禁無断転載

オバハンからの気まぐれ通信
(2003年11月&12月)



■□■2003年12月31日(水)■□■
実は紅白歌合戦というものを、ただの一度も見たことがない。子供の頃は父が厳しく、ラジオやテレビも自由ではなかったから、歌謡曲というものには一切縁がなかった。また、若い頃には登山やスキーで正月はいつもテントの中だったし、30歳の半ばからはパーキスターンへ来てしまった。というわけで、今、生まれて初めて紅白歌合戦というものを片目で見ている。ただし、パーキスターン時間の午後3時半から紅白歌合戦がはじまった、外は明るいし炬燵はないし、みかんを食べながらというわけでもないので、年の暮れという感じはまったくない。
ようやく夕ぐれの闇がおりて来た…と、天窓を見上げていると音もなく霧雨。
お正月を迎えようとしているのに天窓から見えるクリスマスの花、ポインセチアがまだ小さく縮こまったままだ。今年は日本も日照率が低かったけれど、パーキスターンでも陽射しが少なかったせいだろうか、縮こまったポインセチアが真っ赤になるには、まだまだ時間がかかりそう。

イラン南東部地震の被害ニュースを見ては、心を痛めている。
自然災害であり災害規模が大きいこともあって、人道的な救援活動は当然だと思うが、自衛隊機が当然のように日本を飛び立って行くのを、今となっては誰もが何も言わないことが不思議といえば不思議。イラクへの自衛隊派遣が、私たちに完全刷り込み出来た証拠かもしれない、それが下地にあるから当然と受け止められるのだろう。2年前には、支援物資を載せて民間機がパーキスターンへやって来た、当時には自衛隊機が救援物資を運ぶことに大きな驚きがあった筈だ、そうしたことを、いとも簡単に私たちは忘れていないだろうか?
しかも、軍用機C130にはいかほどの貨物が積み込めるのか?民間機でもよかったのではないのか?など、例によってオバハンは選択肢の幾つかを考えてみた。毛布やテントはパーキスターンで安く手にも入るし、医薬品にいたってはイラン製は品質も良く、日本の20〜50分の1という値段だ。こちらから現地バムの町へ運ぶ方が、どれほど時間的にも金額的にも効率が良いか…。
バムへは12年前に取材の途中で一度行っただけだが、砂漠のオアシス、とても印象深い町だった…。イスラマバードからバロチスターン州の州都クエッタまで飛行機で一飛び、そこから車をぶっ飛ばせばバムの町までは1000kmばかり、パーキスターン側は砂漠の悪路だが一昼夜で走れる距離だ。ちょうど年末年始でイスラマバードにはオバハンの仕事はない、何ほどの手伝いも出来ないが負傷者の看護くらいは出来るだろう、そう思いながら3日たった…。

しかし、島国の日本人には想像もつかないだろうが、パーキスターンでパーキスターン人と同じように暮らしているオバハンが、もしパーキスターンの敵国イランへ行くと、たちまちプロブレム(問題)になる。もちろん敵国のインドへ行くのもプロブレム。普段から外国人は監視されているということだろうが、敵国などへ行ったら帰国後より、たちまちオバハンの後ろにはしかるべき役所から、しかるべき人間が送られて来て行動を見張られる。
また、アフガニスターンでの活動には、アフガン政府よりの監視がついているし、何をするにも結構面倒。旧ソ連の秘密警察システムをそのまま引きずっているようだ。知り合いのアフガン人は「オカァサンの事務所には、秘密警察への内通者がいます」と言う。後暗いところはないのでそのままにしているが、なんとなく鬱陶しいのは確か。生まれた時から他人を信用するな!との家庭教育で、こちらの人々は容易に心を開かない。開いているように見せているだけ、というのに気付かないお人よしは日本人くらいかもしれない。
それほど、陸でつながった国境を持つ国々、人々は神経を張って暮らしている。

■□■2003年12月25日(木)■□■
クリスマス・テロを警戒してか、前日から市内は厳戒態勢。
夏は47℃にもなる酷暑のイスラマバードも、今が1年中で一番寒くて夕方から深夜にかけては結構な冷え込み。雪を見ることはないが、それでも最低気温が3℃前後、ジャンバー程度の防寒着では寒かろう。警官たちは政府の高官やVIPクラスの外国人が住む街角のすべてに、数人づつ立って周囲に鋭い目を配っている。
アフガニスターンでもイラクでも、反政府勢力によるクリスマス・プレゼントが盛大に贈られ、アチコチに幾つもの砲弾が落ちた。アメリカ兵が「落ちついてクリスマスも祝えない!」と、ブー垂れていたが、そもそも聖なる断食月・ラマダーンにイスラーム国への攻撃を仕掛けたのはどちら?と言いたい。
日本人が持つイスラーム教への認識は「眼には眼を、歯には歯を」、あるいは「4人妻」くらいしか思い浮かべないと思うが、この「眼には眼を、歯には歯を」というのは報復をしろと教えるものではなく、「眼をとられたら眼を、歯をとられたら歯を」以上の報復をしてはいけない、という指標だということを知っている人が何人あるのだろうか?

12月14日に続いてのムシャラフ大統領暗殺未遂。
日本でもニュースは大々的に流れたというので、詳しい話しは不要だと思うが、自爆テロによって結局は16人が死亡、50人からの人が負傷した。前回も今回もムシャラフは間一髪の差で命拾いをした。歴代の軍出身大統領が暗殺されて来た歴史を見ると、ムシャラフ政権もいよいよアメリカに切り捨てられようとしているのかも。そして、アメリカにとって動かし易い、そして民主主義を標榜するベナジール・ブット女史が帰って来ると囁かれているから、そうなるのだろう。

■□■2003年12月23日(火)■□■
下記、凄い文章です。涙しました。
少し長いのですが、転載許可をいただきましたので紹介します。


平和への願い
元盲学校教員 藤野高明(大阪市)

2001年の正月、世紀が改まり時代が21世紀に大きく踏み出した時、私は62歳だったが、年にも似合わず胸の高鳴るような感慨をもった。20世紀の人類史はあまりにも苛烈で、光と影の織り成す歴史の実相はそこに生きたさまざまな個人に否応なく過酷な運命を強いるものであったからだ。20世紀を振り返ってみると、科学技術と医療の進歩はめざましく、また平和と人権を守り、より確かなものにしょうとする人々の努力もたゆみなく続けられ、時代のバトンをリレーしてきた。しかし、この世紀は日露戦争から湾岸戦争に至る相次ぐ戦争にあけくれた100年でもあった。とくに、第二次世界大戦は世界中で5000万人を超える死者と、それに数倍する障害者を作り出した。愛する肉親や親しい友人を失った。財産を無くした人々も数しれない。

私自身、この戦争が残した不発弾の暴発によって2歳下の弟を亡くし、自らも両眼の視力と両手を失った。それは敗戦の翌年1946年7月、小学2年生夏休みのことである。以来、地元福岡の盲学校からも二重障害を理由に入学を断られ、13年間の不就学を余儀なくされた。18歳のころ、視力と手指を無くしたハンセン病患者のうちに唇や舌先を使って点字を触読する人のいることを聞き、懸命に点字に挑戦し、これを習得した。文字の獲得によって道が開けた。20歳で大阪の盲学校中学部に入学を認められ、高等部普通科を経て通信教育で大学に学んだ。教員資格を得て、夢にまでみた教職に就くことがかなったのは33歳の時である。

私は、同時代に生きた仲間たちや後輩たちのことを思う。戦争のなかで、あるいはそれが終わって後も、多くの子供たちが、無責任に放置されたこのような不発弾や地雷に触れ、殺されたり障害を負わされたりする例は、数え切れないほどあった。そして、かれらの多くは国や社会による何らの救済や保障もなく生きてきた。

障害を受け入れて生きるのは、それほどたやすくはない。私はうつうつと、よく思った。たとえ片方の目でも、手でもいいから、残っていたらどんなにいいだろうと。また、このような不幸をもたらしたものに対するふつふつたる怒りを抱きながら生きてきた。その意味でずっと日本の戦後史をひきずりつつ歩いてきたと思う。だから20世紀を感慨を込めて見送った時、来るべき21世紀こそ戦争も差別も無い世紀であってほしかったし、不確かであっても大きな希望をもったのである。ところが、9・11多発テロと、それに続く洪水のような報復戦争がアフガニスタンで展開された。そして今年3月、アメリカ、イギリスにょるイラクヘの先制攻撃と残虐な戦争が起こってしまった。

私は、自分の生い立ちと体験にもかかわって、どのような理由をつけたとしても戦争そのものに反対である。戦争は新たに数知れぬ障書者を作り出すばかりか、今懸命に生きている障害者の人権を否定し、戦争の惨禍の中で逃げ場さえ奪ってしまうのである。戦争を計画し、準備し、命令する者たちは戦場で命を落としたり、傷ついたりしない。

日本国憲法はその前文で「日本国民は…政府の行為によって再ぴ戦争の惨過が起こることのないようにすることを決意し」と、明確に戦争が国民の意思とは逆行してでも人為的に引き起こされるものであることを指摘している。

「平和への願い」、それは私の生き方の原点である。テロは最悪の犯罪であり、絶対に許せないが、報復戦争でテロの温床を断ち切ることなどできるわけがない。理性と国際法に裏打ちされた世論こそが真の解決の鍵を握っているはずである。2001年の正月に抱いた平和への希望は今、ひどく傷ついたけれども、だからこそ平和への思いを声と行動にしていかなければならないと思う。

私は平和には四つの条件があると考えている。

第1に、戦争が起きていない状態だ。私が物心ついたころ、戦争は日常であり、アメリカや中国は敵であった。大人たちは敵意と侮蔑を子供たちに教えた。
第2に、差別や偏見がなくなることだ。かつて障害者は社会の「恥」か「お荷物」のようにみられ、肩身のせまい思いをしながら生活せざるを得なかった。
第3は、貧困と飢餓が世界的規模で基本的に克服されることだ。ひもじさが胃袋をかんだ子供のころの記憶が、飢餓状態を伝えるニュースによみがえってくることがある。
第4は、人間が作り出した優れた文化遺産を共有し、新たな文化創造に参加できることだ。

私はときどき、妻や友達とコンサートに出掛ける。べートーベンやマーラーの大曲の中に深く身を沈め聴き入る時、芸術の偉大さと平和のありがたさをしみじみと感じる。そして、その曲が終演を迎え、一瞬の静寂を突き崩すように万雷の拍手がホールに満ちる。私はその瞬間、嵐のような拍手に加わることの出来ない左右の手を意識してしまう。ほとんど口にすることのなかった悲しみが心にわき上がってくる。それでも私は、心を潤すあの音楽の充足感を求めて演奏会に出かけてゆく。
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プロフィール:1938年福岡市生まれ。02年度まで30年間、大阪市もう高等部社会科の教員を務める。その間、全視協の中央役員として26年間活動し、最後の4年間は題4代会長を務めた。
(第1回オンキヨー点字作文コンクール最優秀受賞作品:オンキヨー株式会社、点字毎日主催、厚生労働省、テクノエイト株式会社など後援。点字毎日活字版2003年10月9日より)


審査評(藤本義一)「自己凝縮の妙」抜粋
最優秀賞の藤野高明さんの作品は、限られた字数の中で実に凝縮した自己の意見を過去、現在、そして願いという未来に対して書いている点に評価が集まった。どの一行にも作者の深い心情が喜びと悔しさを語っている。
私の友人の一人にも同じような戦後体験を過ごしている者を思い出した。藤野産の生き方で、同じ境遇の人が大きな希望を持てるのを考えると、これからの人生でさらに深い人間の心情を書き続けてほしい。冷酷な現代に常に冷静な視線を注いで欲しいものである。以下略

■□■2003年12月22日(月)■□■
静かで穏やかな冬の陽射し、冬至。カボチャ。
実は今回、日本での「アフガニスターン活動報告」では、札幌(JRU北海道)にまで呼んで頂き、報告会の合間には小樽へ案内して頂いた。
60年以上もの昔に「活動家」だった父が、官憲から逃れて潜んでいたという小樽の街に60年前を想い重ね、初めて見る北海の町、そぼ降る雨に傘の中でオバハンは感傷に浸った。良い時に良い雨、素晴らしい演出だった。束の間の感傷、その後は食いしん坊なオバハンらしく、魚市場まっしぐら。もちろん北海の幸はいっぱい買ったが、ついでにカボチャ。重くてパーキスターンまでどうして持って帰ろうかと悩んで悩んだ揚句、やっぱり買ったカボチャ2個。帰パしてからも既に3度食卓に上がっているが、本日は冬至。そのカボチャさまが大威張りでテーブルを賑わす。小樽で買ったカボチャ、とにかく美味しくって、機内持ち込みまでして担いだ甲斐があったというものだ。
長生きスルぞぅ!!

■□■2003年12月20日(土)■□■
久々に素晴らしく大きい落日が街の真ん中を沈みゆき、思わず見とれながら、葉を落とした木立のせいで、見事な落日に出遭えたのだと納得。足元は心地良い気候、そして何万年もの遥か彼方で、ぐらぐら煮えたぎるように落ちて行く太陽には溜息が出るほど。年々スモッグなどのせいで、そのうちに、この落日も過去のものとなるのかと少し淋しい。
その夕闇せまる街は車を止める場所もないくらいの人出、それも高級な乗用車や新車が増えている。商店街に並ぶ品物も高級品が増え、パーキスターン製=粗悪品のイメージもだんだんと払拭されつつある。始末屋のオバハンなどには手の出ない食品や服飾品も多くて、眼を見張るばかりだ。また、年末年始を控えた最近では、超高級ホテルなどにもパーキスターン人が家族連れで宿泊することが多く、今年は早々とどこの高級ホテルも満杯で、今からではコネを使っての強引な予約も不可能という。海外からのツアーはなくなったが、金持のパーキスターン人の間では超高級ホテルで豪華に過ごすのが流行りらしくて、、一般人には考えられないような生活振りだ。経済がそれだけ廻っているのか、単に貧富の差が激しくなっているだけなのか…、欧米ナイズされた人が増えたのか。

最近の日本のTVを見ていて思うのは、有事に向けての「刷り込み教育番組」が目に付くことだ。それだけ有事が本格化して来たということだろう。いや、まだ今のところ日本本土が攻撃されていないだけで、「有事」にはなったのだと思う。昨夜も「日米同盟について」という番組を片目で見ながら、頭の片隅で考えてしまった。「日米同盟を強固にして、イザことが起こったらアメリカ守ってもらう」と「自国の安全は自国で守る」というスタンスは、まったく別のものなのに…と。アメリカに追随したことで、日本がどれだけの危険に冒されたかは誰も発言していなかったように感じた。世界190数ヶ国のうち中立を保った国、参戦していない国を見れば、そうした選択肢も可能だったことは解かる。
自衛隊を派遣する必要が本当にあったのか?
外務省の2外交官の報道が、報道取り決めで完全にストップしたような現状からも、今日の政府による報道規制が、戦前のものと変らないことが解かるというものだ。

印パ紛争を初めとする、数々の有事を常に控えているパーキスターンに住むオバハンにとっては、「有事」とは常に生活の中にあるものだ。オバハンだけではなくパーキスターンの人にとっても「有事」は生まれた時から存在し、心構えはある。どこの誰にも守ってもらえない、イザとなれば自分(自国)は自分たちで守るのは常識以上のものであるし、その心構えがあってこそ人間として認められる。当地の人々には目上の尊敬、親孝行、何かあれば身をもって肉親(強いては自国)を守ることが人間としての第一義になっているといっても良い。

■□■2003年12月17日(水)■□■
先週半ばから厚い雲に被われ、降るでもなし降らずでもなし…という中途半端な状態が続いていたが、とうとう降り出したと思うと、今までになかったような冬の長雨になった。氷雨が、樹から落ちた枯葉をしとどに濡らし、何処もかしこもがビシャビシャ濡れそぼり、雨宿り場所を求める哀れなカラスやムクドリが庇の下で足踏みをしている。カラコルム・ハイウエーも土砂崩れで13日から今日に至るも閉鎖のまま。長年勤める従業員たちも空を見上げては「不思議な長雨だ…」と首を傾げている。しかし、この雨が僅か400km離れたカーブルでは、ただの一滴も降っていないというから、憎たらしい。

アフガニスターンの首都カーブルでは、予定より3日遅れでローヤ・ジルガが始まった。不思議と元気を取り戻した元国王がジルガの開会を宣言し、来年の国政選挙に向けての準備も着々…と言いたいらしいが…。国連が12万$もの大金を費やして、特別製の紙に印刷したという選挙(啓蒙)用のビラは、僅かが配布されただけで、後は家々のかまどで煮炊きに使われ、人々の役に立っているそうだし、選挙に立候補をするためには、選挙ポスターの準備や供託金(があるのかどうか知らないが)に2万$もかかるとあっては、何処かからスポンサーでも付かない限り立候補も出来ないという。何事も自分たちの思うようにしたいアメリのこと、自分たちの意のままになる候補者を見つけたら、立候補させて国政を操るのだろうか。
そんな状況を良く思わない輩の一発、ロケット砲弾がジルガ会場に近いところへ落ちた。

イラクではフセインが拘束された。
だからと言ってイラクの復興に拍車がかかり、治安が安定するとは思えない。イラク、イラン、アフガニスターン、そしてパーキスターンなど、どこの国の人々もプライドは強く高く、他国による占領や干渉を嫌うさまはプライドを忘れた多くの日本人には想像もつくまい。貧しく何もないからこそプライドだけは高いと言うべきなのかも。
しかし、イラク暫定政権の外務大臣だったかの声明には、オバハンもちょっとビックリ。曰く「国連は35年間もイラクの復興に関わりながら失敗して来た。許さない」という趣旨だった…。イラクもアメリカも都合の良い時のみ、「国連」を引き合いに出すのが凄いと思ったが、日本政府も同じか…。
日本政府は国連決議を無視して、日米同盟のみに力を置いたアメリカ支援から一転、今回は国連サマの決議?に従い?、イラクの復興に参加すると。確かに国際社会の一員としての義務はある。しかし、節操の無いこと甚だしく、まるでコウモリのような。

■□■2003年12月12日(金)■□■
降りそうで降らない空…、イスラマバードの街の半分には薄日が射し、半分は夕闇のような空模様。アチコチの広場では激しく落ちる広葉樹の葉を集めて燃やしているので、マルガラの丘陵も濃いスモッグに被われている。

イラクに連携してアフガンの治安も悪化の一路を辿っている。もっともアフガンの場合は、ローヤ・ジルガ(国民大会議)の開催も因の一つになっているし、他にも4つくらいの原因が治安の悪化に絡み合っているので、ここはしばらく静観しようと、SORAの事務所を一時閉鎖することにした。頑張って支援活動を続け、テロや誘拐に遭ったとしたら、「それ見たことか!」と言われ、外務省にも迷惑をかけるだけだ。人間、生きていてこそナンボ!の世界、ローヤ・ジルガが終わり治安の様子がつかめるまで、しばらくは活動も休止。
幸い現地スタッフがしっかり育っているので、彼らが事務所や識字教室、そしてカーペット製作所や縫製教室などを運営してくれるので心強い。アフガンやイラクへの支援は、本来なら彼ら自身が自分たちの手で行うべきものなのに…。

■□■2003年12月12日(金)■□■
自衛隊の派遣が決まった途端に、2外交官の事故死が報道されなくなった。
何だか2外交官の死を、日本政府の自衛隊派遣に利用されたようで気分が悪い。最近のTV報道を見ていると、まさしく戦前の政府による強権の発布や、人権無視に舞い戻るような法案が次々と出来つつあって恐ろしい…。時代が変った、小泉が首相になったことで平和日本の体制が大きく変った…としか言いようがない。
58年前の敗戦後、アメリカによって押し付けられたという民主主義、自由と平等を大きく勘違いし、アメリカによる保護の下で安楽な生活をして来た私たち日本人だが、再び時代が変ろうとしている今、意識して日本の主権をアメリカから取り戻さないと。

30年もの昔に亡くなった父は、戦前「戦争反対」「天皇制反対」を唱え、水平社運動や農民運動、労働運動など弱者の立場から活動をしていた。立派な体格で、兵役は甲種合格だったにもかかわらず戦地には送られず獄につながれていた。
大げさな表現ではなく、今また、そうした時代を予感している。戦地へ送られるのはオバハンたちのような一般庶民の孫であり、息子であり、夫であると思う。権力のあるもの、お金のあるものは常に悲惨な状況からうまく逃げられる。私たちは真剣に現状を把握して「戦争反対!」を行動にしなくては。

日本での講演活動では(下手クソなので、いつも終わった後は落ち込んでいる…。しかし、伝えなければならないこともある昨今なので、勇を奮って)アフガン難民を支える会の活動報告とともに、なぜイラクへの復興支援、人道支援なのか?を話してきた。というのは、下記の表(出展:世界子供白書2003)を参考にしてもらえば解かるだろうが、イラクのGNIはアフガンの約9倍、水の設備も医療の設備もアフガンの4〜5倍も良い状況にある。パーキスターンから見てもGNIは5倍、その他のコンディションも圧倒的に良い。そのイラクへ何ゆえ復興支援、人道支援と言いつのるのか?イラクの人々は教育水準も高い。治安さえ良くなれば、自分たちで復興できる力を持っている。もし、本当に日本政府が復興支援、人道支援というのであれば、まずアフガンが対象になってしかるべきだと思うのだが。
  日本 パキスタン アフガニスタン イラク
面積 37万7,000km2 79万6,096km2 65万2,225km2 43万8,000km2
総人口 1億2733万人 1億4497万人 2247万人 23584万人
1人当たりのGNI(US$) 35990 420 250 2170
成人総識字率 99.9% 43% 36% 58%
平均余命 81才 60才 43才 63才
5才未満児の死亡率 5/1000人 109/1000人 257/1000人 133/1000人
適切な衛生施設を利用する人 99.9% 62.0% 12.0% 79.0%
改善された水源を利用する人 99.9% 90.0% 13.0% 85.0%

■□■2003年12月09日(火)■□■
8日の午後の便で成田を出発、北京を過ぎたあたりから満月に近い月に照らされた砂漠が茫々と広がり、徐々に白黒の陰影を濃くした山脈になって行き、それもしばらくすると再び砂漠。ムーンライト・フライト…、凍てついた雪山の合間に小さく点々と小さな灯火が見え隠れ。どこかにカラコルムの山でも見えないか!と、目を凝らしていたが、いつしか厚い雲に覆われパーキスターン領に入る頃には何も見えなくなってしまった。
イスラマバードの家には、日本時間の未明4時頃到着。日本ではメールのチェックをしていなかったので、2週間分のメールを読み、返事と滞在中のお世話になった方々へお礼をしたためていたら、天窓に雨の滴が…珍しく終日雨。

日本での滞在最終日7日の午後は、東京で「自衛隊派遣反対」のピース・ウォークに参加。
3月のイラクへのアメリカ空爆反対デモには、2万人からの人が参加をしたというのに、自国日本の命運を分けるかもしれない自衛隊の派遣反対には、人々の関心が薄く、そこがオバハンには理解出来ない。
歴史というものは何のために学ぶのか?受験のために年表を覚えるのではない。人間を含むあらゆる生物は弱肉強食の歴史を歩んで来た…。歴史は繰り返す。過去の歴史から過去の失敗を繰り返さないように、歴史を学ぶのではないのか?
かつての日本が繰り返した大きな間違いに向かって、今まっしぐらなのを自覚し、もっと大きな声で「戦争反対!」と言い、行動しなくては。

イラクで殺害された2外交官の調査も自分たちで出来ない日本に、何が他国ための人道支援か!!と言いたい。天皇や首相、日本政府の高官がどんなに2外交官を勇気ある英雄と誉め称えようが、それに対してご遺族が心から「誇りに思っている」などとは感じておられないだろう。

友人からのメールに、『小泉を首相に選ぶ日本。「皆さんが私を首相に選んだのですから、私が責任を持って事を進めますが、何があってもそれは皆さんの責任。私のせいではありません。」頭がクラクラするこの二段論法も彼はもう用意していることでしょう。』というのがあって、まさしくそうなりそうな予感にオバハンの頭もクラクラしている。
12・9は日本が参戦を決めた日として、これからの歴史に書き加えられるだろう…。小泉の言う、そして日本政府の言う「まやかし」の人道支援、復興支援の名の下に、日本は参戦、加害国の一員となった。

■□■2003年11月21日(金)■□■
3時起床、断食をするためにはこの時間にメシを食う。
早起きしたついでにニュースを見て、ヒエ〜ッ、なんちゅう法案や!!と、喚いている。
「国民保護法案」要旨…。
早い話が第二次世界大戦中をまざまざと思い出させてくれるような法案ではないか!有事のための備え、緊急避難、救援、いずれも大切なことだと理解はしている。また、物事は何でも表裏が一体になっているとは言え、この法案が通過すると、政府が強大な力で一般国民をがんじがらめにすることになる…と、オバハンの背中は恐怖で粟立つ思いだ。
良く考えてみれば、アメリカとの同盟でアラビア海へイージス艦を送り、イラク攻撃の支援をした日本。今また自衛隊をイラクへ送ろうとしている日本。
私たちの国、日本が戦闘状態だという認識のある日本人が、いったい何%あるのだろうか?今は、まだ日本の国土が攻撃されていないだけで、まさしく日本は戦時状態なのだ。
平和のための祈願、切なる思いで…。

■□■2003年11月20日(木)■□■
珍しく、終日ひかり輝く快晴。昨日、天井窓の被いを外してもらい、ガラスをピカピカに磨いて貰ったので、オバハンの部屋の外には、深紅のブーゲンビリアの花が溢れるように覆い被さっている、何たる贅沢!
落日1時間前、夕陽がユーカリの高い梢の上半分だけにあたって、やわらかな黄金色に輝いているのを横目で見ながら、外から見えないようにと電気も付けず、薄暗い室内で昼・夕兼用の食事をボソボソ摂る、オバハンと事務所の恵子さん。
明日は断食明け最後の金曜日、せめて金曜日だけでも断食に参加する…。

第二次小泉内閣。
自民党単独で過半数を超えたというので、首相は自身満々…だが、本当に私たちはこれで良いのか??小泉を選んだのは国民の半数以上、私たち自身だが、日々、首相や官房長官、防衛長官の言辞をTVで聞いていると、米英の受け売りそのもの。弱小国が何故、テロに走らざるをえないのか?と考えたことがあるのだろうか?
近年のイラクやアフガン、それと同じように日本も60数年前に経済制裁を受け、第二次世界大戦に突入させられた。その徹を二度と踏まないためには、超大国アメリカの言いなりになるしかないのか?しかし…、それにしても日本政府は、いったい何が言いたいのかと思うことばかりだ。
そして、そんな彼らを選んだのが私たちだと思うと(オバハンは自民党には投票していないが)寒気がする。

大量破壊兵器をイラクや(北朝鮮にも)使われないためには、膨大な物量と最先端兵器で先制攻撃をし、米英はじめとする自由主義諸国の力を見せることは、許されるのか?現在、イギリスを訪問しているブッシュはブレイアーとの共同会見の中で、イギリス(ブレイアー)を持ち上げ、互いに相手を褒め合い、自由主義の団結や、卑劣なテロの屈しない、イラクへの取り組みは揺るがないと、盛んに強調していたが、我が身を振りかえることがあるのだろうか?

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イラク、トルコなど中東の治安悪化に伴い、アフガンでもタリバーンやアル・カイーダ、原理主義を標榜するへクマティヤールによると見られる反米、アメリカの同盟国への攻撃が増えて来た。先月末のトルコ人技師誘拐、セーブ・ザ・チルドレン事務所爆破、日本との共同案件道路工事現場でのガードマン射殺、フランス人女性射殺…。この2週間ばかりの間に起こった事故は、この他にも数知れない。
おまけに来月からはローヤ・ジルガが始まるとあっては、反政府活動にも拍車がかかるというものだ。ローヤ・ジルガ、続いて選挙となれば現政権は根底から揺らぐ結果が見え見えだ。選挙になれば、やはり国民の半数を占めるパシュトーン政権が伸張してくるのは目にみえているし、それを許せない北部同盟政権との間、普通選挙を実施してせめて形だけでも、民主主義政権を作り、上手に撤退したいと考えているような欧米諸国の間に、きしみがなくて何であろう…。

■□■2003年11月17日(月)■□■
昨日、きょうと続いて時雨。気節は確実に冬へと移った。
オバハンもタオルケットとベッドシーツだけというヤセ我慢を止め、ついに数日前から毛布の世話になっている。何でもある便利な生活、ぬくぬく快適な生活、あるいはクーラーが効いている快適な生活に抵抗を感じ、「熱」くなければ夏ではない!と思うし、同じように寒くないと冬ではない!と、当たり前のことを思う。生活そのものの中に、快適さを感じることが罪悪のように思えるのはオバハンが貧乏性なのか、はたまたサドマゾなのか?
寝ても覚めても、生活感覚のどこかに緊張や、我慢のある毎日、これが好きだからこそパーキスターンで暮らせるのかも。

■□■2003年11月17日(月)■□■
「家中の恥を世間サマに暴露し、何たる恥さらし!親子の縁を切る!」と、身内一同に怒られながらも、そんなことにはメゲズ出版にこぎつけました。
大いに笑ってください。身内に怒られても皆様からの応援があれば、続編も書きますからネ!

オバハン待望の、パーキスターン生活を綴った本がいよいよ出版されます!
民宿「シルクロード」今日も開店休業大忙し オバハン、イスラームの大地に生きる

■□■2003年11月14日(金)■□■
オバハンの知らないところで、いつぞや書いた「きまぐれ通信」が問題になっていたようだ。オバハンのHPまで直接「きまぐれ」を覗きに来て下さる熱心な方々は、毎日平均すると80名くらいだが、それ以外でもメルマガなどで世間サマを騒がしていたらしい。どうも秋は問題の起こりやすい時のようだ。
2年前の11月は、与党三幹事長のパーキスターン視察態度の一部をチョロっと書いただけで週刊誌にも載る大問題となった。昨秋は悪路を走りまわり過ぎて、肋骨にヒビが入ったりムチ打ちになったり…。

今回の問題は、イスラマバードにある日曜野外大バザールで、JR総連アフガン支援責任者のオジサンたちが、JR総連の奥様方手作りの、一度見たら絶対に忘れられないという変わったパッチワークの品物を中古品バザールで見つけたことに発している。その変わったパッチワークを見つけた、JR総連のオジサンは単純に喜んでいただけだが、オバハンはオバハンなりに考えて思ったことを書いたら物議をかもした…。
オバハンの「気まぐれ通信」には、良〜く読んで貰えば解かると思うが、アフガンへの支援が不要だ!など、ただの一度も書いてはいない。また、アフガン人は金持になったので古着が要らないとも書いてはいないのに、オバハンの「きまぐれ通信」によって、今年は古着が集まらなくなった!と、文句の電話を何回もかけて来た人もある。古着が集まらないのはオバハンのせいではなく、熱しやすく冷めやすい日本人的な特性にもあると解するべきだろう。

あるメルマガを発行しておられる方からの、真面目なご質問には、今回たまたま時間があったので、お答えしたので、「きまぐれ通信」にも載せておく。
何度も言うが、オバハンはアフガンへの支援が不要だとは一言も書いていない。むしろ、家で眠っている古いセーターなどが、廃棄されずに活用されるのは有意義だろうし、貰って助かる人たちもいる。ただ、むやみやたらと上げることで彼らをスポルしてはならないし、私たちは、単に「施す」のではなく、彼らアフガンの人々の自立、自活につながる、私たちの支援のあり方を改めて問いかけているだけだ。


(1)アフガン政府が古着を拒んでいる?

JRU-PAC (子供平和基金) が独自で古着や毛布を集め、40フィートのコンテナ3本を2002年の末にアフガンへ運び込もうとした時には、アフガン政府からの通達として「NGOからの古着や文房具の類は要らない」と、国境で受け取りを一旦拒否されています。
先月末にも確認のために、アフガン側の通関業者へ問合せを入れましたら「アフガン政府からは受け取り拒否を文書で受けていないが、古着などの寄付品はもうこれ以上は要らないと言われている。持ち込めない。しかし、道はある。」との返答でした。
早い話が寄付品としては正規に持ち込めないが、特別料金を払うなどの方法でなら持ち込めるというものです。(もっとも、いつも書いていますように、担当の役人などが変ったりしますと、規則などもコロコロ変りますから、念のため)


(2)JITの支援の方法が悪徳商法のうち?

日本を離れて20年余りにもなりますし、JITというものや、お付き合いのないヨソのNGOについては知りません。ただ、当地では「NGOイコール新手のボロ儲けをしている会社」という認識が人々の間にあるという一般的なことを書いています。そういう意味から、支援者に対しては何事もクリアーにしておく必要性はあると思います。

まず、パーキスターン向けの「寄付品」貨物を、さらにアフガニスターンへ「寄付品」として運び込むことは絶対に出来ません。カラチ港で陸揚げされた時から、どこの国へ送られる貨物かで扱いが全く異なりますから。パーキスターン政府は、難民用の「寄付品」であれば、アフガン難民専用の大きな倉庫にすべてをいったん収め、そこからは政府の管轄になります。叉、運び込まれた「寄付品」はすべて記帳されます。
その倉庫から出してもらって、役人が立会いのもと、自分たちがパーキスターン国内の難民キャンプで配布することは出来ますが、アフガニスターン国内へ持ち込むことは出来ません。もちろん賄賂を払えば可能でしょうが、それなら初めからアフガン向けにすれば賄賂を払う必要もないと思います。
勿論パーキスターン国内にも難民は沢山いますから、それらの物資はパーキスターン国内で配布されたのでしょう。そして、それならば、その時の書類がパーキスターン政府から出されているはずです。

「NGOは政府の目が届かないところで活動している」とのことですが、個人単位で持ち込む数10kgレベルのモノならともかくも、こと海外からの輸入品として、正規に陸揚げされたモノについては、NGOなどの思惑で自由自在には絶対に動かせません。自由自在に動かせるのは、目的地(例えばアフガニスターン国、カーブル市、 ○○町、○○通り、○○NGO方)まで無事、運び込んだ時のみです。ここまでも アフガン政府からは軍隊?だったか、何かの役人がついて来て、到着を見届けます。

以上のように「寄付品」貨物の移動に関しては色々な制限・制約があります。
皆様からの支援物資等が、当初の思い通りになったかどうかの判断は、最後まで正確な追跡調査をしての上のことと思います。
なお、自分の寄付したものがどうなったか?という疑問は、とても大切なことだと思います。それでないと、日本政府とおなじく「垂れ流しの支援」と言われても仕方がないと思いますが。

■□■2003年11月12日(水)■□■
総選挙以来、時々TVのニュースを見る。
きょうは、久々にブッシュの顔を見た。
本日のブッシュ演説は、「アフガンとイラクの民主化に失敗すれば、両国はテロリストの拠点となり、さらにアメリカを狙うから、民主化を強力に推し進めたい…」というような趣旨の演説だったが、民主主義の国にしてやって、イラクやアフガンの国民を解放するという、アメリカにとっての都合の良い民主主義など不要だと、へそ曲がりなオバハンは思う。
第一、「両国がテロリストの拠点となり、彼らがアメリカを狙うから、その前にイラクやアフガンを叩き潰したい」とした考え方が、まかり通ること自体が不思議だ。例えば、「代々木公園にたむろしている不良外国人などが善良な日本国民に害をなしそうだから、彼らのテントを力ずくで焼いてしまおう」というほどの暴挙ではないのか?
パーキスターンも民主主義を標榜したり、軍事政権になったりと、目まぐるしい国だが、押しつけられた民主主義など国民に浸透もしないし、根付かない。そして、その意味が解かるのは高等教育を受けた者だけだ。
かつて日本政府は、長い軍事政権が終わって、ブット女史が首相になり、民主主義政権が出来たと大いに持ち上げたものだが、彼女自身は民衆とかけ離れた生活をし、民主主義の掛け声ばかりの首相だったように記憶する。軍事政権には制限も確かにある。しかし、民主主義の何たるかを知らない人々を「解放」して自由や平等、民主主義は素晴らしいと言っても、現実とかけ離れ過ぎているというものだ。

おまけに、続いてのニュースでは、小泉首相が「アメリカに協力するための自衛隊派遣は、憲法に合致している」と。思わず聞き違いかと、画面をしげしげと眺めてしまった。さらには、福田官房長官が「イラクには危険な場所もあるが、安全なところもある」と。まったく、何をか言わんや…。自分の息子や娘を安堵してイラクへ送れるのなら、そう言っても良い。
まったく、鵺のような人たちだ…と、TVに向かって一人で腹を立てている。TVを相手に腹をたてるなど、オバハンも歳をとった証拠か?

■□■2003年11月09日(日)■□■
イスラマバードは連日どんよりとした薄曇り、雨もハラハラと時雨ていどで、冬への気象変化という程でもないし、なんとも中途半端で重苦しい。
先月末、カーブルからカンダハールへの道路工事現場で、アルカイーダによってトルコ人の技術者が誘拐されたと。この春から、カンダハール付近のみならず、カーブルから離れるのにも神経を使って来たオバハンなので、この誘拐は不思議でも何でもない事件だ。もっとも、気を付けていても起こる事故はあるし、アフガンで活動するのであれば、それらは覚悟の上だと思う。先般も知り合いの若い日本人がカンダハールへの仕事をオファーされたが、どうだろう?と聞いて来た。「今の状況下なら、どうしても!ということ以外は、オバハンなら行かない」と答えたが、答えになっていただろうか?

イラクでも、うち続くアメリカへの反撃に、赤十字は撤退するらしい。米軍も大幅に撤兵するというし、国際機関スタッフの多くも浮き足立っているのではないだろうか?
本日は衆院選挙、結果やいかに??小泉による強気政権はさらに続き、日本政府の方針は変らないのだろうか。国連決議を無視してまで、アメリカとの同盟関係を重視し、イラクへの攻撃を支持、後方支援をしたのだから、その尻拭いを言いたてるのは当然かもしれないが、何ともマトはずれな外交だ。
しかし、考えてみれば、今までテロの対象にはなっていなかった日本がテロの対象国になったことで、日本政府も腹を括らねばなるまい。
アメリカに対するテロの恐怖で、先制攻撃を試み、そのテロの根っこを倒す!なんという愚かな発想なのかと呆れてものが言えないことに、日本政府は加担したとの認識があるのだろうか?

■□■2003年11月06日(木)■□■
45日ぶりの雨。とはいえ地面がようやく濡れた…という程度のものだが、久々の湿って冷たい空気に秋の深まりを感じる。しかし、これで空気中の埃が舞い落ち、明日は澄んだ青空が見られるかもと、期待している。

オバハンの、30年におよぶパーキスターン生活を綴った本が出版されると決まったのが9月の半ば。それからバタバタと5年も前に書いた原稿の見直しを始め、日本の出版社とのやり取り。電話事情が悪いので、当然のようにインターネットのコンディションも悪く、機械は便利なようでイマイチ便利でないと感じたりしながらも、ようやくこの程、最終校正が終了。しかし、印刷屋へ廻ったかもしれない最終原稿をフト眺めては、まだまだ手直ししたい箇所を見つけ、自分の未練がましい性格に結構ショックを受けている。

本の題名はまだ秘密!
11月の下旬には本屋さんへ並ぶので、お楽しみに!!
ただ、家族や事務所の大住からは、家中の恥を世間サマに曝して!と、大きなゲンコを貰っている。ペシャワール会の中村哲先生のような、格調高い文章からは程遠く、普段の話し言葉そのまま、品のない内容なので確かに少し恥かしい。