禁無断転載

オバハンからの気まぐれ通信
(2004年07月&08月)


■□■2004年08月20日(金)■□■
アフガニスターン禁断の地ワハーン回廊への踏査、スルハバット郡での学校建設、パーキスターン国内ではスカルドゥでの医療(栄養)調査、ギルギットの母子健康(栄養指導)センター建設現場へ…と、事務所に落ち着くこともなく走り回っていたら、アッという間に8月も下旬。
気が付いたら参院選も、敗戦記念日も終って、今やオリンピック真っ最中だ。別にオリンピックそのものに反感を持っているわけではない。しかし、某大新聞社インターネットニュース項目の文化・芸能という欄で、アテネオリンピック視聴率%、ウンヌンというのが気にくわない。なんじゃい!?と気分が悪い。いつから視聴率なる摩訶不思議、超うさんくさいものが文化・芸能に取り入れられるようになったのか?それを取り上げるアホ編集長の気が知れん!!

ここのところイスラマバードはモンスーン明けを思わせる豪雨に見舞われ、未明頃から連日のように雷がピカピカ、ドンドン、ガラガラ、ドッシャーンと凄いらしい。息子の家の3軒隣にはナントカ大臣が住んでいるとあって、テロ厳戒がとみに厳しい最近、窓ガラスを震わせる大きな振動の時は、テロによる爆弾か!と、息子は飛び起きたという。しかし、どういうわけかオバハンは毎晩天下泰平で熟睡。2匹いる若いラブラドール犬のウルサイ吠え声も聞こえたことはないし、かっては神経質であまり熟睡できなかったのが、自分でも信じられない。
思うに最近のオバハンは、ひとえに体力の低下によって夜中は気絶していると思われる。でも、ありがたいことに充実した夏だ。
モンスーン明けの豪雨に洗われたガジュマルの葉っぱが艶めき、葉先から光る滴を落としていくのを久々にゆっくり眺める時間の好もしいこと。気分が忙しかっただけに葉っぱの艶めきもまぶしい。

■□■2004年07月30日(金)■□■
本日はBlue moon(青い月)との記事が、英字新聞の第一面に満月の写真付きで載っていたから、Blue moonとは何ぞや??どんな青い月が見られるのかと朝から楽しみに待っていた。あいにくのモンスーンで薄雲の広がる空に浮き出た満月は、淡々と霞がかった夜空の遠くに上質の真珠を思わせる色、それはそれなりにオバハンを満足させてくれた。
Blue moonとは、月代わりしない1ヶ月間に、2度目の満月を迎えた時に表現する単語というのもきょう知って、アホが一つ減った思いだ。

パーキスターン各地でも、最近は自爆テロが時々起こるようになった。自殺すればアッラーの御元へ行けないと堅く信じていたパーキスターンのイスラーム教徒にとっては有り得なかった「自爆テロ」が一般化しつつあるので怖いことだと思う。911以来、世界が大きく狂いだしたのも確かで、アメリカが「地獄の蓋を開けた」のだとする表現は、あながち間違いではなかったと、今となっては更なる確信に近い。人為的なもの、天変地異、いろいろな現象からみえることは確実に地球が狂い出していることの証拠ではないのか?
平和と平安のために、神の恩寵を心から願っている。

■□■2004年07月25日(日)■□■
今月は随分アフガニスターン中を走り回ったというか、なんというか、とにかくアフガニスターンで過ごしてしまった。
支援活動も大切だが『アフガン難民を支える会−SORA』からは給料を貰っているわけでもなく、食費までを自前で出している強み??で、ありがたいことに比較的好き勝手をさせて貰っている。好きでしているボランティアという立場は本当にありがたい。
…ということで、WFP世界食糧機構からの(非公式だが)依頼によって、バダクシャン州へリサーチに出掛けた。

出掛ける寸前の6月はじめには、国境なき医師団が5人、中国人道路建設者11人が殺害され、選挙人登録監視団の関係外国人が続けて殺害されたり、またパーキスターンとアフガニスターンの国境では苛烈なアル・カイーダ掃討作戦が続き、カンダハールでは日本人に対してテロ予告が出たので「日本人は退避せよ」という情報が飛び交い、在ア外国人は超要注意という状況に置かれていた。たまたま調査先のWFPの人とは現地情報の交換が出来ていたから、念のために陸路での移動を避けて、バダクシャン州の州都までフライト出来たが、オバハンたちの調査に対する周囲の心配は相当のようだった。

今後は、秋の大統領選挙を控え、さらに治安の悪化は進みそうな予感がしているが、アフガン国民は我が生活を立て直すことに忙しくて、大統領選など、何の関心もないといった有様が大勢を占めている。一応、各民族から1名程度の立候補者が出るようで、街頭や村々の軒先、バスなど公共機関の窓でも立候補のポスターを見かけるようになった。
大統領としていささか相応しくない人もあるとは、彼らの言葉だが、そこは民族の代表といったところで、各派閥で話し合いは出来ているようだ。

今回は書きたいことが山積み…、でも、やらなければならないことも山積み、ええい、時間が足りない!

■□■2004年07月20日(火)■□■
アフガニスターンでも国連関係者やNGOのスタッフ、選挙人登録名簿の監視人、中国人11人の虐殺などと情勢不安の中で、皆さまからのご心配をよそに、アフガン最北地での調査は無事完了いたしました。
この2年半、支援活動の合間にアフガニスターンのアチコチを、比較対照するべく調査と称して走り廻って来ましたが、今回は今までとは違ったものの見方をしてしまいました。
私たちの『アフガン難民を支える会−SORA』と『JRU‐PAC子供平和基金』でも、大地を緑に戻すべく農業用水の確保ということで、今までに80余りのカレーズなどを掘っているのですが、大地を緑にするべく純粋な思いで努力する支援団体との思惑とは別に、水が確保出来た大地ではケシ栽培が盛んになって行く事実に愕然としています。小麦の作付けを上回るケシ栽培、WFP世界食料機構が小麦の支援をすればするほど、大地は小麦ではなくケシの花の妖艶な美しさに被われるのです。支援は本当に難しいと思いました。
幸いハザラ民族は(私の知る限りにおいて)ケシ栽培に手を染めてはおりませんが、ケシ(アヘン)に代わる現金収入の道を早急に作らない限り、パシュトーン族やタジク族の彼らはアヘンを生産し続けるこことでしょう。

詳しい報告は改めていたしますが、タジキスターンとの国境をなす川幅100m足らずのアムダリアの向こうから、ロシアの女性が気さくに手を振ってくれたり、ロシア、中国、パーキスターンに囲まれたグレート・ゲームの舞台の真ん中、玄奘やマルコ・ポーロがキャラバンした禁断の地ワハーン、パミールに足跡を印せたことは本当に幸運でした。とにかく毎朝3時半起床、夕方4時まで馬上、うち3日間は降雪、寒さと眠さに歯を食いしばり、久々に体力的にもキツイ2週間でしたが、とても充実していました。
多分、バダクシャン州都のファイザバードからパーキスターン国境へ抜けた外国人の記録としては、第一次世界大戦後初??の記録ではないかと、ワハーン研究の大御所に言われており、大いに気を良くしている次第です。