禁無断転載

オバハンからの気まぐれ通信
(2002年9月&10月)



■□■2002年10月29日(火)■□■
夏以降、カーブル市内の高級住宅地では外国人相手のゲストハウスが林立。中にはJAPAN GUEST HOUSEというのまである。最高級ホテルのコンチネンタルでも水が出なかったり、トイレの便器に便座がなかったりするから、それを思うと1泊60$と高くてもゲストハウスに不満は言えない。とりあえずお湯は出なくとも水だけは出る。
夏以降、次に林立し始めたのは、現地NGOの看板。何の産業もないアフガニスターンでは、世界各国からの援助金の受け皿となるNGO産業が花盛り。現地NGOは、本来のボランティアであるとか、援助活動とはほぼ無縁の「土木会社」「建築会社」「絨毯会社」「私立学校」などといった様相を呈しており、純然たる利益最優先のNGOばかり。どのNGO事務所でも30〜40人を養っているようだから、それはそれで世界からの援助金で各人の財布に細々でも行き渡り、生活の足しにもなっているが、純粋に困っている人への支援として使われる%は低い。

イスラマバードは、標高1800mのカーブルと違って朝晩の冷え込みもさほどではなく、暖かくて快適そのもの。何を食べても美味しいし、土埃もなく目にやさしい緑に囲まれ楽天地。深呼吸をしながら野外の大バザールを心おきなく廻れるのも快楽の一つ。しかし、今秋は中古品市場に冬物の衣料品がとても少ない。世界各国からアフガン難民のためにと送られて来る衣料品は、悪徳な業者たちによってカラチ港で陸揚げされた後、横流しされて通常のバザールへ流される。
今年は約200万人が帰還したアフガンで高値が付くとみて、そちらへ流された模様か? 実際のところは知らない、しかし本来アフガン難民のためにと善意で集められた衣料品が、本来の難民たちへ無料で渡ることはとても少ない。

また、11月2日にはアフガニスターンへ戻ります。
とりあえず、元気にイスラマバードへは帰着しましたとの、連絡まで。

*11月下旬には活動報告のため、一時日本へ帰国の予定です。

■□■2002年10月29日(火)■□■
ただいま!、40日ぶりにアフガンから帰って来ました。
今回のアフガン滞在ではいろいろあり、何処から報告して良いか分からないくらい…。
言えることは、現在のアフガンは世界中からの援助で潤っているけれど、悪徳な彼らの多くに嫌気がさした世界から、いつか再び見放されるのではないか!ということでしょうか?それほど、多くの彼らのモラルは低い!けれども、彼らを「盗れる時に盗ろう!」と悪徳に走らせたのは、国連を初めとする世界中からのNGOだとも言えます。
「悪徳」…これは敗戦後の日本でも大なり小なり生じた現象でしたし、アフガン人だけを責められないことと自覚しています。しかし『アフガン難民を支える会』は、そうした彼らや彼女たちの悪徳を一切認めないと、特にこの1ヶ月間は努力して来ました。「不正を行っている教室や作業所(現場)はプロジェクトを中止する」という方針に従い、今月は2教室1学校を一時閉鎖にしたり、真面目な先生や意欲がある生徒のために新らしく教室再開の準備をしたり、なんと目まぐるしい1ヶ月間だったでしょう!「逆恨みを受ける」と承知しながらも、やはり不正は不正と正したいと思いつつも、「単に私達の価値観で物事を計っていないか?」と考えてみたり、結構悩みました。

3月からの現地活動は、JR労組アフガン支援チームとほぼ共同で行い、40ヶ所近い灌漑用水路作りや整備では大きな成果が得られ、小麦の収穫は昨年に比べて5割増しとなり、あきらかに周辺の地域より畑に緑が増えました。
児童労働が取り沙汰されますが、児童も大切な働き手であり、母親と並んで1人前の働き手としてカーペットを織る子供は微笑ましく、それを「母と子で織るカーペット」として皆様にお届したいと思います。カーペットは100枚近くが織りあがりました。
一番近い薬屋さんまでが車で5時間、3000mを越す高地での巡回医療ではただただ感謝されています。
また縫製学校の卒業生約70人のうち、16名は仕立て屋の看板を出し、或いは家庭内での内職に励み自活の道を歩みつつあります。11月6日頃からは断食月が始まり、それが終わると断食明けの大祭、晴れ着を新調する人も多く、仕立ての内職も大繁盛です。

■□■2002年10月24日(木)■□■
JR労組アフガン支援チームの活動を見る人たちの受け入れが無事に終了し、先月の半ば過ぎにイスラマバードを離れてカーブルへ来て、はや40日が経とうとしている。
春先から開始した数々のプロジェクトの一部に、たった半年しかたっていないというのに膿が溜まりはじめ、今回の滞在では膿を出すために双方が不愉快な思いを噛み締めねばならなかった。中村哲先生がいみじくも、「詐欺師の集まりですナァ・・・」と嘆いておられるように、そしてオバハン自身も10数年にわたってのNGOの手伝いで見知っていたからこそ、神経を尖らせていたのだが、彼らや彼女らの多くは誘惑に弱いと言うべきか、利に敏過ぎると言おうか、実に嘆かわしい。
まともな現地の人々も、もちろんいる。しかし、持っている者から盗ることが大した罪悪感を伴わないとしたら、盗れる立場にいながら盗らない者はバカにされるという悲しい悪弊もある・・・・・・。まったく言葉がない。
そんな訳で、プロジェクトの一部を閉鎖したり、真面目に学んだり教えたりしている人のために再開を考えたり、システムを新しくしたりすることに追われ、月に一度はイスラマバードへ帰って1週間くらいは本業に励むという構造がとれないでいる。
それにしても、イスラマバードでは留守を守って頑張っていてくれる大住をはじめ、事務所の全員から暖かく見守ってもらい、カーブルでの活動に専念させてもらっているので、感謝あるのみだ。

他所のNGOが現地の人たちとどのように折り合いをつけているのか知らないが、オバハンの理想とするNGO活動のためには、時々、鉈も振るわなくてはならないのかも。現地の人々が必要としている支援のために滞在しているのだし、一部の人に利権が集中したりすることや、不正は絶対に許したくないと思っている。
まったく、良かれと思って自己満足に浸りながらのNGO活動とは承知しているが、オバハン自身の悩みは深い。

■□■2002年10月24日(木)■□■
大変ご無沙汰しています。
今回は物凄くいろいろあって、イスラマバードまでも帰るに帰れない状況が続いています。アフガンは、一部の方々もご存知のように、まったく大変ですワ!!
騙し、ひっかけ、お金の中抜き、可能な限りの浅知恵を振り絞る彼らや、彼女らとのやりとりに辟易しています。

とりあえず今回は、カーペット工場と識字教室(ダシュトバッチ地区)、2縫製教室(ダシュトバッチ)、縫製学校・識字学校(カルテセイ)を一時閉鎖しました。ダルアマーン地区のカーペット工場と識字学校は、とても順調でうまく運営されていますが、以前、TVに映っていた女性校長の管理する学校はすべて一時閉鎖しました。
また、JRUとの共同でハザラジャード地方(スルハバット郡)に展開していた灌漑用水路(カレーズ)作り、整備なども10月はじめに一時閉鎖をしました。この37箇所で展開していた灌漑用水路つくりでは、すでに相当の成果が見られ、他の村に比べると広がる緑の量が圧倒的に多くなり、昨年に比べると5割増しの小麦収穫量でもあり、村人たちからも高い評価を得ています。もちろん「引き続き来年も灌漑用水路作りのプロジェクトを!」と、懇請されており、引き続いてやるつもりではいますが、その前に村人の意識改革が重要だとの見解を、JRUの方々と深めています。
私たちは、アフガンの人々が必要とする支援をするつもりで、不便なカーブルに滞在しているわけですが、現地の人々からすれば「NGOで儲けにきている」としか思われないのか、「同じ穴のムジナ」程度に思われているようです。過去に国連をはじめ多くのNGOが、そうした価値観を彼らに植え付けたと言えるでしょう。

いずれにせよ一部からは恨まれても、現地の人々に対する少々の荒療治は必要で、これを機会に少しNGO活動に対する意識を変えて貰いたいと念じています。
「初めから、我々のNGOは他所とは異なる!無料でモノを撒き散らさない!」と明言していますし、いま少しオバハンの理想とするNGO活動に現地側からの理解も深めて貰いたいと思うものです。幸い、理解する現地の人々も周辺に集まって来ていますし、来年の活動に私たちカーブルにいる者も期待しています。

巡回医療チームの方は5、6、7、8月と活動。村人たちから純粋に感謝されています。中村哲先生の所でも現地人の医者たちによる薬の横流しなどがママあると聞いていますが、それでもこうした医療活動が現地の人々に感謝され、比較的どこにも利権が発生しないことから、今後の活動は人間の生活や生命に身近に結びついている医療活動が無難だと言う気がしないでもありません。

春から半年間カーブルに滞在して思うのは、人々の暮らしが目に見えて活発になったこと。崩壊した瓦礫を片付け、その中に店が並び、海外(避難していたパーキスターンやイラン)から戻り家を建て直し、ビルがあちこちに建ち始め、穴ボコだらけで走れなかった市内の道路が整備されはじめ、人々が何がしかの仕事について日銭が入っているのか、購買力が上がっているようです。もちろんインフレ率も春からに比べると、感じとして30−40%上がっていますが、人々の暮らしが苦しいという感じはありません。
飢餓人口500万人という国連発表の数字は何だったのか?という思いを深くしていますが、アフガニスターンの復興支援そのものは、引き続き必要だと考えています。
ただ、今のような人々の考え方なら、世界中からの支援は再び遠のき、アフガンが世界の人々から忘れ去られることになるのは必須でしょう。

■□■2002年09月18日(水)■□■
カーブル市内での自立支援プロジェクト、カーペット生産に従事している未亡人と小さな子供たち。しかし、子どもたちには生産に従事することを禁じた。が、大きく家計の足しになっているのだから許して欲しいという強い要望に負け、結局のところ識字教室(ダリ語、英語、算数)が完備、勉強をしないとカーペット生産に従事してはならないと厳命。
また楽しめるようにと庭に小さなバレーボールのコートも出来た。

純な子供達の織るカーペットは、大人の織るカーペットより間違いも少なく、心がこもっているように思える。
12月上旬に、『アフガン難民を支える会』の展示会を予定している。日本にもお目見えすることと思うので、乞うご期待!

■□■2002年09月18日(水)■□■
アフガニスターンでは『アフガン難民を支える会』のプロジェクトとして、ハザラジャードの高地38ヶ所でカレーズ掘りと、その整備に約400人が従事している。もっとも資金はすべてJR労組アフガン支援チーム(子供平和基金)から出ていて、オバハンは大きな口を挟むのが仕事!
カレーズ掘り(整備)は7月半ばから始まり、降雪の始まりそうな11月半ばまで続けられるが、この4ヶ月間で述べ約4万人もの雇用も出来たし、アチコチのカレーズから水が出て来ているのも嬉しい出来事。おまけに今年は小麦の収穫が例年の5割増しだったと、村人のまとめ役(村の評議員長)ダウッドの話を聞き、少しホッとしている。村(ワルダック県スルハバット郡)では、4万人の雇用で僅かながらも現金収入があり、小麦の配布も受け、よそのNGOの道路工事に出た人もあったろうしで、厳冬をなんとか乗り切れそうな明るい雰囲気が漂っている。

山村での巡回医療も、3回の調査をもとにボチボチだがスタートし、村人に大層喜ばれている。援助は、巡回医療のように明快そのものの行為が喜ばれるという、単純な結果に落ちつくのが一番かもしれない。

厳しい冬がもう目前、村人は短くなった陽射しに追われるように、動物の飼料を刈り込み納屋に積み込んで冬支度に精を出す毎日だ。

■□■2002年09月17日(火)■□■
9月6日頃からカブールの街中に元国防大臣マスードを偲んで弔旗が掲げられはじめた。
ハザラ人の地区では弔旗を掲げる店は殆ど見られなかったが、タジク人の多い商人地区では街の世話役が弔旗を配り、掲げる世話までやいていた。
あらためて考えてみると、仮にタリバンを追放しても、マスードが生きていれば大統領になっていたであろうし、その場合はアメリカの方針に従うこともあり得なかったろう。
まずマスードをオサマ・ビンに暗殺させたように見せかけたこと、アメリカで911同時多発テロを起こし、オサマ・ビン(アルカイダ)を犯人と決めつけ「報復」への筋書き作り、アメリカの権益を護る(作る)ためのアフガンへの空爆。あれやらこれやら一連のことを現地で直に見て考えると、やはり全ては別々の現象ではなく、すべてアメリカの仕組んだこととしか思えないのがオバハンの実感。
それにしても現在のアフガン政権には人材が少なく、今後アフガンを指導していける人が少ないのも事実。世界中からの支援を受けつつも、それを充分に生かしきれないであろうアフガン人の遺伝子の強さも実感している(アフガン人の遺伝子の話しは、またそのうちに)。

■□■2002年09月17日(火)■□■
ようやくイスラマバードへ帰って来た。
今回は8月下旬からの滞在で、僅か20日間ほどしかアフガニスターンにいなかったのだが、何だかとっても気疲れした。まず、9月初めに多国籍軍を狙ったリモート・コントロールによる爆弾騒ぎから始まって、カルザイ大統領やカンダハール知事の暗殺未遂、市内での大型爆弾の爆発。爆弾を積んだ8台ものタクシーが検問で引っかかったり、国連事務所へのロケット弾の打ち込み、その他、バザールでの爆弾発見は多数という状況を聞くにつれ、超怖がりのオバハンはバザールへ出るのにもビビリまくり。

明後日からまた、アフガニスターンへ行くのだが、どうしたものかいなぁ……と悩んでいる。