エイジ 感想1

1)犯人がタカやんと分かった時、クラスのみんなはどんな気持ちだっただろう。次の日の教室の様子を見ていると、なんか特別落ち込んでいるような様子は私には見えなかった。それが残念なような気がする。それから、まだタカやんが学校に来ていてみんなが通り魔事件の話題をしているとき、どんな気持ちで聞いていたんだろう、何が理由でやったんだろうと思った。
2)犯人のうわさでも、その人物像に当てはまる人にとってはやってないのに冷たい目で見られたり差別されたりするから、話の中で話題にしない方がいいと思う。
3)エイジとツカちゃんの関係がよく分かった。9月17日の「通り魔事件」が起きた次の日、学校でそれが話題になり、そしてまたツカちゃんがいらないことを言った時、いつもフォローしてくれるエイジが、フォローしなかったのは、ツカちゃんの言葉に一番怒っていたのがかわいい相沢志穂だったから言わないところとか、すごく中学生らしいというか、何か私的には好きだった。もし友達や身近にいる人が犯人である可能性ができたら、やっぱり気になるし、そうでないと信じたい。けどを知らない人や、自分の関係のない人なら、全然気にならないと思う。やっぱり他人は他人なんだなと思った。
4)最近でもよく聞く話題なのに、私には通り魔の怖さがわからない。実際にあわないと「怖い」としか言わない、そうしていつの間にか忘れて、そんなことあった?なんて言っている。人間なんてこんなものかなあって思ってしまう。いつだったか春日丘中の方での事件。「てるくはのる」がみんなの話題になったのを覚えています。みんなそれぞれ楽しそうに言葉の謎を解きやっていました。私も友達とその話に花を咲かせていたけれど、犯人が死んで「てるくはのる」の意味が分からなくなり、みんなその話をぷっつり辞めて次の話題に花を咲かせていました。それは自分の知っている人じゃないからすぐに話題を変えられるかもしれない。
5)私の中で今までで最も身近な無差別な事件は、日野小学校の事件です。あの事件は確か犯人が自殺してはっきりした動機を分からなかったと思います。でもその事件にしろこの通り魔にしろ、犯行を行うにはやはり動機があると思います。しかしこの2つには共通して「無差別」という点があります。私もエイジと同じ気持ちになりました。どうして見ず知らずの人?どんな理由で?さっぱり理解できませんでした。
6)通り魔が近くであったら、すごく怖いと思う。私も日野の事件があったとき、部活中だったけど、顧問の先生がその話をして、みんなを下校させた。しばらくは、みんなその話ばかりしていた。やっぱり近くでそういう事件があったら、毎日の話のネタにしていたし、夜1人で歩いている時とかは、みんなが犯人みたいに思えてしまって、怖かった。捕まったときは、ちょっとだけ安心した。
 
1)この話の最初の方は、なんだかとても身近に感じることばかりだ。通り魔なんて、やっぱり今、この現在ではもうすっかり定着している単語だし、いつこんな事件が起こってもおかしくないと思う。実際、学校生活を送ってきた中で、何度もあった。だからこそ、この中学生たちのように面白がったり、うわさを聞くにも慣れている。事件というよりは、もう日常の一部分になった感覚です。多分この中学生も同じなんだろうなぁと思います。
2)私は、中学の時に同じような体験をしました。近くの小学校で突然殺人事件が起きました。その時はびっくりして、「こんな身近で」て低感じで実感がわきませんでした。その日からマスコミや警察がいっぱいいました。そしてマスコミが「犯人は中学生」ということが流れた。その時、春日丘中学校に犯人がいるかもって思いました。だけどそのときの気持ちはすごく複雑な気持ちでした。それから、犯人が分かり、春日丘中の生徒ではないことが分かったときは、何かほっとしたような変な感じでした。
3)身近に通り魔がいたという珍しい設定だった。とはいえ、実際のところかなりその当事者に近くなければどうでもいいことだが。通り魔の動機だが、どうでもいいことだと思う。他人のことなど分かりようがないし、わかる必要もない。動機など分かったところで、何もしようがない。そういうものだ。
4)僕も、もし、通り魔の犯人が、同じ学校にいたら、中山君たちのように、はしゃいでいたかもしれない。けどよく考えてみると、同じ学校に犯人がいると考えたら、もし、仲のよかった友達だったら、その子が何を思い詰めてそのような行動を起こしたのかが気になると思う。後、マスコミなどがたくさん来ることによって、未成年の権利が生かされていないと思う。中学生は、精神が不安定な時期だから、ちょっとしたことでも、腹が立ち、あのような行動を起こしたのかもしれない。
5)「中学生」って流行っているから余計に、それだけで取り上げるというのがよくある事だけど、「やっぱり中学生だし」とか、おばさんとかよく言いそうと思った。中学校の時に、ただすれ違ったおばさんに言われたことがある。髪を染めていただけで、そんな言われ方されやすかった。この話でも「中学生」ってことだけでと書いてあって、そこのところを読んだときちょっとむかついた。「中学生」やからって何?髪染めているからって何!みんながみんなそんなん違うって思った。
6)ツカちゃんが冗談か分からないけど、やるなら徹底的にやらアカンっていうてたけど、私も少しそう思った。通り魔が中学生というのにもびっくりしたけど、犯人が同じクラスのタカやんだったことが1番びっくりした。でも、回りの友達や親はタカやんのことを、なんか気になることはなかったのかなと思った。
7)自分の身近に連続通り魔がいたら、私はどうするだろう。同じ学校で全然知らない人とかだったら、このエイジの話みたいに名前だけとかこの学校の人らしいというぐらいしか覚えていないと思う。でも、同じクラスで仲の良い人とか、よく話す人だったら。私の行動は、避けたり、話をしなくなったりと、差別的な扱いをしてしまうと思う。この話では、この後どういう展開になるだろう。私の考えてるみたいにみんな避けるのか?今は、それが気になります。
8)近くの小学校であった事件を思い出した。その時僕は部活動をしていた。部活動をやり始めてしばらくたったら、先生たちがいっぱいグランドの方に来た。僕はその時、「何があったんやろう?」と友達と話していた、先生が、メガホンスピーカーで、「部活動している生徒たちは、直ちに集合しなさい」と言った。グランドではどよめきが走った。僕は興奮した状態で「何があったん?」と友達に聞いた。そしてみんなが集合して先生が「今さっき、近くの小学校で何者かによって生徒が刺された」と言った。その時またどよめきが走った。そして先生が「静かに」と言いながら話をつづけた。「まだ犯人が近くにいる可能性があるので、すぐにクラブ活動をやめて帰りなさい」。僕は「これマジ!?」と言いながら友達と話していた。そして先生が「帰るときはひとりで帰らないで、複数の人で帰りなさい。」と言った。僕は近所の友達と一緒に帰った。僕は冗談を言いながら、回りを気にして帰った。回りは妙に静かで、空にはヘリコプターが無数に飛んでいる。そしてその日の夕方、お母さんとその話をしていると、お母さんが「そんなわけないヤン」と否定していました。それにキレた僕は、意地でも信じさせようと思いテレビをつけたら、そのニュースが流れた。そのとき僕は変な感じだった。
9)犯人が中学生なら誰でもいい。この言葉がショックだった。確かに中学生の事件が多発しているかもしれないけど、だからといって、ひどいと思う。私の回りの友達にタカやんみたいな人、つまり実は犯人だったという人がいたら、私はどうするだろう。きっと何もできない。悪いことをしているんだからかばうこともできない。だからといってけなすこともできない。私はその人のために何ができるかという答えがこの先わかればいいなと思った。

1)私も日野小事件の時に犯人探しをしていたのでこの情景はすごくよくわかります。あの時もマスコミで1度犯人は春日丘中の生徒じゃないかというようなことが言われたので私はなんかドキドキしていました。いつ私が被害者になるかとか、マスコミにインタビューされてテレビにうつるじゃないかと普段とは違うことばかりでした。
2)一年前の「てるくはのる」の日野小の子供が殺された事件で、「エイジ」の話のように、騒いでいたころがあった。この話のようにこの事件も全国版になっていたし、一時期は犯人が中学生だといわれていたときがあった。「エイジ」の一段は、1年前とすごく重なった。1部の男子はテレビに映りたくて、カメラを見つけては移ろうとしたりして、お祭り騒ぎのような雰囲気もあった。だけど本当に「エイジ」のように犯人が友達なら私はどうしていられただろうか。
3)通り魔というのも、最近がきかなくなった。昔は次から次へと起こることがワイドショーを騒がせて、どの事件がどれだかわからない、ということも茶飯事だったように思う。やはり通り魔も「時代の犯罪」だったのだろうか。「エイジ」の序盤でも、通り魔事件が次第に大きく取り上げていく様子が描かれているが、犯人が出たとたんに「ヘリコプターが何機も飛び交い、社会面で大きく取り上げられるような」大事件になってしまうあたり、非常にリアルでやるせないような、やっぱりなというような気持ちになってくる。私が通り魔の「快楽」「自己顕示欲」というふうに解釈してしまうゆえんである。もうひとつ、「たとえ犯人が同じ中学の生徒でも、知らない奴だったら人ごとだ」というのも分かる気がする。人間同士のつながりが細く細くなっていく社会の中で発生した病気みたいなものなのかもしれないな、とふと考えた。
4)身近な人が犯罪をしていると分かったときに自分はどう思うだろうといろいろ考えてみた。エイジのように通り魔をやった気持ちを考えるだろうか。私は考えるだけ考えて結局どうでもいいと思ってしまうような気がする。いくら考えてもその人の気持ちは分からないと思う。でも知り合いなので、一応考えてみる。友達が通り魔なったら悲しいなと思った。
5)もしも自分のクラスから殺人事件の犯人が出たら私はとても動揺するだろう。それにそれが仲の良い友達だったら。なぜ私は気付いてあげられかったんだろうと思うし、そんな事件を起こした理由を聞いてあげられなかった。自分がしてあげられることはほんのちっぽけなことかもしれないけれど何か助けてあげたいと思った。
6)もし自分の友だちが犯人だったなら、僕はたぶん、自分でどうしたらいいのかわからなくなると思います。通り魔という犯罪は決して許せるものではなく、犯人が全く知らない人とすれば、少しぐらいは犯人が憎くなったかもしれません。でも犯人が友達なら話は別です。被害者にとってはとても憎い犯人ですが、僕にとってみれば、普通の人よりは特別な存在だからです。ここで犯人である友達を警察に行くように説得するか、自分たちでかくまうか、どっちをすればいいか僕にはわかりません。
7)通り魔というと、僕のイメージでは「卑怯者」という感じがする。自分が弱いのでむかつくやつを殴る勇気がない、でもむかつく気持ちは収まらないから自分より弱い奴に不意打ちを送らせる。でもそんな事をしてもむかつく気持ちは晴れることはなく何回も同じ犯行を繰り返す。そんな救いようのない「卑怯者」。「むかつかないのに殴る何それ」と書いてあるけど、犯人にとっては、むかつかない相手でも殴るということでスリル快感とかを感じられれば、だれでもいいんだと思う。こういう奴は、誰かに止められるまで止まらないだろう。ある意味、気の毒なやつといえるかもしれない。何がコイツを通り魔にさせたのか、疑問に思う。
8)こでもありそうな、当たり前にありそうな設定がすごく好印象だった。その個性もそれぞれすごくと親しみやすい。私はこの中ですごく印象が強かったのは、エイジの通り魔に対する考え方。私は通り魔がなぜ殴ったりして、他人に傷をおわせるなんて、考えたこともなかった。よく考えたら、通り魔の理由って何だろう。そのあたりは私にはわからないに。でももしこの本みたいに身近な人が変わっていたら、私の考えも少しは変わるかもしれない。やっぱりその人が行動に移した間での気持ちやその人の性格をよく考えてその人の気持ちを分かってあげたいと思う。でも、その人が自分と変わりがなかったら、こんなこともないし、どこまでいっても他人事なんだろうなと思う。エイジの考え方で、私も自分の考え方を改めて知ったように思う。
9)1番印象に残ったのはいツカちゃんだ。周りの人に攻撃的であるけれど、周りの反応を人一倍気にしているところとか、なんとなくわかるような気がするからだ。ツカちゃんは、自分の弱いところを見せたくないから、わざと悪ぶって、自分を強く見せようとしている人やろうと思った。自分にもそういうところがないわけでないので、ツカちゃんの気持ちが分からないでもない。
10)頭おかしいじゃねえの?あんた。もし通り魔に会えたらそう言ってやろう」。絶対会わないと思っているからそんなこと言っているんだろうが、タカやんが犯人だって知ったら「タカやん、早く帰ってきてくればいい」とか言いやがって。知らん間はなにからなにまで全部犯人が悪いって決めつけとる。と思いました。
11)犯人だったタカやんの立場になって、この話を読んでみた。みんなが通り魔について話をしているとき、タカやんはどんな気持ちでそれを聞いていたのだろう。私なら、ばれてしまったらどうしようかという気持ちできっと普通にしていられなくなると思う。そんな話の中に交わっているなんてタカやんには、悪いことをしているという感覚はないのだろうか。動機は何なのかわからないけど、被害者のことを少しでも考えたらこんなことはしなかったはずだと思う。こんなことでしか自分を表現できなくなっているなら、タカやんもかわいそうだと思う。
12)通り魔事件が発生してから、捕まるまでのずいぶん長い時間の間、タカやんは最初はあまり話題になっていなかったけど、通り魔についてツカちゃんがひやかしたり、タモツ君にいろいろと冷静に冷めた感じで話されているのを、いったいどんな気持ちで聞いていたのだろうなと思った。犯人がタカやんだとわかるまで、彼はこの話に全然出てきていないので、そういった話を横でされても、たいして目立つような態度を示していなかったことがわかる。そして彼が最もわからないのは流産させてしまったときですら平然としてクラスの席に座っていたということだ。結局、その直後に彼は捕まっているが、彼はそれまで一体どうやってなの境地で平常心を保ち続けたのだろうか。




















エイジ 感想2

賛成派
1)自分の子供の時に同じことが言えるだろうか。インターネットとでの情報公開できないようにするべきだと思う。確かに緩いかもしれないけれど、少年の未来を考えればこれでいいのだと思う。
1)人間だから1度は間違ったことをしてしまうし、それは仕方がないと思う。だからそれをしっかり反省して、やり直すチャンスを与えるこれはとてもいいことだと思う。それでまた繰り返す人も出で来るかもしれないけど反省する人もいるからいいと思う。
2)犯人を公表したら、せっかく心を入れ替えていつからガンバろうとする人に、この人はあの事件の犯人だから近づいたらあかんぞとか、あの人の話したらアカンよ。怪我させられるかもとか、親に言われたら、それこそ差別されるし、犯人の親だからとお父さんもお母さんまでもが近所や仕事場で言われて、せっかく立ち直るとする本人や親が立ち直らせない環境をつくってしまう。
3)少年には、これからのことや友達関係のことがあるから、いくら反対が起きたとしてもプライバシーは守るべきだと思う。
1)被害者に同情してしまうところが少なからずあって、それで公平な判断が私たち一般の人にはできないのではないか。タカやんが犯人で、もちろん悪いんだけど、夫の手記にもちょっとひどいなぁと思う。だって、一方的に言いたいことを言ってその上、許さないとかちょっと勝手すぎる。もちろん、夫の気持ちもわかるけど、もし、自分が少年と同じ立場になって、少年法はなかったら、たとえ更生できても、その後社会復帰はたぶんできないと思う。きっと社会はそんなに甘くない。それに少年が人を傷つけた分だけ、傷つけられた人は、少年の時間を奪って裁いてもらう。少年は死ぬまで心に深い傷を負ってしまうだろう。それで十分じゃないか。本当に罪を悔いているかなんて、少年にしかわからないけど、犯人の名前を知っても、その傷の重さは変わらないと思う。
2)少年法が改善されたから少年犯罪が減るかというと、そうでもない気がする。顔写真を公開されるようになると、目立ちたい一心で犯罪を犯すような奴が出てこないとも限らないなぁと思う。中学生が何もするか分からない、と世間の方は思っていらしたらしい。つまり、「少年法がどうのこうのいうのは気休めでないのか」ということ。少年がどのように裁かれようと、起こってしまったことは何物にも変えがたいほどの苦痛を伴うだろう。少年犯罪が少しでも少ない社会を作ることが大事なじゃないかと思う。先を争うように人を傷つけてゆく少年たちは、病んだ社会そのものを映しているのかもしれない。
3)犯罪をするのはいけないことだけど、その人の将来を奪うのはひどいと思います。人間は弱いものだから時には犯罪に走ってしまうこともあると思います。それでも自分の苦しんで罪を償なおうとしている人を回りの人間が責めるのは何か違うような気がします。加害者がその人を許さないというのは当たり前だと思うけど、ニュースとかだけ聞いてわかったふりをしている人が犯人のことを一方的に責めているのは変だと思います。こんな人たちがいるために犯人の将来は暗くなるのです。だからなるべく犯人は法に守られてなくてはいけないと思いました。
4)もしもっと刑が重ければ罪を犯す前の少年たちには効果があるだろう。しかし罪を犯してしまった少年についてはどうだろう。刑が重いからといって同じ少年が罪を繰り返さないといえるだろうか。刑が重いからといってその少年が犯した罪の重さを認識するだろうか。それならばその罪を犯した少年と向き合い、話をして罪の重さを認識させ、反省させた方が良いのではないか。
5)子供だから甘やかされているって意見もあると思うけど、実際自分たちの年代って子供だと思う。いろいろ考えてしまうことがあるし、すごくイライラしたり、たまにはむちゃくちゃなことをしてしまったりしてもおかしくはないじゃないかと思う。そういうことをする気持ちって自分でもあんまりわからないじゃないかな。人にそういう感情をぶつけてしまうのはいけないことだって思うけど、してしまったことは仕方がないし、してしまってから後悔は絶対にすると思う。被害者にとってはそんなのは許せるはずがないと思うと思うけど、実際実現は無理だと思うけど、犯人が本当に反省するまでどこかで本人の自由に好きなように本人を締めつけているものを取ってあげて、後悔したりしてきたら解放してあげればいいと思う。なんにもなくても、そういうふうにできたら少しはスッキリするじゃないかと思う。人にそういう気持ちを向けてしまうのは自分で解決法が見つからなくて、してしまっているような気がするから。

反対派
1)未来があるからということですぐに出てこれるのは、殺された人の家族にとってはたまらないと思う。もしうちの家族が全然なんの関係もない少年に殺されて、その犯人が未来があるからという理由ですぐ出てきたら、むかついて胸がいっぱいになると思う
2)また立ち直るチャンスがあると言ってしまうと、40年以上でも十分チャンスはあると思う。現代では少年の方が犯罪を起こしやすい。なぜか。それはすべてにおいて単調すぎるから、自分が異常になりたいからだと思う。この本の中の子供を殺された夫婦も、自分の子供がもし通り魔になったとしたら、おそらく「うちの子に限ってそんな」といったことしか言えないと思う。少年犯罪は他人ごとではない。心のブレーキが不十分なときは特に他人ごとではない。
3)中学生になったら自分の考えで行動ができる。だから大人と同じような行動ができる。だけど中学生だからといって甘い罰はおかしいと思った。
4)現在日本の少年法は、他の国に比べて遅れているように思えます。例えば、イギリスなどでは、何年も前から刑事罰を科す年齢を下げていったりと、少年犯罪を防ぐ措置をしていますが、日本の少年法は、そういう措置とかをしたりしないために、少年たちが法という権利を行使して犯罪をして捕まっても、守られているためすぐ戻ってくることに、立ち直る人もいると思うけど、結局はまた同じように犯罪を犯す者たちがいるから、少年法は、未成年の犯罪に利用されているような感じがするので、法の意味がないように思えます。未成年か犯罪を犯しても、未成年だからという扱いをやめて、一犯罪者として実名で報道して、大人と同じ刑罰にするというぐらいの少年法になったら、未成年もやろうと思わないと思うし、被害者の痛みも少しは癒されると思います。
5)加害者でも未成年の場合は未来への補償があり守られるけれど、被害者の立場はどうなんでしょうか。未来は決して明るくなく、一日一日人生を歩んでも心に深い傷だけが一生残ったまま生きていくのはとても辛いことです。一体誰が被害者の人たちを持ってあげることができ、そして、痛んだごろ癒してあげることができるんでしょうか。未成年だからといって、少年法があるんでなく、体も加害者に違いないんだから、未成年ではなく、一人の人間として罰するべきだと私は思います。
1)厳しくしないと、自分が悪いことをやっているのに、あまり反省しない気がする。簡単に許してもらえると思ってしまったら、また同じ事を繰り返すような気がする。
2)その少年が同じことを繰り返してたらどうするか、まだ少年法というものでも守られてしまうのか。それは卑怯だと思う
3)立ち直るチャンスなど必要ない。目には目を、歯には歯を、ついでに命には命をだ。加害者が幸せになる必要だどない。家族が差別を受けるのは問題だが、本人が差別されることはあってはならない理由など何ひとつ存在しないと思う。
4)少年法というクッションがあることで、よく考えずに行動し、自分の罪を軽く考えてしまう傾向があると思う。元に「やるなら未成年のうちに」なんて言葉を聞いたことがあるが、それは絶対間違っていると思う。どんな人がどんな状況であろうと、罪の罪の大きい小さいはなく、その人が重く受け止めるかどうかなのではないだろうか。
6)どんなに凶悪な犯罪を犯したとしても、少年法に保護されて自分の名前や住んでいる所などわからないし、ある程度の期間がたてば何事もなかったように帰ってくる。これは絶対におかしいことと思う。それに、それで戻ってきた人が回りにいると思うと、いつまた犯罪を犯すかもしれないとはになる。被害者もたとえ自分の子供が殺されたとしても、自分の手で犯人を裁くことはできない。しかも被害者の納得しないような形で法で裁かれる。こんな悔しいことはない。大人も子供も犯罪を犯すば同等に罰を与えられるべきだと思う。
7)年が若くて更生が目的ならなおのこと、しっかりと裁くべきです。やり直すチャンスがあるのは大人も子供も同じこと。凶悪犯行を犯した大人はブタ箱から出ても何をするか分からないと思われているのに、少年はしっかり反省して立ち直るものだと思っているのか。思春期の難しい時期だとか社会が生んだ犯罪のある意味被害者であるとかいろいろ言っているけど、誰にでも犯人になる要素や原因があるということは、だれもがそれを理性とかで押さえているということでもあると思う。だからしっかり罰するものは罰する。それが1番の更生の道だと思う。
8)犯罪を犯したのは少年の方なのに、被害者のことばかりテレビに放映されて、少年のことは「少年A」とかですまされる。「少年の未来のたびに」とかで少年法があるけど、それじゃ被害にあった人の未来はどうなるのか。何の罪もない人がなくなっているのに「少年の未来のために」なんて言っていいのだろうかと思います。
9)確かにマスコミの報道はやり過ぎだと思う。が、それは犯人がはっきり分かっていないから、あることないことを騒ぐんだと思う。それに罪をきっちり償って社会に出てきて堂々と生きていれば回りだって軽く言えないと思う。残された家族だって、最初は辛いけど、家族が団結できるチャンスにもなるんじゃないか。被害者側だって、犯人が罪を償うことで、いやされるっていうか、少しでも満足できるなら、少年法をも少しでも厳しくするべきだと思う。
10)罪を犯した人間は、大人でも子供でも関係なく処罰されるだと思います。精神的な面で、他人の自由を奪っていくことになるからです。16歳以下の子供が罪を犯した場合、氏名、年齢、などが公表されないなんて、まずおかしいと思います。明確な情報を流し、世間へ知らせていった方が、少年少女にとってもいいと思います。自分が犯した罪の重さを知れていいと思います。将来、この少年少女に職が見つからないという問題も起きるかもしれない。けれど、それは自分の過ちのせいであるから、しようがない。大人になったらもっときっちりした人間になるかもしれない。そういうときは犯罪経歴を持った人を受け入れない社会全体を改善していくべきだと思います。
11)少年だからといって犯した罪をなかったことにするなんて絶対に許せません。罪をなかったことにするということは、被害者の存在を否定することになのだと思います。少年に殺された人は、元からこの世に生きていなかったということなんです。私は少年でも自分のやったことに責任をもたなくてはならないと思います。犯罪者は他人の将来を奪ったから、自分の将来なんかあってはならないと思います。いくら更生したしても世間から冷たい目で見られ、仕事にもつけないで苦労して死ぬまで生きていかなければならないと思います。
12)悪いことをする奴は、大人になっても悪いことする可能性が高い。悪いこと続けていくと、次第に罪の意識が薄れていって悪い事しても悪いと感じなくなる。それは多分大人になっても同じだと思う。だから少年の時も、大人と同じように裁いたほうがいいと思う。
13)なぜそういった特権を少年だけが持っているのか。それはまだ若くて完全に教育も受けてないので、人間としての常識を分かりきっていないから、ということになるのであろう。それでは本当に少年たちはそういったことを分かっていないのかというと、はっきり言ってそういうことはないと思う。小学生でもしっかりと理解している人もいれば、社会人として働いていても、理解できない人もいる。そういう気持ちは罪を犯したとき、もちろん彼らに弁解の余地はないが、もし彼らが少年だったら、少年法によって本当に心を入れ替えて立ち直って生きていける人も中にはたくさんいると思う。だからそういうふうにただ「若いから」というだけを理由にして保護していくのはどうなのだろうと思う。

中立派
1)未来を奪われた被害者から見ると、その気持ちはとてもはわかる。第三者の私から見てもとてもつらいことだろうと思うけれど、実際自分の子供が殺された親の気持ちはどれくらい辛いものだろう。そう思うと未成年だからといってすぐ家に帰れることはどうかと思う。もしかしたら何歳でも同じ扱いにした方が良いのかもしれない。でも、もっと深くこういう法律にした理由があると思うので、絶対こっちの方がいいとは言い切れない。
2)被害者もつらいし、加害者だって今は不安定だろうと思う。確かに被害者は怖くてたまらないだろう。私も同じ目にあわされたら、きっとおびえて家から出られなくなるだろうと思う。でも、加害者にもそれなりの理由がある気もするし、ない気もする。今はタカやんがなぜこんなことをするようになったかなんてわからないから。タカやんの気持ちを明らかにしてからじゃないと何も言えない。
3)犯罪を起こしてしまった少年たちも社会的にはまだ子供。これから社会に歩んで行くお友達なんだから、新聞や雑誌などに顔や名前などの身分が分かるものを形成捨てしまうと、少年たちの未来に大きな影響があると思うし、その分では賛成だけど、最近の子供たちは、その少年法を味方に、どんどん罪犯す少年たちが増えていると思う。その分から見ると、もう少し少年法の年齢を低くするなど改善した方がいいと思います。
1)考えてあげたいことは被害者の残された家族です。もし僕が犯人で、お父さんやお母さんはどうなるのかなと思う。たぶんぼく以上に嫌な人生を送ると思う。だから少年法は複雑です。
2)少年も何か理由があってやるわけであって、その原因をつくった社会も悪いし、大人も悪いかもしれないし、いろいろな原因があると思う。でもいくら少年だからといって何もかも許されるのは絶対に間違っていると思う。だから、なぜ少年がこんな悪質な犯罪を犯すようになったのかを考えることが大切と思う。エイジ 感想2  1の1
14)被害者の方からしたらそれは反対だろうけど、それはどっちの気持ちの方が考えやすいかにあると思います。事件が起きれば大抵の人は被害者側になって事件を見るでしょう。被害者は当然犯人に罰を受けさせたいから少年法に反対するのです。しかしここで犯人側に立って事件を見ると、全く逆です。犯人はできるだけ罰を受けたくないし、裁判などが終わった後は普通に暮らしたいはずです。そうすると少年法は犯人からしたらとてもありがたいものになってきます。犯人側は少年法に賛成でしょう。でも犯人側につくやつなんていないという人がいるかもしれませんが、実際犯人の親、兄弟、親類などごくわずかな人は犯人がにつくでしょう。しかしたいていの人は事件に関係がないので被害者はになって反対と言っているだけなんです。反対と言っている人も、もしその人が少年法が適用できる年齢で犯罪をしたなら、絶対少年法に賛成するはずです。結局、自分の置かれている立場で人間は考えるので1番の答えは「どちらともいえない」だと思います。




















エイジ 感想3
1)私のチューブは切れないものばかりだった。特に人とのつながりのチューブは切りにくいし、切りたくないと思った。反対にやっぱり切りやすいものは人とのつながりが少ないもので私が信頼していないものだと思う。でもチューブを切りたいいって思ったことはない。切りたいと思うチューブは最初からつながらないし、嫌なものは離れていくから、自分の中はみんな大切なものばかりだなと思った。これから将来嫌なチューブが増えていくかもしれないけれど、私は絶対そのチューブにつながれて生きて行きたくないと思った。
2)僕はいろんな人といろんな形でチューブでつながっていると思った。今もチューブはつながっていて自分の知らないうちにチューブは切れてしまっているなと思った。ほとんどのチューブは、自分で切りたいと思えば簡単に切れてしまうようなチューブばかりやと思う。でも何本かは簡単に切れないようにチューブではなく、チェーンで固くつながっているものもある。中学の時の友達や先生とは切れないように固く結ばれている。親とのつながりは切りたくなる時はよくあるし切ってしまったこともあったと思う。でも親から子供へのチューブはいろんなことがあったけど切れたことは1度もないといえる。それが逆にうっとおいしく感じることもあると思うけどやっぱり、今まで16年間支えてくれ、そしてこれからも決して切れることなく、つながってに続けてくれる両親に心から感謝したい。
3)先生が配布された「私のチューブ」というプリントに自分がつながれているチューブを書き込もうと思ったのですが、あまり思いつきませんでした。それは自分自身、つながれているという自覚があまりないからでしょうか?そうだとしても、その割には私は息苦しいです。何かよくわからないけど、きつく縛られている感じです。でも私には「キレる」勇気がありません。そんなところに勇気という言葉を使うのはおかしいかもしれませんが、そこが私とエイジの違うところだなあと思いました。
4)人にはいろんなチューブがあると思う。その人だけのチューブやたくさんの人が持っているチューブ、切りやすいものも切れないものもたくさんのチューブがある。自分にはどんなチューブがあって、どんなチューブがないのだろう。またそのチューブが切れて、どのチューブが切れないのだろう。またそのチューブがあるから自分という人間があるのだと思う。
5)授業で自分のチューブを書いて、どれが切れるものでどれが切れないものかを書いていたとき、やっぱり親と姉弟の関係は切れなかった。でも少し離れた従兄弟やはとことの関係は切れた。何か自分で自分が怖かった。やっぱり他人は他人だと思った。そうなるとこんなことを言うのは嫌だけど、友達は自分にとったら他人。だからいざチューブを切ろうとしたら、簡単に切りそうな気がする。やっぱりこんなことを言ってしまう自分が怖いかな?
6)私の中は、エイジみたいに自分と相手のつながりを断ち切ることはできない。なぜなら自分と直接かかわる親や友達とのつながりを断ち切ってしまうと一生つながりを断ち切ってしまう可能性があるし、たとえ、うっとおしくても自分にとって大切な人とのチューブだからです。間接的なかかわりの「学校」のチューブを断ち切っても、後で結び直すことができるから、自分にとって手軽なチューブだと思う。
1)僕は自分のチューブがたくさんある。店の会員などすぐ切ってしまえるようなチューブから、人間関係の中をなど簡単には切れないチューブもある。でも僕は基本的にはエイジみたいに、ある一線を越えてチューブを切るのは反対だ。自分がチューブにつながれていると思うことは自分の得になったり、自分が好き好んでつながれているのだから、僕は絶対簡単にチューブを切ったりはしないと思う。ある先生がクラブに入っている時はすごく謙虚で、何事も手伝ったりするが、それが終わったとたんどんなに精神力がついている人でも、それが切れてしまうことがあると言っておられた。僕も卒業したらそうなるのかもしれないと思っている。だから社会に出たとき、役に立つチューブは絶対切りたくないし切れない努力をしていきたいと思った。
2)私はふと思い直してみると、いろんな人とチューブでつながれていることに気づいた。太くて切れないチューブでつながれている人もいれば、薄く切れてしまいそうなチューブでつながれている人もいる。それぞれだ。けどそれを一つ切れといわれても無理だと思う。それはなぜかというと、また私はそのいろいろな人ととのチューブでつながれているからこそ今の私がいると思うからです。ときにはたくさんのチューブから解放されたいと思って解放的になることも必要だと思う。けど断ち切れと言われたらそう簡単にも切れないのが今の私です。
3)自分の中にあるチューブを考えてみたが、血縁上のつながり以外はどうやら容易に切れてしまえるものらしい。切ることは可能だが大切だから切りたくないものもあったけど少なかった。容易に切れるチューブをすべて切ってしまえば私に何が残るだろう。きっと家族くらいのものだと思う。それでもいいから何も残らなくても構わないから全てのチューブを切ってみたいと思った。友達も学校も大好きだったクラブ関係でさえも。少なくとも今現在、私に必要なチューブは見当たらない。
4)私のチューブ、そんなもの考えてもみなかった。でも今回のエイジの話で出てきて、自分のチューブは何があるのかと考えてみればいろいろとある。それを切るということは大変だろう。学校や部活ぐらいなら切れると思うけど、家族は切っても切れないものだと思う。それは生まれた時からもう切れないようにすごく太いチューブがついているから。当たり前な話だけど、とても重要なことのような気がした。
1)私はとても多くのチューブがあちこちにつながっているらしい。それはそれで、自分の存在価値が高いようで一瞬うれしく思ったが、その中の半分ほどは切ろうと思えば簡単に切れてしまうチューブのようだった。そう思うと何だかとても切なくなる。私はそんなチューブの中で切ろうと思えば切れるが、何かを犠牲にしてまで守りたいと思うチューブがある。友達だ。肉親のように切れないチューブや、○○の会員などを紙切れ1枚で簡単に切れるチューブでなく、本物の友達という心のチューブだ。けんかをしたりもするけど、喜ぶときは2倍以上の喜びがある。そんな友情のチューブが今でもこれからも、私にさまざまな影響与えるだろう。そして私には、その見えない太いチューブを大切にし、守っていく義務があると思う。
2)エイジの発想には驚きました。切れるというのは、自分のチューブを切ることなんだ。タカやんには、どんなチューブがあったのだろうか。家族の、学校の、友達の、先生の、など誰でも持っているチューブが煩わしくなったんだろうか、それとも他の人とは違うチューブを持っていたのだろうか。人は一人ひとり他の人とは異なるチューブをたくさん持っている。切れない人はそれを自分流の方法で切れやすいものをたまに切ったりしているんだろうか。私もそれをうまく調節して、切れない大人になりたい。
3)僕がエイジのようにそんなチューブのことは気にしていません。でも、チューブではないけれど、何かはずしてはいけないものを体中で感じたことがあります。エイジのように「今、この時、コンパスで、人を傷つけたら、どうなるのだろう?」と考えてしまいます。一時期には、そのことをとても真剣に考え、でそのことを実行した場合、この後の私の人生はどうなるのか?そういう事が気になって、仕方がありませんでした。そして、ふと気がつくと、自分がそんなことをしようとしていることがあり、怖くなって、考えていたことに結論を出してしまわなくてはならなくなり、自分の中で結論を出します。そのとき、僕はいつも「こういう異常な考えはだれの中にもあるものだ」と自分に言い聞かせて、このことを考えないようにします。石川貴史くんもこんな感情であったと『エイジ』を読んだときすぐにわかりました。そんな考えを持ってしまうということは、自分の回りには何かたくさんのチューブなるものがあるのだろうと思いました。
4)今日、午後の授業で自分と世間とをつなぐチューブを探してみたときに本当に多種多様なチューブがあるなと思いました。それは僕だけじゃなくだれもが色々なチューブにつながれているはずで、はずれやすいチューブやはずしたいチューブもあるはずです。でもそういうのを全部含めてチューブにつながれていると感じることが生きているということなんだと思います。生まれたときから育つに連れてチューブの数は増えていくけれど、そういうの感じられるのが素晴らしいのです。深く考えてみると中部はたくさんあったけれど、僕は別にどれも無理に切りたくない。これからもチューブが増えると思うけど、そうやって自分が生きていっているということも感じていきたいと思う。
5)「煩わしい人間関係は切ってしまえ」なんて甘えにほかならないと思う。「自分は1人で生きていきたい。ひとりで生きていけるんだ」なんていうのは中高生の抱きがちな幻想で、私たちは、ここに生きている限り「ひとり」になることなどできない。学校に行かなければ怒られるし、家に帰らなければお腹がすく。上辺だけの友達でさえ、断ち切ることは難しい。私たちは縛られて生きていく方がはるかに楽なのである。絡みついたチューブに触れることで、いつでも自分の場所を確かめることができる。飼い主から離れて遠くへ行くことは面倒なのでしたくない。
6)もし近いうちに地球が消滅してしまうことが分かっていて、それでもし、私が宇宙船を持っていたら何を持っていこうかということを昔に考えたことがある。まず最初に思い浮かんだのが家族だった。次に浮かんだものは、必要最小限の食料や宇宙飛行士や大切なもの。その後から、おばあちゃんとおじいちゃんと、いとこと、それとすごく大好きな友達とその家族と。考えていくうちに絶対そういうものは、宇宙船なんかに乗せられる量じゃ収まらないことに気がついた。考えれば考えるほどいくらでも増えていってしまうのである。とてつもない量でいて、それなのに捨ててしまうわけにはいかない、これらのものとのつながりこそが私のチューブだろうと思う。確かにこう言ったつながりが切れてしまえば、自分がどれだけ身軽になれて、そして楽になれるだろうか、といくら憧れたかわからない。でもいつも、私を幸せにしてくれるのは、そのチューブでつながれた先にあるもので、だからこそ私もそれらを愛すべきものだとはっきり感じ取ることができるのだ。それでも時々、私はそういうものより、なによりも空気を欲してしまう。そういうときは、やっぱり私もこっそりと見つからないように、チューブを切ってたくさん空気のあるところへ飛んでいってしまう。そして帰ってたとき、つなぐべきチューブがあることを本当にうれしく思うのである。
7)私の今のチューブはたくさんあるけれど切れるものはない。というか、自分から切りたくないものばかりだと思う。それは、切りたくなる時もあるけれど、そんなのは少しの間で、また切りたくなくなる時が来ると思うし、そこで切ってしまうとなんだか逃げているような気になってくる。そこで頑張れば、後に良い結果も出てくるし逃げてしまうような人にもなりたくないから。でも本当にいっぱいになってしまって、切りたいものがいっぱいになってはち切れそうなとき、切っちゃいたいて思うことは本当にある。抑えきれなくなって辛くってきっと切ったら楽になるのにって。逃げたくなる。そんなことは誰でもあると思う。でもそこで切ってしまうと自分のためにも何もならないと思う。逆に自分のために良くないと思う。だからやっぱり自分には負けられないなと思う。
8)気を何もかも嫌になることは私にもあります。私の中は東稜高校の生徒だとかそういうものではなく、人の目だと思います。どんなものからも解放されたくなっていつも太いチューブが気になって解放されることはありません。その太いチューブは案外外すことは簡単なのかもしれません。でも決してそれを外すことはできないのです。例えて言うと、ビルの屋上にいてそこから下に落ちることは簡単なのですが、飛び降りないというのは怖いからでなく、自分が自殺して後に残された家族が近所から噂され、見世物になったらどうしようかとそういう事が気になるからです。私を縛るチューブは私自身なのかもしれません。
9)両親の娘、東稜高校の生徒、そういうつながりをチューブだとか、自分をチューブでつながれた重病人っていうふうに考えたことって、今までなかったけれど、そういうふうに考えてみると、また私はあらゆる人から見られたらあらゆる立場にあって、相手に対して必要な態度というか関係みたいなものを保っていて、そういうのに疲れるときってあるなと思った。ひとりでぼーっとしたくなったりする。でも実際そのチューブを、そのつながりを全部取ってなくしてしまったらどんなに寂しくてどんなにつらいだろうか。嫌なことがあったときとか、悲しい気持ちの時とか、話を聞いてくれる人も一緒にいてくれる人も親も、居場所もなくて、そんなので生きていける人はいないと思う。心が疲れたときの休養はすごく大切だけれど、少し休むことで回りにいる人の大切さとか自分にとって大事なものを理解できたらいいと思う。エイジの話に出てくるチューブっていう考え方をは私にはない新しい考えだったから、そういう考え方もできるんだなあと思って面白かった。
10)はじめチューブとはないような存在だと思う。プリントに書いてみてなんとなくわかった感じだ。それにチューブはブレーキのようなものだと思う。そしてその中がすべて切れてしまったときに暴力衝動のようなものが表に出てしまうのだと思った。
11)どのチューブ中が楽に切れるかやってみて、最初に戸惑っていもあったけど、開き直って一本一本と切っていくと、案外、全部楽に切れた。私はみんな実は何本かチューブを切ったりつなぎ直したりして、自分を安定させているんではないかと思う。事件を起こした人や切れて暴れる人はチューブをつなぎ直せなくなって、自分を安定させられなくなって、どうしようもなくなってそんなことをするんだと思う。ニュースとかで子供ばかり切れやすいと言うけれど、大人だってチューブをつなぎ直せなくなって事件を起こす人だっているのに、子供のことばかり言えるんだろうかと考えた。




















エイジ 感想4
1)僕は、このエイジの話を読んで、人はいろいろな考え方を持っていって、それで悩んだりして、それで行動を起こしたりしてしまう人もいるし、我慢している人もいるし、複雑だなと思った。ひょっとしたらこのクラスに今にも通り魔になりそうな人がいるかもしれないし、人は何を考えてるのかわからなかったこともあった。多分エイジもそういうことを考えたと思うし、僕もエイジの考えていることが少し分かったような気がする。ツカちゃんがあれだけふざけたりしていたのに、おやじ狩りを見かけてから急に変わったのがとても印象に残った。
2)僕がエイジを全体的に読んで思ったことは、塚本君はそんなに悪い子じゃないと思った。確かに授業中を悪ふざけが絶えなかったし、冗談も言ったり、ひどいときにはテレビの前でも非常識な発言を連発するが、真剣に怒っている時はすごく言っていることがわかるし言葉は汚いが筋道が通っていることがよくある。塚本君はテレビであんな非常識な態度をして、全国の人々を敵に回したが、東中学校の2年生にとって塚本君は必要な存在だと僕は思った。僕は塚本君は結構傷つきやすくて実は寂しがり屋とか、そんなんじゃないかと思った。おやじ狩りの現場を見て以来ずっと立ち直れなかったり、テレビに出た後も「あんなも俺じゃないよ」とか言ってめちゃくちゃ後悔しているから、実は性格の良い子なんだと思う。タモツ君が通り魔のことをゲームみたいに言うと、マジ真剣になって、怒っていたから、オヤジ刈りの影響が大きいと思った。でもそこまで本気になるということは通り魔のことも自分のことも真剣に考えてのだから偉いと思った。
3)通り魔事件が起きて、エイジのクラスメートのタカやんが逮捕される。すごいストーリー展開だと思った。エイジやエイジの周囲の人物はそれぞれ事件のこと、タカやんこと考えている。ラストでとうとうエイジは切れてしまった。学校抜け出し、渋谷行き、いろいろなものを切ってしまった。なかなか行動を起こせる人はいないと思う。例えば授業に遅刻したりサボったりしている人。どこにでもいるけど、その人に「学校やめろ」といってもやめる人は少ないと思う。エイジは一日だけだったかもしれないけれど、それができたのだから偉いと思う。私はというと、とても中途半端など思う。授業中寝ることもあれば遊んでいることもある。とりあえずノートだけはとっているが、後で見返すことはますない。あってもテスト前の何日かだけ。学校が嫌だと思っても、やりたいことはあるし、後のことを考えるとさぼる気にはならない。こういう人は多いだろう。半端は嫌だけど仕方ない。この小説の終わり方は好きだった。通り魔に間違えられたタカやんと同じになった。私が今でもよくわからないのは、それでもタカやんではないということ。授業で説明されたけどいまいち納得できなかった。親にありのままのの自分を信じてほしいと言ったエイジ。だいぶ前に私は母とを少年犯罪のニュースを見ていたことがある。その時母が、もし私が殺されたら、母はその犯人を殺しに行くと言った。「じゃ反対やったらどうする」と聞くと母は笑いながら「その時は逃げるかな」と言った。これって、母は「ありのままのの私」を信じていないということだったのだろうか。
4)エイジの考えすぎ、もっと気楽に生きよと言いたい。脳味噌は使わないと腐るが、そんな暗いことばかりに使うのもどうかとも思う。この件は、1人のやつが堕落することによって上手い具合い回りの人間が成長したパターンだが、現実ではありえない。まず悪影響しかない。エイジはホームドラマみたいと言っていたが、それはわがままだろうと思った。甘ったれんな、馬鹿、って感じた。両親が仲良くしてるだけまだましだと思え。マジでむかつく親というのは、とことんまでイヤなだけだから。母親がいきなりノイローゼになることに比べれば、ホームドラマの方がまたマシだろ。
5)私は人の心は複雑だと感じました。なぜならこの本の中のタカやんみたいにおとなしい人が通り魔をするからです。私はときどき人の心が読めたらと思います。そうしたらその人の傷つく言葉なども気づけるし、傷ついていたら相談にのるぐらいできるからです。タカやんだってもっと回りの人が早く気づいていれば事件は起こらなかったのかもしれないと思います。私はもっと人の立場になって接していかなければいけないと思いました。タカやんはなぜ通り魔になったのか、今も時々考えます。おとなしい人が通り魔になったのは家で何かあったと私は考えています。自分の心というか人格みたいなものを一瞬でもヤバい方向へ変わるのはよほどショックなことがあったかなと思いました。
6)もし友達が通り魔だったら、私はどうするだろう。突然の出来事に目をそらしただう。たえることしかできないかもしれない。でもエイジは時にはけんかをしたり、いい争いながら、必死にもがいてちゃんと心と心でぶつかっていた。私はその姿を読んで、どんなときでも目の前にある現実をしっかり受け止め、目をそらさずに相手と向き合おうと思った。いい親とは何だろう。子供を悪い方向へ行かせないよう、しつけたり監督することなんだろうか。もしくは子供の思い通りさせてあげることのだろうか。どちらも大切なことだけど、1番大切なのは、エイジが思っていたように、ありのままの自分を受け止められることだと思う。そして良い親子というのは、本当の自分を押し殺して「いい子供」「いい親」を演じているのではなく、弱い部分も悪い部分も全部見せ合える関係だと思う。だから親が子供にとってどんな自分も包み込んでくれる存在であってほしい。このように通り魔という身近な問題を通して自分のこと、そして親や友達など自分の回りの人のことをいろいろな視点から見つめることができた。これからもいろいろな困難、障害にぶつかると思うけど、そんなとき必死に悩み考えながらいつも自分に正直でいたい。
7)この話はすごく想像をいっぱいしました。この子はどういうこと思ってこの行動に出たのかとか、この子はこういう気持ちでこのクラスにいたんだななど、いろいろなことが頭に浮かんできて、すごく複雑でした。通り魔をやる気分はどんなもんなんかなと考えました。何でもいいから傷つけたいというのはやはり日常生活で何か悩みがあって、それをだれにも打ち明けられないからそういう形でしか自分の気持ちを人に伝えられなかったんだなと思った。本当に悩みも何もないのに人を傷つけたりする奴は、ただの機械だと思う。人間は心からすべて始まるし、最終的には心で終わると思う。心は初めに殺られてしまうと体もつぶれていくし、いろんなものをなくしてしまう。
8)この作品を読んでいて、何だかとても当たり前の日常の中にいるようでふっと吸いよせられた。この物語の中には一体どんな魅力があったのか。それを考えたときに、やっぱり「当たり前の日常」という小さなテーマにあると思った。通り魔なんて日常的ではない。とも考えたけれどでもやっぱり物語りが進むにつれて、ますますその考えが深まったと思う。「通り魔」っていうところじゃなくて、ほんの小さなことで何かが変わってしまう、とか、いろんな人の「当たり前」な日常が私にとってではとても興味深かったしたし、何よりいろいろな意見に共感できたという点もこの話の魅力だったと思った。
9)この『エイジ』という物語、最初は「通り魔の話なのか」という簡単な気持ちで授業に臨んでいたけれど、エイジやタカやんのように、「少年」になるかもしれないという話に変わっていったとき、場面場面でいろいろと考えさせられた。タカやんのように、おとなしくしている人が急に通り魔に変わった。何でこんな人が通り魔になんかなったんだろうか、少年という言葉や少年法についてとか、自分についているチューブとか、もっといっぱいやったけど、とにかくいろいろ考えた。その中でも私のチューブについては1番身近なものだったので、よく考えてた思う。私もこれは嫌なと思うチューブがいくつかあったけど、それから少し離れてみるとそれが気になりだした。それで結局それを離してみたらチューブはくっつく。本当に嫌なものなら切ってしまっても気にならないけど、中途半端に切ってしまうと、気になるし、最後にくっつく。エイジは自分についているチューブが嫌だからそれを切ったけど、本当にではなく、一時的に切り離すことで、自分を落ち着かせたと思った。本来の自分と嘘の自分は、私の中でもある。人によって本来の自分が出たり、嘘の自分が出たりする。それをどう使い分けるかは、嫌な自分をどう克服するか、そういうことも考えたりもしました。
10)私が中学2年だったとき、私が通っていた小学校で殺人というとても残虐でで悲しい事件が起こりました。その時の気持ちはそれまで体験したことないような気持ちでした。驚いたし、実感もわかなかった。それからTVで事件のことが流れてやっと、身近で「殺人」が起こったということを実感してきました。実感してきたと同時に恐怖も出てきました。1人で外に出るのが怖かった。犯人が捕まらないことへの恐怖もありました。そして、マスコミや警察官がいっぱいいて、とても騒がしくなりました。マスコミで中学生が犯人だということが流されたとき、友達との会話は、「自分たちの中学校の生徒かな」ってことがあったりしました。だから、エイジたちの気持ちがわかるような気がします。なんか落ち着かないような感じ。またエイジの場合は、犯人が自分のクラスにいた。自分の知っている人でしかも友達だった。これは、私が体験した以上に実感がわかなかったと思う。このような事件が起きたときに、マスコミに中学生が犯人だとうわさを流されるようになった世の中がおかしいと思った。
1)エイジを読んでいろいろ考えたけど、やっぱり1番考えたのはチューブについてだった。学校には生徒というチューブ、クラスというチューブがある。そのチューブの動ける範囲で自分は生きているのかなと思うとすごく変な気持ちになった。けど、決して嫌なチューブじゃないし、自分が望んでつないでチューブだから最後まで切りたくないし、それは全部のチューブに言えることと思う。私はこれから将来も自分の好きな職業について自分の思うようにチューブをつないでいきたい。チューブをつながれているんじゃなく、自分からつないでいく生き方をしたいと私は思う。
2)僕は「エイジ」を勉強しているうちに1つ疑問を持ちました。それはもし通り魔が自分と同じ学校でクラスの人にだったら僕はどうするだろう。「やっぱりマスコミはタカやんのことについての話で盛り上がっているかな」といろんな考えが浮かんできました。僕はエイジが人を幻のコンパスで刺したり、自分にあるたくさんのチューブが息苦しくなったりして切れたりしたときに、私もチューブがうっとうしくなって何もかも嫌になることがあるけれど、やっぱり僕にとって信頼できる友達や親に話をして逆に聞いたりしてすっきりしているし、エイジにも自分を心配してくれる友達や信じてくれる親とかがいるから、これからは本当の自分を出していっても受け止めてくれると思う。しかしタカやんは、そういう人がいなくて通り魔になったんだけど、決してタカやん一人が悪いとは言えないし親にも責任があると思います。そしてついにタカやんが学校に戻ってきて席に座っているときに、ツカちゃんが「タイミングが1番大切」だと言って教室に入ってタカやんの頭を週刊誌で叩いて「殴られる理由がなくて殴られたらもっと痛をんだよ」といった言葉に僕はタカやんにもこんな良い友達がいることがうらやましくもあり、僕だったら言えるかなと思った。だから僕とエイジとタカやん、そしてみんなも何でも話せる友達でいるから、頼って頼れる関係を作れたらいいなと思った。
3)今の世の中では少年の犯罪が多発している。その犯人である少年たちは私と同じような年で、ニュースや新聞でそのような報道を聞くたび私は「?」でいっぱいだった。どの報道でも「キレる」ばかり言っていて「キレる」ってどういう意味なのだろう。私と同じように高校に通っていて普通の家で育った人もいる。その子たちが経験した「キレる」というのはどんな感じなんだろう。どうして私は経験したことがないのだろう。とずっと考えていた。エイジは「キレる」とは自分と何かとのチューブを切ることだと言っていた。もしそれが本当だとしたら私は「キレる」ことはない。そんな勇気はない。でも何か違うような気がした。「キレる」の意味がそうじゃないと思った。エイジはタカやんの事件により、自分の中の「嫌な自分」に気付き、そしてそれは「好きな自分」と同じように「自分」の中にあって、それも含めて「ありのままの自分」であるということを理解した。私も中学生の時悩んでいた。エイジと同じように家族ごっこなんかしたくないと親に当たったりした。でも私も、いつだったか、だれに教わったのか、自分で気づいたのか忘れたけれど「ありのままの自分」を理解できた。先生「エイジも成長した」とおっしゃった。私もその成長を経て今いるのだなと思った。そしてこれはきっと、皆この成長を通過して大きくなるし、だれしも通る道のだろうと思った。
4)だれもが持っているかもしれない「その気」はいろんな隠し場所がある。体の浅いすぐに出てきそうなところ、そして体の奥深い出てきにくいところ、たくさんある。人の「その気」はどこにあってすぐに出てくるのか。出てきにくいのか、それは見た目ではわからない。多分我慢しきれず勢いよく出てきた人が犯行を起こしてしまうのだろう。人が持っている「その気」は人にとって持っているもので、なくすることはできない。隠し通せる人はいるのだろうか。もし隠し通せるなら「その気」をどこにあるのだろう。「その気」は起こると同じように冷めるときがあるとすれば、それは犯行の前か後かどちらで冷めるのか。みんなが前で冷めたら事件などが少なくなるのだろう。「その気」が体の中から出てくることがないようにすることができるのだろうか。
5)エイジの感想というか、エイジのビデオ鑑賞しての感想ですけれど、エイジと家族の関係についてです。エイジは「ホームドラマ」みたいだって言っていたけど、私はちょっと前まで、家族って意識がないというか、なるべく関わりを持たないようにしていました。家に帰っても必要なこと以外は「学校であんなことがあったよ」とか一言も話さない子でした。両親はあまりにも話さないので、心配していたみたいです。何で話さなかったのか考えてみると自分のことを知られたくなかったというのが頭にパッと浮かんできました。今ではそんなことはなくてそれなりに会話するようになりましたけど。誰に話すこともなく悩みや不安を抱えた生活していると、自分の中に変な感情が芽生えてくると思うんですよねぇ。そんな子供が、犯罪を犯したりするんじゃないかなと思います。エイジのいう「ホームドラマ」の家族、見せかけの家族が子供にとって大きなストレスの原因になるのかもしれません。最近幼児虐待で実の親が子供を殺すとか、怖いというか信じられない事が起きていますけれど、子供を殺してしまった親って、通り魔になってしまったタカやんと似たような気持ちだったのかなと思います。虐待していた親は相談所とかに電話をかけているってニュースで言っていました。誰かに助けを求めていたんですよね。それができなかった人が新聞やテレビ出ることになるんです。「家族って何ですか」って質問されたら、はっきりいってよくわからないんですけど、理想としては「安らげる場所」であってほしいです。
6)前回の「私のチューブ」を書いて提出した数日後、その何人かの感想文が載ったプリントをもらったとき、先生が「ドキッとするような感想がありました」と言っていたので、見てみると私の書いたものがあり、私とその他の人の本を読み比べてみると、すごい自分で最悪なこと書いてしまったなあと考えてしまった。先生がプリントを配ったときにそう言ったことは私のことじゃないのかなぁと。「私のチューブ」の感想を書いているときは自分の考えを正しい、少し自分が怖かったけど、間違っていないと思っていたけど、みんなの感想読んでいると、あんなこと書いてしまった自分が恥ずかしかった。感想文を読んでいて一番考えさせられたことが「親や友達とかつながりを断ち切ってしまうと一生つながりを断ち切ってしまう」という文でした。親や友達は大切だと思う。何より血のつながりがある家族とは切りたくても切れなく太くて丈夫なチューブでつながれていると思うし。あとなにより友達が大切だなと思う。しょせん友達は他人という言葉は確かにそうだけど、やっぱり友達を失うことは1人なるということ。それを私自身嫌だし耐え難いことだ。チューブを切ろうと思えばいくらでもキレるし一人になることは簡単なことだけど、一人で生きるのは簡単なことじゃない。みんなの感想を読んで私の考えが変わった。私には、いろいろなチューブがあると思う。いいチューブでも悪いチューブでも、だけど、何1つ切りたくない。自分が自分でなくなるような気がするから。
7)私はエイジを読んでひとつ考えたことがあります。この間の感想文で書いた「私のチューブ」のことです。みんなの感想読んで思いました。私のチューブを切りたくないって思います。でも時には切りたい時もあります。そういう自分がちょっと怖いです。人間そんな事があるんかなと思います。でもエイジを読んで「みんなにもそんなことがある」ということがわかってちょっと安心しました。でもやっぱり自分のチューブは切りたくないな。
8)この話を読んで少し通り魔の気持ちをわかった気がします。私はいつもニュースで通り魔のことを聞くと「何でそんなことするやろう」とか「どういう人がこんなことをするんだろ」とか疑問に思ったことが多数ありました。けれどタカやんが通り魔のになった理由は自分なりに少し理解ができると思いました。私は犯人になったもともとの原因の「チューブ」を、前に感想文に書いた通りひとつも切れなかったことを書きました。けれどもタカやんは次々に「チューブ」を切り、そして通り魔になった。きっと心や気持ちの不安定からタカやんの「チューブ」は消えていったと思います。このような通り魔の気持ちをちょっとでも理解したうえで、私は通り魔事件がこの現代社会で起きたときは少しでも自分自身でその事件について正面から向き合い、そして考えていけたらいいなと思います。
1)『人の考え方について』
 エイジは本当に共感できる部分が多かったし、考えさせられる文とか、「ああ、こういう考え方もできるかな」って思った文とかがいっぱいありました。「まじめ」についてとか「チューブ」「キレる」についてだとかいろいろ考えさせられました。タモツくんの発言についても、というかそれを聞いてエイジの反応にもすごく共感できました。筋道が通っていて理屈通りなんだけど「どこが違う」って感じる、言ってもどこが違うかよくわからなくて言い返せない。ってところが日常でよくある気がします。それで間違ってるっていることが正当なこととして通っていく、気持ちがすっきりしないことがあります。考えごとが疑問形のまま終わってしまい、胸がモヤモヤする。考えても分からないし、考えれば考えるほどつらくなるから何も考えないようにする。そうすれは胸に抱えこんだ「?」」が積もって「キレる」につながる。「その気」を隠せば隠すほど自分を否定する気持ちが強くなっていってどんどんつらくなっていって、「その気」がどんどん大きくなって。すべてが悪循環だと思った。人の考え方はいろいろで自由だから難しいのかもしれないけれど、せめて正しいことが通る世の中にできたら悩みや犯罪は少しは減るんだろうなと思った。
2)『少年の「終わり」』
 物語は物語りである以上、ハッピーエンドになることはいつでもできる。けれど、現実はそううまく行かないものなんじゃないかと思う。世間から離れて「異物」になったタカやんが、教室に戻ってくることで徐々に溶かされてゆく。少しもしないうちに、また、元の場所に染み込むことができる。完全に元通りではないにしても、世間にはタカやんの帰るべき場所が用意されている。1度は世間を味方につけた男に「絶対許さない」とまで言われたタカやんが、だれにも邪魔されることなく絵を描くことのできる場所が、現実にも存在するだろうか。あの時人を殴った少年は、今どこで友達と笑い合えているだろうか。犯罪者になった少年は、きっと少年に戻ることはできない。更生という名を借りても、罪が消える日は来ない。そして少年犯罪が消える日も、やはり来ないだろう。少年が世間に悲しみを生み出し続ける限り、私たちは公正な社会の目を持って彼らを見つめ続けなくてはならない。世間の目でなく自分自身の目で、いつ少年になるかもしれない自分を、見つめ続けなくてはならない。少年を変えた二面性は、今もどこかで息をひそめて、流れだす瞬間を待っている、はず。
3)『通り魔に間違えられたエイジ』
 エイジが通り魔に間違えられたとき、本当に怖かったと思う。というか、通り魔のことを考えていたときにそんなことにあったら何がなんだかわからなくなって冷静でいられなくなると思う。まさに、そうだったのだけれど、自分がやることを考えていたときと実際にやってしまったような状況になったときでは、差がえらく違う。エイジは腰が抜けて泣いていたのだから。エイジはタカやんの気持ちをしっかり理解したのだろうか。きっと分かったと思う。やっぱり人間は一人一人違うのだから、まったくすべてを理解したわけではないと思うが、通り魔になるまでに考えていたこと、考えていたことが何となく分かり、実際、幻のコンパスで、通り魔になってみて、タカやんが通り魔になったときのいろんな複雑な気持ちがひとつずつわかっていった。はじめ犯人がタカやんと知らなかったときには、そんな気持はちっとも理解できなかった。でもタカやんだと分かり、そのことばかり考えていた。タカやんは同じクラスで同級生。同じ立場で考えることができた。そうするとをどんどん気持ちが分かっていく。だからエイジはタカやんの気持ちを理解でき、そして、自分自身を見つめ直すことができたのだと思う。本当に通り魔になった気持ちも分からないのだから、もっともっと自分の気持ちも理解でき成長できだと思う。人の心はすごいものだなあと思った。こんなにもいろんなことを考えられる。いろんなことを感じられる。私も『エイジ』を読んだらいろいろなこと考えることができたし、感じることもできた。これからもいろいろなことが起こり、いろいろな気持ちを感じ続けるのだろうな、と思う。
4)『普通って何?』
 エイジを読んでいて「普通」って何だろうと思った。大人は普通って言葉をよく使っていると思う。私が思う大人が思っている「普通」は、1)髪は黒く2)ピアスは開けなく3)勉強している4)学校に行っている、いろいろあるけど、私にとって全部まとめると「まじめ」って言葉になってしまった。「普通=真面目」が大人の中に先入観としてあるのではないかと思った。しかしそれがどういうことかと聞くと、納得する答えが返ってくるとは私は思わない。多分エイジも親にそういう思いを持っていたのかなと思った。そして親から普通を求められてしまったから、反感的な気持ちで幻のコンパスで人を突きさしたのかな。もしかしたら真面目、普通といった団体に皆と一緒っていうのが嫌だったのかとも思う。でもエイジも普通でまじめについていまいち分かっていないと思ったし、私もわからない。普通って、真面目って難しいと思った。
5)『人間の善意と悪意』
 僕はこの話を読むまでツカちゃんと同じように、知らず知らずの間に、知らない他人の善意だけを期待しているようになっていたかもしれない。落とし物を届けてくれる、道に迷ったときどう行ったらいいか教えてくれる、この話の中のみたいにバスの中で席を譲ってくれる。むしろ逆の場合もある。こういうことが自分の中で少しずつ当たり前みたいな感じなっていて、そうされなかったときに不快な気持ちになることがある。この考え方はよくないかなと思う。人間の悪意は通り魔に襲われる、急に人にたたかれる。これは自分自身あまり経験したことがないから全く気にもしていなかった。でもタモツ君が言ったみたいに、「困っているときに他人の善意に期待するんだったら、いきなり他人に悪意をぶつけられることも覚悟しなくてはおかしいじゃ」というのに妙に納得した。これはタモツ君の意見だから、みんながそう思わないと思う。なんか人間が悪い生き物のように聞こえるから。改めて僕は人間の善意の嬉しさと悪意の恐ろしさを知ったような気がする。つくづく思うのは、人間てなんて不思議な生物何だろうということだった。
6)『チューブ社会』
 エイジは自分が思っているような平々凡々な考えではなく、「あんた本当に中学生かよ」と聞きたくなるほど社会を見透かしていたような、奇想天外な考えをを、いたるところで見せてくれた。新聞報道の特徴は、事実を伝えようとすることが1番の目的であるはずだが、今は読者の興味をいかにひきつけるか、また内容にどれだけ共感してもらえるかが焦点となっている。そのため自分の知り合いのタカやんの話が書いてあっても、なぜかそれが遠くの人のことであって、タカやんのことでない気がしてしまう。そう言われてみれば、身近で起きた事件などが載っていても「自分には関係ない」という思いが出てきてしまう。自分の「その気」を発見しようと、幻のコンパスで、背中を刺してみたが、私には、集中力が足りなかったのか、エイジみたいに、血の感触や感想までは出てこなかった。でもこれは授業中にみんなでやってみてからできなかっただけで、廊下を歩いているときなんかだった出来るんだろう。結局考えてみると、私のその際、ただタカやんのものより奥の方に隠れているだけかもしれない。私の今の中は細かく考えてみるととても大きな数になると思う。東稜の1年の1組の誰々ちゃんグループのなんて、友達を作るのに派閥みたいなものがあったりする。それを切りたいと思うこともあれば、大切にしたいと思うこともある。でも私には今持っているチューブの数や太さは、少し調整したいもあるが、とても快適に過ごす大切な支えだ。ただそれが私だけの場合だ。人によっては友達のグループなんかに入りたくないと思う人もいるだろう。こうやって考えてみると今の社会は、細いものやら太いものまで種類はさまざまなチューブがはびこる所属意識の高いチューブ社会のように思える。
7)『世』
 2つの自分を信じてほしいとエイジは言っているが、私はそうは思わない。本当の自分は自分だけが知っていればそれでいいと思う。人に見せる自分はやっぱりそれなりに作った自分であって、ひとりでいる時の自分は、何も考えていなくて、そんなもんだと思う。少年犯罪が問題になっているが、犯罪を犯す少年は自分の世界を世の中に出してしまったのだと思う。例えば誰かにむかついたとき、心の中で「消えろ」とか思うことはだれでもあると思う。それを口に出すこともあっても本当にその人を消そうとはしないのが普通だ。どうして犯罪を犯す少年はそこで行動に出てしまうのか、普通の人と何が違っているのかを疑問に思う。
8)『ありのままの自分』
 タカやんとエイジの違いが最初に全く分からなかった。でも授業通して何となくだけどわかった気がする。もしタカやんが、エイジのようにありのままの自分、嫌いな自分も受け入れられていたら、通り魔にはならなかったのだろうか。逆に、エイジがありのままの自分を受け入れなかったら通り魔になっていたのかな。ちょっとした気の持ち方の違いによって、結果は大きく違うような気がする。誰だって嫌な部分だってあると思う。でもそれをどう受け取るかで変わるんだなあと思った。そして嫌な部分から目をそらさずに、向き合ってみると良いのかもしれない。自分についているチューブだって、いやだからといって何でもかんでも切れるわけじゃないし、必要なチューブだってたくさんあると思う。たまには息抜きだって必要だと思う。けど、やっぱりつながってなかったら友達とか親とか兄弟とかとても切るわけにはいかないのだし、寂しくて耐えられないと思う。タカやん1度切れてしまったチューブでももう1回つなげられていたらこんな事件を起こさなかったのかもしれない。私だって回りにもしこんな人々がいたら気づくかも分からないし、言えないけれど、誰か1人でもタカやんの心の支えになってあげる人がいたらよかったのにと思う。やっぱり動機がなくても、心にちょっとした傷やひっかかりがあったんだろうと思う。
9)『ありのままの自分』
 エイジが持っている「」ありのままの自分」、タカやんが持っている「ありのままの自分」、そして私が持っている「ありのままの自分」。3つとも絶対同じじゃない。むしろ世界中の人々がそれぞれ「ありのままの自分」を持っているけれど、他の誰かと全く同じそれはひとつとしてないだろう。また私はそれでいいと思う。ある花をきれいだと感じる人がいれば、そうでない人もいるわけで、つまり、感覚や意見が違っても、無意識にその食い違いを受け入れ、相手を認めているのだと思う。認め合えるからこそ親しくなれるのだと思う。話を変えると、タカやんが持っている「あるがままの自分」の中の1部が通り魔という犯行させた。エイジは最初「タカやん何であんなことをしたんだろう」と信じられないというような気持ちだったのに、いざ、幻の中で人を殺そうと、相手の背中にナイフを向けてみると、変な衝動に駆られて、自分にも殺人願望があるのかもしれないと感じるようになってきた。そして最終的には、両親に「少年」になった僕も信じてもらいたいと思うようにまでなる。そんな心の変化と同時に、タカやんの気持ちも少しは理解したのではないだろうかと思う。タカやんの犯した罪の理由を、「ありのままのタカやん」の1
部を受け入れることができたのだと思う。正直言って私も通り魔だったときのタカやんの気持ちが分からなくもない。もしかすると、私の持っている「ありのままの自分」の中に通り魔の心が存在しているのかもしれないのだ。でも、もしそうだとしても、私は私の持っている「ありのままの自分」を受け入れたい。そしてそんな「ありのままの自分」とうまく付き合っていきたい。
10)『ありのままの自分』
 私は自分が嫌いです。いつも一言多いし、いらないことばかりやっているし、おせっかいばかり焼いてしまう。頭の中では自分が悪いことが分かっているのに、生理的に飲み込めなくて、人のせいにしまったり、またそれをあとで後悔したり、考えれば考えるほど嫌になっていきます。人に乗せられたり、おだてられたりしている自分を後で見つけると、また嫌な気持ちがわいて出てきます。ときどき自分がやっていることが偽善に思えてきたり、知らないうちに世の中の渡り方などが身に付いていると、吐き気がするほど嫌いになります。少しでも嫌な自分をなくし、ありのままの自分に近づけるように日々精進したいと思います。
11)『親について』
 親に途方もなく怒られて、本当に何もかもが嫌になる。すると私はいったいどんなことを言えば、この人を1番傷つけることができるのか考える。あるいは勢いで手を挙げてしまいそうになることもある。それでも結局何もできずに終わってしまうことがほとんどだ。そんなとき、この人はとてもいやな人間だったら、完全に憎み切れるのに、と残念に思う。だって、もの凄く悔しくて、イライラしているのに、そのな時でも相手が傷つくことを恐れてしまうんだなって本当に煮え切らない。それで、しばらく時間がたつとやっぱり自分の行った判断は正しかったのだと実感する。結果として次に同じような事が起きても、結局同じように対処してしまうのだ。だからこそ、自分の中で、「嫌な親にむかつく方が楽になれる」のにという思いがどんどん大きくなっていく。でも私の親はたとえ私はどんなことをしても、それを私自身としてほとんど受け入れてくれる気がする。特に父からそういう教育を受けてきたんだろうなと今改めて思う。つまり私とっては「いやな親」=「ありのままの自分を信じてくれない」なんていう発想自体が全く必要のないものなのだ。だからといって私の親が私にとってどんなときも完全な親であることは多分ない。これから生活の中で、きっとそういう憤りはてくるだろうなとも思う。でもそんなときその憤りを自分の中で隠しながら大きくしていくものではなくて、それを認めることができるように、これからは自分を偽ることなく生きていきたい。
12)『自分を自分で受け止められるように』
 エイジを最後まで読んで、なんでタカやんが通り魔になったか分かったような気がする。誰にでもチューブやその気ってあると思う。それをみんなは上手にコントロールして理性や冷静な判断をしているけど、たぶん、それができない人もいる。多分タカやんはそれができなくて、自分の気持ちをぶつけたり、話せる人がいなかったから通り魔になったんだと思う。最初のうちは、エイジみたいにコンパスで消しゴムを刺したり、想像の中で人を刺したりしていたのかもしれない。でも、自分の中に嫌なことがいっぱいたまって、今までのことでは、発散できなくなって、本当に人を傷つけたのかもしれない。わかる。そういうのすごく私には分かる。きっと、タカやんは自分に自分の思っていることを聞いてほしかったんじゃないか。誰かに自分を見てほしかったんじゃないかと思う。タカやんの家庭の事情とかそんなことは知らないけど、私だって1人でいたい時も、誰かと一緒にいたい時もあるし、信頼している人もいる。暮らしの中に今本当に欠けている人間関係ていないから、平常心の思っていられるけど、どこか欠けたら私も通り魔になるかもしれない。だれでもいいから、偽りの自分じゃなくて本当の自分を見てほしい。自分の持っていることを聞いてほしい。何か今まで当たり前だったけど、その誰かがいなくなったときの自分がどうなるかなんて、だれにもわからない。でも、その時の自分がどうなってしまっても、自分からは逃げたくない。通り魔だって、いいにしても悪いにしても、ひとつの自分の形だし、それを受け止められるようになりたい。
13)『エイジを読んで考えたこと』
  エイジは普通でまじめなのに、通り魔タイプだった。うちのクラスは私も含めて普通でまじめな人がほとんどでした。ということは、みんな(1部除く)通り魔の素質はあるって事なのかなと思いました。もちろん私も含めて。そこで、私がもしそういう犯罪とかすると回りの人たちはどういう反応するのか考えてみました。やっぱり私も「京都府内に住んでいる高校1年生」というただの少女みたいになるのかな?と思いました。そしてニュースでは、友達や先生や近所の子たちが「普通でまじめな子だったのに」と言うのでしょうか。でも私は何故か友達から「普通でまじめやな」とか言われたことがないのにやっぱり、世間ではただの「少女」になってしまうのかと思うと多少さみしい気はします。私もタカやんやエイジのように嫌いな自分はいます。2人のように暴力衝動があるとかそんなに過激ではないけど、誰にでも嫌な部分はあるんじゃないかなと思います。私はありのままの自分を受け止められているのかとちょっと不安に思いました。でも、普通に生きているのだったら受け止められなくても、受け止められてもどっちでもいいかと思います。
14)『無題』
  エイジのお母さんが言っていることや新聞が書き並べていることもどこが違う。タカやんがこんなことを考え、思い、そしてこうしたんだって勝手に想像してるだけなんじゃないかと思う。タカやんのことをすべて分かるのはたとえ親友だって無理だ。人が考えて行動するのはそんな数学みたいにきちっと答えられてきちんと説明できるようなものじゃないと思う。それからマスコミの人は何万人もいる子供の1人だけを見て、それを当てはめる気がするから嫌だ。確かに同じような考えの人はいると思うけど、でもみんなが同じわけはない。最近の若いやつはとかみんなが悪いわけじゃないのに。たくさん頑張っている人だっているのに、そういう言い方はないと思う。そんなことを言うから、反抗だってしたくなるんじゃないかな。1番たくさんのことを考えてしまう時期なんだから、悩んだり、イライラするときだってあるし、それが犯罪の方へ向かってしまっているのかもしれない。