1.はじめに
2.アンケート結果から
3.どうして国語の教師に
4.現代文分野の授業
5.古文分野の授業
6.漢文分野の授業
7.ことばの学習の授業
8.おわりに
アンケート集計








1.はじめに

そんなわけで、教師生活十年目を終えました。最初の一年は東宇治高校で講師をし、その後ずーっと八幡高校です。この際十年間を振り返ってみてもいいんじゃないかと思ってこの原稿を書きます。それに、〔国語の授業に何を望むか〕なんてアンケートの結果なんかもあって、興味津々です。

十年一昔と言いますが、最近は五年、いや三年ぐらいかそれ以上のペースで生徒の感じが変わってきています。昔ながらの授業もレトロとかいって味があるのかもしれませんが、時代を読んで生徒の実態についていかなければ、生徒を引き付けるような授業はできません。生徒の実態といっても多種多様だから捉えられないという声も聞こえますが、案外パターン化されていて単純だったりして、事は複雑怪奇です。とまぁ、前置きとこれぐらいにして本題に入っていきましょう。

2.アンケート結果から

アンケートは『月刊国語教育』一九八二年三月号に掲載されていたものをそのまんま拝借しました。昨年度、府立高校四校にお願いして、I類四二四人、II類二二九人、III類一二二人を対象に、各質問毎に一人二つ〇をつける要領で実施してもらいました。数字は%です。京都の高校制度は、I類は普通のコース、II類は学力伸長・進学コース、III類は個性伸長・体育コースです。一つの高校にいくつかの類型が設置されています。大胆に「学習意欲」というか「学力」の高い順にII・I・III類として独断と偏見で分析してみましょう。

〔国語の授業に何を期待しているか〕
I・III類は「漢字力」、II類は「入試の力」と『期待』通りの結果が出てきました。IIII類に「日常生活での話す能力」、II類に「古典を原文で読む能力」を期待する生徒が多いのもさもありなんといった所でしょう。つまり、II類ほど「受験の力」III類ほど「日常生活の力」を期待していると断定します。別に面白くも新しくもない結論です。「論理的な文章の読解」「文学的な文章の読解」ともにII類の生徒が多いのは頷けるとして、面白いのはI類が「論理的な文章の読解」、III類が「文学的な文章の読解」に期待していることでしょう。これは「人生の指針」を求める傾向と関係がありそうです。

〔授業の方法〕
どの類も「先生中心だが生徒にも発言させ」「板書を活用」しながら「ノートがゆっくりとれる」授業ということになるのでしょうか。「先生中心」や「器材を使ったり」「グループ学習」はあまり好きじゃないらしい。III類に「じっくり考えさせる」、III類に「生徒どうしの話し合い」を望む声が多いのは生徒の自主性のあらわれで、まだまだ捨てたもんじゃないとも言えましょうが、実際の授業とのギャップはなんなんでしょう。II類の「計画的な授業」を望むシビアな声は謙虚に受け止めなければならないでしょう。

〔授業内容〕
〔授業に何を期待するか〕と同じような傾向も出てますが、圧倒的に「他の教材」を要求する声が高い。次の質問にも関連しますが、教科書が面白くないんですね。それに、「作文の指導」はあんまり望んでないらしい。

〔教科書〕
どこがダメかと言えば、II類は「内容が豊富じゃない」、IIII類は「分量が多すぎる」と考えているんですね。

〔先生に対する注文〕
担当の先生によるものが多いので単純に比較できません。II類ほど「内容に対する注文」、III類ほど「態度や技術に対する注文」ということは言えるでしょう。

3.どうして国語の教師に

僕は社会科が得意だった。国語なんて現代国語は答えがいっぱいあってわかんないし、古典は一つの単語にいっぱい訳があってわからないし、嫌いだった。でももし教師になるなら社会科はやめとこう。社会科の先生には悪いけれど、また多分そうじゃないんだろうけど、一生同じことを教えていたら退屈してしまう。国語ならその都度新鮮な感覚で教えられて楽しいだろうな。なんて考えていた。

実際なってみると、確かに毎回違った感じで教えられて楽しい時もあるのだが、時間の余裕がなくなったりしてくると苦痛になる。なんで国語の教師だけこんなしんどい目しんなんのか。それに、生徒だって数学や英語なら真剣にやるけど、特に現代文なんか聞いても聞かなくても力が付いてるのか付いてないのかわからないから、どうしても手を抜かれてしまう。なんて因果な教科なんだと恨むこともしばしばだった。それでもたまにいい授業ができるとニコニコしてしまう。そのへんが国語の麻薬性なんでしょう。

なんで国語か、の前になんで教師かという問いがあります。僕の時代は「学校の先生になる」と公言することはなぜか恥ずかしいことだと思い込んでいました。小説家になるという野望を胸に秘めつつも、会社員になって物を相手にするよりも、人間相手の仕事の方が変化があって面白いと思っていました。

それで国語というのは、創造的な仕事の中でもより創造的な分野だと言えましょう。だから、「学力」を付けると同時に、伸び伸びと考える雰囲気と力を付けることが必要です。だから、色々と工夫をして少しでも生徒さんに喜んでもらえるような授業をコウチクしていかねばならない。と同時に国語の「学力」の付く授業をしなければならない。と同時に「国語の学力」の正体もつきとめねばならない。ねばならない、ねばならない、ねばならない。国語というのは実に因果な教科であります。

4.現代文分野の授業

あんまり教科書に載ってる教材をやりませんでした。だいたい、一冊の教科書の現代文分野の教材で勉強してみようかなと思えるのは、一つか多くて三つが限界です。為になるとか、高校生に相応しいとか、大人が、然も国語を勉強したくてたまんない生徒をしか想定してない大人が作るもんだから、多くの国語なんて勉強したくない、モトイ不幸にしてまだ国語の面白さを知らない生徒にとっては少しも学欲を誘わないシロモノになってしまうのです。現代文の授業の第一歩は教材捜しです。とは言っても今のところ他の教科書からしか捜せてません。小説は、オーソドックスですが、1年は『羅生門』、2年は『山月記』『こころ』、3年は『舞姫』、これだけはやります。他にも『沈黙』『狭き門』『麦藁帽子』(堀辰雄)『三四郎』『赤とんぼと油虫』(野坂昭如)なんかが面白かった。少々長くっても内容が面白ければ生徒はちゃんとついてきます。評論では『ラムネ氏のこと』『破壊者ウルトラマン』(大江健三郎)なんかがお勧め品です。評論は文章を論理的に読解する力を養うのが目的なんですが、やっぱり今日的なテーマでないと読む気がしないし、当然読解力も付きません。今日的なテーマとは何か、これがまた難しいのだが、今生きている時代が見えてくるようなものじゃないでしょうか。評論なんかはそれこそ教科書以外の最近出版されたような教材の方がいいのではないかと考えます。

ここで話は一挙に「国語の学力」に入るのですが、「国語なんて答えがない」「どう思おうが勝手やないか」という文句に反論します。たしかに、ある水準を超えると個人の感性とか思想とかの問題になりますが、ある水準を超えない範囲ではそういう理屈は通用しません。簡単に言えば、テストで答えが決まっている範囲です。いわゆるひとつの基礎学力というやつです。基礎学力というとすぐに漢字だ文法だ語句の意味だと考えてしまう人もいるでしょうが、時代は進んでいます。ここで言いたいのはそんなんじゃなくて、『現代文ミニマム』と僕が勝手に名付けているものです。「段落の分け方」「要約の仕方」「接続の関係」「指示内容の見つけ方」「比喩の種類と効果」などなどがあります。これらをシリーズにしてプリントにまとめてみました。以前研究会で話したら、そんなのはテクニックだと非難されましたが、時代は進んでいるのです。マニュアル的なものを教えて、自分である程度読める力をつけてやることが大事です。

で次は、ある水準を超えた、多くの国語の面白さに気付いていない不幸な生徒に評判の悪い曖昧模糊な部分です。まず教師に読解力がなければお話になりません。アンケートの項目で言うと、「行き当たりばったりではなくきちんと計画された授業」です。授業一時間に予習三時間なんて言われてますが、最近特にしょうもない雑用が増えたので、勤務時間内にはできません。となると畢竟家に持って帰ってということになります。また、家じゃないと落ち着いて出来ないという悪循環もあります。まず、導入です。指導書なんかに書いてあるのは、お目々をキラキラ輝かせて先生の話を聞いている生徒を対象にしています。でも、現実はそう甘くありません。始めに一発かましてやらないとダメです。どれだけ強いインパクトを与えるかで勝負の六割五分は決まります。そのためにはやっぱり一つの教材全体の授業計画が先決です。次の教材に入る一週間前から頭の中に置いとかないといけません。全体を見渡した上で、その核心部分に抵触したり、生徒が興味のありそうな関連したものを導入にもってくるのです。若い頃は頭が柔らかくって楽しみでしたが、最近は苦痛です。昔うまくいったからといって、同じパターンで迫ると必ず失敗します。時代は進んでいます。絶えず時代感覚を養うことが必要です。教材の読解については、どれだけうまく図式化できるかにかかっていると思います。僕はかねがね国語のできる人は数学もできなければならないと思っています。小説は感性に関わる部分が多いのですが、それでも論理的に構造的に読める力がないとだめだと思います。評論はいわずもがなです。

5.古文分野の授業

古文ではどんな力が必要か。細かい訳もさることながら、最も必要なのは一読か二読して全体のあらすじなどを把握する力 だと思います。受験だってそうでしょう。問題文を読んでどれだけ把握できるかで合否が分かれます。細かい部分にこだわっていては、できる問題もできなくなってしまいます。

授業をする時一番悩むのは、講座の中に古文の必要な生徒が何人いるかということです。受験に古文の必要な生徒は三年の古典で詳しいことを勉強させるとして、国Iや国IIの古文分野では、やはり全体を把握して面白さを味合わせることが目標になってきます。そのためにはどんな授業をしたらいいのか。最近予備校の講師が書いた参考書が売れています。土屋博英氏のものなどメチャクチャ参考になります。でも、その奥にはモノスゴイ蓄積があるのです。幅の広い知識が必要なのは百も承知なのですが、高校大学と古典を避けてきた報いが出てきています。

言い訳はこれぐらいにして、そんな僕がやってきた方法を少し書いてみます。入門では、質問しながら大意を取らせ、文節、単語分けから入ります。やり方は、文節や単語に分けて読ませます。間違えたら交代させ、なかなかスリリングです。単語にわけたら辞書を使って単語の意味を調べさせます。歴史的仮名遣いや動詞の活用なんかに注意します。これは誰でもがやってる方法でしょう。あとは、読ませて大意をとらせて訳して需要な文法や句法なんかを説明して章末の問題をやらせる、このパターンでしょう。面白いエピソードや関連した現代的な話題を盛り込んで味付けしたりはしますが、どうもマンネリ化して僕も生徒も退屈してしまいます。そういう積み重ねが大事なのかもしれませんが。

そんな中で少し工夫していることは、訳のことです。生徒にさせるにしろ教師がやるにせよ、全文に訳を付けると生徒の気持ちが訳の方にばかりいってしまい、「もう一回言ってくれ」だの「黒板に書いてくれ」だの「訳のプリントを配ってくれ」だの要求してきます。この悪因は、テストに訳がガバッと出るからだと睨みました。だから僕のテストには訳が殆ど出ません。授業では、簡単な所は僕がやり、難しい所や重要な所だけ生徒に質問します。訳はその教材の終わった後で必ず配ってしまいます。文法は解釈に必要なものに絞って教えます。活用する自立語と助動詞や敬語などです。助動詞は、一、二年では活用表を覚えさせず、見方だけを教えます。テストの時は活用表を配ります。活用表は三年の選択の古典で覚えればいいでしょう。

とにかく、解釈に必要なものだけを教えて古文の面白さを損なわないことを第一に考えました。それを妨げるものはできるだけ取り除くことです。今まで受験に必要かもしれないというということを古文の必修事項として教えてきた。でも、古文が受験に必要でない生徒も多い。それになにより、古文を教える意味は受験のためだけではないでしょう。たてまえを言えば、アンケートにもあるように「文化遺産を次代に継承する」こともあるでしょう。勿論受験に必要なものも教えなければなりませんが、それを最小限に抑えることが大切でしょう。そのためには、受験問題を分析して何が必要なのかを明らかにすることが必要でしょう。

6.漢文分野の授業

漢文は古文以上にワンパターンになる分野で、なおかつ受験での必要性も少ない分野です。入門では返り点などから教えますが、実際の漢文を使った方がいいようです。あとは、音読して書き下し文にして訳をするというパターンです。あまり時間をとれないので、力が付きにくい。年度末に句法なんかのまとめのプリントを配ってお茶を濁したりしてしまいます。古文もそうですが、漢文はさらにその背景の知識が豊富でないといい授業ができません。漢詩をやるときは舞台になった情景のビデオなんかがほしいと思います。

7.ことばの学習の授業

僕の十年間の遺産といえば、「ことばの学習」です。「ことばの学習」というのは、いわゆる基礎学力、漢字・語句・文法のテキストです。漢字といってもドリルのようなものでなく、漢字の合理性を理解させるためのもので、楽しく勉強できるようになっています。語句も意味ではなく、体系を教えて語句数を増やすためのものです。文法は作文に必要なものを精選し、実践的なものにしました。この作業に取り掛かったのは四年目からです。一年から三年間持ち上がってみて、国語で何を教えられたかと振り返った時に、物足りないものを感じました。何か形に残るものをと始めたのが「ことばの学習」だったわけです。文部省の思いつきで設置された特別選択で「国語入門」を開講しました。そこで実験してみました。いろいろ試行錯誤はありましたが、なんとか使い物になるかなと思った時には諸般の事情で特別選択がなくなりました。それでもめげずに去年、「はなしことば」として、語句編・文法編に発音編を加えて完成しました。すると今度は「現代語」なる科目が設定さるそうで、また使えるかもしれないと思っています。

8.おわりに

このように失敗を積み重ねながら十年がすぎました。講師時代に「教師は年々学力が低下するから絶えず勉強しないといけない」と言われた言葉が実感としてあります。初めの頃読んでいた専門書の類を最近読めなくなっていました。頭がついていかないし、気力も衰えつつあることに気がつきました。これから二倍もあるかもしれない教師生活、このあたりで褌の紐を締め直さないともたんなぁとつくづく感じる今日この頃です

質問事項 II III
問一 あなたは国語の授業に何を期待していますか。
日常生活で自由自在に話せる能力を身につける 20 14 20 18
改まった場面での話し方を身につける 14 10 10 12
評論文・論説文の内容を読み取れるようになる 16 26 8 18
文学的な文章の読み味わい方を身につける 14 26 20 19
小説・詩・短歌・俳句などを作るする能力を身につける 4 7 6 5
古典を原文で自由に読める能力を身につける 8 16 5 10
日常生活に必要な漢字の読み書きができる 44 21 48 38
自分でもの考えることができるようになる 30 24 24 28
入試に必要な知識・能力を身につける 25 33 20 26
文字による文化遺産を次代に継承する態度を身につける 1 3 0 2
人生の指針になるような何かをつかむ 12 11 15 12
問二 国語の授業としてどのような形式・方法がよいか
先生がひとりで解説していく 8 12 9 10
先生中心であるが、生徒もどんどん発言させる 28 31 25 29
生徒のグループ学習を中心にする 12 11 16 12
生徒どうしの話し合いを取り入れる 16 12 25 16
板書を活用する 23 24 20 22
テープレコーダーやスライドを活用する 14 10 18 13
ノートがゆっくり取れる 43 28 50 39
行き当たりばったりでなくきちんと計画されている 19 26 10 20
十分時間をとって生徒に考えさせる 34 35 19 32
問三 国語の授業内容にどのような注文がありますか
あまり余計なことをやらずに教科書中心でやってほしい 10 8 16 10
教科書にあまりこだわらないで他の教材もやってほしい 47 50 48 48
作文の指導にもっと力を入れてほしい 4 7 2 5
小テストなどを含めて漢字の指導に力を入れてほしい 14 8 13 12
小テストなどを含めて文法の指導に力を入れてほしい 9 11 6 9
話し方の指導をもっとやってほしい 13 10 15 12
古典では文法でなく内容の読み味わいを重視してほしい 35 26 20 30
どの分野の教材もまんべんなく取り上げてほしい 30 37 21 31
古典など日常生活に役立たないからやらなくてもよい 22 15 25 21
長い小説など省略しないで取り扱ってほしい 6 12 10 8
問四 あなたは国語の教科書についてどう思いますか
今までの教科書で満足している 27 22 26 25
興味のわかない教材ばかりで読む気が起こらない 37 34 42 37
分量が多過ぎていつも残るのでもっと薄い教科書でよい 36 27 43 34
授業で終わらなくても内容豊富な教科書にしてほしい 22 33 14 24
文学的教材が多過ぎるので減らした方がよい 10 4 37 12
文学的教材が少ないのでもっと増やしてほしい 12 14 11 13
評論文・論説文が多過ぎるので減らした方がよい 20 15 20 18
評論文・論説文が少ないので減らした方がよい 5 8 5 6
付録(参考資料、年表、地図など)を多くつけてほしい 18 14 11 15
問五 あなたは国語の先生にどのような注文がありますか
生徒になにを聞かれても答えられるよう勉強してほしい 7 17 7 10
10授業が単調なので変化をつけるよう工夫してほしい 21 26 15 21
全員に聞こえるようはっきりと大きな声で話してほしい 6 6 14 7
堅苦しい態度でなく親しみがもてるようにしてほしい 20 19 27 18
生徒の顔色を気にせずに厳しい態度で授業をしてほしい 1 3 7 3
生徒が使う流行語を使わずに正しい言葉を使ってほしい 2 2 2 2
生徒を指名する場合は公平にしてほしい 9 13 16 11
作文を書かせたら早く見て早く返してほしい 3 3 1 2
宿題をあまり出さないでほしい 22 19 15 20
宿題をもっと出してほしい 2 3 4 2
生徒一人一人に関心をもって指導してほしい 13 16 12 14
学習目標や学習計画を前もって知らせてほしい 15 21 10 16
黒板の文字を書く時、正確にきれいに書いてほしい 33 22 22 28
今までの先生のやり方で満足している 30 20 25 26



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