禁無断転載

オバハンからの気まぐれ通信
(2005年09月&10月&11月)

パキスタン大地震 緊急支援を開始します

日パ・ウェルフェアー・アソシエーション(NWA)のHPをご覧ください



■□■2005年11月30日(日)■□■
イスラマバードの自宅から東京まで電話あり。
オバハンがボランティアにかまけて出歩いている分、当然のように本職の責任は息子の督永 強にかかっていく。「ボクが代わりに働くから、もう事務所の仕事も何もしなくていいよ!」と、3年前に確かに息子は言ったと思う。なのに忙しくなると、事務所の仕事を放り出し走りまわっているオバハンの行動に腹が立つようだ!
まぁ、オバハンも「仕事しなくていい!」と言った息子の言葉を全面的に信じて甘かった!かな?でも許して頂こう!歳をとったら若い時の半分もアタマも身体も動きはしない!息子よ!物忘れが酷く役に立たなくなっているオバハンを解かってくれ!
この「オバハン便り」を目にしたら、怒りの電話をして来るか、諦めるか?さぁ、どちらかなぁ…。こんなノー天気なオバハンにかまうなと、言いたいヨ。息子も真剣だからこそオバハンのノー天気ぶりを怒るのだと解かっているけれど、先の見通しばかり考えていたら走れなくなるワ!!

別件の電話によると、イスラマバードは日曜日の未明に激しい雷雨に見舞われ、山では雪だったとか。HPの写真を見ると被災地は雪景色だ…。栄養不足の子どもたちやお年寄りは寒さで風邪をひき、たちまち肺炎になるのでは…と案じられる。冬を越すだけの燃料や食料の蓄えもなく、特に男手のなくなった家庭はどうしているのだろうと心配でならない。聞くところによると、他所のテント村では充分な食事も出来ず、なかなか大変なことになっているところもあるらしい。国際機関や各国政府の支援もあり、パ政府が必要としている復旧支援金が額面だけは揃ったらしいが、冬を無事に越せない…なんて、いったい支援金はどうなっているのか。

世界一の金持ち大国アメリカのハリケーンによる被害に、日本政府は50億$も出したと。アメリカとパーキスターンでは、日本の国益が違うとは言え、パ政府が受取れる日本からの無償借款は1億$。
おまけに、おまけにですよ!トヨタが500億$ニッサンが200億$、他の在米日本企業も軒並みがしかるべく復旧支援金をアメリカに出したと言うからオドロキだ。スマトラ沖地震・津波の被害が大きかったインドでさえも、復旧支援金を辞退したというのにアメリカの厚顔無恥!日本企業の出した支援金だか、なんだかがイラクやアフガニスターンでの戦闘費になるかもしれないものを。

■□■2005年11月26日(土)■□■
日本到着6日目、「地震支援」の言い出しっぺとしては何とか支援金を集めなくてはならない…。
実際問題として、日本政府や国際機関、日赤を初め日本政府傘下の大NGOもパキスタン北部大地震への支援活動はしている。しかし悲しいかな末端への対応がまだまだ全然出来ていない。被災し、未亡人になってもイスラーム教徒の女性は男性の同伴なしに一人で外へも出られず、町まで配布物資を貰いに行くことも出来ない。何人もの子どもを抱えた多くの未亡人がテントもなく厳しい冬を迎え過ごそうとしている。生物界は弱肉強食の世界には違いなく、人間とても弱ければ生き残れないのは必須と思いつつ、人間である限りそうしたことを見逃せないとの思いも強い。

弱い人々が冬を無事に乗り切れるよう、なんとかご支援をお願い致したいとの思いで、下げたくもない頭を下げるハメになったオバハン。
数年前から閉めようと思いつつもダラダラ続けている、本職の旅行会社は大住や息子の督永 強まかせで、ますます人の前に出ることのなくなったオバハンは、おまけに歳をとったせいもあって、偏見と独断だけではなく最近はそれにゴーマンが加わった…と息子に怒られている。そのオバハンが、今まで見も知らなかった被災した人々のためにアタマを下げて歩く日本。
まっ、一生に一度のこと、いいけどぉ…。

■□■2005年11月20日(日)■□■
パーキスターン北部大地震への支援国会議が無事に終わった。
無事の意味は、パーキスターンが被災者に必要とする52億$が50ヶ国から支援して頂けるメドがついたということ。日本政府も1億$相当の円借款供与を表明したと。世界約200ヶ国中の日本ということで見れば日本は豊かだが、日本国民の生活が以前に比べて楽になっているとは言い難いし、1億$相当分の半分は日本へ戻るような借款になるのかなぁ…。戻ってもいいけれど、極く一部の特権階級的な人に戻るのなら許し難い気がする。

最近の世界は以前にもまして、どこでも貧しい人はさらに貧しく、特権的階級はさらに恵まれるシステムになっている…。この格差は今後、さらにさらに大きくなり縮小されることはあり得ない。山村の貧しい村人は壊れ易い家しか建てられないが、金持ちは堅固な家が建てられ被害も少ない…、からはじまって、しっかり栄養が摂れる金持ちは怪我も治りやすいし、貧しい人は治り難い…まで。さらには金持ちは、現金収入の欲しい貧しい人を日当で雇い、物資配布の列に並ばせる。貧しい人を何人もリクルートして大NGOの作成する被災者リストに名前を載せさせ、物資をピンハネする。100Rsの日当を払い、貰って来た毛布を取り上げヤミ市場で300Rsで売りさばけば何もせずして儲けになる…。まぁ、知恵は幾らでも湧くようだ…。

後2時間で空港へ向かう、いよいよ日本。言い出しっぺの責任をまっとうする。
しかし、それとは別にユーウツの始まり。

■□■2005年11月18日(金)■□■
国連のアナン事務総長が来パ、支援国会議がイスラマバードで開催されている。
世界に対して「パーキスターンへの支援をもっと!」と呼びかけているのだが、当国の宣伝下手というか対応は、まことに実直というかバカ正直そのもので歯がゆい。なりふり構わず世界に懇願すべきだと、当事者ではないオバハンでさえも、現状を知っているだけに思うのに。

スマトラ沖の地震・津波の被害はインド洋をとりまく国々に広がり、確かに犠牲者はパキスタン地震の2倍以上にも及ぶ。しかし、被害範囲そのものは海岸からせいぜい300mまでだったと言われる。道路上に破壊されたものが流れ来て交通は途絶えたが、道路そのものが寸断されたわけではなかったから復旧は速かった。また冬とはいえ赤道直下の国では凍死の心配がなかった。片やヒマラヤを背中に抱えるカシミールやハザラでは条件が大きく違う。
パーキスターンは日本のみならず米英欧の国益にも大きく影響しないことから、重要視されてはいないことが、地震復興に必要とされている支援金が集まらない理由らしい。心ない第三者が、「支援金を送れば核開発にまわされるのではないか?あるいは軍事予算に回されるかもしれない」などとほざくが、北朝鮮のように独裁国家でもなければ、また現大統領の聡明さバランス感覚の良さが分かれば、自分がどんなに荒唐無稽な話をしているかわかろうに…。
とにかく敗戦後の日本の復興には、まずパーキスターンが一番に名乗りを上げ、綿糸や綿布を輸出してくれたことに始まることを知る人は殆どいない。

ようやくテント村が完成。
村人に清潔なシャワー室やお手洗いを使ってもらいたい、また焼きたて熱々のナーンを食べられるようにというのでナーン焼き釜も設置、焼き職人も手配出きた。完成を聞きつけバラコットの最奥村ハングライからも入居希望の人が来た。またテント村の近所にも寄宿している被災者が入れて欲しいと申し込みに来たりして、この分では12月からは忙しくなりそうだ。 
地震から1ヶ月半、仕事も家事もなく一時の興奮が覚め、漫然と村にいる生き残った被災者は、亡くなった身内の思い出や助け出せなかった後悔に心を病んでいる…。忙しかったり目の前に何かしなければならないことがある人は、悲しみに埋没している時間は少ない。
少しでも悲しみを忘れてもらうため、テント村では女性のための縫製や手芸、刺繍教室、初等母子健康保健も学んでもらおうと思う。
忙しいのはいいことだ!

■□■2005年11月16日(水)■□■
アフガン難民を支える会−SORA』、そして今回の地震報告会などを含め、日本行きまで後4日となった。そして例によって先日からユーウツ病が始まった。
治安に対する懸念が全くないとは言わない、しかし広々としたパーキスターンに30年近くも住み、熱い(暖かいのを通り超している)人情に包まれてしまうと、ここでの生活以外は考えられない。居心地代金を支払うようなつもりでオバハンは持ち出しボランティアをしている。毎年、日本へ行く前と、帰って来てからパーキスターンの良さを認識させてもらうこの時期は貴重かもしれない。

古くからの友人から「日パ・ウェルフェアー・アソシエーション(NWA)に寄付しても、礼状一つ来ない!」と苦言をいただいた。友人だからこそ言ってくれる、世間一般の考え方かと思う。
もちろん、ご支援いただいた皆さまには、後々お礼状をお送りしたいと、早い段階から名簿作りに励んでいる。しかし、銀行の振込み記載はカタカナだし、おまけに連絡先のないものも多く、振込み記載カタカナ名の中に知り合いがいないものかと何人もが何重にも名簿をチェック。HPにご支援者全員の名前を載せるという意見も出たが、これ見よがしで嬉しくない、そっと支援金を振り込んだ意味がない、載せて欲しくないという人もあるし、同姓同名の他人のところへ礼状が行くのもおかしい話だと…。50円のハガキ郵送代金とハガキ印刷に20円がかかれば、14枚のナーン代金に相当する。皆さまからの大切なご支援金は全額を被災者に振り向けるべきだとする意見なども。

とにかく何かをすれば必ず、その行為に対するリアクションがあり、大なり小なりアタマを悩ますことにはなるのだが。
ご支援をいただいた方の中で領収書の必要な方は、誠に(HP上で)失礼ですが、ご遠慮なくご請求下さい。ただ、何度もお断りお詫びをしていますが、全員が純粋なボランティア(無給の上、手弁当)です。ついついテント村の設置や、被災地へ行くことが優先となり事務作業にしわ寄せがあります。礼状その他は今しばらくお待ちください。でも、どうしても礼状が直ぐに欲しい方は、ご連絡をお願いいたします。

■□■2005年11月14日(月)■□■
独断と偏見を自覚し、パーキスターンボケした世間知らずなオバハンにとっては、日本のフツーと言われているのだろう方々とは実に付き合い難い…。世の中は不思議というか不可解な「善意」で成り立っているのだと自覚することしきり。

本日、メールを下さった武蔵野市国際交流協会の方も、まったく善意でのメールだとは理解するものの、知り合いから「いただいた」日パ・ウェルフェアー・アソシエーション(NWA)の作成したCD-Rの写真を、「むさしの国際交流まつり」とやらで使って「パキスタン大地震募金ブース」を設置し、集まったお金は日赤へ寄付したと。
オバハンたちお人好し10人+何人ものパーキスターン人が、睡眠時間を削り、手弁当の上、持ち出しまでして走り回って活動した結果を写真に撮り、NWAの活動・支援に役立ててもらおうと作成したCD-R。日本でNWAの活動にご協力くださる方々へと無料配布しているCD-Rがオバハンたちの意図するところとは違って一人歩きし、その方がおっしゃるには、「募金で集まったお金は日赤へ寄付します」とは、何たること??。

最終的には、パーキスターンのために使われるのだから大儀としては理解し、オバハンも感謝する。けれども、たまたま現地で見てしまったもんなぁ、日赤の方の活動を。ヘリポートで緊急搬送されて来た患者さんがたくさんいるのに、我関せず的態度でグランド横をぶぅら、ぶぅら歩き回っていた、日赤から派遣のお医者サマ。そのぶぅらぶぅらの前には、現地医療スタッフ(衛生兵か?)がぶきっちょな手つきで点滴する後ろから、覗き込んでいただけ…。後ろ手に、ナイロン袋に入った上履きらしきものを持ったまま。要するに、派遣されては来たが手を出させてもらえない状態。

「そんな人たちの経費になるのかと思うと、自分達の努力は何なのですか?」と、若いボランティアに泣かれてオバハンは参った。高級を貰っているであろう国際機関や大NGOのスタッフ、日赤などの活動は尊く、手弁当で動いている我々ボランティアの活動は、かえって値打ちがないのかしらね?NWA(他団体)が広報用に作成したもの、一言の断りもなしにフツー使うかね?それとも、フツーだから使うのかね??あぁぁ、世も末だわ。こんなことだから他人のモノと自分のモノの区別もつかない人が多いのだわ。

たまたま昨晩、yahooのパキスタン掲示板というのを覗いた。
世間はパーキスターンに対する偏見で固まっている…。金もないビンボー国なのに核兵器を持つのは生意気だ、そんなんだから神の罰の地震だと。また、戦闘機なんぞ買わずに支援に回せというのもあったな…。そやつに言われなくとも早々と戦闘機を買う話なぞ撤回されてるっての。血税を使ってパーキスターンを支援するのはオカシイというようなご意見もあったな。ふむふむ…血税ね、日本国からの援助金のうち血税が純粋にパーキスターンの役に立っている部分は何%かね?詳しくは別のところで話すことにするけど。

■□■2005年11月13日(日)■□■
今朝も5時から被災地バラコットへと出かけて来た。

休暇の都合であろう、村では街から来た親戚も交え犠牲者を悼む40日(日本で言うところの49日)が予定より5日はやく営まれていた。オバハンたちも村人と一緒に青空の下、壊滅した家の横で犠牲者となったその家の母親やお嫁さんへ祈りを捧げ、簡易ベッドに腰をかけて炊き込みご飯のお相伴に与かった。ようやく村の一部では簡易水道が使えるようになったとはいえ、まだまだ不便な中で調理したご飯には砂でも混じっているのか、ジャリジャリした歯ざわり。犠牲者の冥福を祈って大鍋に炊き上げたご飯は、近所のテントに寝泊りしている家族へも次々届けられて行ったが、お盆も食器も少ない中では、他の人が食べ終わらないと次へお振る舞いが出来ないという時間のラグが。

律儀な写真家の不肖Mから、大地震の写真掲載誌週刊B春がどっさり届いた(とても嬉しく有難いけれど、郵便代もったいないなぁ)。
キャプションには書かれていないが、オバハンたちの日パ・ウェルフェアー・アソシエーション(NWA)がテントや物資を村まで運び降ろしている写真もある。HPの担当者から、「どうして自分たちの撮った中には荷運びの写真がないの?」と言われて気がついた。同行して来た写真家や支援者は写真を撮っていればいいけれど、NWAの純粋ボランティアたちは写真を撮る間も惜しんで荷運びしていたなぁと。

なお、写真の解説を読みながら、先日の不肖M流という口調はチト品がなさ過ぎると反省。不肖M自身はクソ真面目な紳士だが、その文章は関西弁の「である」調。次回から真似する時は、オバハンも「である」調にしなくっちゃ。

■□■2005年11月10日(木)■□■
成田からイスラマバードへのタイ航空による直行便が今月3日より就航。
お客様の多くはサービスの良いタイ航空に乗って来られる方が増えたが、アルコールに御用のないオバハンは相変わらずのパキスタン航空ファン。第一番目の理由は、タイ航空には飛行前の「お祈り」がない。たとえテープではあろうとも、あの朗々たる祈りを耳にしない限り、飛行の安全が脅かされるような…気がするのだ。まぁ、万が一があっても、お祈りを聞いた身には広い範囲の殉教が当てはまるかな?と、例によってオバハンの独断と偏見。

さて、当地は久々の雨に見舞われている。
被災地の山村(上部)では雪が散らついているに違いない。地震直後に目だった重傷者も傷が癒えてだんだん入院している人が減ったし、村でも歩けるようになった人は多い。ただ、初期に充分な治療が受けられなかった人も多く、手足の切断に至った人は結構あるのではないかとオバハンは案じている。
地震後5日目に村はずれで出会った7歳くらいの少女。充分な医薬品も揃えられず、被災地を日帰りで訪問する日だったこともあり、帰りがけに出会った少女を充分に診る時間もなかったが、汚れた巻き布を外した時にくっ付いて来たドロドロ腐った拳大の肉片。骨まで見えている傷には太刀打ちも出来ず、病院へ行くようにとの指示しか出来なかった…。あの少女はどうなったろうか?
タンカで担がれ身じろぎも出来ない…とやって来たおばさん、アラブ首長国から来ている大診療所へお願いしてレントゲンを撮ってもらった…結果、骨には異常がなく、「この寝たままでいると本当に歩けなるなるよ!痛くとも歩きなさい!」とオバハンの叱咤激励に、痛み止めとマッサージのクリームを握り締めヨチヨチ歩きで帰ったけど…。みんな寒さの中、どうしているだろうか。

■□■2005年11月09日(水)■□■
先ごろ皇位継承:有識者会議というのが首相官邸でもたれていたようだが、皇位継承の前に、皇室廃絶の話はないのかね?有識者と言っても爺サマ、婆サマの集まりだし、新しい発想の転換などは諮るべくもない…。有識者の中に一人でも「天皇制反対」を唱える人、あるいは御用学者でない人が入っているの?万世一系がそんなに珍重なものかね?時代錯誤も甚だしいとの思いを拭いきれない。
出来レースで内々の会議なんぞ(有識者に支払われる大枚の謝礼なども合わせ)無駄と、思うのはオバハンだけ??

アフガンの地方選挙が終わって2ヶ月になろうとしているが、選挙結果たるものが一向に出ない(予定では本日発表なのだが)。選挙には不正が横行し投票所で票集めをする選挙立会人もいたというから、日本人である我々には想像もつかない。力ある者のところへ、さらなる力や金が集まる(特に開発途上国の)構造はいかんともし難い。カーブル市内で豪邸や数階建ての物凄いガラス張りショッピング・センターを持つ者の多くが、国際支援団体にも密着した政府首脳とあっては、アフガンの将来も暗い。
そんなアフガニスターンの首都カーブルに五つ星ホテルが開業。2年前から改築にかかっていた由緒ある元カーブル・ホテル。イスマイル派の宗教指導者が手に入れ、マネージャーからウエイターに至るまで欧米系の外国人なんだそうだ。宿泊料金は1泊250$と2年前から聞いてはいたが、なんと!それが下限の値段だった…。上は1200$だと!!何か狂っていない??
アフガン政府に勤める者や大学教授でも100$に満たない月給しかない(ただし一部食料品などの配給はある)彼らからすれば、途方もない値段。
ムカツクね!

■□■2005年11月07日(月)■□■
地震から丸1ヶ月、断食明けの休暇をも返上して、パーキスターンの一部役所は業務に携わっていたようだが、被災地では支援活動者の姿が消え閑散とした。支援活動者だけではなく、被災者の多くも断食明けの前日には村から町の知り合いへ出かけ、暖かな家の中で新年を迎えた人が多々あったのかも。新年2日目は被災地に戻る地元勢の車で道路は混雑、被災地から帰って来た息子は疲れた様子(運転手がいないため、自分で運転)だった。

最激震地バラコットでは、支援物資の配布に不正があるとして、新年早々から5000人規模のデモがあったという。
幾らかの賄賂を渡せばテントが優先的に貰えるから始まって、支援物資の配布には大きな不公平バラ付きがある。日本からの支援団体は、現地のNGOや国際機関とタイアップして支援物資の配布を行っているのだろうが…そこが問題!公平には配れないことをもちろんオバハンも認識している、しかし現地の報告を鵜呑みにしての配布はいかがなものか!
神戸の時とまったく一緒、ごくごく一部の名前の通った被災地へのみ、物資が固まっている。また、有り余るほどの物資隠匿者もたくさんいるのに…。

最近ではオバハンも少し時間的に余裕が出来、昨晩は1ヶ月前までバッチリ落ち込み嵌っていたネット・ゲームのゴルフに出かけた。
そこで、ここしばらく音信がなく気にかかっていたゲーム仲間に出会えた…。体調を整えるべくキツイ治療を受けているとの話をチャットで淡々と交わす相手にオバハンは涙目。そして、元気に走り続けられることの有難さを再認識したオバハン。彼からは無言の励ましを受け、「出来る間に出来ることをやろう!」との決心がさらに固まった。もっと頑張るからね!!

…というので、11月21日からテント村支援金集めの尖兵として日本へ出されることになった。
まず、現状を知っていただくことで関心が高まれば…と。「地震報告会」、何処へでも出かけます。お聞きになりたい方は日パ・ウェルフェアー・アソシエーション(NWA)へお申し込みください。

■□■2005年11月05日(土)■□■
断食明けの新年。
…ということで、久々に家族揃った食事。実はオバハンは外食嫌い!歳をとってからはカタカナ料理がさらに苦手となっているのに、連れて行かれたのは当地一番??のイタリアン料理店だ。コックやウエイターの多くはカシミール出身者、とうぜん地震で家へ帰っている者も多くて、味はもう酷いもの。

なにぃ!出来損ないのナーンの上にケチ臭く乗せたチーズとマッシュルームだけで600円じゃとぅ?舐めとんのか!60円でバーガー食べた方がマシじゃぁ!!

ああ、ガラ悪ぅ〜。

■□■2005年11月04日(金)■□■
断食明けの新年を迎えたが、首都には例年のような派手派手しい電飾はただの一つもなく、街全体が暗く沈んでいる。911の時ですらこんなに暗くはなかった…。パ政府の発表では約8万人の犠牲者だが、実質は10万人を超えるらしい…。
日本からの調査団などは、「思っていたほどの被害ではなかった」と表現したと言うが、いったい何と比べて「思ったほどの被害ではなかった」のか?少なくとも僅か150km×50kmくらいの地域に被害が集中していることを思えば、大変なことではないのか?
阪神大震災のマグニチュードが7.2、今回のパーキスターン北部地震ではマグニチュード7.6。僅か0.4の違いは阪神大震災の何十倍かにあたる筈だ。山の斜面に家を建てているから、あれらは地震で崩壊したというより斜面をズリ落ちその衝撃で崩壊したのであって、地震での崩壊ではないとか。
学者サマのおっしゃることは日本語表現的には正しくはあっても、だから地震の被害が思ったほどではなかったことにはならない。結果を見よ!現に10万人からの犠牲者になろうとしているではないか!

911報道の際、拠点となったオバハンの経営していた宿泊施設。
イスラーム国の常識を知らない日本からの報道陣、また明確な意思をもって事実を捻じ曲げ誘導しているとしか思えない薄っぺらな報道陣の多くを見て、報道関係者に対する偏見で固まったオバハンだったが、今回も宿泊している地震報道関係者の一人に、「報道関係者はやっぱりヒジョーシキだ!」と呆れている。

不肖Mの紹介で来た写真家、夜遅く「モエシャンロンが欲しいーーー」と無理を言い張るので探して探して手に入れたシャンパン。(オバハンは一滴も飲めないのでモエシャンロンが何やら?ワインとぶどう酒とウィスキーの区別もつかないが、)禁酒国で仕事をしているという認識欠如の挙句、無理を平気で言うバカ報道者!日本から来ている自衛隊サマの「3000時間無事飛行パーティを祝いたい」から、なんとしても欲しいと言うので探させた、なんとかシャンロン。領収書だけは受け取り、「金は後で」と言った挙句、翌夕方、なんとかシャンロンを返品するだと。(3000時間無事飛行はめでたいのだろうが、地震の犠牲者が既に8万人を超えているのに祝う気分になれるのか??)

さて、不肖M流の言い方なら…。
何にぃ??
シャンパン、使わんかったから返品したいんやとぉ!!
飲んでないんやから領収書、返したら済むやろ、金は払わんやと!?
夜中に走り廻って手に入れて来た、なんとかシャンロンとやら…、今さらどないせぇ言うんじゃぁ!
クーリング・オフ?どこの国の話しとるんやぁ??ここは、禁酒国のパキスタンやでぇ〜!
ちょこっとバザールへ行ったら買えるというフツーの代物やないわ、アホー。
私は客です…何にぬかす!金払うたら客や、払わんもんがエラソーに言うな!
返品でけへんのなら最初に言うべきやとぉ?ドタマ大丈夫か?
何べんも言うてるやろ、ここは禁酒国家!酒はフツーには手に入らんって…。
どうしても払いとうないんなら、払うてもらわんでエエ!
その代わりこれ以上の気分悪ぅは耐えられん、よそのホテルへ行ってんか!

オバハンは仕事から引退して3年。
このお方には間違って、1泊につき15$も安い宿泊料金を提示していたと息子から怒られ、恐る恐る差額を弁償させていただいた。ヤレヤレ、中途半端な報道関係者は嫌いじゃぁ!ベンキョーしてから来い!!

■□■2005年10月31日(月)■□■
3日前に見に行ったイスラマバードの被災者テント村、10%にも満たなかった被災入居者が本日はほぼ満杯。1テントにほぼ7人の居住で7000人近い人数になっていた。イスラマバード近郊、マンセラやアボッタバードにも同じようなテント村が出来ていることを思えば、大変なことだ。テントの中では煮炊きが出来ないために、その人たちの食べる世話。主食であるナーンだけでも1日3食、いったい何万枚必要になるのか…。イスラマバードでのテント村開設に際し、息子の友人(パーキスターン人)たちが順番に何人も出てくれることにはなったが、統制が取れないことを思うと、やはり日本からのボランティアも必要だ。4月下旬までの間に来れる人を当面いそいで募集したいと思う。(興味のある方は、NWAのページをご覧ください。)

総理府だったかの調査では「日本人のボランティア体験者が1割にも満たない」ということだったが、困っている人、あるいは助けを必要としている人のために、「自分なら何が出来るか?」と考えないのか??「出来る者が出来る範囲で、出来ることをすればいい」とオバハンは常々考えているのだが、多くの人はそう思わないのか…。たまたま、オバハンの周りにはボランティア精神に富むものが集まったというだけか。
「人間は自分だけのために生きるのではなく、何処かで誰かのお役に立って一人前」と、教えてくれた父親にも感謝している。

■□■2005年10月30日(日)■□■
イスラマバードの近郊でも、被災者のためのキャンプが次々と建設され始めた。
オバハンもどんな受け入れ方をしているのかと(参考にさせていただくため)7つの団体をザッと見てまわった。正直に言うと、100張り1000人のテント群を見て「これだけの人の世話が自分たちに出来るのか!!」と、その大変さを実感し腰が引けたのだが…。

机上で計画したものと実感の狭間で思わず弱音を吐いてしまったオバハンだが、いつもこうして見切り発車をし後戻りが出来ない。息子にも「覚悟」を何度、確認されたことか…。この間までは緊急支援のための医療従事者に来ていただきいと切実に思ったものだが、今度は猫の手も必要だと思った…。

明日はまたまた被災地。
山村ではマイナス気温になった…。被災地の中心部では、充分な現地調査もせず、とにかく物資の配布を今から新たにしようという団体もあるが、貰っていない被災者への配慮を是非、是非、お願いしたい。中心部では、どこの家にも雑貨屋が出来るほどの物資が溜め込んであるのだから…。
「欲しい、欲しい!」と懇願され、オバハンたちが配ったテントやキャンバス地の簡易テントですら、川沿いのパタング村では使用された形跡は殆どなく、ほぼ全部が業者の手に渡ったと思われる。配布したテントや物資が現金に換えられ、或いは必要物資と交換されていると思えばいいのだが、やはり心は平安ではない。

■□■2005年10月29日(土)■□■
地震による死者が7万4000人+αを超えた。
来週にも雪に見舞われる山村では弱い子どもたちが犠牲になることは必須。大きく束ねたトウモロコシの茎や、壊れた家からの廃材に薄いキャンバス地のシートをかけただけの被いではテントとも表現は出来ず、雪が舞い込み一夜にして風邪、下痢そして脱水症状。また肺炎の併発などから重篤な状態に陥っていく。オバハンが想像するに地震での死亡者より、そうした死亡者の方が多くなるのでは…。

さて、最激震地のバラコットでは瓦礫の上で、青空床屋さんも店開き。八百屋や電気屋、ガソリンスタンドも瓦礫の片隅ですが業務に戻った。香水や化粧品を売る店も再開、中には瓦礫の中から文具やジャガイモの大袋を掘り出して店開きの準備をしているところも見かけられる。被災者たちの一部は生活を元へ戻そうと、ようやく少しずつ自力努力を始めた。
イスラーム教徒の彼らは強い!すべてをアッラーの神に委ねているせいか多くの被災者に暗い表情はなく、淡々としているように見受けられるのがオバハンたちにも救いだろうか…。アフガニスターン支援の時にも感じた「物事を良い方向に考えられる」彼らから得るものは大きい。
「家はほぼ全壊、しかし幸いにして我が家では誰一人として犠牲にならなかった。大切な子どもたちが一人として欠けなかったことが何よりもうれしい。家は働けば建てられる!」明るい顔をした親子の顔を見て、勇気づけられるのはオバハンだ。

■□■2005年10月27日(木)■□■
地震から19日目、日本でもパキスタンのニュースがなくなっていると思う。
当地でも断食月の明けを目の前にし、人々の関心がだんだん減っているようにも見え、被災地へ自主的に走る人が減った。ただ、そのぶん国際機関の輸送車両が目に見えて増えて来た。
ただし娘の勤め先、保健省の把握によると国際機関で用意するテントなども出足が遅く、11月初旬初雪に見舞われる山村への対応は遅れがちと。また、保健省内でも現地を実際に見た者と、見ていない者とでは大きな温度差があり被害の実態把握や対応に足並みが揃わないと怒りを隠さない。確かにそれは言える、常に冷めている息子でさえも、自分の目で被災地を見た時から「何とかしなければ!!」の思いを強く持ったというし。

さて、被災地の中心であるムザッファラバードやバラコット市では、相変わらず満載で届く支援物資が希望者には幾らでも貰えるので、担いで家まで歩く気になりさえすれば寝具店や雑貨屋さんが開けるほど集められる。しかし、ここ4−5日で被災地を歩く人の顔ぶれが変わった…。あきらかに被災者でもなく支援者でもない人が増えた。早い話が被災地住民でない、物を貰うためにだけ集まったと言えるような人が、支援物資を担いで堂々と歩いている。確かに、買えば2500円もする新品輸入の毛布が並んで手を出しさえすれば貰えるのだ。被災地から軽トラに積んで他所へ運んでも、被災者のように移住するのだと言えば通るし、数も多くては警察も取り締まれない…。

激震地のバラコットでは瓦礫の上で、床屋さんも店開き。八百屋や電気屋、2つのガソリンスタンドが業務に戻っている。香水や化粧品を売る店も再開。瓦礫の中から文具やジャガイモの大袋を掘り出して店開きの準備をしているところも見かけられる。

■□■2005年10月25日(火)■□■
地震後から1日おきに事務所と被災地との往復、移動中は車で睡眠をとるものの、やはり疲れたかな??早起きオバハンの目覚めが悪くなって来た。
地震から17日。直後の3日〜7日までは被災地へ駆けつける人々や、支援物資を運ぶトラックなどで道路は混雑を極めたが、2週間を過ぎた頃から道路が空きだした…。直後の3日目には片道6時間かかっていた被災地への道のりも最近では5時間を切るようになり、気分としては事務所から被災地へ通えるようになった。今では、深夜2時半の出発は4時になり、今週からは4時半でも良いかな??と思うくらい。
日本だけではなく当地でも地震への関心は、被災者が一族にいない限り急速に薄れているようだ。何よりも断食月明けが迫っていて、そちらへ多くの人の関心は移っている。しかし一部では早々とテント村を設置し、被災民の受け入れに用意万端のところもある。

さて、日本からの大NGOの派手な活躍??に比べ、オバハンたちの小さな緊急支援が何ほどの効果を上げたかは疑問だが(日本人らしく謙虚に)ともかく現地での第一次緊急支援は終わった。今後は被災者の中でも最も弱い人を対象に支援の継続に努めたいと考えている。
被災者の話を聞くと一様に「家族8人が亡くなり、ワシ(年老いた人)とこの子だけが残った…」と言われることが多々あったが、2週間も現地に通い、幕営して定点観測をしていると、被災者の『嘘と真』が厭でも見えて来る。

支援活動は、今からが本当にスタートだとの認識を堅くするものの(極一部の弱い人にしか支援が出来ないが)、仮に1ヶ村100世帯1000人、被災民400万人の4000分の1をボランティア全員が手弁当でみるとしても、食事と管理だけで6ヶ月間に2400万円近くがかかる。
テントは某社が800張りご寄付下さるとのことで待っていたが、到着が12月半ばでは間に合わず、到着までの間は支援金の中から購入した、当地のテントで済ませることとなった。イスラマバードでは多くの団体が首都開発公社へ土地の提供を掛け合い、公社も苦慮しているようだ。
テント村には学校や礼拝場所も必要になろうし、小さくても診療所の設置は必須だろう。その他もろもろを考えるとやらなければならないことは山積みだが、皆さまのご支援で解決していきたい…。

■□■2005年10月24日(月)■□■
イスラマバードでも朝晩は急激に温度が下がって来たせいか、プラタナスの葉先が色変わりしつつあり、被災地も霜こそまだ降りないものの、寒くなった。45℃もの酷暑には強いが、寒さに弱い平野部に住むパーキスターン人たちの多くは、支援先の被災地で「寒い寒い!」の連続。確かに山間部の朝晩は冷え込み寒いが、晴れた日中に山を歩くと大汗が流れ、どこからともなく流れて来る死臭とあいまって不快な体臭となる。この2週間余、被災地通いしたカバンや服に染み付いたみんなの臭いがオバハンの家中で漂う。

息子の友人たちはイスラマバードから暖かいままの炊き込みご飯やカバーブを500食、毎日、現地へと運んでくれた。オバハンたちNWAが基地を作っていることで他団体もミネラルウォーターやジュースなどを配布してくれとケースごと降ろして行ってくれる。結果、周辺では色々なものが貰えることで、「貰って当然」とする風潮、「もっと良いものをくれ」という要求が高くなっている。力や、要領の良い者が弱者を押しのけ、よりたくさんの支援物資を分捕って行く。どんな風に分けても公平には行き渡らない物資をめぐって紛糾する中で、オバハンはここぞとばかり、アッラーの神を持ち出し力あるものを説得する。
「アナタよりさらに貧しい人に分けてあげましょう!それによって神の恩恵はアナタの上に来ることを知っていますね!」
オバハンは物資を遠巻きにする人の中から、貧しそうな人、お年寄りを選んで臨時に作った配給券を手渡す。どんな罵詈雑言にも、どんなに懇願されても身奇麗で余裕のありそうな家族には配給券を渡さない。

■□■2005年10月21日(金)■□■
地震から2週間近くなり、現地ではサウジアラビアやUAE(アラブ首長国連邦)など金持ちイスラーム国からの大医療チームが設備を整え、活躍してくれるようになった。大型発電機も設置され、「あの分では手術もできているると思う…」とは、現地から帰って来た娘(小児科医)の観察。重傷者の多くは大都市の病院へ運ばれ、現地ではフリー・メディカル・キャンプも急激に増え、オバハンたちの緊急医療支援は、町での役目をほぼ終え次の支援段階に来ているのでは?と思う。
もっとも、山奥の人への支援はなされていないし物資の供給は充分ではない。また簡単な傷の手当ては被災者自身が自分たちで出来るよう、指導に努めるということで、メディカル・キャンプは縮小を予定している。

阪神大震災でも同じだったというが、被害が比較的軽微な人ほど支援物資がたくさん受け取れたという。壊れた家の片付けに甚大な手を取られなくてもいいので受け取りに行ける時間的余裕や、負傷者がないため人手があるとの理由により、たくさん貰えたというが、それは現地でも同じ。
力の強い者がより多くの物品や食料を分捕り、中には売るほどテントの中に溜め込み、物品を保管するためのテントまでチャッカリ確保しているほどだ。働き手が怪我をしたり、亡くなったりした家の女性は物資の配給からも外されがち。また、元々貧しく弱い家族は常に後ろに追いやられ、物資から遠い。
今後は被災者の中でも、より弱者の生活を整えるための調査が必要になって来た。今週には、そうしたことに対応できるような本格的な方針を立てたいと思う。

■□■2005年10月20日(木)■□■
パーキスターン地震の死者は5万人。スマトラ沖の地震・津波に比較すると絶対数は少ない。しかしインドネシアなど熱帯の国々とヒマラヤ山麓では自然条件が大いに異なる。また、スマトラ沖地震・津波では国際社会の反応が早く最初の10日間で国際支援金の80%が集まったと国連は発表しているが、今回の地震では10日で12%にも満たないと。アメリカのハリケーンも国際支援の対象になっていたし、これだけ世界各地で災害が続けば、国際社会の反応も鈍くなろうというもの。でも、被災地では雪がもう、直ぐ裏山まで迫っている。

山村に孤立し救援のヘリコプターもなかなか来ず、両足の大腿部が粉々に砕け苦しむ息子を見ていられない、生きていても一生苦労するだけだと、石で息子の頭を叩き割って安楽死させたという父親の記事が、今朝の新聞に載っていた…。きっと、山村では他にも似た例はあったろうと想像する。断食月も半分が過ぎ、断食明けの新年は直ぐそこに迫っているが、多くのパーキスターン人が今年は服を新調せず、その分のお金を支援金にまわすという。被災者400万人への支援は今からがスタートだ。日本は既に次のニュースに向け視点が代わっていることだろう…。しかし、オバハンたちの長い取り組みは今からが本格的にスタートするようだ。
何といっても26年間もパーキスターンに住まわせて頂き、ご飯を食べられるようにして頂いたご恩は大きい。今、それを返さなくては何時かえすのか??オバハンの家族の思いは熱い。

■□■2005年10月19日(水)■□■
連日たくさんの方々からお見舞いやら励ましのメール、FAX、中には手紙でまであって、ご支援金振込みのご連絡をいただいて。当地イスラマバードにお住まいの方々からもご支援金をお預かりしたし、本当に皆さまには感謝してもし切れない思いだが、お礼の返事もままならぬ…というので、失礼ながらHP上で厚く御礼を申し上げます。
多くの方々から励ましていただき、ご支援いただいていることに力づけられ、オバハンを初めとするボランティアたちは頑張れます。なお、オバハン以外にも頑張っている人がいるので紹介しておきます。堀 拓二、田城 薫、木村克也、土佐ミツアキ、オバハンの息子夫婦、娘、息子の友人たち。オバハンが飛び回ることを許し支えてくれている事務所の大住を初めとするスタッフたち。
ただし、ボランティアは全員が手弁当なので、HP更新などなどに割く時間がなかったり、メールやFAXなどの返事が遅れたりしていることには、ひたすらお詫び申しあげます。

■□■2005年10月18日(火)■□■
地震から10日、被災地ではフリー・メディカルキャンプが増えていた。
また、現場で何か手伝いたいというボランティア医療従事者も増え出しているのだが、治療に充分な設備があるわけではないし、宿泊施設も皆無とあっては現地で踏みとどまれる人は少なく、日帰りとなるか、結局はイスラマバードから片道6時間からの道を往復することになる。
幸い日パ・ウェルフェアー・アソシエーション(NWA)ではメステント4張りを村に設置、キッチンスタッフまで常駐させたので最低限の食住は確保された。しかし水は汚染された川から汲むより他にはなく、むろん日本人スタッフ4名は顔を洗うにも不便をきたしている。

けれども、軍の努力によってオバハンたちが常駐している場所からようやく4km先までの道路が開通した。被災地全体からの地形を見ると尾根上の村に被害が集中しているように見える。NWAの基地から5km先の尾根上では400世帯ほぼ全部が壊滅、300mくらい手前からでも死臭が凄い。重傷者は軍のヘリコプターでイスラマバードやアボッタバードの病院へ運ばれたと聞くが、簡単な応急的治療が済むと病院から出され、以後の治療はまったくなされない。広範囲な頭蓋骨陥没というような状況でも本人がシッカリしていれば村に帰されてくる。それも、行きはヘリコプターだが、帰りはお金もないので徒歩で…という人さえもいる。着の身着のままだったため、裸足で杖を突いて、とにかく山の上の自分の家が心配だから…と。消毒ひとつままならぬ状況下では、そうしたことへの対応も重要になってくる。

NWAと足並みを揃えて息子の友人たちもそれぞれが被災地へ何かを送ろうと頑張っている。物資の手配が済んで、少しでも早く被災地へ届けたいと大型テント80張り、マットレス80枚、食料品たくさんを積んだトラックがイスラマバードを出たのは17日の午後。なのに、18日朝に到着する筈の支援物資はマンセラを過ぎたところで全て強奪された…。一説によると、すでにマーケットではテントが市販価格の2割引くらいで売りに出されているというではないか。被災地住民の手に渡っているのならいいのだが、マーケットで売られているとなると大問題!

パ政府発表によると、今回の地震で職を失った人は110万人に上るという。

■□■2005年10月17日(月)■□■
腹が立って、ついつい愚痴ったが、国立病院に勤める若い医者たちの馬力は凄い。
定員の何倍もの患者・被災者を病院で治療した後でオバハンたちに合流し、車中で睡眠をとりながら被災地に到着して、活動。活動が終わるとまた車中で仮眠をとりながらイスラマバードへ戻り、そのまま病院勤務。そうしたボランティア精神に富む人がある傍らで、一部運転手たちのような激震の被災地を目の当たりにしながらも、被災者たちへの関心がない輩がいて…。

まぁ、それは日本でも同じことが言えるのだと思う。でも、オバハンのところへ届くメールで感じるのは、日本ででも被災して助けられたことのある人は、他人の不幸を感じる感性が鋭いということ。

■□■2005年10月17日(月)■□■
アチコチに声をかけたので医者をはじめ、たくさんのパーキスターン人がボランティアで参加してくれることになった。皆それぞれに善意で参加して下さっているのは解るが、統制の取れないことはおびただしい…。
未明2時半の出発は、「誰々が来ない」、○○が足りない」、「オレは予防注射を打っていないから今から打って来る」などなどでズルズル1時間半も遅れるし、「アイツも一緒に行くというから待ってやらなくては…」挙句の果てが「やっぱり行けないから…」という有様。
そして、車はあるけれど運転手がいないというので、臨時に雇った運転手たちのレベルの低さ…、あの悲惨な被災地を見ても心を動かされないどころか、「俺たちが居なかったら、オマエたちを現地へ運ぶ者は他にないのだぞ!身動きも出来まい!オレたちは王様!オマエたちはオレたちに従え!」とばかりの言動。指示した待ち合わせ場所で待ってはいないし、予定していた車とは違う車が勝手に現地へ出向き、現地でスタッフたちと出会えない、オバハンたちの指示を無視して勝手に現場からイスラマバードへ帰って来るし、急な山道で注意しても減速はしないし、対向車があっても追い越しをかけると勝手放題…。あぁ、もうイライラがつのって気がオカシクなりそう!支援基地からもコミニケーションギャップで、イライラ・カリカリした連絡が入る。もう総てが上手く廻らないこと甚だしい。

パ政府は政府なりに一生懸命だとは思うが、他人の指示を受けたくない気質の彼らをコーディネイトするのは至難だ。何もかもが上手く廻らないことの現実を見た思い…。
18日未明には彼らパーキスターン人をアテにしないで現場へ行く!!

■□■2005年10月16日(日)■□■
13日は医療従事者が欲しいと切実に思ったが、パーキスターン人の医者や看護師がボランティア参加していくれるので、一安心となった。
第一、患者や怪我人との間に通訳を介さなくっても良いというのが有難い。

■□■2005年10月16日(日)■□■
被災地バラコットの中心地から僅か2km山に入った地区へ、オバハンたちNWAの支援基地を作った。市内に入る道は一本、その大通りは支援団体の「垂れ幕」が下がりNGOが軒を並べているが、市内の中心から僅か2km奥だとは言え、歩いて荷物を運ばねばならない場所へは、どこのNGOもまだ入っていない。
そこで荷物を降ろし汗がひくと、氷雨でズブ濡れになった体からは急激に温度が奪われ、胴震いが止まない。村人が全壊した家の廃材で焚き火をつくってくれ、濡れた服を乾かし被災者向けの救援物資であるお茶やビスケットを振舞われたオバハンたち自身も、被災者並みだった。
テントが出来ると雨の中を怪我人や病人がボツボツ集まり、前回の治療時に渡した抗生物質が劇的に効いて、傷の乾きかけている人もいたりしてホッとした。軍の診療所も重傷者の治療にメドがついたのか、単なる裂傷や骨折にも対応できるようになって来ている。また、被災地の中心住民には鍋やコンロが軍を通して配布され始め、ようやく煮炊きの出来る家族も出てきた。

ただ、配水管が壊れて川の水を利用するのが普通になってしまい、下痢の人が増えている。生水の飲料禁止を唱えても今の段階では無理であろうしORS(経口保水剤)を用意せねば。単なる下痢からの脱水症状が悪化し、医者もさじを投げる状態。「家族からは22人の犠牲者が出た、この子(1歳くらいか)がその仲間入りをするのも防げないヨ」との言葉が痛々しい。
オバハンたちが基地を設置した地区50世帯400人の中から80人余りの犠牲者が出ている。

■□■2005年10月15日(土)■□■
未明3時、家を出る頃には北の山端をかするような稲光が見えていただけなのに、被災地近くになったら本格的な雨。地震以降この1週間で3度目の雨で、この季節には珍しいと何回も書くようだが、オバハンにしても雨支度にはぬかりがあった。
車から大量の医薬品を降ろす頃にはドシャ降りの氷雨になり、荷物を降ろさずにはいられないし、結局は全員がズブ濡れになって荷物運びをするはめとなった。今回はパーキスターン人の外科医2名、日本でいえば王貞治なみに有名な、引退したクリケット選手、その他なんでもいいから手伝いたいと来て下さった人を動員して荷物を運んでいただいた。現場を見ないと何が優先事項か分からないと同行して来た息子も、若さにまかせて40kgからの医薬品を背負い子に結び付けて村まで上がってくれた。

地震後1週間、激被災地の中心地までの道路は確保され、市内から徐々に軍隊の支援や補給が伸びている。バラコット市の中心からは軍隊が徒歩で山奥の被災地へスコップや建材をどけるための大バール、タンカや野外活動用具一式とともに向かっているし、馬やラバも動員されている。
また、ヘリコプターから投下されるテントなども被災民へ徐々にではあるが届き始めている。オバハンたちは谷底からヘリの活動を眺めているのだが、投下物資も山の斜面上の被災民へより確実に届くような(投下)配慮が見られるし軍・民一体となって被災者をなんとか救おうとの努力は凄い。「何をしてるのか!早く活動しろ!」と言いたかった部分も確かにあったが、オバハン自身も何から手をつけようか…と、呆然としたほどだから今となっては彼らを責めたことをお詫びする。
日本からの大NGOが現地バラコットでテントを1000張り配布して活躍!というが、現地で日本のNGOに出会うことは、今のところまだない。オバハンたち以外の日本人を見たこともないし、垂れ幕も(小さな田舎街にもかかわらず)目につかない。

■□■2005年10月14日(金)■□■
計画的でないと息子には怒られるが、やらなければならないと思うことが多すぎて、支援活動のどこから手を付けていいか分からない。
些細な傷が手足の切断にもなりかねない状況を危惧して日本にも、パーキスターンでも医療従事者に呼びかけた結果、パーキスターン人の医者が4人現地へ同行してくれるという。で、またまた今から被災地へ行く。震災後すでに1週間、今まで適切な治療が出来ていなかったせいで、やや遅いとは思うが、それでも今回は簡単な手術(縫ったり切開したり)くらいは出来そうで、化膿した箇所を清潔に保ち、ほどほどの栄養がとれれば(抗生物質が効けば)治癒するかなぁ…。

大量の医薬品は息子が走り回ってかき集めてくれたし、現地へ入るための車両も用意してくれた。とにかく、車はあるものの運転手がいないので、身軽に動けない。運転手たちの多くはマンセラの出身で、ウチの運転手の家は半壊、彼のオジさんのところは全壊、コックの家も全壊と身近な中でも被害が出ている。彼らは壊れた家の後始末に忙しく、仕事どころではない。

■□■2005年10月13日(木)■□■
パーキスターン全土の街角で自発的に集められた衣類や毛布、布団、中にはミルクやジュースのパック、ミネラル・ウォーターなどの支援物資が、開通した道路を通って被災地の中心部へ続々と運ばれている。しかし、配布の恩恵にあずかれるのは被災地の中心部にいる住民だけで、本当に困窮をきわめている人たちの所へは届いていない。トラックの入る最終到達地点では、ミルクもジュースもビスケットもモチ撒き状態。衣類にいたっては、好きなだけ持って行けと地面にバラ撒かれた中から上質の物だけが持ち帰られ、後はゴミ状態となって道路脇に積み上げられている。
けしからん輩は集めたものをタクシーに積んで持ち帰ろうとして、警察に捕まっていた。

オバハンたちの課題は、被災地の中心から僅か2km離れた支援基地までも人力で運ばなければならないことか。息子のアドバイスによる「馬」作戦は、軍隊も同じことを考え(当たり前だが)、13日早朝には馬が徴用され、馬だけでは足りないのでラバまでが徴用されて行った。政府発表では死者3−4万人というが、もれ聞こえた政府関係筋の話では、さらに上回るのではないかと。

■□■2005年10月13日(木)■□■
昨夜はさすがに疲れていたのだと思う。バタンと倒れるように6時間寝てしまった。
現地では、強いて断食をしようと言う気がなくとも、周囲に気兼ねして隠れるようにして飲んだ水以外は何も口に出来ず、結局は帰りの車中で食べた1個のおにぎりで1日が終わった。おにぎりも終日車中にあったので、痛みかけ寸前のものになっていたし、お腹には落ち着いたものの「これで下痢でもしたら?!」と一抹の不安感があったのは確か。
とにかく、HP用に何かを書いておかなければとヘロヘロ状況の中で必死に書いたが、今、読み直してみると第三者に判るのかと心配になる。被災地のバラコットへは自発的に支援活動をしたいと、実に多くの若者が訪れているのだが、何をしていいやら??というので、結局は被災した街を見てお帰りの観光客状態。

バザールや被災地への道中では、ようやく軍隊が活動を開始しているものの、大統領命令にしたがって道路工事が中心であり、救援活動は遅々として進んでいない。バザールの薬屋だったらしい場所では崩壊した店の付近で薬が散乱、雑貨屋らしかった 付近ではビスケットや小麦粉が、また八百屋らしき場所ではジャガイモが散乱したままになり、その上、崩壊した建物の下には遺体がそのままで、圧死した人の足が道路からも見えていたり。それが1ヶ所だけではないし、布がかぶされているとはいえ、遺体が道路や人々の肩に担がれ右往左往して芋の子を洗うようなバザール。遺体からただよう死臭は街全体をおおい凄じいが、しばらくすれば鼻もなれてしまい人間の適応力には感心する。
とりあえず、医療活動を完全ボランティアでしてくれる医療スタッフが欲しい。水のためには水を運ぶタンク車、息子が「そんなもん!ボクが手配したるぅ!」と
大見得を切ったので遠慮なく甘える。

バラコットでは谷間を挟んで広がっている大きな街がほぼ全壊、4年前に見たアフガニスターンの首都カーブルの崩壊とは質の違うショックを受けた。オバハンたちが昔、泊まった川沿いのホテルは影も形もなかった。

被災者たちが地震の崩壊で受けた些細な打撲傷や裂傷は、地震後4日で化膿、手の付けられない状況になっている。僅かな裂傷が手の切断にもつながりかねない現状に、オバハンたちには手の施しようもなく無力さを噛み締めた。傷の多くは、打撲と骨折、裂傷が化膿したもの。完全ボランティアの医者や看護士
が欲しい!!!

■□■2005年10月11日(火)■□■
地震発生から4日目夕方。
またまた季節外れの雷雨と、1昨日にもまして酷い雨と降雹。気温が一気に下がった。被災地では食べるものもなく、野外で夜を過ごせるような暖かなモノもなく、昨晩から被災地へ向かう支援トラックの物資が被災者たちに強奪されていると。アメリカのハリケーンによる被災者たちも同じだが、生きるためには…と、解る気がして責められない。

オバハンが一番心配していたコヒスターンの被害は、カシミール地方に比べて軽いというので、明朝3時から再びマンセラ周辺の被災地へ向かう。ただ、コヒスターンには活断層が(目に見える)道路横の斜面を走っているし、70年に一度という地震を心配する住民もあり。

車で被災地まで入れるというので、日本からの報道陣だけではなく、欧米からの報道関係者もガリ・ハビーブッラ女子中学校の取材に集中しているが、崩壊した学校は数多ある。今も埋まったままになっている生徒達がいっぱいいるが、そちらは軍隊が活動してくれることを祈って、オバハンたちは医療活動に専念。ただし、イスラマバードでもラホールでも、ペシャワールなどなど各地で医薬品は払底、もうかき集めた医薬品で出かける。食料やテントの搬入にはまだもう少し時間がかかるようだ。気持ちは焦るが出来ることからヤル。

■□■2005年10月11日(火)■□■
クソ腹が立つエッチメールに対して、嬉しかったのが顔も知らないオンライン(インターネット)ゲームの友だち。実は春からオンライン・ゲームのゴルフに嵌っており、セミプロ試験が近くなってオバハン通信の更新も上の空、この2ヶ月近くはゲームにドップリ漬かっていた。そんな顔も知らないゲーム・メイト達から「もしかしたら通称ライラさんは督永忠子さんでは?」と見舞いのメールがあったこと。

パ政府の保健省に勤める娘(医者)からの情報とアドヴァイスを参考に、品薄になるのを見越して医薬品の数々を大量注文、古くから付き合いのある問屋が品物をかき集めてくれ、午後には手に入るとのこと。明日になればもっと品薄になるだろうとのことで、一歩先んじて手配できたことにホッとした。薬九層倍の日本と違って当地では何でも安く手に入る。しかし、安いとは言え、その安い薬すら買えない貧しい人がいるわけで、何としても支援の届かないコヒスターンへ届けたいと考えている。息子は、車が無理なら馬を使えというので、それも検討中。

■□■2005年10月11日(火)■□■
今日から3日間、パーキスターンは喪に服す?(国旗が半旗になる)という。保健省での話では、ムザファラバードでは、今朝(10日)までに余震が148回もあったと。
NWFP(北西辺境州)の人の話では、骨折した人が多くいるけれども、包帯、添え木や石こうなど何もなく、医薬品がとにかく不足しているとのこと。
また、亡くなった人の棺も不足しているんだとのことだった。

また、ムシャラフ大統領が『Emergency Relief Fund』というのを設立したそうで、娘が勤める保健省の部署では、全職員(パーキスターン全土の10万人の保健婦を含む)から給料の1日分を寄付するよう要請文が回って来たと。

■□■2005年10月10日(月)■□■
未明からTV局からの取材を受け、その後は往復300kmばかりの道を12時間もかかって震源地まで走って来た。
余震注意の48時間が過ぎたせいか、自発的な救援の人、それに軍隊も現地に到着していたが指揮を執る人がないために、手の出しようもなく道端に佇んでいる人ばかりで、心急く被災者自身が素手でがれきを除いている横で1000人もの軍隊が野原や畑に座り込んだまま、村人の空しい作業を眺めているという状況が奇異に映った。
被災地の医者は自分の家族やその周辺を優先するようで、見回りには来たものの何の手当てもなく帰ってしまったと、負傷者たちの家族にすがられ間の悪い思いをオバハンはかみしめた。何処へ行くにも、何時もは救急用品を山のように抱えているオバハン、急遽でかけることになって何の用意もなく、ただただ恥ずかしくて居たたまれなかったが、市内にも衣料品が払底の様子。また、余震に怯えて川原や畑、広場に簡易ベッドを並べて寝ている人が多く見られ、水も電気もガスもないので…と、呆然としている人ばかり。

ただ、支援物資は各市町村で自発的に集められ、現地へドンドン運ばれているのに、配布の指揮をとる人がなく、それが今後の大きな問題となりそう。とにかく救援が行き届かず、被害が増えるのは必須。昨日も書いたが、カシミールはインドとの間で領有権をめぐり(国内的には)比較的恵まれた地域で救援作業も早かった。しかしコヒスターンや北方地域の被害については未だにニュースにもなっていない。

3年前のナンガパルバット地震支援の記録を確認したら、11700枚の防寒具やセーター。小麦、砂糖、油を300トン余り、医薬品などを運んで配布していた。

■□■2005年10月10日(月)■□■
大災害でムッチャクッチャ忙しく、神経を張っている時に不愉快のきわみはエッチメール。人妻がどうしたぁ??お金は要りません、淋しいだけじゃとぉ!
むろん全部目も通さずに捨てることになるのだが、不快さは一層倍。何とかならんのかい!!

今朝も、というより2晩続けての徹夜になってしまい、仮眠をとっただけなのだが、考えてみればオバハンが寝ないでバシバシ陣頭指揮を執っている時は、いつも災害時。なんとか事務所を脱出して災害現場へ行きたいと焦っている。現場を見ないで何が出来るか!
次々に現場からの報告を持ち帰る事務所スタッフからの聞き取りによると、首都イスラマから北100kmくらいにある高原都市アボッタバードの通りに面した建設現場の建物も殆どが倒壊しているという。また、公園などは負傷者でいっぱいだというではないか!48時間内は大きな余震の可能性が高いというので、モスクのスピーカーからは公園や庭で過ごすようにとの呼びかけが流れているというが、昨晩のように雷雨や雹の降る中では外で夜を過ごせまい。
酷暑の国パーキスターンとは言え、朝晩は冷え込むようになっているし。

■□■2005年10月09日(日)■□■
震源地へ行った事務所のスタッフが予定時間より遥かに早くイスラマバードへ戻って来た。
「早かったじゃない?!」と驚くオバハンに、
「山間部で生き埋めになるのは怖いから!と平野部の知り合いや親戚のところへ逃げた人が多く、きょうは道路がガラ空きだったのです」
「で、震源地はどうだったの??」
「政府が救援隊を送ってくれないし、被災していない人は平野部へ逃げてしまったし、被災者は自分の家族を助けるのが精一杯で他人を手伝う余裕はないし、救助活動と言えるようなものは一切なく、今から政府が救助隊を送って来ても間に合わない…、来ても石を投げて村中には入れないと息まいていた人もいました。何でこんな神の罰を受けねばならないのか…」って泣いてお祈りをしている人もいましたと。
ムシャラフ大統領をはじめ、多くの閣僚が非常に素早い対応をしたにもかかわらず、一部閣僚の心無い発言に怒りを覚えている被災者も多いと聞く。

最大規模の被害を受けたとして、TVで放映され続けているカシミールの州都ムザッファラバードは、長年インドとの領有を争っている特別地域で普段から軍隊も駐屯しているため、孤立したとは言え救助活動の開始は非常に早かったとオバハンは思う。
しかし、同じような被害を受けながらも、インダス河に沿ったカラコルム・ハイウエー沿線の山村は未だに被害状況すら把握できていない。急峻な斜面ばかりで平地が一切ないコヒスターンはパーキスターンで一番遅れている地域でもあって、道路が開通するまでに(オバハンの長年の経験から)3週間以上はかかるであろう。「救助」「恩恵」にもっとも遠いコヒスターンや北方地域にも目配りが必要だ。

幸い首都イスラマバードでは、電気や水、ガスなどのライフラインは確保されており生活に支障はないので、北方地域への救援活動に力を入れねばと改めて考えている。
救援というと、日本では「古着」が送り出されるが、日本や欧米からの古着が当地では超格安で買える。それこそ日本からの送料や洗濯代と称するもの、送り出しの手間暇を考えれば当地で国産品や欧米・日本からの中古品を集める方がどれほど無駄がないか!
オバハンの支援活動・モットーは「出来る者が出来ることをすれば良い」というもの。各自、出来ることをしていただきたいと念じている。

■□■2005年10月08日(土)■□■
オバハンの知っている地震は、小刻みにガタガタ、ガタガタ、ガタピシ揺れるだけの地震だったが、今朝の地震は「うねぇ〜〜うねうねうねぇ」と揺れ始め、揺らり揺らり船に乗っているような大波の地震。いやぁ、怖かった!!
超怖がりのオバハン、実は事務所開始前の時間でインターネットのゴルフ・ゲームに精を出していたので、椅子の肘掛を握り締めて固まっていた。何度か腰を浮かしかけたのだが、ビル全体がうねりの中で軋るような感じがし、外へ飛び出してガラスなどの落下物で怪我をしても…などと1分半もの時間がなんと長く感じられたことか。
当地の建物には耐震構造というようなモノがあるとも思えず、多くの民家はレンガや石を積み上げただけのものだし、とにかく地震になったら家から外飛び出せと教わっているせいか、路上には人が溢れ出した。役所や銀行、学校は臨時に休み。商店も、開けたばかりの店を直ちにたたんで多くの人が帰宅となった。直後からの余震が怖くて多くの人が道路のグリーンベルト上に座り込んで様子見を決め込んでいた。

半地下に住むオバハン、万が一の崩壊を心配して寝袋を持ち出し屋上にでも寝ようかと考えていたら…。なんと、なんと!夜に入ってから雷鳴とともに大粒の雨と雹。なんたる自然災害の連続か!山間部では石積みの家が多く、人々は野外に休んだろうことを思いながら知り合いたちの安否を案じている。

地震支援のために以下の基金を立ち上げました。皆様のご支援をお待ちいたします。また、出来るだけ多くの方々、お知り合いへも配信して下さい。
http://www.pat.hi-ho.ne.jp/nippagrp/pakistan.htm

*日パ・ウェルフェアー・アソシエーションは、1999年よりパーキスターン北方地域を中心に支援活動を行っています。

■□■2005年10月08日(土)■□■
怖かったぁ!怖かったぁ!
怖かった!怖かったぁ!!
パーキスターン全土を揺るがした地震は、一番大きなものは1分28秒もの長い横揺れ、震度5くらいだろうとは日本人たちの感想。
娘の勤めている政府ビルは、隣のビルとの隙間が10cmしかなかったのに50cmにも開いたというし、大きな書類を入れた本棚も倒れたと。オバハンの事務所でも鉄筋コンクリートの上に張ってあるレンガにヒビが入った。まだ余震が続いていて、その度に心臓がドキドキする。オバハンは気づかなかったが、早朝から既に軽い地震があったと。余震は下から突き上げて来たり、横揺れだったり様々だが、本震より大きいのは来まいと、腹をくくっている。
地震直後の当地ニュースは混乱のきわみで、震源地はアフガンとの国境付近と報道したり、いろいろ。2時間後には首都イスラマバードから100km北東部と訂正があったが、カラコルム・ハイウエー沿いの山村は中国々境のクンジェラブ峠まで1本道。おまけに現地は急斜面に建てられた石積み家が多く、救援物資の搬入はおろか、人命救助もままならない。
インダス河沿いにはユーラシア大陸とインド亜大陸の縫合部があり、活断層が目に見える場所で走っている。約70年前にもコヒスターンを中心に大地震があり、数万人が亡くなったとも聞く。カラコルム・ハイウエーはクンジェラブ峠まで土砂崩れのため、全面封鎖。余震のせいで土砂崩れはまだ続いている。

ニュースなどで流れている、完全崩壊した高級マンションのマルガラ・タワーでは、軍隊が懐中電灯を手にして懸命の救助にあたっている。

■□■2005年10月06日(木)■□■
サウジアラビアやアフガニスターン(インダス河の西側)では昨日から断食月が開始になっているが、パーキスターンは本日からが断食月。断食開始の新月を確認するため、4日の夜に宗教指導者たちは特別機を仕立てて空へ上がった。しかし、新月が見えなかったと。断食月の開始を左右する、宗教指導者たちの権威がいかに大きいというか…、まぁ、自然の摂理を信じず、我が目で確認するとした中世風の宗教観が味わい深いとでも書いておこうか!で、オバハンも例年のごとく初日くらいは断食に付き合う。
未明4時半から夕方7時近くまでの断食で、真夏に比べれば辛くはないが水も飲めないので「血栓」が出来やすくなり、キケンな人もあるという。普段から油ギトギトの食事をしている人が多い当地では、さもありなん。1400年以上もの昔、開祖ムハンマド様が神からの啓示を受けてイスラームを広め始めた頃とは、社会・生活環境が大きく異なっていることであろう…。もちろん今でも貧しい人、飢餓に苦しむ人々は地球上人口の(正確な数値は忘れたが)30%近くにも上るのでは??
貧しく、飢えに苦しむ人々の気持ちを思いやることは大切だと思うが、大国の思惑で、アフガニスターンや北朝鮮などなどへの内部事情を知る機会を失いたくない。あるいは地勢状の権益を失いたくないなどで『まだ飢餓がある』と言いつのっていると思われることが多いという意見には、オバハンも同意する。
日本では「国際機関」とか「国際支援」といった言葉が「素晴らしいもの」「良いこと」と同義語になっているが、それらの認識を改めよ!とは、最近、聞く言葉だ。

■□■2005年09月28日(水)■□■
首都イスラマバードの中心から15分も走ると、もう銀色に波打つススキの原野も広がる。また、家畜用に稗や粟が栽培されている畑を通り抜けていると強い陽射しの下であっても秋の深まりを実感する。あぁ、今年も4分の3が終わったと…。

アフガンの選挙も終わって、今のところはさほどの混乱もないようだ。
一般の国民であるアフガン人の多くは、実生活にプラスが多い現状を素直に受け入れていると思う。そして何時も書くように、アフガニスターンが始まって以来の繁栄を享受していると言ってもいいのだろう。国民にとっては日々安心して生活し、食べられるならどんな政権が来てもいいわけだし…。ただ、オバハンたちのような小さな支援活動をする者たちもが一部の現政府反対者によって緊張を強いられる不安定な現状は、いただけない。
イラクほど目だって派手ではないが、アフガン各地でも、外国人や外国の支援団体で働く者は、常に何らかの危険にさらされている。最近では忘れ去られたアフガンとなって、そうしたニュースも日本では流れていないが、先般のように、たまたま日本からの旅行者2人が殺されると、にわかにアフガンが報道される。
それにしても…、殺された2教員は無謀だった。現地アフガンの人々からも「日本政府は、危険であることを知らせてなかったのか??我々でさえもあんなところへは行かないのに…」と、どれだけ言われたことか。
適度な緊張感は大好きだが、オバハンもだんだん歳をとってきたのか…、緊張感の持続に負担を感じるようになっている。

■□■2005年09月18日(土)■□■
みなさま、大変ご無沙汰してしまいました…。
1ヶ月以上もHPの更新がないというので、アチコチからご心配のメールを頂き、恐縮です!!ビョーキでは決してありません。オバハンは何時ものように五重丸(花丸付き)の元気印です!!

最近では、ブッシュや小泉批判を書こうにも、これだけ日本や世界が目まぐるしく変化をし、日々、この情勢を追いかけ批判することは甚だ重荷になっている。毎日、真剣に世相を睨んでいると「ムカツク」ことのみ多くて、こりゃぁ身体に悪いわい!!と。
民主党の言い草ではないが、オバハンは日本の未来をアキラメタ気分だが、日々自分の仕事をこなしながら日本の世相を眺め、メルマガを発行し続けておられる方には感心する。報道に携わるサラリーマンでもなく、自分の意見を売る必要もない彼のメルマガは鋭い。竹山徹朗さんのメルマガを覗くべし!

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