金城一紀


 オヤジは、韓国の済州島生まれの五十四歳。戦時中は、朝鮮は日本の植民地だったので、「日本人」だった。戦時中が軍需工場に徴用されたので日本に来た。日本が負けると、「用がないから出て行け」と言われた。しかし、朝鮮戦争で国が南北に分断され、どちらかの国籍を選べといわれた。韓国生まれではあったが、北朝鮮は貧乏人に優しいはずの共産主義で、韓国より気遣ってくれる朝鮮籍を取得した。しかし、実際の総連の関心は、在日朝鮮人ではなく北朝鮮にだけ向いていた。ハワイに行くには朝鮮籍ではビザが下りないので、北朝鮮を支援する総連と対立していた韓国を支援する民団の幹部に賄賂を贈り韓国籍を取得した。所詮、国籍などは、金で買える程度の価値しかないことを実証した。

 オフクロは、日本生まれの日本育ち、二十歳で僕を生んだ。

 僕は、気がついたら「在日朝鮮人」で、選択しようのない環境の中でただ生きていただけでのひねくれた悪ガキに育った。オヤジに反抗して韓国籍に変えることを拒否したが、オヤジに「広い世界を見ろ。後は自分で考えろ」と言われて、初めて選択権を与えられ、きちんと人間として扱われたような気がした。

 「在日朝鮮人」から「在日韓国人」になることでは、自分自身何も変わらなかったが、日本の高校に行くことで、無数の選択肢を獲得し、広い世界を見ようと決心した。

 民族学校の話。

 共産主義国家は宗教を認めていないが、国民を団結させるには宗教のようなものが必要であり、宗教にはカリスマである教祖が必要で、金日成がカリスマ教祖になっていた。今の偉大な将軍様、金日成の父親である。民族学校は一種の教団であった。

 僕は、学校にいると統制下の窮屈さがあったので、よく学校を休んだ。

 そんなある日、オヤジにやりたいことはないのかと聞かれて、ボクシングのトレーニングを始めることになった。オヤジは、拳の引いた円が人間の大きさで、その中にいれば安全に生きていける。しかし、ボクシングは自分の円を拳で破って、何かを奪い取ることだ。何かとは、国籍からの自由である。しかし、外には強い奴に大切なものを奪い取られることでもある。強い奴とは日本人であり、大切なものとは命である。それでも、僕はボクシングを選んだ。オヤジは自分の望む生き方を選んだ息子がうれしくて、ニカッと笑った。

 日本の高校では、トラブルを避けるために通称名で通うようにと言われる。僕は素直に受けいれて、民族名を捨てた。それは民族に対する反逆の意味があった。在日韓国人であることを隠すつもりもなかったが、ひけらかすつもりもなかった。

 しかし、学校の不注意で、在日韓国人であることがばれた。猛者たちが朝鮮学校に対する偏見から挑戦してきた。朝鮮学校にも、日本の学校と同じように、心優しい奴も凶暴な奴もいたが、朝鮮学校の凶暴な奴には「差別」が付加されて、恐ろしいイメージの偏見として朝鮮人の平均像として定着する。

 最初の挑戦者は、広域指定暴力団の幹部組員の息子だったが、僕の軍門に下り唯一の友だちになった。加藤は僕から「ヤクザは嫌いだ」と言われ、ヤクザに対する差別に抗議し、父親の必死の生きざまを訴える。このあたり、日本人と在日の立場が逆転している。

 僕が日本の高校を受験するというと、学校側は他の生徒への影響を恐れた。それほど、民族学校の地盤は脆弱になっていた。同級生は「売国奴」と言ったが、僕たちは売るべき国を持っていない。

 そのことをはっきり言い放ったのが、正一である。正一は韓国人の父と日本人の母の間に生まれたにもかかわらず、朝鮮学校へ通った。

 二人は喫茶店で議論をした。僕が、「差別の科学史」から、ある人の劣っている点を取り上げて、その人の属している民族すべてに適用しようとする遺伝決定論は、差別に悪用されるなど語り合った。

 正一は、僕の進路について、今まですれた生き方をしてきたのだから、大学四年間で何をしたいか決めるというもったいない生き方をした方がいいと勧める。しかし、自分は弱い立場の在日朝鮮人の受け皿として民族学校の教師になって、後輩に僕からもらった勇気を与えて広い場所に出て行けるように教えてやるのが、自分の役割だと言う。

 僕は桜井とすべてを受け入れ合う前に、自分が在日韓国人であることを言っておかなくてはならないと思う。桜井ならきちんと受け入れてくれる気がしていた。しかし、桜井は頭ではわかっているが体が受け付けないと言う。父親に韓国人や中国人は血が汚いから付き合ってはいけないと言われていた。無知と無教養と偏見と差別によって吐かれた言葉だった。日本人と韓国人と中国人を区別するものは、生まれた場所でも、しゃべっている言葉でも、ルーツでもない。

 桜井は自分の名前が日本人らしくて嫌いだったから言えなかったと言う。僕は自分の名前が外国人みたいで君を失うのが怖くて言えなかったと言う。

 加藤は麻薬売買で逮捕され退学になった。そして、今までの自分を色々なものに甘えていて,中途半端で、カッコ悪いと言う。ヤクザの息子だけでは生きていけない、何かを見つけなければならない、日本人でいることも大変なんだと言う。

 宮本と言う同級生が登場する。アメリカでは、「韓国系アメリカ人」として、アメリカ人としての権利を与えられ、人間として扱ってくれるのに、日本では、国籍が韓国のままでは人間として扱ってくれない。同化か排除しかない。グループを作って、「在日」の権利のために勉強し活動していこうと誘う。

 僕は、具体的に何と戦っているのか、国籍を変えるぐらいで民族心がなくなるのかと反論するが、宮本は、国籍を変えることに抵抗がないと言っているのに、なぜ韓国籍のままなのかと質問する。煩瑣な手続きすべてが大きな支障でとないのかと質問する。

 公園でオヤジとボクシングをして負ける。オヤジは、もう俺達の時代ではない、この国が変わると根拠はないがまず思うことが大事だと言う。オヤジが急に国籍を変えたのも、僕の足枷を外すためだった。玄関にハワイの写真を飾ったのも、友人をなくし孤立無援で戦い続けるためだった。

 三日後、宮本と再会する。この前の質問の答が出た。宮本のしていることは正しい。僕は同じことを誰ともつるまないでやりたいと思っている。僕には、オヤジという乗り越えなければならない大きな目標がある。オヤジを乗り越えれば、世界を変えられる。国籍を変えないのは、これ以上国というものに帰属して生きるのが嫌だから。

 桜井と再会する。

 「在日」とはいつか日本から出て行くということである。

 「在日」と呼ぶのは、何かに分類して名前を付けなくては不安だからであり、勝手につけた名前でわかった気になり、虚像に怯えているだけだ。

 僕は、狭いところに閉じ込められたくない、俺は俺、俺であることからも解放されたい、

俺であることを忘れさせてくれるものを探す。

 それは、国家や土地や肩書や因襲や伝統や文化に縛られているものにはできない。

 俺は、そんなものを初めから持っていないから、どこへでも行ける。逆転の発想だ。

 桜井は、そんな僕の目に魅せられた。跳んだり、睨み付けたりする魅力に惹かれたのだ。


第一段落     本文   板書

1.はじめ〜3上17を音読させる。

2.オヤジについてまとめる。

 1)年齢は。

 2)僕は何歳の時の子どもか。

 3)生まれは。

 4)戦争中の国籍は。

 5)理由は。

 6)日本に来た理由は。

 7)戦後の日本政府の対応は。

 8)ソ連とアメリカの思惑とは。

 9)韓国生まれであるにもかかわらず、朝鮮籍を選んだ理由は。

 10)韓国籍を取ろうとした理由は。

 11)どういう方法を使ったか。

 12)「民団」と「総連」の説明をする。

 13)国籍は金で買えるとはどういう意味か。

3.オヤジの弟についてまとめる。

4.オフクロについてまとめる。

5.3上18〜4下21まで音読させる。

6.僕についてまとめる。

 1)国籍は。

 2)オヤジとの違いは。

 3)どんな子どもに育ったか。

 4)そうなった理由は。

 5)韓国籍に変えた理由は。

 6)「人間として扱われる」とは。

 7)広い世界とは。

 8)日本の高校を受験する理由は。

 9)オヤジが困ったような嬉しいような複雑な笑みを浮かべた理由は。


第二段落     本文   板書

1.民族学校についてまとめる。

 1)学習内容は。

 2)金日成が伝説的な指導者になる経緯は。

 3)カリスマ教祖の恐ろしさについて。

 4)僕が学校を休むようになった理由は。

2.5下06〜6上23を音読させる。

3.オヤジの教えた生き方についてまとめる。

 1)自分の器は。

 2)ボクシングとは。

 3)僕にとって、自分の円とは。

 4)円の外とは。

 5)何かとは。

 6)強い奴とは。

 7)大切なものとは。

4.オヤジがニカッと笑った理由は。

5.日本の高校が通名を使うように希望した理由は。

6.朝鮮学校に対する見方についてまとめる。

 1)朝鮮学校にいる生徒は。

 2)朝鮮学校に対する偏見は。

7.日本の高校で僕が通称名を使うことを承諾した理由は。

8.加藤についてまとめる。

9.加藤の「差別しないでくれよ」という言葉の意味は。

10.加藤が嬉しそうに微笑んだ理由は。


第三段落     本文   板書

1.僕が日本の高校を受験することに対する民族学校の反応をまとめる。

 1)学校の反応は。

 2)その理由は。

 3)教師の対応は。

 4)その理由は。

 5)僕に「売国奴」の意味がわからなかった理由は。

2.正一の境遇をまとめる。

 1)その理由は。

3.偏見の仕組みを考える。

   ↓

   ↓

   ↓

4.小説について

     想像力がある。

5.11上19〜おわりを音読させる。

6.二人の進路について考える。

 1)正一が望む僕の生き方は。

 2)もったいない生き方とは。

 3)理由は。

 4)正一の生き方は。

 5)理由は。

    ↓

    ↓

 6)「役割」とは。


第四段落     本文   板書

1.正一が死んで、ホテルで桜井に自分が在日韓国人であることを告げるシーンであるこ とを説明する。

2.13下19〜15上17を音読させる。

3.僕が在日韓国人であることを告白することについて

 1)桜井の父の言葉を確認する。

 2)その言葉が吐かれた根拠を確認する。

 3)それを桜井が信じている理由は。

 4)何人かを区別する根拠は。

  ×国籍=すぐに変えられる。

  ×生まれた場所

  ×しゃべっている言葉                            

  ×ルーツ


第五段落      本文   板書

1.加藤の生き方について

 1)それまでの自分は。

 2)いろいろなものとは。

 3)加藤の決意を確認する。

 4)そう考えた根拠は。

 5)在日だけでなく、日本人でも同じ悩みを抱えていることを確認する。

2.宮本について

 1)境遇をまとめる。

 2)アメリカとの比較をまとめる。

        アメリカ国民として全ての権利を与えられる。

        きちんとした人間として扱われる。

        外国人登録の切り換え、再入国許可

        ちゃんとした人間として扱ってくれない。

 3)活動内容をまとめる。

 4)僕はどうして韓国籍のままなのか、という問を確認する。


第六段落     本文   板書

1.オヤジの気持ちについてまとめる。

 1)「俺たちの時代じゃない」とは。

 2)「この国もだんだん変わり始めている」の根拠は。

 3)国籍を変えた理由は。

 4)「足枷」とは。

 5)玄関にハワイの写真を飾った理由は。

2.宮本への返事について

 1)宮本への協力は。

 2)「同じこと」とは。

 3)僕の課題は。

 4)それは誰か。

 5)韓国籍を変えない理由は。


第七段落      本文    板書

1.はじめ〜25上20を音読させる。

2.桜井の様子について

 1)「顔に緊張の色が落ちていた」理由は。

 2)「ぎこちなく微笑み」の理由は。

 3)ホテルで別れた後、色々考え、難しい本をたくさん読んで、在日韓国人について勉強  したことを確認する。

3.僕のメッセージについて

 1)「在日」韓国人とは。

 2)「ライオン」の例えは。

 3)僕のアイデンティティとは。

 4)「そんなもの」とは。

4.27上08〜おわりを音読させる。

5.桜井が僕を好きになった理由について。

 1)どこが気に入ったのか。

 2)なぜ目が気に入ったのか。

 3)僕の目は何を睨んでいたのか。

6.僕が泣いた理由は。

7.「行きましょう」の意味は。


まとめ

1.登場人物を整理する。

        

2.国境や国籍はいらないのか。



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1.オヤジについて

 「日本人」

   ↓

 「在日朝鮮人」

   ↓

 「在日韓国人」

    ‖

2.オヤジの弟について

3.オフクロについて

4.僕について

   ↓

   ↓

   ↓






5.民族学校=教団

   ↓

   ↓

   ↓

   ↓常に厳しい統制下に置かれているような窮屈さ。

6.ボクシング=オヤジの生き方

   ↓

       その中にいる限り安全に生きられる。

   ↓

7.日本の高校=通称名

 @高校側の理由

              +

              差別

              ‖

              朝鮮人は恐ろしいというイメージが定着する。

 A僕の理由

8.加藤について

   ↓

 「ヤクザだからといって、差別しないでくれよ」

   ↑

   ↓






9.民族学校の反抗

   ↑

   ↑

10.正一の境遇

  ↓↑

11.僕の生き方

   ↑

12.正一の生き方

   ↑

   ↓

   ↓







13.僕が在日韓国人であることを告白する

   │       ↑

   ↓     ・無知と無教養と偏見と差別。

   ×国籍=すぐに変えられる。

   ×生まれた場所

   ×しゃべっている言葉                           

   ×ルーツ

    ↓






14.加藤の生き方

   ↓

   ↑

15.宮本について

   ↓

       アメリカ国民として全ての権利を与えられる。

       きちんとした人間として扱われる。

       外国人登録の切り換え、再入国許可

       ちゃんとした人間として扱ってくれない。

16.僕が韓国籍のままである理由







17.オヤジの気持ち

18.宮本への返事







19.桜井について

20.僕のメッセージについて

   国家、土地、肩書、因襲、伝統、文化=日本人。国籍

21.桜井が僕を好きになった理由

    差別や権力

22.僕が泣いた理由

23.「行きましょう」=go



















GO                金城 一紀


名前ってなに?
バラと呼んでいる花を
別の名前にしてみても美しい香はそのまま
 『ロミオとジュリエット』シェイクスピア(小田島雄志訳)



「ハワイか……」
 オヤジが初めて僕の前で『ハワイ』という言葉を口にしたのは、僕が十四歳のお正月のことで、その時テレビの画面では、美人女優三人がハワイに行き、ただひたすら「きれい!おいしい!きもちいい!」を連呼するお正月特番が映し出されていた。ちなみに、それまで、我が家ではハワイは『堕落した資本主義の象徴』と呼ばれていた。
 当時オヤジは五十四歳で、朝鮮籍を持つ、いわゆる《在日朝鮮人》で、マルクスを信奉する共産主義者だった情早B
 ここでまず断っておきたいのだけれど、これは僕の恋愛に関する物語だ。その恋愛に、共産主義やら民主主義やら資本主義やら平和主義やら一点豪華主義やら菜食主義やら、とにかく、一切の『主義』は関わってこない。念のため。
 さて、オヤジが『ハワイ』を口にした時、小さくガッツポーズをしたオフクロ(朝鮮籍)は、のちに僕にこう言った。
「あの人も歳にはかなわなかったのよ」
 その年のお正月はものすごい寒波に襲われていて、五十を過ぎているオヤジの身にはかなり応えたらしく、やたらと「関節が……」と切なそうにつぶやきながら体をさすっていた。オヤジは温暖な気候を持つ韓国の済州島に生まれ、子供時代を過ごしていた。ちなみに、済州島は『東洋のハワイ』を自称している。
 一方、日本で生まれ、日本で育ち、十九歳の時に御徒町のアメ横でオヤジにナンパされて、二十歳で僕を生んだオフクロは、オヤジが転びかかっているのを見逃さず、素早く後ろに回り込み、でたらめに背中を押した。
「ベルリンの壁は崩れたし、ソ連ももうないのよ。この前テレビで言ってたけど、ソ連が崩壊したのは寒さが原因らしいわよ。寒さって、人の心を凍らせるのよ。主義も凍らせてしまうのよ……」
 哀切のこもった口調だった。そのまま続けていたら『ドナドナ』でも歌い出しそうな勢いだった。
 うつむき加減でオフクロの言葉を聞いていたオヤジが顔を上げ、テレビの画面に視線を戻した時、いつの間にか水着姿になっていた美人女優たちが、オヤジにとろけそうな笑顔を向けながら、「アロハ!!!」と呼びかけた。
 「アロハ……」
 断末魔のつぶやきだった。オヤジは深く、長いため息をつき、そして、転んだ。

 転んで、起き上がったあとのオヤジの動作は機敏で迅速だった。お正月休みが終わってすぐ、ハワイに行くために朝鮮籍から韓国籍に変える手続きを始めた。
 説明が必要だと思う。どうして韓国の済州島に生まれたオヤジが朝鮮籍で、どうしてハワイに行くためには国籍を韓国籍に変えなくてはいけないのか。つまらない話なので、なるべく長くならないように説明しようと思う。できればユーモアも交えたいのだけれど、ちょっと難しいかもしれない。
 子供の頃情草時中のことだ情巣Iヤジは《日本人》だった。理由は簡単。むかし、朝鮮(韓国)は日本の植民地だったから。日本国籍と日本名と日本語を押しつけられたオヤジは、大きくなったら《天皇陛下》のために戦う兵士になるはずだった。両親が日本の軍需工場に徴用されたので、オヤジは子供の頃に両親と一緒に日本に渡ってきた。戦争が終わり、日本が敗けると、オヤジは《日本人》ではなくなった。ついでに日本政府から「用がなくなったから出てけ」なんて身勝手なことを言われてあたふたしているうちに、いつの間にか朝鮮半島がソ連とアメリカの思惑で、北朝鮮と韓国のふたつの国に割れていた。日本にいてもいいけど、どちらかの国籍を選べ、と迫られたオヤジは朝鮮籍を選ぶことにした。理由は、北朝鮮が貧乏人に優しい(はずの)マルクス主義を掲げていることと、日本にいる《朝鮮人(韓国人)》に対して韓国政府より気遣ってくれたから。そんなわけで、オヤジは朝鮮籍を持つ、いわゆる《在日朝鮮人》になった。
 若くしてふたつ目の国籍を持ったオヤジは歳を取り、ハワイのためにみっつ目の国籍取得に乗り出した。理由は簡単。北朝鮮はアメリカと国交がなくて、ビザが下りないからだ。ちなみに、北朝鮮が国交を結んでいる国が極端に少ないせいで、《在日朝鮮人》の旅行先も、かなりの狭さに限られてしまう。最近では相当時間をかければ国交を結んでいない国のビザも下りないこともないらしいけれど、どれだけの時間がかかるか予測が立てられないし、手続きがやたらと面倒臭いのだ。
 オヤジは国籍取得のために、まず『民団』の幹部に働きかけた。ここでまたつまらない説明。これも面白く話せるかどうか……。
 日本には『総連』と『民団』という、北朝鮮と韓国の事実上の出先機関があって、原則的に朝鮮籍の《在日朝鮮人》は総連に、韓国籍の《在日韓国人》は民団に群れ集うようになっている。ふたつの機関は北朝鮮と韓国の関係を否応なく反映するわけで、だから、総連と民団も『ロミオとジュリエット』のモンタギューとキャビュレットの両家のように、時々小競り合いなんかをしながら、つかず離れずで反目し合っている。ところで、『ロミオとジュリエット』の結末は知っている?
 むかし、オヤジは総連のバリバリの活動員だった。仲間である《在日朝鮮人》の権利獲得のため、仕事の合間に必死に活動した。健全な組織運営のため、と言われたので、多くの、本当に多くのお金も寄付をした。でも、報われることはなかった。詳しいことは書かないけれど、簡単に言えば、総連の目はいつも北朝鮮に向いていて、《在日朝鮮人》にはきちんと向いていなかったことに、長い活動を通してオヤジは気づいたのだ。そして、北朝鮮と総連に失望を感じている時、オヤジはハワイの引力に吸い寄せられた。

 オヤジが韓国の国籍取得のためにまずやったことは、知り合いの民団の幹部に相談をすることだった。その民団の幹部は、オヤジが総連の活動をまだバリバリやっている頃に、「我々のスパイになってくれないか」という、なかなかスリリングな話を持ちかけてきた奴だった。もちろん、オヤジは断った(らしい)。
 韓国の国籍取得するためには、韓国大使館に行き、正規の手続きをして申請が下りるのを待てばいいのだけれど、申請が下りるためにかかる時間は人によってまちまちだった。総連の活動をバリバリやっていたような「敵性」を持つ人間、しかもマルクス主義者に申請が下りるまでにどれだけの時間がかかるか、そもそも下りるかどうかもオヤジにとっては不安だったに違いない。
 民団の幹部の根回しのおかげで、申請はなんの問題もなく、たったの二カ月で下りた。総連の活動をバリバリやっていた人間(しかもマルクス主義者)に申請が下りた中では、最短記録ではないだろうか。オヤジは何をしたのか? 簡単だ。民団の幹部に賄賂を払ったのだ。多くの、本当に多くのお金を。
 こうしてオヤジは見事な手際でみっつ目の国籍を手にした。でも、ちっとも嬉しそうではなかった。時々、冗談めかして、僕に言った。
「国籍は金で買えるぞ。おまえはどこの国を買いたい?」

 さて、こうしてあとは夢のハワイに飛ぶだけになったはずのオヤジだったが、最後にやっておかなくてはならないことがあった。北朝鮮にいる実の弟にトラックを送るのだ。
 ここで、最後のつまらない説明。これは面白くしようがない、どうやっても。
 オヤジには、子供の頃に一緒に日本に渡ってきた、ふたつ年下の弟がいて、つまり、僕の叔父さんなのだけれど、その叔父さんは一九五〇年代の終わりから始まった北朝鮮への《帰国運動》というやつで、日本から北朝鮮に渡っていった。その《帰国運動》っていうのは、北朝鮮が『地上の楽園』で素晴らしい場所だから、日本で虐げられている《在日朝鮮人》の方々よ一緒にこっちで頑張ろう、おいでませ、という運動だった。だいたい「運動」って単語がつくものにロクなものはなくて、当時の《在日朝鮮人》の人たちも薄々それに気づいていたらしいのだが、日本での差別と貧乏よりかはましかもしれない、と多くの人たちが北朝鮮に渡っていった。その中に、僕の叔父さんもいたというわけだ。

 僕?
 ようやく僕の話ができる。これはオヤジでもオフクロでもなく、僕の物語だ。
 僕はハワイには行かなかった。
 どうしてかって?
 朝鮮籍を持つ両親の子供に生まれた僕は、気がついたら朝鮮籍を持つ《在日朝鮮人》で、物心ついた頃からハワイを『堕落した資本主義の象徴』と教えられ、背表紙にマルクスとかレーニンとかトロッキーとかチェ・ゲバラなんて名前が記された本に囲まれて育ち、気がついたら学校は総連が経営する民族学校、いわゆる『朝鮮学校』に通い、そこでアメリカのことを純粋な敵国として教えられていた。
 だからといって、僕が共産主義思想にかぶれていたわけではなかった。北朝鮮もマルクスも総連も朝鮮学校もアメリカも知ったこっちゃなかった。僕は選択しようのない環境に応じて、ただ生きてきただけだった。でも、わけの分からない環境だったので、当然のようにヒネクレ者の悪ガキに育った。ならないほうがおかしいと思わないかい?
 立派なヒネクレ者の悪ガキに育った僕は、韓国籍に変える時にも、オヤジに反抗した。別に国籍を変えることにたいした拘わりはなかったのだけれど、ちょっとやそっとのことで転ぶつもりはなかった。
 中二の春休みが終わろうとしていたある日、僕はオヤジにむりやり車に乗せられた。行き先を訊いてもオヤジは答えず、ただ黙って車を都内から神奈川のほうに向けて走らせていた。
 こ、殺されるかも……。
 僕はそう思った。
 オヤジは日本ランキングにも入ったことのあるライト級の元プロボクサーで、基本的に口より先に手が出るタイプの人間だった。悪ガキだった僕は、何度か警察に捕まるような悪さをして、オヤジから三回ほど半殺しの目に遭わされていた。
 どうやって車から飛び出して逃げようかと作戦を練っているうちに、車は目的地に着いてしまった。湘南の辻堂海岸だった。
「ついてこい」
 海岸沿いの道路に車を駐めたあと、オヤジはそう言って、海岸のほうへ歩いていった。僕の頭の中に一瞬、海に顔を押しっけられ、苦しみながら溺れ死んでいく自分の映像が浮かんだけれど、オヤジの背中に殺気が感じられなかったので、とりあえず様子を見ながらついていくことにした。
 オヤジは僕に構わずさっさと歩いて砂浜に入っていき、海岸のほぼ真ん中にどっかりと座って、海を眺め始めた。僕はオヤジのリーチが届かない距離を正確に目測した場所に腰を下ろした。ちゃんと右隣に座った。オヤジはサウスポーだった。
 夕暮れが迫る春先の海を、オヤジはただ黙ってボーッと眺めていた。僕は、ゴールデン・レトリーバーを連れて散歩に来た女子高生らしい女の子のことを見ていた。なかなか可愛い子で、僕と視線が合った時に、うふ、って感じで笑った。僕も、うふ、って感じで笑おうかと思った時、顔の左側に殺気を感じた。僕は自分の不覚を呪った。オヤジの手がいつの間にか僕の頭に伸びていた。「こ、殺される!」と思った瞬間、オヤジがコツンという感じで僕の頭を殴った。
「しっかり見てろ」
 命拾いをした僕は、とりあえずオヤジの言う通り、海に視線を戻した。それから何分か経って、オヤジは、もっと綺麗な海のほうが良かったんだけどな、と独り言のようにつぶやいたあと、視線を僕に向け、ジッと見つめた。恐かった。ものすごく真剣な目だった。ボクサー時代に刻まれた、五センチほどの右の目尻の傷がちょっと赤くなっていた。
 僕が、うふ、って感じで笑って、なんとかその場を和ませようかと思った時、オヤジがはっきりとした声で言った。
「広い世界を見ろよ……。あとは自分で決めろ」
 ただそれだけだった。オヤジはそう言ったあと、さっさと腰を上げ、砂浜を出ていってしまった。
 なんてクサイことをするんだろう、とは思わなかった。僕はヒネクレ者だったけれど、同時にロマンチストでもあったのだ。『広い世界』と言われて、血が騒いでしまったのだった。
 僕はしばらくのあいだ、砂浜に座って海を見続けた。海は広くて大きいのだった。月が昇るし日が沈むのだった。海にお船を浮かばせて、行ってみたいな他所の国……。
 そんなわけで、僕は転んだ。オヤジのクサイやり方にまんまとハマったこともあるけれど、それだけが理由ではなかった。ずっと選択しようのない環境に閉じ込められてきた僕にとって、それは初めて与えられた選択肢だったのだ。北朝鮮か、韓国か。恐ろしく狭い範囲の選択ではあったけれど、僕には選ぶ権利があった。僕は初めてきちんと人間として扱われたような気がしたのだった。

 韓国籍に変えることは承諾したが、ハワイに行くことは拒否した。その代わり、ハワイにかかるはずだった旅費を、違うことに遣わせて欲しいと頼んだ。
「何に遣うんだ?」とオヤジは訊いた。
 僕はきっぱりと答えた。
「日本の高校を受験する。そのために遣う」
 いったん朝鮮学校に入った学生のほとんどは、そのままエスカレーターで民族系の高校、大学へと進むのが普通だった。
「どうしたんだ、急に?」とオヤジ。
 僕はある日を境に、《在日朝鮮人》から《在日韓国人》に変わった。でも、僕自身は何も変わってなかった。変わらなかった。つまらなかった。いまや僕の目の前には無数の選択肢があった。そのことに気づいていた。
 僕はまたきっぱりと答えた。
「広い世界を見るんだ」
 オヤジは困ったような嬉しいような複雑な笑みを浮かべながら、「好きにしろ」と言った。

 こうして僕は《在日朝鮮人》をやめ、ついでに民族学校という小さな円から脱け出て、『広い世界』へと飛び込む選択をした。でも、それはなかなか厳しい選択でもあったのだった。






        

 民族学校に通っていた頃の話をしたいと思う。
 僕は、民族学校で小中一貫教育を受けた。民族学校で教わったのは、朝鮮語と朝鮮の歴史と、北朝鮮の伝説的な指導者、《偉大なる首領様》金日成のことと、あとは日本学校でも教わるような日本語(国語)、数学、物理、などなど。
《偉大なる首領様》金日成。
 民族学枚のことを語る上で、この人物を避けて通ることはできない、絶対に。僕は、幼い頃から金日成がどれだけ偉大な人物であるかを、嫌というほど教え込まれた。
 共産(社会)主義国家は宗教を認めていなくて、でも、国民を一枚岩のように団結させるためにはやっぱり宗教のようなものが必要で、当然ながら、宗教にはカリスマである教祖様が必要で、要するに、金日成は宗教の教祖様のようなものなのだ。
 なのだ、なんていまではもっともらしく言っているけれど、もちろん、民族学校にいる頃の僕にはそんな理屈は分かってなくて、金日成への盲目的な忠誠心を押しつけられるのを、「なんかおかしい」と思いながらも、それが当たり前のこととして受け入れていた。だって、僕は物心ついた頃から民族学校という『教団』の中で過ごしてきたのだから。

 学校にいると、常に厳しい統制下に置かれているような窮屈さがあった。そんなわけで、僕は小学校の四年に上がった頃から、よく「頭の左側が痛い」とか、「目の奥が熱い」とか「ベロが割れそうに痛い」とか言って学校を休むようになった。
 その頃はまだ熱心な総連の活動員だったオヤジは、僕が学校を休むとあまりいい顔はしなかったけれど、かといって、無理に学校に行かせようとはしなかった。オフクロはどちらかというと、僕が学校を休むのを喜んでいたので、僕は両親公認で堂々と学校を休んでいた。
 小学五年に上がってすぐの頃のある日、学校を休んでビデオで映画ばかり観ている僕に、オヤジが言った。
「なんか他にやりたいことないのかよ?」
 僕は少し考えたあと、ボクシングを教えて欲しい、と頼んだ。少し前に『ロッキー』を観たばかりだったのだ。パチンコの景品交換業は比較的時間の融通がききやすい商売なので、翌日の昼間からさっそくオヤジとのトレーニングが始まった。
 トレーニング初日、僕とオヤジは近所にある、ジョギングコース付きの大きな公園に向かった。公園に着くと、オヤジは公園の真ん中に敷かれている「立入禁止」の広い芝生区域の中に入っていった。僕もあとを追った。芝生区域のほぼ真ん中あたりに辿り着いた僕とオヤジは、少しの距離を置いて向かい合う形で立った。オヤジは少しのあいだ、無言で僕を見つめていた。
 いったい、どんなトレーニングをさせられるんだろう?
 僕はちょっと緊張していた。オヤジが口を開いた。
「左腕をまっすぐ前に伸ばしてみな」
 僕はとりあえず言われた通りにした。オヤジが続けた。
「腕を伸ばしたまま、体を一回転させろ」
「は?」
「足をその場所から動かさないで、どっち回りでもいいから回ってみろ。コンパスみたいにな」
 オヤジの顔は真剣だった。僕はためらいながらも、左腕をまっすぐ伸ばしたまま、左回りに体を一回転させた。僕が再びオヤジとまっすぐ向き合うと、オヤジは言った。
「いま、おまえのこぶしが引いた円の大きさが、だいたいいまのおまえという人間の大きさだよ。その円の真ん中に居座って、手に届く範囲のものにだけ手を出したり、ジッとしたりしてればおまえは傷つかないで安全に生きていける。言ってること、分かるか?」
 僕はゆっくりと頷いた。オヤジは続けた。
「おまえはそういうの、どう思う?」
 僕はすぐに答えた。
「ジジくせえ」
 オヤジはニカッという笑みを浮かべ、言った。
「ボクシングは自分の円を自分のこぶしで突き破って、円の外から何かを奪い取ってこようとする行為だよ。円の外には強い奴がたくさんいるぞ。奪い取るどころか、相手がおまえの円の中に入ってきて、大切なものを奪い取っていくことだってありえる。それに、当たり前だけど、殴られりゃ痛いし、相手を殴るのだって痛い。何よりも、殴り合うのは恐いぞ。それでも、おまえはボクシングを習いたいか? 円の中に収まってるほうが楽でいいぞ」僕は少しもためらったりせずに、答えた。
「やる」
 オヤジはまたニカッと笑い、言った。
「それじゃ、始めるか」

 僕が入学した高校は都内にある私立の男子高で、偏差値が卵の白身部分のカロリー数ぐらいしかない学校だった。でも、小中学校と民族教育を受けてきて、さらには一年足らずの受験勉強しかしなかった僕にとってみれば、東大に入学したのと同じぐらいの意味があった。
 受験に合格し、入学式を二週間後に控えたある日、学校から呼び出しを受けた。応接室に通され、教頭と一年の学年主任に、「色々と問題が生じる恐れがあるから、本名ではなく、通称名で通学して欲しい」と頼まれた。要するに、僕が韓国の名前で通うと、ひどいイジメなどに遭う可能性があるので、日本の名前を使って素性を隠して欲しいというわけだ。
「僕は祖先から代々受け継がれてきた民族名に誇りを持っています。その名前を隠すことは誇りを捨てることと同じです。だから、受け入れられません」
 なんて鬱陶しいことは言わなかった。僕は素直に提案を受け入れた。どうしてかって? 日本の高校に進学することを表明して以降、僕は民族学校で教師たちからひどいイジメに遭った。ある教師からは《民族反逆者》と呼ばれた。要するに、《裏切り者》ということだ。もっとひどいことも言われたけれど、それはのちのち話そうと思う。
 そんなわけで、《民族反逆者》となった僕は、とことん僕が属している『民族』に反逆してやるつもりだった。でも、日本の名前で通うとしても、自分が《在日韓国人》であるのを隠すつもりはなかった。ことさらひけらかすつもりもなかったけれど。
 そう、僕はひけらかすつもりはなかった。でも、さすがに偏差値の低い学校だけあって、教師の偏差値も低いらしく、生徒名簿に、僕の通称名である『杉原』と並べて、『朝鮮』という文字が入っている僕の出身中学の名前をそのまま載せてしまったのだった。
 入学式の三日後、初めての「挑戦者」が僕の前に現われた。むかしから、朝鮮学校といえば、「猛者の集まる、恐ろしく排他的な空手道場」のような目で見られていると思う。流儀はもちろん、フルコンタクト。当然ながら、それはイメージであって、朝鮮学校にも、草原で日がな一日ひなげしの首飾りを編んでいるような心優しい奴もいる。逆に、激流でヒグマとシャケを奪い合うのを無上の喜びとしているような凶暴な奴もいる。両者の割合は日本学校でもたいして変わりないと思うのだけれど、残念なことに、朝鮮学校の後者には、「差別」という身がたっぷりのシャケが与えられてしまうのだ。そいつは、シャケを食べ続け、どんどん体を大きくしていき、さらに凶暴になっていく。そして、そいつの恐ろしいイメージが日本人の中に植えつけられ、『朝鮮人』の平均像として定着してしまう。
 まあ要するに、日本学校の不良たちにとってみれば、僕は『朝鮮人』と書かれた空手道場の看板なのだ。道場破りよろしく、僕を倒してそれを手にすれば、仲間にいい顔ができる。恐ろしく次元の低い話だけれど、僕は次元の低い高校に通っているから仕方がない。でも、僕はその次元の低さが嫌いじゃない。勝つか負けるか。分かりやすい。理屈じゃない。
 初めての「挑戦者」は加藤だった。加藤は、ある広域指定暴力団の幹部組員の父親を持つ、生粋の悪ガキだった。僕も初陣だけあって気合いが入っていたから、灰皿を使って加藤の鼻を折ってやった。勝負は呆気なく決まったが、父親のバックがあったので、のちのち面倒臭いことになるのが心配だった。取り越し苦労だった。加藤は鼻の治療をきっかけに、それまで気に入ってなかった鼻の形を、思い切って整形手術で直すことに決めた。
 久し振りに僕の前に顔を出した加藤は、すっかり形の良くなった鼻をさすりながら、「おまえには感謝してるよ」と言って、照れ笑いを浮かべた。親父さんも喜んでいたようで、「うちの奴の男前を上げてくれた」と、一度銀座の高級レストランでの晩御飯に招待してくれた。加藤の親父さんの左手には、小指がなかった。
 加藤は、高校でできた初めての友人になった。そして、いまのところ、僕が友人と呼べる唯一の存在だった。
 鼻をさするのをやめた加藤が、思い出したように言った。
「今日、俺の誕生日なんだよ」
「何もやらねえぞ」
「初めから期待してねえよ」
 加藤はそう言って、学生服のポケットから、細長い紙切れを取り出し、僕に手渡した。
「俺の誕生パーティーのチケットだよ」
「パーティーって柄じゃねえだろ」
「親父が金を出してくれるっていうからさ」
「それで、これをいくらでさばいてんだよ?」
 加藤は、へへへ、と笑い、企業秘密だ、と言った。僕は、気が向いたら行くよ、と言いながら、チケットをポケットにしまった。
「可愛い女も大勢来るから、楽しめると思うぜ」加藤はそう言って席を立ったけれど、チッと舌打ちをして言い足した。「忘れてた。うちの親父が家に遊びに来いって言ってた」「イヤだ」と僕は言った。「ヤクザは嫌いなんだよ。弱い者イジメをするから」加藤はいまにも泣き出しそうな顔を作り、「差別しないでくれよ。うちの親父も必死に生きてんだよ。それに、うちの親父、おまえのことすげえ気に入ってんだぜ。いつも、あいつはすごい男になる、って言ってる」
「分かったよ、考えとくよ」と僕は答えた。
 加藤はホッとしたような表情を浮かべ、じゃあな、と言い、テーブルのそばを離れた。僕は加藤の背中に声を掛けた。
「親父さんによろしくな」
振り返った加藤は、とても嬉しそうに微笑み、おう、という感じで手を上げた。







 僕は中学三年に上がってすぐ、日本の高校を受験することを、教師たちに宣言した。『開校以来のバカ』がわけの分からないことを言い出した、と一笑に付されるかと思ったのだけれど、学校側は予想外の恐慌に陥った。民族学校に通う生徒は年々減り続けていて、そのままで行くと学校の存亡に関わる事態になる恐れがあったので、学校側はたった一人の生徒でも失うのを嫌がった、というわけではなかった。僕は教頭に呼ばれて、こう言われた。
「おまえが日本学校に行くのはぜんぜん構わない。でも、それを他の生徒が知って、だったらわたしも、と言い出すのは困る。だから、おまえが日本の高校を受験することは絶対に秘密だ」 こうして僕は、あからさまな戦力外通告を受けた。

 受験を一カ月後に控えたある日、『金日成元帥の革命歴史』の授業中、僕は前夜の猛勉強のせいで居眠りをしてしまった。教師のビンタを食らって、目覚めた。授業は中断され、僕は教卓の前に正座をさせられたあと、「自己批判をしろ」と迫られた。批判することが見当たらなかったので黙っていると、またビンタを食らった。耳の中で、キーン、という金属音が鳴っていた。聞き覚えのある音だった。鼓膜が破れていた。
 ふとももにつま先蹴りを三発食らった。目に涙が滲むぐらい痛かった。鼻の頭にデコピンを五発食らった。楽しい思い出が五つ消えてしまうぐらい痛かった。耳を引っ張られて、床に引き倒された。歯茎から血が出るぐらい屈辱的だった。その頃にはもう僕が朝鮮籍から韓国籍に変えたことが学校側にばれていたので、イジメは特にひどくなっていたのだ。ちなみに、オヤジも総連のむかしからの仲間にシカトを食らう、という陰湿なイジメに遭っていた。
「おまえは民族反逆者だ」と言われてみぞおちに蹴りを食らい、「おまえみたいな奴は何をやってもダメだ」と言われて頭を小突かれ、そして、最後に「おまえは売国奴」と言われて、またビンタを食らった。僕には「売国奴」の意味がよく分からなかった。もちろん、文字通りの意味としては分かる。でも、僕が「売国奴」であるとはどうしても思えなかった。感覚としてはそれを分かっていたのだけれど、言葉にすることはできなかった。そして、僕の代わりに言葉にしてくれる奴が現れた。まるでヒーローみたいに。
 教室の後方から声が上がった。
「僕たちは国なんてものを持ったことはありません」

 日曜日。
 待ち合わせの時間より五分前に新宿駅東口の改札に着くと、正一はすでに来ていて、改札口の脇の柱にもたれて文庫本を開いていた。僕は正一に近づき、声も掛けずにいきなり文庫本を覗き込んだ。夏目漱石の『吾輩は猫である』だった。
「面白いか?」と僕は訊いた。
 正一は文庫本を閉じて、言った。
「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示す如く魂である。魂であるから常にふらふらしている」「面白そうだな」と僕が言うと、正一は続けた。
「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇った者がない。大和魂はそれ天狗の類か」 正一は、人懐っこい笑みを僕に向けた。僕は正一の笑顔が大好きだった。
 正一は《在日韓国人》の父親と日本人の母親のあいだに生まれた。父親は正一が三歳の時 何処かへ行ってしまって、それ以来行方不明だった。
 正一のお母さんは、正一が小学校に上がる歳になると、迷わず民族学校に入学させた。民族学校は各種学校扱いで国から助成金が出ないから、授業料なども高いのだが、お母さんは一生懸命に働いて授業料を稼ぎ出した。
 こうして韓国籍で、韓国と日本のハーフの、風変わりな民族学校生が誕生した。そして、小学校の高学年に上がった頃には、正一は『開校以来の秀才』と呼ばれるようになっていた。中学に上がるまでずっとクラスが違ったこともあるのだけれど、『開校以来のバカ』と呼ばれていた僕は、正一とほとんど言葉を交わしたことがなかった。住む世界が違っていたのだ。
「僕たちは国なんてものを持ったことはありません」
 そう言った時点で、正一は小中合わせて八年間の全科目オール5と皆勤を達成していたし、オ「certainly」エもきちんと読めたし、現在完了のこともきちんと説明できたし、筆記体の読み書きもきちんとできた。ついでに、万引きもカツアゲも殴り合いの喧嘩もしたことがなかったし、そもそも、正一は誰とも群れなかった。正一はいつも独りだった。教師でさえ正一の存在を持て余していたのだ。僕のまわりの連中も正一に近づこうとしなかった。
 僕のために反抗的な言葉を吐いたことで、正一は生まれて初めて教師に殴られた。僕は色々と迷った末に、なけなしのお金をはたいてプレイステーションを買い、正一にプレゼントした。プレイステーションを手にした正一は初め困ったような顔をしていたけれど、すぐに人懐っこい笑みを浮かべ、「ありがとう」と言った。ちなみに、そのプレイステーションは教師に見つかって、没収された。ビンタも食らった。学校で渡すべきじゃなかったのだ。でも、僕と正一は友達になった。
 僕が奇跡的に日本の高校に合格し、進学すると、それまでずっと親しかった友達とは自然と疎遠になっていった。暮らす環境がまるっきり違ってしまったこともあったが、連中から見れば、結局僕は「よそ者」になってしまっていたのだ。
 正一もそのまま民族高校に進学した。でも、僕と正一の関係は切れなかった。むしろ、僕と正一の関係は深まっていった。最低でもひと月に一回は会って、色々な話をした。まあ、色々とはいっても、テーマはいつも決まっていたのだけれど。

 僕と正一は、喫茶店に入り、晩御飯までの時間を潰した。
 僕はテーブルに座ってすぐ、デイパックの中から、ステイーヴン・J・グールドの『人間の測りまちがい−差別の科学史』を取り出して正一に渡した。
「今月はこれが一番面白かった」
「どんな感じ?」と正一が訊いた。
「遺伝決定論を主張する科学者は信用するな、つていう感じ」
「よく分かんないな」
「例えば、俺たちの頭蓋骨がちっちゃかったとするだろ。やばい科学者は、俺たちをひとまとめにして、『韓国人は頭蓋骨がちっちゃい。だから、頭が悪い』って言い出す。もしもの時に、そのデータが俺たちの迫害のために利用される。アメリカでは黒人とインディアンがそんな目に遭った」
 正一は、「読んでみるよ」と言って本をカバンの中にしまったついでに、一冊の文庫本を取り出して、僕に渡した。開高健の『流亡記』という本だった。
「カッコいいぞ」と正一は言った。
 僕は『流亡記』をパラパラとめくりながら、「おまえは小説ばっかり読んでるな」と言った。僕は小説の力を信じてなかった。小説はただ面白いだけで、何も変えることはできない。本を開いて、閉じたら、それでおしまい。単なるストレス発散の道具だ。僕がそういうことを言うと、正一はいつも、「独りで黙々と小説を読んでる人間は、集会に集まってる百人の人間に匹敵する力を持ってる」なんてよく分からないことを言う。そして、「そういう人間が増えたら、世界はよくなる」と続けて、人懐っこい笑顔を浮かべるのだ。僕はなんだか分かったような気になってしまう。
 僕は本をデイパックにしまったあと、思い出して、言った。
「そういえば、この前借りた芥川の『侏儒の言葉』、カッコよかったぞ」
 正一は嬉しそうに微笑んだ。
 お互いの近況をざっと話し終え、大学受験の話になった。僕は一応受験するつもりでいたけれど、それは漠然とした気持だった。どの大学も結局は『サラリーマン養成校』みたいなもので、僕はそんなものに用はなかった。理由は簡単だ。サラリーマンになったところで、国籍のせいで社長にはなれないから。最高の望みを初めから断たれたまま、組織の中で飼い殺されるなんてまっぴらだ。
「大学に行かないなら、どうするつもり?」と正一は訊いた。
「考えてない。でも、就職するつもりは絶対にない」と僕は答えた。
「それじゃ、大学の四年間で何をしたいか決めればいいじゃない」
「そんな、もったいない」
 正一は冷めかかっているコーヒーに口をつけ、真剣な口調で言った。
「クルパーはさ、もったいない生き方をしたほうがいいと思うよ。もうすでに大幅にずれた生き方してるんだからさ。俺、クルパーにはそのままずれて行って欲しいんだよね、どこまでも。クルパーはそれができると思うし。まあ、俺の勝手な思いだけど」
 正一が人懐っこい笑みを浮かべた。僕はくすぐったくなった。僕は教師に誉められたことが、ほとんどなかった。でも、教師に誉められた時の気持は分かる。そして、正一は日本の大学に進学したあと、教職課程を採り、教師になるつもりでいた。民族学校の。
「それじゃ、おまえも俺ともったいない生き方しようぜ」と僕は言った。
 正一は首を横に振った。「俺はそういうタイプじゃないよ」
「いまのうちから分かるもんか」
「分かるよ。そういうのは決まってんだ、初めから」
「やばい科学者みたいなこと言うなよ」
「そういうのとは違うんだ。俺が言ってるのは『役割』みたいなものかな」
「そんなもの捨てちまえ」
「捨てたら、俺じゃなくなる」
 僕は短くため息をついた。「頼むから、狭いところに戻って行こうとするなよ」
 正一は冷め切ったコーヒーを飲み干し、優しい口調で言った。
「クルパーは前に、民族学校のことを宗教の『教団』みたいなものだ、って言ったよね」
 僕は頷いた。正一は続けた。
「俺、宗教のことはあまりよく分かってないけど、宗教が色々な意味で弱い立場の人間の受け皿になる役割を持ってるなら、民族学校っていう『教団』は絶対に必要なんだよ」
「俺は、気がついたら『教団』の中にいたぞ。強い弱いに関係なく」
「俺もだよ。でも、俺、日本学校に行ってたら、きっとイジメられっ子になって、自殺してたかもしれない」
「嘘つけ」
「本当だよ。俺、ガキの頃、よく近所の連中にイジメられてたんだぜ。めちゃくちゃひどいことも言われた。その様子をテレビで放映したら、ずーっと『ピー』が入ってると思う」
 僕と正一は、一瞬の沈黙のあと、短い笑い声を上げた。正一は笑いを収め、言った。
「でも、民族学校に通うようになって、クルパーみたいにいつもタフに飛び跳ねてる連中を見てるうちに、俺もいつの間にか強くなれたんだ。近所の連中に何を言われても、平気になった」
 僕と正一のあいだに、また沈黙が流れた。僕は言った。
「おまえとガキの頃から友達だったら良かったのにな。そしたら、俺が近所の連中を全員ぶちのめしてやったのに」     正一は眩しいものでも見るように目を細めて僕を見つめ、言った。
「いや、おまえはぶちのめしてくれてたよ、ちゃんと」
 僕と正一は顔を見合わせて、へらへらと笑った。正一はきっぱりとした口調で、言葉を続けた。
「俺みたいなガキのために、『教団』は必要なんだよ。俺はね、日本の大学でしっかり勉強して、ちゃんとした知識を持って『教団』に帰って行って、俺の後輩たちが広い場所に出て行けるようなことを教えてやりたいんだよ。俺がおまえたちからもらったような勇気を与えてやりたいんだよ。もちろん、後輩たちにはおまえのことを話すよ。バカみたいに強い先輩がいた、って。だから、その時のためにも、すごい人間になってくれよ」
 正一の顔には、いつもの人懐っこい笑みが浮かんでいた。僕はまたくすぐったくなった。
「おまえは、きっといい教祖になれるよ」
 正一は照れ臭そうに笑って、言った。
「金日成が死んでから、『教団』も変わり始めてるよ。少しずつだけど、外の世界にも目が向くようになってきてる。俺が戻る頃には、『互助会』ぐらいにはなってると思う」
 少し前に金日成が死んだ時、僕は恐いぐらいに何も感じなかった。僕の中で、『金日成』という物語が書かれた本は完全に閉じられていたのだ。開かれることは、もう二度とない。
 喫茶店の壁に掛かっている時計が目に入った。七時を過ぎていた。僕は伝票を手にしながら、言った。
「飯、食いに行こうぜ」







「好きよ」
 一瞬桜井の目が赤く光ったように見えた。僕は目の前に横たわっている女を、発光体を、狂おしいほどに愛していた。だからこそ、お互いにすべてを受け入れ合う前に、言っておかなくてはならないことがあった。この女に隠し事をしておきたくはなかった。
 僕は完全に上半身を起こし、ベッドの上に正座をした。
「どうしたの?」と桜井が訊いた。
「ごめん」
 桜井が僕の右手を離した。僕は続けた。
「聞いて欲しいことがあるんだ」
 桜井は両肘を立てながら、ゆっくりと上半身を起こした。
「なに?」
 僕は桜井に気づかれないように深呼吸をして、言った。
「ずっと隠してたことがあるんだ」
「どうしたの、いきなり?」
 桜井の声にはたっぷりの不安がこもっていた。
「僕自身はたいしたことじゃないと思ってるんだけど……」
「なんなの?」
「うん……」
 僕が言いあぐねていると、桜井がおどけたように、言った。
「もしかして、前科があるとか」
「何度か補導はされたことあるけど、まだ前科はついてない」
「ふーん、そうなんだ」と桜井は言った。「家族のこと?」
「関係がないこともない」
「お父さんが前科者とか?」
「うちのオヤジは乱暴者だけど、真面目なんだ」
「お母さんが前科者?」
「ふざけてる?」
「あのね」と桜井は言ってため息をつき、続けた。「この状況で冗談でも言わなかったら、ものすごく気まずくなるでしょ?」
「そうかも」
「そろそろ話して。それで、さっきの続きをしましょうよ」
 僕は一瞬、なんでもないんだ、さあ続きを始めよう、なんて言ってその場をうやむやにすることを考えた。でも、この機会を逃したら、二度と打ち明けることができないような気がしたので、やっぱり話すことにした。それに、僕が何を言おうと、桜井はきちんと受け入れてくれる気がしていた。そして、こう言ってくれるはずだった。それがなんだっていうのよ、いいから続きを始めましょうよ。
 僕は桜井に気づかれるほどの深呼吸をして、言った。
「俺は情早A僕は、日本人じゃないんだ」
 それはきっと十秒とかそこらの沈黙だったはずだけれど、僕にはひどく長いものに思えた。
「……どういうこと?」と桜井は訊いた。
「言った通りだよ。僕の国籍は日本じゃない」
「……それじゃ、どこなの?」
「韓国」
 桜井は僕のほうに投げ出していた両足を上半身に引き寄せたあと、折り畳み、膝の前で両手を組んで座った。桜井の体がひどく小さく見えた。僕は続けて、言った。
「でも、中二の時までは朝鮮だった。いまから三カ月後には日本になってるかもしれない。一年後にはアメリカになってるかもしれない。死ぬ時はノルウェイかも」
「なにを言ってるの?」と桜井は抑揚のない声で言った。
 鼓動が速く打ち始めた。僕は続けた。
「国籍なんて意味がないってことだよ」
 沈黙。沈黙。沈黙。沈黙。ようやく桜井の口が開いた。
「日本で生まれて、日本で育ったの?」
 僕は頷いて、言った。
「君とだいたい同じ空気を吸って、だいたい同じ食べ物を食べて育った。でも、教育は違う。僕は中学まで朝鮮学校に通ってた。そこで、朝鮮語とかを習った」そこまで言って、あとはおどけた感じで続けた。「僕は実はバイリンガルなんだ。でも、日本では英語を喋れる人しかバイリンガルって呼ばれないみたいだけど。僕はね、オリンピックを見てる時日本と韓国の選手の両方にエールを送れるんだ。すごいと思わないかい?」
 桜井はクスリとも笑わなかった。無表情で僕を見ている。恐ろしいほどの沈黙。鼓動がさらに速くなった。むかし、初めてナイフを向けられた時よりも、速い。僕は何か話すべき事柄を必死に探した。見つからなかった。ひどい焦燥感がまず背筋を襲い、やがては全身に広がって、僕の体を重くした。僕はゆっくりと桜井のほうに手を伸ばした。桜井の体がビクッと震えた。僕の手が宙に浮いたまま、止まった。僕の脳は、動け、と命令しているのに。僕は手を下ろして、訊いた。
「どうして?」
 桜井は何かを言いあぐねている感じで何度か口を小さく開けては、閉めた。それがどんな言葉であれ、とにかく桜井の声が聞きたかった。僕は、どうした?と優しく言って、桜井を促した。桜井は目を伏せて、言った。
「お父さんに……、子供の頃からずっとお父さんに、韓国とか中国の男とつきあっちゃダメだ、って言われてたの……」
 僕はその言葉をどうにか体の中に取り込んだあと、訊いた。
「そのことに、なんか理由があるのかな?」
 桜井が黙ってしまったので、僕は続けた。
「むかし、お父さんが韓国とか中国の人にひどい目に遭ったとか、そういうこと? でも、もしそうだとしても、ひどいことをしたのは、僕じゃないよ。ドイツ人のすべてがユダヤ人を殺したわけではなかったようにね」
「そういうことじゃないの」と桜井はか細い声で、言った。
「それじゃ?」
「……お父さんは、韓国とか中国の人は血が汚いんだ、って言ってた」
 ショックはなかった。それはただ単に無知と無教養と偏見と差別によって吐かれた言葉だったからだ。そのでたらめな言葉を否定することはひどくたやすかった。僕は言った。
「君は情早A桜井は、どういう風に、この人は日本人、この人は韓国人、この人は中国人、て区別するの?」
「どういう風にって……」
「国籍? さっきも言ったように、国籍なんてすぐに変えられるよ」
「生まれた場所とか、喋ってる言葉とか……」
「それじゃ、両親の仕事の関係で外国で生まれ育って、外国の国籍を持つ帰国子女は? 彼らは日本人じゃないの?」
「両親が日本人だったら、日本人だと思うけど」
「要するに、何人ていうのはルーツの問題なんだね。それじゃ訊くけど、ルーツはどこまで遡って考えるの? もしかして君のひいおじいちゃんに中国人の血が入っていたとしたら、君は日本人じゃなくなる?」
「…………」
「それでもやっぱり、日本人? 日本で生まれ育って、日本語を喋るから? それじゃ、僕も日本人ていうことになるね」「……わたしのひいおじいちゃんに中国人の血が入ってるなんて、ありえないもの」と桜井は少し不服そうに言った。
「君は間違ってるよ」と僕は少し強い口調で言った。「君の『桜井』っていう苗字はね、元々は中国から日本に渡来した人につけられた名前なんだ。そのことは、平安時代に編まれた『新撰姓氏録』っていうのにちゃんと載ってるよ」
「……むかしの人には苗字なんてなくて、あとから適当につけたって話を聞いたことがあるけど。だから、わたしの先祖が中国の人だなんて分からないじゃない」
「その通り。君の先祖が桜井家に養子に入った可能性もあるしね。それじゃ、もっと遡ろう。君の家族はお酒が飲めなかったよね?」
 桜井はかすかに額いた。僕は続けた。
「いまの日本人の直接の先祖と思われてる縄文人にはね、お酒が飲めない人は一人もいなかったんだ。これはDNAの調査で明らかになってる。というか、むかしのモンゴロイドたちは全員お酒が飲めたんだ。ところが、約二万五千年前の中国の北部で突然変異の遺伝子を持った人間が生まれた。その人は生まれつきお酒が飲めない体質の持ち主だった。そして、いつ頃かは分からないけど、その人の子孫が弥生人として日本に渡来して、お酒が飲めない遺伝子を広めたんだ。君はその遺伝子を受け継いでる。その中国で生まれた遺伝子が交じってる君の血は汚いの?」
 沈黙。
 僕は身動きもせず、桜井の言葉を待った。桜井は長い長いため息をついて、言った。
「本当に色々なことを知ってるのね。でもね、そういうことじゃないの。杉原の言ってること、理屈では分かるんだけど、どうしてもダメなの。なんだか恐いのよ……。杉原がわたしの体の中に入ってくることを考えたら、なんだか恐いの……」
 速かった鼓動が徐々に元のスピードに戻り始め、同時に、ついさっきまで僕の体を重くしていた焦燥感が消え始めた。僕は桜井よりも長い長いため息をついた。
 桜井に背を向け、ベッドを下りた。暗闇の中で白く浮き上がっているタンクトップを拾い、身に着けた。桜井は言った。
「どうしてこれまで黙ってたの? たいしたことじゃないと思ってたら、話せたはずじゃない」
 シャツを拾い、袖を通した。ボタンをはめる。桜井は続けた。
「ひどいよ、急にあんなこと言い出して、こんな風にしちゃうなんて……」
 ズボンより先に靴下をはこうと思い、探したけれど見当たらなかった。しゃがんで床を手で探った。見つからなかった。困っているところに、桜井が言った。
「ズボンの裾の中に入ってるよ、たぶん」
 僕はズボンを手に取り、裾の中に手を入れてみた。あった。桜井は言った。
「男の子はたいてい焦って、ズボンを脱ぐついでに靴下も一緒に脱ぐでしょ。だから、裾の中に入って見つからなくなっちゃうのよ」
 僕は床に腰を下ろし、靴下をはいた。片足をはき終えた時、桜井が言った。
「さっきの長電話ね、お姉ちゃんだったの。お姉ちゃんに杉原と泊まること喋ったら、靴下のこと教えてくれた。もし杉原が靴下を見つけられなかったら、教えてあげろって。そしたら、杉原との関係でこれからずーっと主導権を握れるからって。初めてのセックスの時に余裕を見せないと、相手の男にナメられちゃうんだって」
 もう片方の靴下もはき終えた。ズボンを手にして、立ち上がった。片足をズボンに入れた時、桜井が言った。
「わたし、初めてだったのよ……そうでなくても、恐かったのよ」
 ズボンをはき終えた。ズボンのポケットに入っていたキーを取り出し、ベッドの脇のサイド・テーブルの上に置いた。桜井は言った。
「ねえ、なんか喋ってよ……」
 ドアに近づいて歩いて行く僕の背中に、桜井が言葉をぶつけてきた。
「わたしの下の名前はね、『椿』っていうの。『椿姫』の『椿』。桜と椿が一緒に入ってる名前なんて、めちゃくちゃ日本人みたいで教えるのがイヤだったの」
 ドアノブに手を掛けた。少しだけ迷ったあと、振り返って、言った。
「僕の本当の名前は、『李』。李小龍の『李』。めちゃくちゃ外国人みたいな名前で、こんな風に君を失うのが恐くて、教えられなかった」
 ドアを開けて、廊下に出た。ドアを擦り抜ける時に、桜井の声を聞いたように思ったけれど、何を言ったのかは聞き取れなかった。








 正一の告別式の夜以来、桜井からはなんの連絡もなかった。僕も連絡をしなかった。
 正一の告別式の一週間後のある晩、加藤から電話があった。
「久し振りだな」加藤の声には張りがなかった。「元気か?」
「ああ。そんなことより、おまえどうして学校に来ないんだよ?」
 加藤はひと月近く、登校していなかった。
「まだ噂は広まってねえのか」
「なんかあったのか?」と僕は訊いた。
「警察にパクられたんだよ」
「なにやって?」
「Lの売買」
「アホ」
「その通り」
「それで?」
「家裁に送られたけど、なんとか保護観察で済んだ。最近の週末のデート相手は保護司のおっさんだよ。またこのおっさんがキュートでよ。婚約も間近だな」
「アホ」
「その通り」
「これからどうすんだよ?」
「学校のほうはクビになったし、親父もカンカンでさ。俺のこといい子だと思ってたらしいんだよな。そんなわけで、しばらくは禅寺の坊主みたいに暮らして、あちこちの機嫌を伺う生活だ」
「そうか。しっかり修業しろよ」
「そういや、雪女のほうはどうなってる?」
「溶けていなくなっちまったよ」
「ダメになったのか?」
「だからそう言ってるだろ」
「……そうか。おまえ、これからのこと、決めたか?」
「大学を受けるよ」
「どうしたんだ、急に」
「友達の遺言なんだ」
「なんだそれ?」
「いつか話すよ。まあ、いまは受験勉強とやらを必死にやってるよ」
「おまえなら受かるよ」
「そうかな」
「ああ、絶対だ。でも、どうせ受けるなら、すげえ大学を受けろよ。俺の代わりに高いところの空気を吸ってきてくれ」
「どうせ薄くて、汚ねえに決まってる」
「ばっちりじゃねえか。おまえ、馴れてるだろ」
 僕たちは同時に短い笑い声を上げた。
「近いうちにそっちに顔出すよ」と僕は言った。
「いや、やめてくれ」と加藤はきっばり言った。
「どうしたんだよ?」
 少しの沈黙のあと、加藤は言った。
「俺、当分のあいだおまえに会わねえつもりだよ。この前のクラブでの一件のあと、俺は俺なりに無い頭で色々考えて、そうすることに決めたんだ。俺、これまで色々なものに甘えてて、中途半端で、すげえカッコ悪い男だったと思うんだよな。おまえが小林をぶちのめしにフロアに降りてく後ろ姿を見た時、そのことに気づいたんだ。ああ、このままじゃ一生こいつにかなわねえ、って思った。俺、おまえみたいにてめえの足でしっかり立てるようになって、おまえとタメ張れるようになるまで、おまえと会わないことに決めたんだ」
「……俺はそんなにいいもんじゃねえよ」
「おまえにとっては、それが普通なのかもしれねえよ。でも、俺にとっては違うんだ。ヤクザの息子ってだけじゃダメなんだよな、もう。それだけじゃ足りねえんだ。それだけじゃおまえに届かねえ。何かを見つけねえとな、必死によ。これでけっこう大変なんだぜ、日本人でいることも」
 加藤はそう言って、ヘヘヘ、と笑った。僕は言った。
「すげえ大学に受かったら、連絡するよ。何年かかるか分からねえけど」
「ああ、そん時はすげえパーティーを開いてやるよ」
「親父さんによろしくな」
「伝えとく」
 僕が、じゃあな、と言い、加藤は、またな、と言って、電話を切った。

 十一月の下旬のある雨の日の昼休み、見覚えのない奴が僕の机の前に近づいてきた。ギャラリーたちの話し声が止み、僕の机のそばにいた連中は、みんな教室の隅のほうへと離れていった。僕は読んでいた古典の参考書を閉じ、一応戦闘体勢を整えた。そいつは敵意がないことを示すように、かすかな笑みを口元に浮かべていた。
「ちょっと、いいかな?」
 柔らかい声だった。銀縁の眼鏡を掛けていた。眼鏡を掛けたまま喧嘩を仕掛けてくる奴は、よほどの達人だ。そいつはどうやっても達人には見えなかった。
 僕が頷くと、そいつは空いている僕の前の席の椅子を僕の机に向き直し、腰を下ろした。ギャラリーたちの話し声が戻った。
「僕は宮本っていうんだけど、知らないよね?」と宮本は言った。
 僕は正直に頷いた。宮本は、やっぱりね、と言って、爽やかに笑い、続けた。
「一応、杉原君と三年間同じ学年だったんだけどな」
「なんの用だよ?」と僕は訊いた。
 宮本の顔から笑みが消えた。宮本はさりげなく目を動かしてまわりを見たあと、抑揚のない声で言った。
「実は、僕も君と同じ《在日》なんだよね」
 宮本は僕のなんらかの反応を待っていた。多分、好意的なものを。僕はなんの反応も示さなかった。宮本はかすかに落胆の色を浮かべた。
「僕は君と違って、ずっと日本の義務教育を受けて育ってきたから、韓国語も知らないし、韓国の歴史や文化についても知らない。でも、僕は《韓国人》なんだ。不思議だよね。そう思わないかい?」
 僕は黙って宮本の顔を見ていた。宮本はかまわず続けた。
「もし僕がアメリカに生まれてたら、僕は《韓国系アメリカ人》ていう地位を与えられて、それと同時にアメリカ国民としてのすべての権利を与えられたはずなんだ。きちんと人間として扱ってもらえたはずなんだ。でも、この国は違うよね。僕がどんな日本人よりも模範的な人間になったところで、国籍が韓国のままだったら、絶対にちゃんとした人間として扱ってくれないんだ。外国籍のままじゃ、相撲の親方になれないようにね。同化か、排除か。この国はふたつの選択肢しか持ってないんだ」
「それじゃ、国籍を日本に変えればいいじゃねえか」と僕は言った。
 宮本はあからさまな落胆の色を顔に浮かべた。
「この国に敗北を認めろって言うのか?」
「敗北ってなんだよ? おまえは具体的に何と闘ってるんだ?それに、おまえの民族心とやらは、国籍を変えることでなくなっちまうのかよ」
 宮本はため息をついて、言った。
「時間がないから、今日来た用件を言っておくよ。僕はいま、《在日》の若い連中を集めて、あるグループを作ろうとしてるんだ。そのグループには北朝鮮とか韓国とか総連とか民団とか、そういう区別は一切ない。《在日》の権利のために勉強したり活動したりしていこう、っていうグループなんだ。もうすでに百人近くは集まってるし、これからも増えていくはずだ。君もそのグループに参加しないか? 君みたいな人間が参加してくれたら、ものすごく頼もしいんだけどな」
 宮本は答えを促すように、僕の目をジッと覗き込んだ。僕が黙っていると、宮本は、ひとつだけ訊いていいかな、と言った。僕は頷いた。
「杉原君は韓国籍だよね?」
 頷いた。宮本は続けた。
「君が国籍を変えることに抵抗がないなら、どうして韓国籍のままなんだい?」
 僕は答えなかった。宮本は薄い笑みを唇の端のあたりに見せながら、言った。
「生きていくのに別に支障がないからだ、なんて言わないでくれよ。例えば、何年かに一回でも、外国人登録の切替なんて称して、お役所に『出頭』させられるのはどうなんだい? 例えば、海外旅行に行くために、『再入国許可』の手続きを取らされるのはどうなんだい? 僕たちはこの国で生まれて育ってるのに、『この国に戻ってきてもよろしいでしょうか?』なんて伺いを立てなくちゃいけないんだ。そういった一切合財が、君みたいな人間にとって、生きていく上での大きな支障なんじゃないのかい?」
 少しの沈黙のあと、僕は口を開いた。
「知ったふうな口をきくなよ。おまえに俺のなにが分かる」
 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。宮本は軽く舌打ちをして、腰を上げた。
「いいところだったのにね。近いうちにまた来るよ。その時に答えを聞かせて欲しい」
 宮本に言われたことを色々と考えながら、家に帰った。







 公園の水飲み場で血を洗い流したあと、タクシーに乗った。
 僕は手のひらの上に載っている前歯のかけらを、ぼんやり眺めていた。公園で顔を洗っている最中に、運ちゃんが、はいこれ、と拾ってきてくれたのだ。舌先で、折れた左の前歯の形をなぞってみた。神経が露出しているのか、息をするたびにスースーして、癇に触る。窓を半分ぐらい下ろして前歯を外に放り投げた時、オヤジがポツリと言った。
「確かに、おまえの言う通りかもしれないな」
「なにが?」と僕は言った。
「もう俺たちの時代じゃないってことだよ」
 僕はオヤジの横顔を見た。下顎あたりの痣が、さっきまでの赤から青に変わり始めていた。下唇にくっきりとした歯形が残り、小さなかさぶたが所々にポツポツといった感じで浮いていた。
「この国もだんだん変わり始めてる。これからもっと変わって行くはずだ。在日だとか日本人だとか、そういうのは関係なくなっていくよ、きっと。だから、おまえたちの世代は、どんどん外に目を向けて生きてくべきだ」
「そうかな?」と僕は真剣に訊いた。「ほんとに変わるかな?」
 オヤジはなんの根拠があるのか、はっきりと頷いた。顔には自信満々の笑みが広がっていた。根拠? そんなもの必要ない。思うことが大事なのだ。きっと。
「仕事のほう、大丈夫?」と僕は訊いた。
「おうよ」とオヤジは勢い良く、言った。「まだ一軒残ってるからな。まあ、もともと長くやるつもりで始めた商売じゃないし、おまえに継がせるつもりもなかったから、最後はゼロになればちょうどいいんじゃないか。俺とあいつが幸せな老後を過ごせるぐらいの貯えはあるしな。そんなわけで、おまえの面倒は見ないぞ」
 オヤジは、カッカッカッ、と楽しそうな笑い声を上げた。このクソオヤジは小学校しか出てないくせに、独学でマルクスやニーチェを読めるようになった。鉄筋コンクリートのような体と、氷のように冴えた頭脳で闘い続け、このタフな国で生き抜いてきた。僕はこのクソオヤジが、どうして急に韓国籍に変えたのかを分かっていた。ハワイのためじゃない。僕のためだ。僕の足にはまっている足枷を、ひとつでも外そうと思ったのだ。このクソオヤジが、どうして玄関先に、キスをされてダブル・ピースをしている恥ずかしい写真を飾ったのか、僕には分かっていた。総連にも民団にも背を向けることで、ほとんどすべての友人を失くし、家に訪れる人がなくなるのを知っていたからだ。孤立無援で闘い続けている、このクソオヤジにねぎらいの言葉をかけてやる人間は、この国にはほとんど存在しない。だから、僕が言ってやることにした。
「いつか、俺が国境線を消してやるよ」
 オヤジは僕の言葉に目を丸くしたあと、不敵な笑みを口元に浮かべ、言った。
「これまで言ってなかったけどな、うちの家系は李朝から続く由緒正しい大ボラ吹きの家系なんだ」
 僕とオヤジが、顔を見合わせ、へらへらと笑った時、タクシーが、うちの近所の住宅街にまで辿り着き、ある交差点で信号に捉まって、停まった。下ろしっぱなしだった窓を通して、季節外れの風鈴の音が、遠くからかすかに聞こえてきた。
 チリンチリン、チリンチリン……。
 オヤジは赤ん坊のようにふくよかに微笑み、懐かしい音だなあ、と言った。僕は、韓国に風鈴を吊るす習慣があるかどうか、知らない。そして、たぶん、オヤジも。
 家に着いた。タクシーの運ちゃんは、どうしても料金を受け取ろうとしなかった。
「本当にいいものを見せてもらったんで……。そのお金で亡くなった弟さんに、お花でも送ってあげてください」
 家には明かりが点いていた。最悪の展開だった。覚悟を決めて家に入って行くと、玄関先で僕たちを出迎えたオフクロの顔が瞬時に変わった。オフクロは僕とオヤジのそばをダッシュで擦り抜け、ドアから外に出た。十秒後ぐらいに戻ってきたオフクロの手には、竹ぼうきが握られていた。僕は竹ぼうきの柄で全身を三十八発殴られた。そばに立って見ていたオヤジは、これが愛の力だ、思い知ったか! と言い、豪快に笑った。オヤジも三発殴られた。
 打ち身で発熱した僕は、学校を三日間休むことになった。

 昼休み。
 教室には不穏な空気が漂っていた。
 二時限目の国語の授業の時、教師に指されて質問の答えを口にした時、前歯が折れていることがみんなにバレてしまったのだ。今日は挑戦者が大挙して押し寄せるかもしれない。
 教室の前のドアが開いた。ギャラリーの視線がいっせいにそちらに向く。ギャラリーはがっかりしたように息をつき、仲間たちとのお喋りに戻った。
 宮本はこの前と同じように、僕の前の席に座った。
「考えてくれたかい?」と宮本は訊いた。
「俺はつるまねえよ」と僕は言った。
 宮本は短いため息をついて、言った。
「もしよかったら、理由を聞かせてもらえるかな。今後の参考にするから」
 僕は少し迷ったあと、言った。
「おまえがやろうとしてることがどうのこうのって問題じゃないんだ。正しいことだと思うし、意義のあることだとも思う。でも、俺は誰ともつるまないで、おまえたちと同じことをやりたいと思ってるんだ」
 宮本は皮肉な笑みを浮かべた。
「君は現実主義者だと思ってたよ」
 僕は鼻で笑った。
「俺はバリバリの現実主義者だよ。おまえと見てるものが違うだけだ」
 宮本は相変わらず皮肉な笑みを浮かべながら、言った。
「独りでできるものならやってみればいい。でも、気づいたらこの国にぺしゃんこにされてた、ってことにならないようにね」
 僕は短いあいだ、黙って宮本の顔を見つめたあと、言った。
「おまえと喧嘩はしたくないんだ。さっきも言ったように、おまえは正しいことをやろうとしてる。俺がそれに加われないってだけのことだ。俺は忙しいんだよ」
 宮本の顔から皮肉な色が消えた。
「忙しいって、なにをやってるんだ?」
「倒さなくちゃいけないすげえ奴がいるんだよ。そいつを倒すために勉強しなくちゃならないし、体も鍛えなくちゃならない。とりあえずそいつを倒さなくちゃ、先に進めないんだ。でも、そいつを倒したら、俺はほとんど無敵だ。世界だって変えられる」
 僕の高校に上がってからの戦績は、『二十五勝一敗』になっていた。僕は無敗の男ではなくなってしまった。そして、その一敗は途轍もなく大きな一敗だった。
 宮本が、わけが分からない、といった感じで首を横に振った。それからな、と言って、僕は言葉を続けた。
「俺が国籍を変えないのは、もうこれ以上、国なんてものに新しく組み込まれたり、取り込まれたり、締めつけられたりされるのが嫌だからだ。もうこれ以上、大きなものに帰属してる、なんて感覚を抱えながら生きてくのは、まっぴらごめんなんだよ。たとえ、それが県人会みたいなもんでもな」
 宮本が何かを言おうと、口を開きかけた。僕は言葉でそれを遮った。
「でもな、もしキム・ベイシンガーが俺に向かって、ねえお願い、国籍を変えて、なんて頼んだら、俺はいますぐにでも変更の申請に行くよ。俺にとって、国籍なんてそんなもんなんだ。矛盾してると思うか?」
 宮本は開きかけた口のまま、僕のことを厳しい目つきで見つめていたけれど、やがて、口元をほころばせ、優しい笑みを顔に作った。そして、言った。
「僕は情早A俺は、カトリーヌ・ドヌーブかな」
「古いのを出してくるな」
「うるせえ」
 僕と宮本が、顔を見合わせてへらへら笑ったのと、教室の前のドアが開いたのは、ほとんど同時だった。僕は宮本に言った。
「そこをどいたほうがいいぞ」
 宮本は素直に席から腰を上げたあと、手を差し出した。僕たちは強い握手を交わした。
 僕は、教室の隅のほうへと避難している宮本の背中から、僕に向かってきている挑戦者に視線を移した。そして、今日はどんな決め台詞を吐こうか考えていた。オヤジから教わった、あの言葉がいいかもしれない。

「ノ・ソイ・コレアーノ、ニ・ソイ・ハポネス、ジョ・ソイ・デサライガード(俺は朝鮮人でも、日本人でもない、ただの根無し草だ)」
 それに、決めた。








 一時間半ほどかかって、小学校のレール式の鉄扉の前に辿り着いた。
 鉄扉を飛び越え、校内に入った。校庭の中を見回した。桜井は偉い人の胸像の横のベンチに、暗闇にぽっかりと白く浮かび上がりながら、座っていた。僕はゆっくりと近づいて行った。桜井は青のタートルネック・セーターの上に、白のダッフル・コートを着ていた。とてもよく似合っていた。耳ぐらいまで伸びた髪を左から横に分け、耳の後ろに流していた。理知的なおでこがきちんと見える。僕は桜井のおでこが好きだった。
 僕は桜井の目の前に立ち、歩を止めた。桜井の顔に緊張の色が落ちていた。僕は黙って桜井を見下ろしていた。桜井はぎこちなく微笑み、言った。
「ありがとう、来てくれて」
 僕は沈黙を続けた。
「待ってるあいだ、ずーっと空を見上げてた。月が雲に隠れるたびに、雪が降ったらどうしよう、なんて思ってた。今日、天気予報で雨か雪が降るかもって言ってたから。最悪よね、雪のクリスマス・イブなんて。雪のクリスマス・イブに男の子と会うなんて、恥ずかしくて死んじゃうわ。その前に寒くて死んじゃいそうだったけど……」
 桜井が大きなため息をついた。白い息が浮かんで、消えた。桜井は顔から笑みを消し、言った。
「杉原と会わないあいだ、わたしなりに色々考えて、たくさんの本を読んで、難しい本もたくさん読んで情早v
 僕は桜井の前にしゃがみ込んだ。僕の急な動きに、桜井の口から言葉の代わりに、浅い息が漏れた。顔がひどく緊張している。僕は桜井の顔を睨みつけるように見上げながら、言った。
「俺は何者だ?」
「え?」
「俺は何者だ?」
 桜井は少し迷った末に、答えた。
「……在日韓国人」
 僕は立ち上がり、胸像の台座の部分を思い切り三回蹴ったあと、桜井に向き直って、言った。
「俺はおまえら日本人のことを、時々どいつもこいつもぶっ殺してやりたくなるよ。おまえら、どうしてなんの疑問もなく俺のことを《在日》だなんて呼びやがるんだ? 俺はこの国で生まれてこの国で育ってるんだぞ。在日米軍とか在日イラン人みたいに外から来てる連中と同じ呼び方するんじゃねえよ。《在日》って呼ぶってことは、おまえら、俺がいつかこの国から出てくよそ者って言ってるようなもんなんだぞ。分かってんのかよ。そんなこと一度でも考えたことあんのかよ」
 桜井は息を呑んで、僕のことをジッと見つめていた。僕は桜井の目の前にひざまずき、そして、言った。
「別にいいよ、おまえらが俺のことを《在日》って呼びたきゃそう呼べよ。おまえら、俺が恐いんだろ? 何かに分類して、名前をつけなきゃ安心できないんだろ? でも、俺は認めねえぞ。俺はな、《ライオン》みたいなもんなんだよ。《ライオン》は自分のことを《ライオン》だなんて思ってねえんだ。おまえらが勝手に名前をつけて、《ライオン》のことを知った気になってるだけなんだ。それで調子に乗って、名前を呼びながら近づいてきてみろよ、おまえらの頸動脈に飛びついて、噛み殺してやるからな。分かってんのかよ、おまえら、俺を《在日》って呼び続けるかぎり、いつまでも噛み殺される側なんだぞ。悔しくねえのかよ。言っとくけどな、俺は《在日》でも、韓国人でも、朝鮮人でも、モンゴロイドでもねえんだ。俺を狭いところに押し込めるのはやめてくれ。俺は俺なんだ。いや、俺は俺であることも嫌なんだよ。俺は俺であることからも解放されたいんだ。俺は俺であることを忘れさせてくれるものを探して、どこにでも行ってやるぞ。この国にそれがなけりゃ、おまえらの望み通りこの国から出てってやるよ。おまえらにはそんなことできねえだろ? おまえらは国家とか土地とか肩書きとか因襲とか伝統とか文化とかに縛られたまま、死んでいくんだ。ざまあみろ。俺はそんなもの初めから持ってねえから、どこにだって行けるぞ。いつだって行けるぞ。悔しいだろ? 悔しくねえのかよ……。ちくしょう、俺はなんでこんなこと言ってんだ? ちくしょう、ちくしょう……」
 桜井の両手が僕の頬に伸びてきて、ぴったりと触れた。桜井の手はとても暖かかった。
「その目……」と桜井はかすかに微笑み、震える声で言った。
「……目?」と僕は問い返した。
 桜井は頷いたあと、笑みを深めて、続けた。
「去年の九月のことなんだけど、わたし、返ってきた模試の成績が悪くて、いつもみたいに、なんでこんなことで落ち込むんだろう、バカみたい、って分かってながらも落ち込んじゃってたの。それは雨の日の放課後で、なんだか家に帰りたくないなあ、って思いながら、体育館のそばを通ったら、バスケットの全国大会の予選リーグがうちの高校の体育館で開かれてて、ちょうど試合をやってたとこだったの。わたし、バスケのことなんてよく分かんないし、興味もなかったんだけど、どういうわけかその時はね、タンタンタン、ていうバスケット・ボールが床にあたる音に惹かれて、体育館の中にフラフラって入って行っちゃった。それでね、観客席に座って、初めのうちはぼんやり試合を観てたんだけど、だんだんプレイしてるある男の子の動きばっかりを目で追うようになったの。その男の子の動きはすごくしなやかで、まるできちんと振りつけされてるダンスみたいだった。すごいな、自分もあんな風に動けたらいいな、って思いながら、その男の子のことを見てたらね、その男の子が突然、持ってたボールを、自分をマークしてた相手の選手の顔に投げつけたの。たぶん、その男の子は相手の選手にひどいファウルをされたか、ひどい言葉を言われたのね。わたし、突然のことだったから、すごくびっくりしちゃった。コートの中も一瞬静まり返ったんだけど、すぐにボールをぶつけられた選手の味方の選手が、その男の子に、てめえ! って言いながら殴りかかっていったのね。そしたら、その男の子、向かってくるその選手に、ものすごく打点が高いドロップ・キックをやったの。わたし、ドロップ・キックなんてテレビでプロレスラーがやってるのしか見たことなかったから、生で見れてすごく感動しちゃった。それでね、一発だけでもすっごく感動しちゃったのに、その男の子、次々に向かってくる相手に連続して何度もドロップ・キックをやったのよ。そのあいだは、着地してる時間より、宙にいる時間のほうが長かったんじゃないかな。わたし、もう感動とかそういうことを感じるどころじゃなくなっちゃって、ただただその男の子の動きに見とれてた。だって、その男の子の動き、ほんとにすごかったんだもの。その男の子のまわりだけ重力がないの、まるっきり。その男の子、自然の法則を超えちゃったのよ。気がついたら、コートの中にいた相手の選手たちは鼻血を出したりしながら、みんな床の上に倒れてた。そんな風になってようやく審判たちがその男の子のことを取り押さえようとして、その男の子に近づいて行ったんだけど、その男の子、すっごく興奮してたみたいで、審判にもドロップ・キックをやり始めたの。わたし、そこらへんから、もうおかしくておかしくて、クスクス笑ってたのね。そしたら、その男の子のチームのコーチが、ベンチに座ってた選手たちに向かって、行けっ! 杉原を取り押さえろ! って命令した。わたし、ダメ! つかまらないで! って心の中で叫んだんだけど、ダメだった。杉原は二人目の審判にドロップ・キックをし終わって着地した瞬間に、チーム・メイトにつかまっちゃったの。でも、しばらくのあいだ、杉原は必死に抵抗してた。離せ! 離せ! って叫びながら。チーム・メイトは仕方ないって感じで、杉原を床の上にどうにか倒したあと、杉原の上に乗っかった。確か、四人が乗ってたから、小さな山みたいになってた。わたし、ああ、つかまっちゃった、ってすごく残念で、バカみたいだけど、悔しくて涙が出そうになったのね。でもね、すぐに涙が引っ込んだ。だって、小さな山が、ビタンビタン、て動いてるのよ。四人も乗っかってるのに、ビクンビクン、て。わたし、こらえきれなくて、観客席に横になりながら、お腹を抱えて笑っちゃった。あんまり笑いすぎて、引っ込んだ涙がまた出てきたぐらい。どうにか笑いがおさまって、コートを見たらね、杉原は何人かの先輩たちにビンタをされてて、そのあと、コーチにユニフォームの背中の部分をつかまれて、コートから控え室のほうに連れていかれることになってた。その姿がまた面白かったのね。だって、いたずらばっかりする子猫が、飼い主に背中をつかまれて、外に放り出されるみたいだったんだもの。コーチと杉原は、わたしが座ってたほうに歩いてきてた。わたし、相変わらずクスクス笑いながら、身を乗り出すようにして杉原のこと見てたのね。そしたら、杉原がわたしのことに気づいて、ものすごい目でわたしを睨んだの。わたし、勘違いしてた。杉原は子猫じゃなくて、ライオンだったんだよね。それでね、わたし、杉原に睨まれた時、背筋がぞくっとして、体の中心がもぞもぞする感じがあって、気がついたら、濡れてたの……。わたし、そういうの初めてだった……。それまで、男の子にキスされたり、体を触られたりしても、濡れたことなかったのに、睨まれただけでそうなっちゃった……。わたし、その日、ずーっと正門の前で杉原が出てくるのを待ったんだけど、裏門から帰っちゃったみたいで、会えなかった。その日からずーっとわたしの頭の中には、『杉原』っていう名前と、杉原の高校の名前があった。何度か高校まで訪ねて行こうと思ったこともあったんだけど、そんなことこれまでしたことなかったから勇気が出なくて、友達に相談したら、そんなバカ高校の奴やめなよ、つて言われて、それだけじゃなくて、あの高校に近寄ったらまわされちゃうよ、なんて恐いことも言われたから、結局行けなかった。でもね、わたし、絶対に杉原に会えるって信じてた。それはもう確信に近かった。だから、今年の四月に、わたしの隣に座ってる男の子が、パー券をむりやり売りつけられた、って言ってわたしに見せてくれて、それが杉原の高校の男の子が主催してて、杉原の高校の男の子たちがたくさん集まるって聞いた時、何があっても絶対に行こうって思って、その男の子からパー券をもらったのね。それで、会場に行ったら、やっぱり杉原に会えた…‥。杉原のこと、すぐに分かったよ。だって、その時もわたしのこと、睨みつけてくれたもの。わたし、あの時も濡れてたんだよ……」
 頬を挟んでいる桜井の両手に力がこもった。
「わたし、いまもすっごく濡れてるよ。触ってみる?」
「ここで?」と僕はちょっとびっくりして、言った。
 桜井は頷いた。僕は少し迷って、言った。
「ここじゃまずいんじゃないかな!」
 ふいに顔を胸の中に引き寄せられた。後頭部とうなじに桜井の手がかかり、ギユツと抱き締められた。桜井の、ドクンドクン、という心臓の音が聞こえてきた。ドクンドクン、ドクンドクン……。なんて懐かしい音なのだろう。なんて心地いい音なのだろう。
 桜井の声が頭に降ってきた。
「もう杉原が何人だってかまわないよ。時々、飛んでくれて、睨みつけてくれたら、日本語が喋れなくたってかまわないよ。だって、杉原みたいに飛んだり、睨みつけたりできる人、どこにもいないもん」
「ほんと?」と僕は桜井の胸に顔をつけたまま、訊いた。
「ほんとだよ。わたし、ようやく、そのことに気づいた。もしかしたら、杉原を見た初めから気づいてたのかもしれないけど」
 桜井はそう言って、僕の頭のてっぺんにキスを三回してくれた。桜井の手の力が緩んだので、僕はゆっくりと顔を胸から離した。桜井が僕の顔を見つめて、訊いた。
「どうして泣いてるの?」
「嘘つけよ」と僕は言った。「俺は人前では泣けない男なんだ」
 桜井は眩しいものでも見るように目を細めて微笑んだあと、また僕の頬に両手をあて、親指を優しく動かし、涙を拭き取ってくれた。
「さっきからずーっと言おうと思ってたんだけど」と桜井は真面目な顔をして、言った。
「欠けた歯がおマヌケで、とっても可愛いよ」
 僕と桜井は顔を見合わせ、笑った。桜井が僕の顔から手を離し、ベンチから立ち上がった。
「また、月が隠れ始めたわ。雪が降ってくる最悪の事態の前に、どこかへ行きましょうよ」
「どこに行く?」
「どこでもいいわ。とりあえず暖かいところに行って、それで、今晩どこに泊まるか考えましょうよ」
「……いいの?」
「そういう鬱陶しい質問をする癖は直してね」
 桜井は僕の横を擦り抜け、スキップのような足取りで正門のほうに向かった。僕はひざまずいたまま、桜井の後ろ姿を目で追っていた。桜井が足を止め、振り向いた。僕がこれまで見たことのない微笑みが、浮かんだ。そして、雪のように白い息とともに暖かい声が吐き出され、僕の耳に届いた。

「行きましょう」