日は火曜日、塾のある日だけど、もうそんなのどうでもいい。無断で欠席すると、すぐに家に電話がかかってくる。それでいい。父や母に叱られてみたい。どうせなら、すごく理不尽な、めちゃくちゃなことを言われたほうがいい。いやな両親にむかつくほうが、意外と子供は楽になるんだってこと、父や母にはどうしてわからないんだろう。
 自転車を走らせる。スピードをぐんぐん上げる。四つ角に出るたびに、思いつくまま右折したり左折したり、まっすぐ突っ切ったりする。陽は暮れ落ちた。もうちょっと遠回りをしたい。向かい風にあおられないよう、キャップを何度も目深にかぶり直し、いまいる場所も向かっている方角もわからないまま、あえぐ息でペダルを踏み込んでいく。
「その気」をどこに隠そう。静かに眠ってくれる場所がいい。首の後ろなんかじゃ近すぎる。もっと体の、心の、奥深く。
 タカやんもオレみたいに「その気」の隠し場所に苦労して、けっきょく隠しきれなかったのかな───なんて思って、なに言ってんだよ違う違うと打ち消した。「みたいに」の使い方が逆だ。オレもタカやんみたいに。でも、それも同じことなのかな。どうなんだろう。
 タカやん、早く帰ってくればいい。許すとか同情するとか関係なく、ぼくたちは同級生で、同じ教室にいて、あいつはあっち側に行って、ぼくはこっちにとどまって、でも根っこのところはつながっている、それをたしかめたい。ぼくはタカやんじゃないし、タカやんもぼくじゃないけど、ぼくは、タカやんとの違いじゃなくて、あいつと同じなんだと噛みしめることで、タカやんにはならないんじゃないか、そんな気がする。
 急な上り坂に出た。ライトのモーターをタイヤから離してペダルを軽くして、蛇行しながら、ゆっくり上っていく。坂の途中で左に曲がった。平らな道だった。そろそろ帰らなくちゃと思い、電柱の住居表示を確認しようと道の端に寄った、そのとき───。
 暗がりに紛れて気づかなかった、すぐ前を歩いていたオバサンが、「きゃあっー!」と悲鳴をあげて身をひるがえし、買い物袋で顔をかばった。
 ぼくは急ブレーキをかける。最初はなにがなんだかわからなかった。通り魔と間違えられたんだ、と知ると同時に顔から血の気がひいた。
 オバサンは買い物袋に体ぜんぶを隠そうとするみたいにその場にしゃがみこみ、「誰か来てえー!」と金切り声を張り上げた。
 違いますよ、ぼく、違いますよ、なに言ってるんですか、ちょっと、やめてくださいよ、人が来ちゃうじゃないですか、ぼく、違うんですよ……。声が出ない。通りの先から、誰か駆けてくる。何人もいる。背中からも、男の怒鳴り声が聞こえる。
 逃げろ、早く逃げろ。でも、ブレーキを握り込む両手はこわばってしまって動かない。
 オバサンは地面に尻もちをつき、ぼくから逃げようと尻と足だけであとずさる。胸元をかきむしるように手が動く。
「違うってば!」
 やっと声が出た。
 その直後、オバサンの胸元で、けたたましいブザーの音が響き渡った。

 派出所の警官が教えてくれた。
 ぼくは自転車のサドルから地面にずり落ちて、倒れた自転車の下敷きになったまま、パトカーが駆けつけるまで「違います違います」と繰り返していたらしい。
 誤解が解けても立ち上がれなかった。腰が抜けるという感覚を初めて知った。
 泣いていた。自分では覚えていない。派出所に連れていかれ、熱い缶コーヒーを飲ませてもらって、やっと涙が止まったと気づき、それで初めていままで泣いていたんだとわかった。
 父が派出所まで迎えに来た。学校に着ていく背広だったから、警察から電話が入ったのは帰宅してすぐだったのかもしれない。
「そのまま家に帰ってもらってもよかったんですが、やっぱりショックもあるでしょうから」
 警官はそう言って部屋の隅に座ったぼくを振り向き、「もうだいじょうぶだよ」と声をかけた。
 ぼくは黙って顔を上げる。目が合うと、父は笑いながら「災難だったな」と言った。
「まあ、おとつい事件があったばかりで、いまは皆さん神経質になってますからね。息子さんには申し訳なかったんですけど、自転車が無灯火だったってこともありますし……」
 あのババア、ぶっ殺してやる。嘘だ。そんな力、どこにも残っていないし、ぼくを見たときのオバサンの、目を大きく見開いて、頬をゆがめ、口をわななかせた顔は、いまもはっきりと覚えている。
 タカやん、オレはもう、ここまでおまえと同じになった。だから、だいじょうぶ、オレはおまえじゃない。助手席に座って、シートベルトを締めると、すぐに車は走りだした。二人きりの気まずさを感じる暇もなく、窓の外の風景は見慣れたものに変わる。
「朝からいろいろあったんだってな」
 父は、ふと思いだしたように言った。怒った声じゃなかった。「お母さん、なにやってるんだって、ぷんぷんしてたぞ」と伝える母の様子も、そんなに怒っていないように思える。だから、ぼくはなにも答えない。答えない代わりに、目がうるんでくる。
「夕方、友だちがカバン持ってきてくれたって。中山くんと、あと海老沢くんだったかな、海老原くんかな、二人で来たんだ。エイジのこと心配してたってさ、すごく」
 あいつら、家、遠いのに。
「塚本くんにB棟とD棟を間違えて教えられたんで、別の家のチャイム鳴らしたりして、大変だったみたいだぞ」
 わざとだな、ツカちゃん。でも、そういうことできるんだったら、もうだいぶ立ち直ったのかな。クスッと笑って、目にたまった涙をまばたきで押し流した。
「お父さん、さっき電話で『警察ですが』って聞いたとき、一瞬思っちゃったよ、エイジがなにがやっちゃったのか、って……目の前が真っ暗になっちゃったな」
 笑いながら言って、「でも」とつづける。
「お母さんなら、ぜったいに『エイジじゃない! あの子はそんなことしない!』って言うよ。どんなに証拠があっても、お母さんはずうっとおまえを信じるだろうなあ」
 ぼくはうなずかなかった。父も母も、ぼくを信じているんじゃなくて、ぼくが「少年」にならないことを信じているだけだ。でも、ぼくは両親に「少年」になったぼくのことも信じてもらいたい。嫌いになっても、かまわないから。

    12

 予感がある。朝起きたときには胸の隅に兆していただけだったのが、いまはもう、胸を内側から押し上げているみたいで、息苦しささえ感じてしまう。
「ツカちゃん」
「うん?」
「今日、タカやん学校に来るかもな。勘だけど、なんか、そんな気がする」
 ツカちゃんは、今度もあまり驚かなかった。「試験も終わったしな」とオヤジみたいな言い方でつぶやいて、「可能性はあるよな」とうなずいた。
「ツカちゃん……どう?」
「どう、って?」
「タカやんのこと許せないって言ってたじゃん」
 返事はなかった。昇降口で靴を履き替えている間も、階段を上るときも、ツカちゃんはじっと黙りこくり、ときどき喉を、長く尾をひいて鳴らした。
 先を歩くツカちゃんの背中に、ぼくはそっと苦笑いを送る。ツカちゃんは変わった。悪い意味じゃない。「エイジが学校フけちゃったとき、なんか、やられちゃったよっつーか……すげえへンな気分になったの」と言って、それしかぼくには話さないけど、口の横のニキビはもうだいぶ減った。試験中も休憩時間になると中山たち相手にボケまくった。みんな「やめろよお」とか「ツカちゃん、頼むよマジ」なんて言いながら、はっとした様子だった。
 ツカちゃんはズボンのポケットに手をつっこんでいる。ポケットの中になにが入っているのか、ぼくは知らない。日帰り家出の翌日、「その気」の話をした。ツカちゃんは「ふうん」と、わかったようなわからないような顔でうなずくだけだった。それ以上はなにも言わない。訊かない。信じてる───なんて照れくさくてカッコ悪いから、ぜったいに言わない。
 廊下を進み、二年C組の教室のすぐそばまで来て、やっとツカちゃんは口を開いた。
「タカの顔見てからだよな、わかんねーよ、そんなの、いま訊かれたって」
 顔だけぼくを振り向いて、「だろ?」と怒った声で言いながら、教室のドアを開けた。
 先に気づいたのは、ぼく。教室の中に入りかけたツカちゃんの足も、すくむ。
 予感は当たった。タカやんは、十二月の席替えでも一人だけ変わらなかった窓際の最前列の席に座って、机の上の缶ペンをじっと見つめていた。
 まだ誰とも話をしていない、と中山が言った。
 声をかけた奴もいない、と海老沢がつづける。
 教室の重心が後ろにかたよってしまったみたいに、タカやんのまわりだけ、机や椅子のくすんだ黄色とパイプの灰色がやけに目立つ。男子はベランダと教室の後ろにかたまり、女子もいくつかのグループに分かれて、ささやき声が揺れる。
 タカやんは静かに教室に入ってきたのだという。うつむいてドアを開け、前もって土谷先生に聞いていたのか、まっすぐに自分の席に向かい、うつむいたまま座った。
「なにやってんだよ」ツカちゃんは中山たちをにらみつけた。「おめーら、それボケーッと見てたんだろ?声ぐらいかけてやれよ、タコだなてめえ」
「だってさあ……」と中山は口ごもりながら返し、海老沢と二人で「そんなの言われたってなあ」とうなずき合う。
 でも、ツカちゃんはそんな言い訳じゃおさまらない。
「こーゆーのってタイミングがいちばんだいじなんだよ、わかんねーのかよ、こうやってよ、あいつ入ってくるだろ、そのタイミングで、よお、とか、おはようーっす、とか、パッと入ってパッと言う、それしかねーんだよ」
「だったらツカちゃん、いまから言ってよ、それ」と海老沢。
「……だからよ タイミンクずれちゃったからよ、いまさらヘンだろ、そんなの」
「オレらはそうだけと、ツカちゃんはいま来たばかりだから、いいんじゃねーの?」と中山。
「……教室に来た順に決まってんだろ、バカ」
 ツカちゃんが中山の頭をはたくのをよそに、ぼくはタカやんの背中を見つめる。
 やっと会えた。うんと遠くにいて、でも誰よりもぼくのそばにいたあいつが、もうぼくはあいつじゃないし、あいつはぼくじゃない、それがはっきりとわかる位置に、いま、いる。
 痩せたかな、少し。でも、ぼくは逮捕前のタカやんの背中を覚えているわけじゃないから、太ったかな、ちょっと───と言い換えても間違いじゃない。ただ、どこかが、なにかが、九月の頃とは違っている。事件のことを反省して人間がひとまわり大きくなった?邪悪なものが抜け落ちてさっぱりした? 違う、そういうんじゃない。もっとシンプルで、もっとわかりやすくて、タカやんという人間の根っこが、だから「人間」なんて言葉をつかうからわかりにくくなるんだ、タカやんの体の根っこが……。
「あ、そっか」
 思わず声が出た。「なになになになに、どした、どした」と勢い込むツカちゃんをはじめ、まわりの奴らがいっせいにぼくを振り向いた。
「いや、あのさ、タカやん、背が伸びたんじゃないか?」
 みんなの視線は、今度はタカやんの背中に向く。「そう言われてみればそうかなあ」とコウジが言い、「うん、伸びてるわ」と大谷がうなずいた。ほかの奴らも、あいまいな感じではあったけど、それを認めた。
「なんだよあいつ、クサい飯食って背が伸びたって? しょーがねえなあ、マジ、家でなに食ってたんだよ」
 ツカちゃんの言葉に、みんな吹き出して笑った。空気がいっペんになごんだ。タモツくんがうんざりした顔で「背筋伸ばして座ってるから、そう見えるだけなんじゃないの? たった二カ月で、後ろから見てわかるほど背が伸びるわけないだろ」と言ったけど、それも、ぼくたちのなごんだ空気にもうひとつオチをつけてくれただけだった。
「じゃあ、一発め、オレいくわ」とぼくが言った、そのとき───教室の真ん中に集まっていた女子のグループがざわめいた。
 みんなが止めるのを振り切って、一人でタカやんの席に向かうオンナがいる。
 相沢志穂だ。
 タカやんの前にまわった。タカやんも顔を上げる。ビクッとしたように肩が揺れた。教室から、声や音が消えた。
 相沢は息を肩で吸って、ちょっとうわずった早口になって、でもはっきりと通る声で言った。
「ずーっと考えてたんだけど、心当たりなかったんだけど、もし、あたしがなにかいやなこと石川くんにしちゃったんだったら、ごめん、謝ります、ごめんなさい」
 頭をぴょこんと下げて、「以上っ」と号令口調で言って、タカやんの席から離れた。胸を張って、少し頬が赤かったけど、女子の誰かと目が合うと、気持ちよさそうに笑った。
 タカやんはなにも答えない。ただ、いままでより、うつむく角度が浅くなった。
「エイジ、すげえな、体育会系女子って」とツカちゃんが耳打ちする。「おまえ、尻に敷かれちゃうんじゃねーの?」と、もっと小さな声で付け加えて、脇腹を肘で何度も小突く。
「うっせーよ、ヘンなこと言うなよ」
「顔、赤いっすよ、エイジさん」
「いーかげんにしろっつーの」
 一発、脇腹を小突き返してやった。
 ツカちゃんは笑いながらぼくから離れ、海老沢が持っていた写真週刊誌を「ちょっと貸せよ」と取って、丸めて筒にした。それを手に、口の前で人差し指を立ててぼくたちを見回し、男子の他のグループや女子にも同じように、黙ってろよ、と伝えた。
 ツカちゃんは、ゆっくりとタカやんの後ろに近づいていく。抜き足差し足の泥棒の歩き方をおおげさに真似て、そんなことをするからみんな笑い声をこらえるのに苦労してしまうんだけど、タカやんは気づいていない。隙だらけの背中だ。寂しそうにも見える。ツカちゃんは、その背中に、写真週刊誌の筒を一発───。
 パーン! と大きな音がした。
 タカやんは、体を半身にして、椅子からほとんど転げ落ちそうな感じで手足をばたつかせた。顔が見える。よっぽど驚いたんだろう、目を見開き、口をわななかせ、頬がひきつっていた。
 そんなタカやんの、耳というより顔に声をねじ込むように、ツカちゃんは言った。
「タカ、てめえ、びっくりしたろ。ビビったろ。びっくりするんだよ、人間、後ろからいきなりやられたらよお。痛えんだよ、殴られたらよ、殴られる理由がなかったら、もっと痛えんだよ。わかってんのか、このバカ野郎、わかれよ、ぜってーわかれよ、それ、わかんねえんだったら、てめえ、殺すぞマジ、死ぬまでぶっ殺してやっからな、そこんとこ、よろしくっ」
 最後の最後で、ずっこけた。ぼくたち、みんな。
 そして。
 タカやんも、笑った。何度も何度も大きくうなずいて、笑いながら、手の甲を目にあてた。
 始業五分前のチャイムが鳴る。

    13

 午後、二コマつづきの美術の授業で中庭に出た。先週から校内の写生をしている。みんなは先週のうちに下書きを終えて、今日の色づけで仕上げることになっていたけど、先週日帰り家出をしたぼくは、一日で下書きから色づけまでこなさないといけない。
 たっぷり三十分かけて、学校じゅうまわった。
 タカやんはひとりぼっちじゃなかった。ワタルっちと永田と三人で、マイナー系らしく校舎の裏のウサギ小屋を描いていた。九月の頃と、なにも変わらない。
 ぼくはたぶん、これからもタカやんとは同級生以上の付き合いはしないだろう。タカやんはいつも遠くにいて、お互いの記憶に残るようなできごとは、なにも増えないだろう。ひょっとしたら、オトナになったぼくが思いだすのは、「同級生にタカやんという奴がいた」じゃなくて、「同級生が通り魔になった」かもしれない。でも、中学二年生の秋から冬にかけての日々を、ぼくはこれからもずっと忘れない。
 中山と海老沢は、グラウンドの水飲み場で描いていた。二人を見つけると、ツカちゃんは小躍りしながら近づいていき、いきなり中山の手から絵筆をひったくって、二人の画用紙に「お日さま」を描いた。
 タモツくんはプールのスタート台に座り、水を抜いて落ち葉が降り積もったプールを描いていた。「あんな場所、ふつう選ばねえだろ。やっぱ、タモツって変わってるよなあ」とツカちゃんは首をひねり、どこか嬉しそうに耳打ちした。メロンパンのことも教えてやったら、もっと嬉しそうな顔になるだろう。でも、ぼくは言わない。タモツくんとの、ゆーじょう、だ。
 最後に、体育館。
「オレ、邪魔だったらどこか行ってようか?」
 ツカちゃんは、さっき山野からせびり取ったミントタブレットを噛みながら言った。
「あのなあ、ツカちゃん、マジいいかげんにしろよ」
「なに怒ってんだよ、めでたい話じゃんよ」
「……どこがだよ」
 相沢志穂は、体育館の二階の観客席にいた。仲良しの水島康子とおしゃべりしながら絵筆を動かしていた。
「相沢ちゃーん」
 ツカちゃんがおどけて声をかけると、「やだぁ、ちょっと見ないでよお!」とあわてて画板を裏返しにして、ツカちゃんの後ろのぼくに気づいて、「今日から?」と訊いてきた。
「そう、今日から」
「膝、ほんとにだいじょうぶなの?」
 母みたいなことを言う。オンナだから、なのかな。
「なんとかなるよ、痛くなったら休めばいいんだし」
「春の大会、出られるといいね」
「うん……」
「あのさぁ……。タカやんのアレ、よかったのか?」
「なにが?」
「心当たりないわけだろ。ちゃんとタカやんに訊いたら教えてくれるんじゃないか? それに、ひょっとしたら『A子さん』って相沢じゃないかもしれないし」
 水島が隣で、そうそうそう、あたしもそう思う、というふうに何度もうなずいた。ツカちゃんも「だよなあ、納得してないのにとりあえず謝るっての、日本人の悪い癖だよ」と、わけのわからないことを言う。
 相沢はちょっと困った顔になって少し考え、それを振り払うように大きくうなずいて、言った。
「いいの、これでオッケー。自分でも知らないうちに誰かを傷つけちゃう可能性があるってことで、いいじゃん、いい勉強っての?
そういうの、できたもん」
 ツカちゃんも水島も、そういうものなのかなあ、という表情を浮かべた。
「でもさあ、フツーだと傷つかないのに、勝手に傷ついて、逆恨みとかする奴いるじゃん。そういうの、怖くない?」とぼくは言った。
 相沢は、今度はすぐに答えた。
「怖いけど……」そこから少し間が空いて。「負けてらんねーよ」
 ガッツポーズをつくった。
 グッと力んで、笑った。
 ぼくがいままで見たなかで、それが、相沢の最高の笑顔だった。
 渡り廊下に戻って、描きかけの二枚の絵を見比べた。
 ツカちゃんの「お日さま」、意外と悪くない。いつかテレビで観たニューヨークの地下鉄の落書きに、こんな感じのがあったような、なかったような。
 今年の秋は雨が多かった。急に暑くなったり寒くなったりした。エルニーニョがどうしたとか、地球温暖化がどうしたとか、オゾンホールがどうしたとか、楽しいことはよくわからないけど、地球はいろいろ大変なことになっているらしい。それに比べれば、日本の、東京の、桜ケ丘ニュータウンの、ガシチュウの、二年C組の、ぼくなんて、死ぬほどちっぽけで、だけど、ちっぽけはちっぽけなりに、いろいろ大変なんだ。
 でも、相沢志穂みたいに言おう、何度でも言ってやろう。
 負けてらんねーよ。
 ぼくはいっとう太い絵筆をとった。筆に直接、赤の絵の具を絞り出した。ちょっとだけ水につけて、コンクリートの床に大きな──ぼくの顔ぐらいある「お日さま」を描いた。
「あ、エイジ、おまえなにやってんのよ、ヤバいよ、オレらがやったって一発でわかっちゃうじゃん」
「いーのいーの」
 サインも入れよう。
 ふと思いついて、『Eiji』じゃない、『Age』と描いた。
 ツカちゃんはサインを覗き込んで、不思議そうに首をひねる。
「なに、この『アゲ』っての」
 ボケてるわけじゃなさそうだ。
「ツカちゃん、おまえ、英語勉強しないとマジに受験ヤバいぜ」
「はあ?」
「来年だもんなあ、もう、受験」
「うん……だよなあ、早えよなあ、チューガクって」
「コーコーなんて、もっと早えってよ、姉ちゃん言ってた」
 ぼくたちは、タイミングを合わせたみたいにため息をついた。空を見上げた。薄曇りの空に浮かぶ幻の「お日さま」が、まぶしい。空の、ずっと高いところに、飛行機雲が見えた。ところどころ途切れながら、まっすぐに、遠くまで。
 
 予感はあった。朝七時二十分にベッドから起き上がった、そのときに、すでに。
 廊下に出ると、玄関で靴を履いていた父が、見送りの母より先にぼくに気づいて、「おう、おはよう」と声をかけてきた。「今日からだな」
「うん……」
「無理しちゃダメよ」と母のいつもの心配性を、ぼくは苦笑いで受け流す。
「まあ、部活だけがすべてじゃないけど、好きなことはどんどんやれ。な?」
 父は顔の前で親指を立てた。いかにも「若い奴らの流儀を真似てみたおとーさん」っていうぎこちないポーズだったけど、ぼくは小さく同じポーズを返した。「父親と心の通い合った息子」なんて。
 父はこの数日、帰りが遅い。ゆうべも終電で帰ってきた。クラスの生徒がまた一人、学校をやめると言いだしているらしい。
 テツがいつか言っていた話がほんとうかどうかは、知らない。これからも父に訊くことはないだろう。たとえそれがほんとうのことでも、ぼくは父を嫌いになんかならない。
「でも、好きなことばっかりやられてもねえ」母がおおげさなため息をついて言った。「もう来年のいまごろは受験の追い込みよ?
今度の期末、ほんとにだいじょうぶだったの?」
 ぜんぜんだいじょうぶじゃない。昨日、最後の科目の試験が終わったときには、ドツボにはまった気分だった。でも、とにかく試験は終わったんだし、あとは冬休みを待つだけだ。
「楽勝だよ、そんなの」
 軽く笑って答え、父に「行ってらっしゃい」を言ってリビングに向かった。
 予感がある。消えていない。
 ダイニングテーブルには姉がいた。トーストを頬ばったまま「おあよう」と言う。色気もなにもない。ありすぎても困るけど。
 姉は、キレたぼくのことを「日帰り家出少年」と呼んだ。弟から見る姉って、不思議な存在だ。両親よりも近いのに遠く、なにを考えているのか同級生の女子よりも謎に満ちているのに、不意にびっくりするほど近くに来ることがある。姉もときどき、こつそりキレているのかもしれない。そんなことも、なんとなく思う。
 テーブルにはおかずの皿が置いてあった。スクランブルエッグとプチトマトとレタス。日帰り家出以来、レタスのかさは一気に増えた。付け合わせというより、これはもうレタスサラダだ。母はわかりやすい。でも、「お母さんの発想って、なんでそんなにわかりやすいわけ?」なんて訊いたら、きっと母は「わかりやすくしないとあんたにわかんないからでしょ」と返すだろう。それも、わかりやすい。
 朝刊をめくった。「少年」の事件が、ひとつ。暴走族に入っている十七歳の「少年」三人が、族を抜けようとした同じ十七歳のなんとかさんをリンチして死なせた。「少年」は被害者になると、実名報道に変わる。「さん」まで付く。
 囲み記事は海外のニュースだった。高校を一年で中退してアメリカに渡った、これも十七歳のなんとかさんが、スケボーの大きな大会で三位入賞した。写真付き。もみあげの長い坊主顔のなんとかさんは、ボードを楯のように立てて、Vサインで笑っていた。「夢はまだ始まったばかりです」というコメントもあった。でも、写真撮影の次の瞬間、キレた奴の握りしめたナイフが背中に突き刺さることだって、「あり」だ。それはもう、どうしようもなく「あり」で、でも、だからって、ぼくはぼくの生きる世の中から逃げだすわけにはいかない。
 地方版に、スタンガンの通り魔事件のことが載っていた。ゆうべ、桜ケ丘に住む二十代の無職の男が任意同行を求められ、警察で事情を訊かれているという。
 もし、そいつが犯人だったら───。

 ホームを歩いていたら、いま乗ってきた電車にタモツくんが駆け込むのが見えた。最初はびっくりして、ああもう学校終わってる時間なんだと気づき、タモツくんの顔がすごく懐かしく思えてきた。
 浮き立つ気持ちを抑えながらタモツくんの乗った車両に近づいていき、ホームからひょいと覗き込んだ。ぼくは、たったいま通りかかったようなお芝居をして、「よお、タモっちゃん」と無理に笑いながら、がら空きの車内に入った。タモツくんはそれでやっと我に返ったのか、食べかけのメロンパンをあわててベーカリーの袋にしまい、膝にこぼれた砂糖やパンくずを手で払った。でも、口のまわり、というより頬全体に砂糖がついて、テカっている。クールなタモツくんにはいちばん似合わない姿だ。
「これから塾?」
 隣に座って訊くと、タモツくんは質問を先回りして「ここでなにか腹に入れとかないと、十時過ぎまで飲まず食わずだから」と答えた。
「それよりエイジ、おまえどうしちゃったの、今日。カバン置いたまま行方不明になっちゃったって、大騒ぎだったんだぜ」
「うん……」
「土谷ちゃんなんて、自殺したんじゃないかってマジで顔面蒼白になって探しまわってたもん」
「なんで自殺しなきゃいけねーんだよオレが」と口では笑ったけど、明日土谷先生に叱られる前に謝ろう、と決めた。
「タモっちゃん」
「なに?」
「昨日、タモっちゃん、善意が『あり』なら悪意も『あり』だって言ってたじゃん」
「うん、まあ、そこまで単純に言ったつもりはないけど」
「悪意って、善意より強いんだと思う?」
「はあ?」
「だって、なんか、善意負けっぱなしじゃん。もう連戦連敗って気がしない?」
 タモツくんはあきれたように首をかしげ、「勝ち負けの問題じゃないと思うけどさ」
 ホームの反対側に、また都心からの電車が入ってきた。タモツくんの電車はその電車と入れ替わりに出発する。
「もう電車、出るぜ」
 言葉どおり、ベルが鳴る。ぼくは「じゃあ、また明日」と電車から降りた。こっちを振り向いて挨拶を返してくれるだろうかと思ったけど、タモツくんはホームに背を向けて、膝に載せたカバンから参考書を取り出していた。
 日付が変わる少し前、ツカちゃんから電話がかかってきた。
 取り次いだのは母。最悪だ。応対の声が思いっきり不機嫌そうだった、とツカちゃんはぼくが電話に出るとすぐ言った。でも、そのツカちゃんの声だって、思いっきりしょげかえっていた。
「エイジんちで、オレ、ヒンシユク買いまくり?」
「買いまくり。もう、アウト」
「……そっか、そうだよなあ……」
「シヤレ、かましすぎだよ」
「わかってるよ、それくらい。もうさあ、テレビ観た瞬間、ぶっ倒れちゃったよ。なんなんだよこのクソガキ、ぶっ殺してやろうか、って」
「日本中のみんな、そう思ってるかもよ」
「だよなあ……」
 そうとう落ち込んでいる。こんなツカちゃん、初めてだ。
 自分がなにをしゃべったかはちゃんとわかっているし、スタジオでどんなふうにウケるかも計算ずみだった、という。ところが、実際にテレビの画面で観た自分の姿や言葉は、予想をはるかに超えていた。
「邪悪だよ、悪の化身だよ、オレ。なんであんなふうに映っちゃうんだよお、カンベンしてくれよって感じでさ、もう自分でも信じらんねえの、あんなのオレじゃねえよなあ。そう思わなかった?」
「……いつもと変わんねえよ、ツカちゃん」
 ため息が、ぼくからツカちゃんへ、ツカちゃんからぼくへ、一往復。
「誰も途中でツッコミ入れてくれねえんだもん」
「あたりまえだろ、そんなの」
「でもよ、おまえなら、ああいうとき、どんなこと言える? なんか言えることある?」
「いや、それはさ……」
「石川くんも反省してると思います、とか言える? ボクも人の痛みがわかる人間になりたいと思います、石川くんに代わってボクからも被害者にお詫びいたします、そんなこと、おまえ言える?」
 ため息が、今度はぼくからツカちゃんへの片道。
 ツカちゃんは苦笑いの声を返して、「ボケるしかねえじゃんよ」と、つぶやくように言った。