禁無断転載

オバハンからの気まぐれ通信
(2003年07月&08月)


■□■2003年08月31日(日)■□■
今月は月半ばから何だかバタバタし続けた。特にイスラマバードへ帰って来ると本業にも励まないといけないし、賄いのオバハンも…というわけで早朝から深夜まで休む間もない。楽な生活をすると体力を維持できないと信じて、強いて過酷な生活をしているサドマゾのオバハン。好きでしている民宿みたいなものであり、旅行会社であり、TV取材のコーディネイターなので他人に文句は言えない。
しかし、明日からは電気のないカーブルなのでパソコンもないし、賄いのオバハンをしなくても良いのでゆっくり寝られるのが嬉しい。

明け方の通り雨に、濃く匂うジャスミンの白い花がフレアスカートを広げたように、まぁるく地面に落ち広がっている。濃い緑の葉の間から小さな白い花が浮き出て散っているのが目に鮮やかだ。あんな模様の民族服も素敵だ…と、フト考えてしまったが、60歳には似合わな過ぎるので諦めた!!だいたいがオバハンの服はすべて他人サマが捨てたものか、貰い物で統一されている。拾ったものや、貰ったものでなければ、娘や事務所の大住の服を黙って拝借したものだ。何時だったかは洗濯が間に合わなくって、息子のパンツ(トランクス)を穿いてえらく怒られた!
モンスーンが終わりそうで終わらないこの季節は、一番洗濯物の乾かない季節だ。

■□■2003年08月29日(金)■□■
アフガニスターンからイスラマバードへ帰って来て、何が一番の楽しみかというと、魚が食べられるということ!
カーブルでは電気がない生活のために冷蔵庫も置いていないし、魚気からは縁遠い生活になっている。とにかく食いしん坊なオバハンにとっては、魚が活力の素!!
アラビア海で獲れる魚は日本でもお馴染みのアジ、鯛、ハモ、太刀魚、紋甲イカ、エビ、ロブスター、鰯、キス、鰆、カレイなど等。生きたまま運ばれて来るロブスター以外は刺身に出来るコンディションでないのが残念至極だが、それでも魚が食べられるのは嬉しい。
そのアラビア海の魚がこの先6年間にわたって食べられない…、ヒヤァ〜、どうしよう!!
今月半ば前だったか、カラチ港近くでオイル・タンカーが座礁した…と大々的に報じられていたが、そのまま聞き流してアフガニスターンへ行っていた。帰って来て新聞を見ると直径30kmもの地域が被害を受けている…。オバハンの楽しみ、活力の素をどうしてくれるのか!!

■□■2003年08月27日(水)■□■
イスラマバードからカーブルに来た人に、「パーキスターンで山岳事故が起きた」と聞き、ただちにアフガニスターンから帰って来た。
6日間の地方巡回を終え、カーブル事務所へ帰り着いたばかりだったが、オバハン自身が役に立っても立たなくても、日・パ旅行社の責任者である限り事務所へは戻って来なくてはならない。
あのアフガニスターンの酷いガタゴト道は、走った回数に正しく比例して次々に他の人たちもが頚椎損傷(ムチウチ)を起こすほど。その過酷な道を連日走り通しで、よく身体が壊れないものだと自分でも呆れる。

パーキスターンに住み続け登山や旅行、取材関係の仕事を始めて20数年、事故のない年は本当に一昨年のたった一度だけ…。多くの友人、知人、帰ってこないお客を何時までも何年も待ち続けてのオバハンのパーキスターン生活だった。(HP『民宿シルクロードのオバハン便り』のカラコルムは事故の季節(1)(2)を読んで下さい)。

■□■2003年08月20日(水)■□■
ここのところアフガニスターンは険悪。
約1週間前には幾つかの地域で、たった1日で60数人が殺された。昨日もワルダック州で地雷除去チームの数人が殺されている。カルザイの弟宅にも爆弾が投げ込まれたというし、ロガール州でもテロと見られる爆発騒ぎ。
多国籍治安維持軍から本格的な軍隊であるNATOに治安維持が委譲されたが、この本格的なNATO軍をアフガン全土に配置したいがためのゆさぶり作戦では??と、NATOのアフガン全土掌握を願わない一部の国民はうがった観測をしているし、NATO軍に対する嫌がらせだとも。いずれにせよ、マスード元国防大臣の3回忌も近いし、要注意季節に突入だ。

そのNATO軍と自衛隊の歩調を合わせるようにと依頼された元防衛庁長官の前向き姿勢はその後どうなったのか?

■□■2003年08月17日(日)■□■
ラクチン、ラクチン!約2ヶ月ぶりにカーブルからのメールが使えるようになり、外界とのコンタクトが可能になった。某パソコンメーカーに勤めるアフガン難民を支える会−SORAの事務局長が、夏休みを利用してカーブルに到着。「餅は餅屋」、チョコチョコとパソコンを軽く撫でただけで魔法のように繋がるようになったから不思議!これでオバハンからの「きまぐれ通信」も、もう少し頻繁に書けそうだ。

日本は冷夏というのに、今年のカーブルは例年にない暑さ、7月からは40度以上の気温が続いて学校も急遽夏休みに入った。冬場は3ヶ月もの休みがあって夏休みのないのが普通のカーブル、扇風機もない今年の暑さにはまったく閉口で、家畜もグッタリ。乾いた空気の靄が立ちこめ、街を取り囲む丘陵もほとんど見えない。しかしその中に白く浮かぶモノがあって目を凝らすとお墓だという。ここ最近はお墓だけではなく、丘の中腹に建つ家々も白くペンキを塗られるようになって来たし、崩壊した家々の修復が急ピッチで進み、色鮮やかなペンキが目立つようになって来た。早い話がお墓にまで手がかけられる余裕が出来てきたということ。

お墓で思い出した、敗戦から58年。相変わらずこの時期になると首相や閣僚、国会議員たちの靖国神社参拝でアレコレ議論沸騰。
小泉首相だけではなく閣僚や国会議員の多くが、戦犯と一般戦死者を合祀しているから侵略された国々からの批判が大きことを承知している筈。また侵略された国々の指導者、その一般国民も心ある人なら、戦犯と一般戦死者の違いを知っている。分祀を言い始めてからいったい何年になろうとしているのか?戦争責任を取るべき戦犯と合祀されている、「お国のために!」と死んで行った一般戦死者ご遺族の複雑な気持ちを、小泉首相はじめ閣僚たちは人間として真摯に受け止め、考えたことがあるのだろうか?

■□■2003年08月15日(金)■□■
敗戦から58年、小泉首相の「不戦の誓い」を複雑な思いで聞いた。
日本の自衛隊は前線では闘わない、しかし後方での支援なら良いというのか?後方支援なしの戦争というものがあると首相は理解しているのか?前線での闘いには命のやり取りがじかにある、しかし後方支援があってはじめて戦争が成り立つとの理解があれば、不戦というのはどういった状態をいうのか?同じ日本語を使いながら首相と一般庶民であるオバハンたちとの乖離は大きすぎて、オバハンの単純なアタマでは理解し難い。

■□■2003年08月14日(木)■□■
超忙しい真夏のピーク時にもかかわらず、12日の夜は泊り客の方々と満月、火星、ペルセウス流星群を見るべく夜中まで頑張ったので(月が明る過ぎて流星は数がイマイチで残念だった)、13日は睡眠不足と長時間の立ち仕事に節々が痛く、一日中こたえた…。やっぱり歳かしら?それで昨晩は早々と11時に痛み止めを飲んで沈没したが、今朝は5時に31発の祝砲でスッキリと目がさめた。
パーキスターン建国57周年、パーキスターン国旗のバッチはオバハンの胸にも、従業員の胸にも輝いて?いる。毎年の国家行事に感じるのだが、彼らの国民としての誇らしい気持ちに感動する。自分の国を愛せない不幸、国家に帰属しているという強烈な思いのない日本人は自分たちの不幸に気がついていない。愛国心は右翼思想を持つ特殊な人間のモノだけではない!!国民の一人一人が愛国心を感じていけるような教育が何時からなくなったのか?
また、愛国心=右翼思想というような短絡的、貧相な発想の根源はどこで、誰が言い出したことなのか?日本を離れて25年、他国に住むからこそ、より日本が気にかかるオバハンだ。

パーキスターンTVで建国式典を放映していた。久々にパーキスターン国歌(清浄なる国)を聞いた、「君が代」よりは好きだ。

■□■2003年08月12日(火)■□■
本日の英字新聞トップを飾る写真は、アフガニスターンのカルザイ議長がISAF(多国籍治安維持軍)コマンダーたちの胸に(柔らかな微笑を浮かべながら)勲章を付けているというもの。確かにISAFのおかげでアフガニスターンの治安が保たれていた面がある、治安の悪い地域で連なり走るISAFの装甲車に出くわすとホッとするものがあった。アフガン国軍や官憲などのレベルがまだまだ極端に低く、人数も整わない現在ではISAFに頼るしかないのは解かる。しかしカーブル市内を見るだけでも治安維持軍のための基地を大々的、恒久的に作ろうとしている米英の意図は何か?

昨日をもってISAFからNATOに治安維持が任された。

■□■2003年08月11日(月)■□■
最高気温38℃、湿度75%と日本的な気候の中を汗を拭き拭き、買い物に行く。
8月14日の独立記念日が近くなったせいで、自転車やタクシーや、バスにも大きな国旗が翻り始めた。オバハンも大きな国旗3枚、ハンカチくらいの小さな国旗を車に付けるべくこれも3枚買った。後は従業員用の記念バッチを22個。オバハンの大好きなクラッシュ・インディア(インド絶滅!!)バッチは、両国で平和会議をしているせいか見つからなかった…。
オバハンもアタマを切り替えなくてはならないのか??

それにしても最近、買い物に行くたびに驚くのは、色々な生活用品の種類の多さと品質の向上したことだ。靴、バッグ、既製品の服、カーテンやクッション・カバー、台所用品や食器にして凄く垢抜けし、かってのように中古品などは野外大バザールでも少なくなって来た。ようするに国内での製造が充実して来た、国力が上がって来たと見るべきなんだろう。
TVや新聞広告にしてもそうだ、10年前とは大きく変わった。野暮ったかった新聞広告、街中の広告も一部では垢抜けし、広告代理店というような存在が市民権を得て大手を振って歩き出したのが判る。欧米から帰って来た人々によって持ち込まれた生活などで、パーキスターンも徐々に、徐々にとグローバリゼーションの波の中に揉まれて行くようだ。
オバハンの大好きな自然体で生きられる、不便な生活がなくなって行くのが悲しい…。

■□■2003年08月10日(日)■□■
夕刻になって恵みの雨があがり、しとどに濡れ濡れの葉っぱから小気味良く落ちる滴が、夕陽にキラキラ光り美しくて見飽きない。静かに滴を見続けいていられるという時間的な余裕を感謝してもし足りない。それほど夏場は僅かな時間がとても貴重だ。

昨日珍しくTVをつけたらカーン、カーン、カーンと鐘の音。画面に長崎市長が現れたので「あぁ黙祷の……」と気がついた瞬間、オバハンも心で黙祷をしていた。そして長崎市長のメッセージに続いて小泉首相の何と白けたメッセージ。真面目そうな顔で核拡散を防止、世界平和をとのたまわっていたが、その白々さたるやオバハン個人の偏見だけであろうか。
いや、小泉首相も核拡散防止、世界の平和を心から願っているに違いない、ただ私たち一般庶民の思考回路や表現方法と異なるだけなのだろう…と思いたい。当地の英字新聞などでも、広島・長崎の原爆から58年と大きく報じられ、終戦間近になってからのアメリカによる原爆投下にあらためて批判がでている。
インド・パーキスターン共に核保有国だが、ここしばらくの険悪な状況を棚上げにして両国で和平への道を真剣に模索しはじめ、昨日はイスラマバードで大々的に会議が開かれた。50数年間、カシミールをめぐってインド・パーキスターンは紛争を続けて来たのだが、ここに来て、アメリカがそんな些細な?????事柄に難癖をつけ攻撃の材料として来たら…!!という恐怖心が大きくなったようだ。

■□■2003年08月08日(金)■□■
未明、小気味良い雨と風の音に目覚めた。
カラカラのアフガニスターンから帰って来ると雨のやさしい音がこよなく愛しい…。ガサガサにひび割れていた手足、顔のシワも少し伸びたようで、何歳か若返ったようなのが解かる(と思いたいオバハンのささやかな願望です…)。
そのアフガニスターンに比して、ここパーキスターン東部では雨続き。インドとの国境をなすタール砂漠地方でも雨になり、洪水とのこと。特産品の綿花は80%がダメージを受け、その他の農産物にも50〜80%と甚大な被害が出たという。降っても降らなくてもたちまち甚大な被害に発展するのが開発途上国の宿命か…。古来より水を制するものが国を制するとは良く言ったものだ。
砂漠の雨は怖い。今回は道路事情を確認する間もなく急遽帰って来たのだが、途中何ヶ所かの河川床で鉄砲水の跡。砂漠地帯では地面が雨水を吸い込まず、そのまま表面を撫で走って来るから、今年のような天候では要注意だ。

■□■2003年08月07日(水)■□■
「6日に日本からエライ人が来るので、カーブル在住の日本人は大使公邸で夕食会を!」との連絡を頂いていた。実は怖いモノ見たさで、どんなエライ人がお見えになるのかと興味深々だったのだが、アタマと口が直結、根がバカ正直なオバハン、またまた思ったことをそのまま口にしたり、HPに書いて後々問題が生じても!と、謙虚に辞退してしまった。やっぱり行くべきだったのかナァ…。
前防衛庁長官の中谷氏とカルザイ氏の会談では、「日本がアフガン戦争のとき米兵の後方支援をしたこと知らなかった」と驚きを持って伝えられたとか、またカルザイ氏から「日本もアフガンに治安維持軍を派兵して欲しい」との要望あり、中谷氏が「考える」と答えたとのことで、心ある一部の日本人は、今後は海外に自衛隊をドンドン派兵する国になりそうなことを憂いているのだが。

広島、長崎から60年近い年月が流れようとしている…。
アメリカの原爆投下を「原爆投下のおかげで戦争の終結が早まって、さらなる犠牲者を出さずにすんだ」などという、あんな風なアメリカの言い分を正当化せずにきたら、同じ過ちを繰り返さなくてもすんだのではないかという、平和行進に参加して来た友人の言葉。敗戦の責任を天皇が取らなかったことで、現在の無責任風潮が生まれたと断言する別の友人の言葉も印象的だ。確かに戦争の最高責任者としての天皇の責任をハッキリさせていれば、日本のありかたはもっと変わっていたろうと思う。天皇はあの時、戦争責任をとって潔く自決すべきだった!

遠くない将来には、日本でも徴兵制が引かれることになるのだろう。ノホホンとした若者!幼子の母親たち!!自分達の将来やいとし子の将来をもっと真剣に見つめるべきでは??

■□■2003年08月06日(水)■□■
夏のピークシーズン、イスラマバードの事務所が手不足らしいので急遽カーブルから帰って来たら、モンスーン真っ只中のイスラマバードでは、毎朝のように降る雨を受けて庭木が猛々しく育っていた。2週間前には全部切り落として行ったにもかかわらず、太い竹の子が遠慮会釈もなく伸び放題に伸びて、今にも塀を倒さんばかりだ。カーブルへ出掛ける前には再びこれらを切り落とさなくては。熱帯地方の竹には、節ごとに大きい蹴爪のような枝が伸びて不気味だし、見た目も悪く邪魔なことおびただしい。
乾燥してカラカラのカーブルでは、蒔いた種から芽が出ても一向に大きくはならないというのに、カーブルから僅か250km離れたペシャワールは強烈な湿気におおわれている。ペシャワールから170km東のイスラマバードでは更に湿気が強くて、汗が文字通り身体中を伝い落ちる。この僅か東京から大阪までの距離でここまで大きく気候が異なっているのが、不思議といえば不思議でならない。
それでも日本政府から寄付された散水車が活躍しているせいで、カーブル市内の街路にも僅かながらも緑が見られるようになって来た。10年もすれば、王宮通りは昔ながらの並木道に戻るであろうし、とにかくカーブル市内の復興振りには目を見張るものがある。

1年前には本当にロクなレストランもなかったというのに、今春過ぎからは外国人や高級官僚を狙ったレストランが林立。今や狭いカーブルの街(中心街は4km×4kmくらいか)には中華料理店が6軒、インド料理店が2軒、イタリアン・レストラン2軒、タイ料理店、イラン料理店が各1軒。そのいずれででも国際治安維持軍か、国連関係の事務所から横流しされて来たらしいビールやワインが飲める。どの中華料理店のウエイトレスも太腿までのスリットが入ったチャイナ服のお姉さんたちであり、タイ料理店でも民族服を着たタイ人のお姉さんが7人は働いている。インターネット・カフェがアッという間に幾つもオープンしたし、アイスクリーム屋やジュース屋、ガソリンスタンドなどでもネオンがキラキラ、街角に溢れるありさまだ。
昨年の今頃は、夜9時になると人影もまばらで真っ暗、車に乗っていても何処かに怯えるような重苦しい気分があったというのに、今や一部とはいえ街路灯が連なって光り、夕涼み気分の人も見かけるし、女性も結構歩いていて驚く。

■□■2003年07月05日(土)■□■
今回、カーブルから子犬2匹と成犬1匹を連れて帰って来た。春に生まれた子犬8匹のうち6匹は何とかアフガニスターンで貰い手がついたが、あとの2匹についてはイスラマで飼い主を捜すことになった。成犬はちょっとした手術をするために連れて来たのだが、病院へ行きたくとも行けない人たちを思うと、申し訳なさに汗が出る。
イスラマバードのペット・クリニックも911の後は閑古鳥で、青息吐息だったというのに、最近は戻って来た外国人のおかげで大流行だというし、今月の半ばにはカーブルに住む外国人たちに呼ばれて、ペットのために出張診療をするという。

ついこの間までは、アフガン政府はパーキスターン人の入国に神経を尖らせていたが、最近はやや緩んだのか、日当の高いアフガンへ出稼ぎに行くパーキスターン人が増えた。日雇い労務者などはいくらでもアフガニスターンで雇える筈だが、アフガン人もパーキスターン人の方が良く働き従順だとしてパーキスターンからの出稼ぎを歓迎しているから不思議だ。
多国籍治安維持軍も本格的な基地作りのために、現地に大掛かりなレンガ工場を設置させたし、永続的な基地作りに乗り出した。そのレンガ工場で働く技術者の多くはパーキスターン人で単純作業者は現地人だという。とにかく、アメリカは世界中に恒久的な基地を堂々と設置し始めているし、それを誰も止められないのが恐ろしい。

■□■2003年07月04日(金)■□■
本日は40℃もある上に、たぶん湿度も60%近くあるのではないかと思える。早朝の涼しい時に庭でコーヒーなどを飲みつつ、足元には年老いた犬のシェパードが寝そべっていて、それを足でアヤしながら新聞にパラパラ目を通すのがオバハンの日課だが、今朝は10分と新聞が読めなかった。5分もするとビッショリの汗、10分後には水に浸かったように汗が滴り落ち、辛抱出来ずにシャワー室へ飛び込んだ。アフガニスターンでの10日間はカラカラに乾いていて、足の裏などはたちまちバリバリになりひび割れて血が滲むほどだったのに、イスラマバードへ帰って来たら翌々日には足の裏がきれいになってしまった。毎日のように風呂かシャワーの使える日本人は、肌がしっとりしてシワもなく若々しい筈だ!

春に引越しをしたSORAとJRUの共同事務所の斜め前には、ハマーム(共同浴場)がある。ただし電気もガスもない地域なので、大量の薪を消費する。そんなわけで、ハマーム屋からは1年中黒い煙が煙突からモクモクと出ている。昨年のうちにその存在を知っていれば、1年間に合計25回しかシャワー(風呂を含む)をしなかった!などという記録などを作らなくても済んだのに…。
そのアフガン・ハマームへ山村の巡回医療から帰って来た日、女3人勇を奮って行った!!ハマームの使い方を指導してくれる人もなく、その上たいして言葉が通じるわけでもないので、近所の人に見習ってバケツ持参で出掛けた。大量の薪の山、土埃を立てながらその間を抜けて裏へ廻ると小さな入り口に汚いレースのカーテン。番台の大女は寝そべったまま10アフガニ(20円)と言い、横にだらしなく座っているバァさん2人はチップを寄越せと汚い手を突き出す。早い話が敗戦後の日本にあったような大衆浴場、脱いだ服は番台の横にある開けっ放しの棚に預ける。ただし周囲を見れば殆どの人がパンツをはいたまま。こちらの人は、普段の生活にはパンツなしなのに、ハマームへ行く時にはパンツを付けるらしい。普段はノーパン、ノーブラのオバハンが、この日は寒い山から帰って来たままだったのでパンツをはいていた!ラッキー!!
足元は掃除が行き届いていないので、ツッカケのまま洗い場へ入る。縦・横1m奥行30cmくらい湯と水の溜められた水槽が1個づつ、底の方に僅かに溜まった水や湯を自前の汲みオケ(空き缶に紐を付けたもの。そんなモノが要るとは知らなくて近くの人から借りた)から、自分のバケツに汲み込んで身体を洗うオバハンたち3人に60の目玉が集中する。
男性の方には個室シャワーがあるというのに、女性の方にはそれがない。しかし昼日中から女性用の浴場も混雑していて、アフガン人たちの生活に余裕が出来たことがますます確信できた。自家用車やタクシーで乗り付ける家族連れ、早朝に大型バスで乗り付けるグループ、自転車はハマームの前にいつもいつもズラリと並んでいるし、大したものだと思う。

イスラーム教徒は(異性に接したままの)不浄な身体では外へ出ない、もし不浄なままで死んだら天国へ行けないと心から信じている…。

■□■2003年07月02日(水)■□■
アフガニスターンでは電気もガスもない、貧しいハザラ人が多く暮らす地域に住んでいるので、日々の生活では発電機のお世話になっている。しかし、実に次から次へと電気製品が壊れて、なんともならない。それらの修理代や買い替え代金は、確かに必要経費には違いないが、始末屋のオバハンから見ると気絶しそうな金額だ。幸いJRUとの共同事務所で、家賃以外の大概の経費をJRUが負担していて下さるので、弱小NGO『アフガン難民を支える会』としては活動が大いに助けられてはいるが、自前で事務所を持っていたら事務所経営は破綻していたと思う。

そんな理由ではあるまいが、日本で大金を集めて『孤児院経営』を始めたNGOの幾つかが、早々と1日も早く孤児たちを政府に引きとって欲しいと働きかけているそうな。犬や猫の子ではあるまいに、集めた孤児を引き取れと??「孤児」をネタに大金を集めたNGOはアフガニスターン全体には物凄く多いらしく、中には悪質なものもあって、民営やNGOの孤児院経営には政府から早々とストップがかかっていた。それにもかかわらず、日本人が現地の事情を知らないことを良いことに、援助金の集まりやすい?手頃な?「孤児院」などを開いたNGOは悪質だとしか言いようがない。
本当に孤児たちのことを考えて、孤児たちが働ける年齢に達するまで真剣に面倒を見る!というスタンスもなしに、「孤児院」経営に手を出した人を善意の人とは思わない。また、集めたお金の数%で現地人を雇い、子どもたちの面倒を見させるという血の通わない援助には、むしろ怒りを感じる。