禁無断転載

オバハンからの気まぐれ通信
(2005年12月&2006年01月)

パキスタン大地震 緊急支援を開始します

日パ・ウェルフェアー・アソシエーション(NWA)のHPをご覧ください


■□■2006年01月31日(火)■□■
なんじゃぁ??何時ものことながらと言おうか、日本政府の首脳は何を考えているのか?特に中川農水相の米牛肉輸入に関しての安易な発言といおうか、答弁は??
「日本政府首脳や国会の皆様にはご迷惑をおかけいたしました」だとぉ?
言い方を間違っているにも甚だしい、ご迷惑をおかけし国民を不安におとし入れたお詫びは国民に対してするもんではないのかね?国会と政府首脳の方しか見ていないというのが歴然、呆れたねぇ…。国政に携わるというのは国民の生活を安んじるという義務があっての前提で、政府首脳や小泉のご機嫌うかがいをするためではないのに…。

続いてのニュースは麻生外相が「戦士した英霊は天皇陛下のために万歳と言ったから天皇陛下が参拝するのが一番だ」と??
もう日本という国はどうなってしまったの??訳がわからんに…。おまけに「天皇は私人として参拝したらいい」だと?天皇の何処が私人なのか?選挙権もなく、「国の象徴たる」存在だけの天皇に。追悼したければ彼らが心の中で追悼すればヨシ、「私人の立場で参拝」などとは、何処を押したら出てくるセリフなのか! 

■□■2006年01月29日(日)■□■
日パ・ウェルフェアー・アソシエーションのテント村で生活する子どもたち。その子どもたちの遠足前日…。
生まれて初めての遠足に子どもたちの期待・喜びようは半端ではなく、「寒くて水シャワーは嫌だ」と、犠牲祭(イスラーム最大の大祭)の時にもシャワーに入らなかった子どもたちがタオルを肩に列を作ったとは、りほちゃんからの報告。山村や一般家庭のシャワーは冬場でも水、昼間は太陽光線でぬるま湯程度に暖まるとはいえ、なかなかの根性が必要だ。

そんな前日の水シャワー、そして当日朝は、「昨晩は嬉しくて寝られなかった!」と言いながら、遠足切符をシッカリ握り締めた子どもたち36人を乗せて2台のハイエースは世界で3番目に大きいファイサル・モスクへ…。村からイスラマバードへ来る途中で見かけたモスクよりもさらにさらに大きく、世界中から集めたといわれる大理石で作られたファイサルモスクは美麗そのもの。子どもたちの想像を遥かに超えた荘厳なものだったらしい。(詳しくはNWAのHPを)

動物園や子ども公園でも、初めて体験するブランコやシーソー、滑り台に「なんて楽しいの!こんなに楽しいのは初めて!」などと、歓声は上がりっぱなし。支援者の方々すべてに、子どもたちの喜ぶ様をお見せしたかったと、オバハンは何度思ったことか…。12月から計画して、ようやく実現した遠足。こんなに喜んでくれるのなら3月末にももう一度どこかへ連れて行ってやりたいと、シミジミ考えている。

■□■2006年01月27日(金)■□■
なになに??
耐震強度偽装事件で、ヒューザーが18自治体を相手に139億円からの賠償を求め、東京地裁に訴訟だと?
国や自治体は違法建築物を未然に防ぐ注意義務を怠り、建築確認で偽装を見逃したために損害をこうむったと主張。民間検査機関による見逃しについても賠償責任は自治体にあるとしている。
うーーん、なかなかのオッサンだぁ…。まぁ、ヒューザーのオッサンの言ってることも一面正しいところに「盗人にも3分の理」かいな?いやいや、弁護士なかなかのやり手だわ。ヒューザー(建築主)が自治体を相手に訴訟を起こすとは本末転倒だとはオバハンも思わないでもないが、甘い汁を分けてもらっていただろう自民党首脳や自治体はヒューザーから付け入られるようなことをしていたに違いない…。

■□■2006年01月25日(水)■□■
1月も下旬、陽射しが急激に春めいてきた。天空から落ちてくる光の輝きが違っている、暦の上での春はもう1週間後に迫っている。しかし、被災地では春先の雨や雪で難渋する人たちが、暖かなイスラマバードのテント村へ僅かずつ移動しはじめている。
ムザファラバードやバラコットなど山間のテント村では、「雨に濡れ、寒くて3日も寝られなかった…。あんなに辛いのはなかった。」という人がいたり、「雪の重みでテントが潰れてしまった!」という人がいたりして大変なようだ。

さて、今週の日曜日は日パ・ウェルフェアー・アソシエーションのテント村・小学校に通う子どもたち(約30人)をファイサル・モスクと、その近くにある小動物園へ連れて行く予定。当地では遠足なんて、お金持ち学校へ通う子どもたちにしか体験できないが、被災して辛いだけではない思い出も…と。で、子どもたちの希望により小動物園に決まったが、大人の女性陣からは「なんて運の良い子たちなの!!」と、羨望の声しきり…。

毎日、テント村で顔を会わせるうちに、私たち日本人ボランティアが足元のゴミを一つ拾うとテント村の住人たちもすすんでゴミ捜し。教室入り口の履物を並べ初めると小さな子までが履物を揃えたり…。本当にいい子どもたちだと感心しきり。毎日休みなくテント村へ通うボランティアのジョージやりほちゃんは、住民全員の性癖まで覚えてしまう有様。
「●●が賢い。○○は怠け者。××は家のお手伝いを良くする。△△は勉強好き。**は絵がうまい!▲▲は刺繍が上手」など。
そんな子どもたちに、少しでも色々なモノを見せたい、体験してもらいたい、希望者には上級学校へのチャンスも作ってやりたい…と、支援はますます広がりそう…。

反面、実は、冬の間に被災地へ食料を運ぶという計画が進んでいない。余震で地滑り、降雪後は雪崩、晴れて雪が融ければタイヤが滑って山道を走れない…などなど。ともかくも、2次災害でオバハンたちボランティアに何かがあってはプロジェクト全体に支障が出るというのが言い訳だが、オバハン自身も物凄く計画の遅れを気にしている…。

■□■2006年01月22日(日)■□■
地震から早3ヵ月半。
イランやトルコは自国の地震でお世話になったからと、パーキスターンへのお返しの意味も込めて支援はきめ細かく手厚い。両国共に日本を遥かに上回る支援金と支援プロジェクトで被災民に対している。日本はアメリカ様のお世話になっているからと、ハリケーン被害に対しては当国の地震支援の50倍(確か50億$)からを支援している。前にも書いたがトヨタは500万$、ニッサンが200万$、他の日本企業もしかるべくアメリカ様への支援を惜しんでいない。弱い者(国)こそ大きく強い者(国)から守られ助けられるべきだとはオバハンなりの常識なのだが、最近はますますそうしたことが通らないようだ…。

バザールには地震後1ヶ月くらいから、各国からの支援物資であるビスケットやチーズ、ミルク、缶詰などがキャンプから横流しされ、店頭に満載となった。最近では賞味期限切れの食料品や、薬が問題になっているとの新聞報道もある。パーキスターンでも期限切れの医薬品や食料品は配布できないし、罰則もあるので当地での配布に際しても、G社のビスコ様は箱から取り出し、袋詰めの物をバラして再梱包という手間暇をかけている。手抜きして市内のキャンプに大量配布したくとも、それがバザールへ流れてはならないし、どれだけ配布に気を使っているか送り出した人たちには想像もつくまい。

賞味期限を過ぎてはいても、もちろんビスコ様は食べられる。メーカー曰く、賞味期限は「美味しく召し上がるための期限」だからだ。だからこそスタッフが寒いテントに寝て、ビスコ様に事務所を提供しているわけだ。日本側の送り出し団体からは、「被災者たちへの配布写真を送って欲しい。次回支援物資を集めるための宣伝に使うから」と、ノーテンキなメールが届いたが、配布に際してのこうした手間暇代が幾らかかったのか、カラチでの通関諸経費、陸送代金が幾らになるか想像もしていないようだ。おまけに、この団体から送られて来た中古衣料品は黒のラメ入りキャミソールとか、黄色のミニスカートだとか… イスラーム教徒が絶対に着用しないと思われる(目が汚れそうな)物もいっぱい。

少なくとも受け取り側の状況についての配慮がまったくなされていない。
何でも送れば喜ばれると思うのは、送り出し側の傲慢にすぎない。今後、オバハンは2度とG社の製品は買わない!!何かあるごとに皆にも買わないようにと言いまくる!!

■□■2006年01月21日(土)■□■
日本ではまったく報道されていないが、米軍によるウサマ・ビン・ラディンやザルカゥイなどの捕獲(掃討)作戦は4年以上も延々と続けられている。
1週間前にもペシャワールの北、アフガにスターン国境に近いバジョワールでは何の罪もない住民が空爆によって18人も犠牲となった。結果、地域住民はもちろん、パーキスターン国内のあちこちでもアメリカに対する抗議の声があがって大掛かりなデモに発展。

先週の金曜日は雨にもかかわらず、イスラマバードでも大掛かりな反米デモとなり、外出を控えるようにとの通達が出た。また、欧米人の集まりやすい施設や米系のファーストフード店にも近寄らないようにと厳重注意が出ている。本日の街中も厳戒の雰囲気。何時もの倍もの警察官が各街角を固めている。

■□■2006年01月13日(金)■□■
犠牲祭の3連休が終わって平日だが、金曜日ということもあって、きょうも気分は休日。しかし、キャンプ村での作業は先送りができない。
日本から多くの方々がご支援下さってキャンプ村の運営や、支援活動が成り立っているのだが、中には有難迷惑も。その中でも迷惑だったのは寝袋約800個とともに来たG社のビスコ。寝袋はコンテナ全体の5分の1しかなく、40フィートコンテナの中味のほとんどが賞味期限切れまで僅か10日しかないビスコ。
パーキスターン政府も、貰うものなら何でもいいですとも言えず、「こんな期限切れ寸前のものは通関出来ない」と税関で揉めに揉めた。口の達者な息子がイスラマバードからカラチ(東京から福岡くらいの距離感)まで説明に行ってもラチがあかず苦戦に苦戦。

元々、寝袋800個の支援と聞いて地震直後は感謝感激だったし、「イスラマバードでの通関ならば配布をお引き受けする」ということでの話だったが、到着したのはカラチ港で地震後2ヶ月近くも経ってから。お送り頂いた方々の気持ちは有難いものの、期限切れのビスコはパーキスターン国内どこのキャンプでもおおぴらには配れず、ビスコの箱から他の箱への詰め替え作業だけで8人が2週間以上を費やし、本日も詰め替え作業が待っているという状態…。
もちろん、未だに配布も済まず大きな事務所の建物は天井までビスコでイッパイ。
始末屋のオバハンは、期限切れとは言え食べられる大切な食料を粗末にも出来ず、スタッフがテントで寝てビスコ様は事務所の建物内でふんぞり返っているという歪んだ図式。
こちらの地震直後には、「アチェの津波支援で貰った衣料品がダンボールで10箱あります。貰って頂けないでしょうか!!」という話などもあった。支援物資は確かに有難い、しかし、それは必要とされる時期に必要とされる物資だということを覚えておいて欲しい…。

■□■2006年01月12日(木)■□■
10日から犠牲祭のため3連休。
ふだんは行き交えないくらいに車が混み合う家の前の道にも走る車はなく、シ〜ンと静まり返っている。街全体に振動がなく澄んだ冬の空気が実に心地よい。礼拝に赴く人々のヒタヒタ足音とあちこちのモスクから流れる礼拝への呼びかけ声や、それに続く礼拝の声がマイクにのって流れて来るだけの朝。
オバハンたち日パ・ウェルフェアー・アソシエーション(NWA)のテント村も広い敷地に隣接するモスクから礼拝のざわめきが聞こえている。

4日前に運ばれて来た牛2頭のうち1頭が車から降ろされて興奮、暴れに暴れて手も付けられない状態と電話あり。キャンプの村人やスタッフだけでは抑え切れず、キャンプからの呼び出し電話に「ボクたち日本人では何の役にも立たんと思うけど、とりあえず鼓舞してくるわ…」と、夜にもかかわらず息子たちは牛を抑えに出かけた。暗闇の中で見る牛は冷気に鼻息を白く吐き、頭を下げて角を振り立て「グワァ〜グワァ〜…」と後足を掻き猛獣そのものだったと。その上、牛に突かれて怪我人も出たらしい…。
その若牛も犠牲祭2日目の今朝は肉塊となってキャンプの人々に配布された。皆さまからのご支援金で2頭もの牛を近隣の貧しい人々にも振る舞えたのは有難かったし、各テント5kgからの肉配布に人々は大喜びだった。とにかく、しっかり食べることで病気にもならないし、健全な生活が営めるとオバハンたちは考えている。犠牲祭の本日は普段以上の生野菜や果物も配布された。督永強のキャンプ運営ポリシーは、「食いものをケチらないこと」。結局、2頭の牛からは270kgもの肉が取れ、オバハンたちもお相伴に与った。

肉の配布時、近くに住んでいるらしい大人2人が12歳くらいの少年を連れて来た。
話によると、少年はカラチのイスラーム神学校で学んでいたが、地震後、親との連絡が取れず実家のあるバラコットヘ戻ってみたら家は崩壊、家族も見当たらず何処にいるのかも判らないという。バラコットからフラフラ戻ってバス停でボーゼンとしていたところを一緒に来た人に助けられ、この2ヶ月間は世話になっていたと。連れて来た人は「家も狭くて豊かではないので、これ以上の世話は難しく、キャンプで預かって欲しい」。
たまたま、息子の会社のエンジニアさん家族が犠牲祭の挨拶に来ており、自分が預かると言い、息子が月謝を払うからということで近所の神学校へ入れると話がまとまった。エンジニアさんの奥さんが12歳少年の肩を抱きながらパシュトーン語で慰めると、今まで緊張していた糸が切れたように少年の目から涙が零れ落ち、エンジニアさんの奥さんに抱かれたまま泣きじゃくっているのが涙を誘った。少年のような子どもは、きっと何人もいることだろう…。

■□■2006年01月04日(水)■□■
しぶんぎ座とかいう、今まで聞いたこともなかった星座で流星群が見られるというので、なんとか見たい!との思いでオバハンは頑張るつもりだった!でも結果敗退!!うす雲が広がって空が透明でなかったせいもあったが、まず寒さにまいった!そして、一人で夜空を眺めるには根性がいるのも改めてわかった。何人もでワイワイ言い合いながらなら一晩中でも夜空を眺められる。でも、一人では淋しすぎた。

支援活動も一人きりなら出来なかったと思う。
ここでボランティアしてくれる仲間や日本で募金集めをしてくれる仲間、友人・知人、たくさんの人に支えられているからこそ、中途で投げ出せないし、頑張れる。『アフガン難民を支える会−SORA』でも同じだったが、今回の地震では実に数多くの方々から暖かなご支援を頂いた。オバハンの周りは、善意あふれる人ばかりのようだ。
オバハンからの矢継ぎ早のお願いを、多くの方々が聞いて下さり、支援の輪を次々に広げて下さったことへの感謝をどう言い表せばいいのか…。とにかく常に言いだしっぺのオバハン、皆々様には多謝、御礼を申し上げます。

■□■2006年01月03日(火)■□■
大晦日から元旦、そして昨日も終日雨。
3日間に降った雨の量は結構多くて、イスラマバードから僅か1時間しか離れていない標高2300mの高原都市マリーでは1m余りも積もったとの新聞報道。カシミールの中心都市ムザファラバードや、最大の被害地であるバラコットでも氷雨と雪に見舞われ、多くのテントが雨を吸って倒壊、半倒壊したという…。

12月は殆ど雨が降らなくて、おまけに冬至から徐々に暖かくなっている中でのノンビリした気分は、この雨(雪)で一気に吹っ飛んだ。考えてみれば昨年の2月も1ヶ月近い長雨に見舞われ山々は稀に見る豪雪だったし、今年はどうなるのか?日パ・ウェルフェアー・アソシエーション(NWA)のテント村も、他のテント村同様、泥まみれになり氷雨の下で全員が作業もままならず震えていたという。
他所のテント村では被災者たちの多くが、政府や各国からの支援金で運営している団体がなんとかしてくれるとばかり、半倒壊し濡れたままのテント内でゴロゴロ。自分たち自身で水はけを考えたりテントをマメに直そうともしなかったという。被災者の多くが「支援してくれて当然!」との思いに取り付かれてしまったようだ。

オバハンたちNWAのテント村でも、そうした被災者たちの勘違いが生まれ始めたが、100%純粋ボランティア、国際機関や政府からビタ一文も貰っていない支援団体である…と理解がすすみ、自主的に手伝ったり動く人も増えている。もっとも終日なにもしないでテント内で寝ているだけの人もいるにはいるが…。

■□■2006年01月01日(日)■□■
雨、雨、雨
2006年明けました、本年もよろしくお願いいたします。

■□■2005年12月21日(水)■□■
ようやくカーブルからぺシャワールへ、仕上げをするためのカーペット25枚が届いた。
ここ3年間は、毎年100枚前後も織りあがっていたカーペットだったが、先年にカーペット織り枠を各自へ払い下げたので、『アフガン難民を支える会−SORA』が管理する織り枠はほとんどなくなった。2002年春先に用意した200台の織り枠のうち、孤児院へ孤児たちの職業訓練に寄付した2台を除くと、現在手元に残った織り枠は本当に極少となった。これで4年間続いたカーペットプロジェクトも、未亡人や家庭内でカーペットを織る女性たちの手に織り枠が渡ったことで収入につながるだろうし、SORAとしてもカーペット・プロジェクトが終わった…。

今後は本来の巡回医療と、縫製・識字を継続。じゃがいもや八升豆の栽培に取り組む。特に八升豆は春先の管理さえすれば良いのが解った??し、可能性も見出せた。何よりも換金性がある豆なので、ますますの意欲をそそられている。
実は、ペシャワール郊外で依頼していた八升豆の栽培の出来が良かったので、ホクホク笑顔のオバハン。管理さえ行き届けば、ガッツ!!ポーズ!!
アフガン農業省(農業試験場)では、畑の管理に60$、水の管理に20$、畑で働く人には1日1$という約束だったが、結局は管理費も水代金も場長がポッポに入れて管理はなされず、痛い目に遭った(ちなみに40〜60$はアフガニスターンの公務員の1ヶ月分の給与)。とにかく、毎年毎年痛い目に遭っても学習を積み重ね、メゲないで、また続ける!!来年こそはバイアグラ効果もあるという八升豆、何トンも採るからネ。

■□■2005年12月20日(火)■□■
日本は大寒波とのニュース、この季節としては何十年ぶりという豪雪の映像ばかりがTVでは流れる。
当地の冷え込みも甚だしく、テント村も陽が沈むとたちまち体の芯から冷え風邪をひいて寝込む住人が増えた。薬を飲んでも何時までも熱がひかないというので、毎日のように娘たちも往診していたが、縫製・手芸教室が始まるや嬉々として参加し始め、やはり「病は気から…」を再確認する思いだ。人間、することもないとなると日がな一日寝ているしかない…。

久しぶりにブッシュ批判。
ブッシュの演説によると、イラク戦には「勝ちつつある」んだって…。何時もながらにスバラシイ!!
本来の開戦理由は確か、「大量破壊兵器」を持っているからというものであった筈だが、いつの間にか理由はサラリと入れ替わり、忘れたころになって「情報は誤りだった!」と。この間イラクで殺された民間人は(どこかの人権団体の資料を斜め読みだったので記憶がイマイチだが)35000人くらいだったし、米軍人は2100人だった。
まったく、この人や小泉ほど前向きな指導者も年来少ないと感動しているが、こんなことに感動してはいられない。この2人のお陰でアメリカだけではなく、日本も大きく変革した。テロ(犯罪)対策とさえこじつければ、令状なしの通信傍受も「不可欠」とブッシュが言い募れば、ポチも追従に違いない。

■□■2005年12月18日(日)■□■
昨日は久々に3時半出発、片道7時間余りかかってバラコット、そしてその先へと行って来た。
バラコットから先は(鬼の出るという)バブサル峠を超え、チラスに抜ける幹線道路になるのに、僅か37kmを走るにも3時間かかった…。幹線道路は多くの箇所が隆起(陥没)でズタズタ。道路上の急斜面からは土砂が落ち続ける箇所も多々。幹線道路でさえ町から外れればこのありさま、枝になるジープ道は全部がまだ壊れたまま。そのジープ道の終点から先は、歩きで行かなければならない村や家屋が点在。地震から2ヶ月以上も経っているから、 支援物資の届いていない村はないだろうとは思うが、それにしても復旧は気が遠くなる。 村人はもっと暗澹たる気持ちだろう…。

国際機関は、トタンや壁につかう発泡スチロール(テントマットのようなもの)を無料で配布していたが、あの資材を村まで運ぶだけでも大変だ。しかし…と、思う。国際機関のジー プが隊列をなして各々が僅か10枚のトタン板を運んでいるのには驚き。トタン板ってそんなに重かったっけ??おまけに昨年の冬から比べると車の燃料代金はこの1年で倍以上に値上がりしている。日本の10分の1、20分の1の収入しかないパーキスターンで、車の燃料代が日本より高いと誰が想像するか…!そうした車両代金も地震支援金で賄われ、現地へ落ち現地経済を活性化させるとは思うものの自然環境破壊は甚だしい。幹線道路の空気汚染の酷さ、混雑、運転手のマナーの悪さ…。

日パ・ウェルフェアー・アソシエーション(NWA)のテント村で暮らす人たちがどんな村から来ているのかと、追跡調査を兼ねながら医療テントを張っていた村へも立ち寄って来た。が、わずか1ヶ月で大人も、子どもたちさえも変わってしまった。まず、イスラーム教徒としての挨拶もなく、いきなり「マダム、きょうは何を持って来てくれたの??」と言われたのには驚き。比較的裕福な人たちまでがモノを貰うことに慣れてしまい、乞食根性丸出し。そして、子どもも当然のように…。

■□■2005年12月13日(火)■□■
余震に対して神経過敏になっているのか、昨未明に続き揺れたような気がして今朝未明も目が覚めた。地震の時には犬も何時もと違う鳴き方をする。今朝未明の地震はパーキスターンとアフガニスターンの国境付近、2ヵ月前の地震とは違うインド亜大陸とユーラシア大陸の縫合点であろうか。マグニチュード6.7というから結構大きい。イスラマバードでも寒空の下、外へ飛び出した人が多いと聞く。
地球の悲鳴は止まらない。

本日は日パ・ウェルフェアー・アソシエーション(NWA)のテント村を見せて欲しいとの国連の方からのご依頼で(個人的にならと)初めて外部の人を案内した。NWAのテント村は、国際機関にも日本政府傘下にも入っていない。へそ曲がりなオバハンの生き方そのものの頑固もの。見学者なる人、外部からの人がテント村に入って写真を撮るなどという行為は(落ち着いて生活してもらいたい女性のためにも)堅く禁じている。途中、極短期間の「見学者」なる人には緊急医療テントへ来てもらった。しかしテント村に暮らす人は「見世物」ではないし、写真パチパチはいただけない。

国連の方からは、「国連管理下のテント村を幾つも見てきたが、こんなにオーガナイズされたテント村は初めて。入居者が皆あかるい顔をしている」と誉めていただき、社交辞令にしても嬉しかったが、これはきむかつやジョージ、りほちゃん、息子などの努力の賜物。きむかつなどは地震直後からほぼ2ヶ月間休みなしだ。テント村では特に、念入りに作ったトイレやシャワー、洗濯場、足洗い場、わざわざ掘った井戸、縫製教室もろもろ、電気の設備などにも国連の方は感心して帰られた。他のテント村では地面に穴を掘ってビニールシートで囲っただけの簡易トイレが満杯になって溢れたり、使えなくなって混乱したり相当たいへんなようだ。オバハンたちとしては僅か半年足らずのテント村であっても気持ちよく過ごしてもらいたいし、僅かな期間に縫製や手芸なども覚えて欲しいと、ただそれだけ。

■□■2005年12月11日(日)■□■
やれやれ、パーキスターンへ帰って来た!!
皆々さまのお陰をもって、日本滞在中は風邪をひくこともなく、また喉を痛めることもなく、報告会、もろもろを無事につとめさせて頂いた。日本では携帯電話を持たされていたが、大概がカバンの中に忘れていたり、使いたい時には電池がなかったり、使い方が分からなかったり、相変わらずの浦島オバハンだった。「幾ら電話をしても繋がったことがない!」と、皆なからの怒りをモロ受けだったのに…、息子からの電話だけは繋がった!!「アンタぁ、あのHPは何やのん??ケンカ売ってるのかぁ?」と、律儀に息子から電話があったのには感動!オバハンを相手に諦めないところにも感心。

何時でも何時でも見切り発車で、周囲には心配をかけているオバハン。今回の大地震でも早々に現場を見てしまい、そして被災した人たちを見てしまえば、後先考えずに走り出してしまった。特に村が雪に見舞われたとあってはオバハンたちの焦りも大きい。
今朝は日パ・ウェルフェアー・アソシエーション(NWA)のテント村でも、各テントの前に置いてある火消し用バケツの水が凍っていたというから、イスラマバードでもマイナス気温になったようだ。昨夕オバハンがテントを訪ねた時に少し発熱していた13、4歳の少女はリンパ腺が腫れてきょうは症状が悪化。点滴液などを運転手に持たせる。昼間は暖かな首都イスラマバードでさえも氷が張るようになり、体調を崩す者が出ているのだから山村の住民はどうしていることやら。
しかし、崩壊した家の中に埋まったままの身分証明書などの再発行がなされないと、政府から住宅補償手当てや怪我の見舞い等が貰えない。村では多くの人が証明書の再発行を待っているというが、再発行までにいったい何人の犠牲者が出ることやら…。